—— 一華は私の姉であり、双子の片割れであり、そして妹だ。
照りつける日射しで滲んだ汗を拭いながら、いつになく人通りの少ない街中をあてもなく歩く。ビルの看板の上には、今にも止まってしまいそうなオンボロ時計が時を刻むごとにプルプルと針を震わせていた。
(12時半か……)
昼食をまだ取っていなかったことに気づいた途端空腹感が顔を出してきた。何か冷たいものを喉の奥に流し込みたい欲求に駆られて辺りを見回すと、大通りの反対側にスターバックスがあった。……姉と昔一緒に行ったスターバックスが。
—— 一華は私の姉だ。
8月16日午後1時12分。姉が産まれたのはこんな雲一つ無い真夏日だったらしい。私が産まれたのはその後だから、例え双子だとしても姉は一華の方だ。
『8月16日 12時32分』
デパートの電光掲示板の中をそんな表示がゆっくりと流れていく。小さい頃、姉とあの電光掲示板について熱く語り合った事がある。私たちはその時純粋な小学生だったから、床屋のぐるぐる回る看板を見てそれが上の方へ進んでいる事を信じて疑わなかった。同じように電光掲示板も右の方の謎の空間から出てきてまた左の謎の空間に消えていくのだと思っていた。だから2人で不思議そうにずっと眺めていたものだった。もしかしたら姉は今でも不思議に思っているかもしれない。
—— 一華は私の双子の片割れだ。
私と姉は二卵性双生児だったから、似てはいるものの顔がまったく同じという訳ではない。でも双子の姉がいる、なんて事を言ったら皆驚くに違いない。中学に入ってから誰にも姉の事を言っていないのだから。この世の誰よりも近い存在であったはずの姉を、私は今世界の誰よりも遠ざけ、隠し続けている。
—— 一華は私の妹だ。
その日の事は今でもはっきりと覚えている。小4の時、夕食を取り終わった後両親がいつになく真剣な顔で教えてくれた。姉は出産時に脳を損傷したことによる発達障害を持っていて、精神がこれからずっと小学校低学年のままなのだと。
涼しい風を感じて振り返ると、小さな書店がシャッターを開けたところだった。こんな昼間に開店する本屋は珍しい。本屋の中から漏れ出る涼しい風に吹かれていると、店員と目があった。思わずドキリとしてしまうほどの綺麗で背の高い女の人だった。本屋の店員が良く着るエプロンが映えていて、透き通るような白い肌と優しい艶のあるショートの黒髪が、店員の微笑にとても似合っていた。
店員はにこりと笑うと私に手招きをした。
「外は暑いよ。中で涼んでいかない?」
そんな美人に誘われてついて行かない人などいやしない。招かれるまま店内に入った途端街の喧騒は消え、古本の心安まる匂いが鼻腔に日足されていく。
店員はカウンターに積み重なっている本を一つとって、ぱらぱらと捲りだした。その光景がとても様になっていて、思わず写真を撮ってしまおうかと思ったほどだ。再び店員と目が合い、頬が少し赤らむのを感じて顔を背けた。
外から見た店はこぢんまりとしたものだったが、中々店内は広かった。天井に届きそうな本棚が奥へ奥へと続いていく。店員ほど背丈でも一番上の本を取るのには一苦労しそうな本棚だった。
近くに見覚えのある本を見つけて思わず心臓が高鳴った。昔姉と読んでいた少女漫画だった。本棚から取り出すと懐かしい表紙が目に飛び込んできた。
姉は本が大好きだ。
誰でも小さいときはごっこ遊びにはまるものだろう。私や姉もその例に漏れず、漫画を読んで感化されては夜ベッドの中でそれぞれキャラになりきってお喋りしていた。そのうち姉は自分で絵を書くようになり、新しくキャラを書いては持ってくるようになってそれでまたごっこ遊びをするようになった。毎晩ずっとお話をした。私が中学に入るまでは。
……そうだ、本がいい。姉の誕生日プレゼントはここで買おう。
同じ棚を眺めて姉が好きそうなものを探していく。子供向け漫画の棚のようで、似たような本が沢山置いてあった。
「あ、買っていってくれるの? ありがとう」
突然店員に話しかけられて、びっくりして本を落としてしまった。
「ご、ごめんなさい!」
「いいのよ。ごめんねびっくりさせちゃって」
店員は私の隣に立って落とした本を拾い上げる。そして本のタイトルを見て「おお!」驚きの声をあげた。
「これ懐かしいなあ。私も昔読んだよ! めちゃくちゃ流行ったよね」
「店員さんも読んでたんですね」
「『店員さん』なんて恥ずかしいなあ。『ぼたん』でいいよ」
店員さん——ぼたんさんはにこにこしながら漫画を返してくれた。若草色のエプロンに大きなボタンが一つついていた。これがきっと彼女のあだ名の由来なのだろう。ぼたんさんはずらりと並んだ背表紙を眺めながら尋ねて来た。
「プレゼント?」
ぎょっとしてぼたんさんの顔を見ると、ぼたんさんは茶目っ気たっぷりの顔で笑った。
「当たった? 自分用の本を買う人と誰かのために本を買う人はなんか違うんだよね。プレゼント選んでる人の顔って何だか素敵なの」
私は両手で頬を触ってみた。果たしてそんな顔をしていただろうか。
「誰のプレゼント?」
「おね——い、妹のです」
お姉ちゃん、と言いかけたが慌てて言い直した。姉にこんな子供向けの漫画をプレゼントするなんて……よくよく考えてみたらそこまで不自然でもなかった。しかしどこか誤魔化している自分がいた。
「妹さんがいるの? 私にもねあなたみたいな年頃の妹がいてね、そりゃもう可愛いのよ!」
ぼたんさんの声で我に返る。それでもこんな素敵な人に嘘をついてしまったという罪悪感が少し後を引いた。
「ねえねえ、妹さんは可愛い?」
ぼたんさんの質問に、なんとか返事を絞り出す。
「……それは、もう」
「だよね! それなら妹さんのために私も人肌脱がなきゃね」
もの凄く、悪いことをしている気分になってきた。上機嫌で漫画を引っ張り出していくぼたんさんの背中を見て、騙しているような感覚に陥る。ぼたんさんは取り出した漫画を並べて腕組みした。
「うーんと、私が面白そうって思うのはこの辺りかなあ。確か倉庫にもっと他のがあった気がするから見てくるね」
そう言ってぼたんさんは鼻歌を歌いながら奥へ消えていった。残った漫画を一冊ずつ手にとってあらすじを見て行く。
少女漫画だからやはり恋愛ものが多い。大体どれも学校一のイケメンとうんたらかんたら、という内容。それはそれで結構そそられはするのだが、何だかあまり選びたい気分ではなかった。
そうやって何冊か読んでいって次の本を手にとった。その本はまずタイトルに心奪われた。
『禁忌《タブー》』
およそ少女漫画に似つかわしくないタイトルが気になってあらすじを読んでみる。それは大体こんな話だった。
——主人公スズランはある秘密を抱えていて、親友が出来ても彼氏が出来てもその秘密を口にすることはなかった。その秘密とは姉の事。姉は実は魔法の力を持っていて……——
そこまで読んで勢いよく本を閉じた。あまりの恐ろしさに肩で息をする。冷や汗が一気に吹き出てていた。
姉が魔法使いだなんてそんなどこかで見た映画みたいな話はいい。問題はその前だ。姉の秘密を妹が持ち続けている、という設定ともっと驚くべき事に主人公の——
「持って来たよ!」
顔を上げると、ぼたんさんが両手一杯に本を抱えていた。「よいしょっと」と言いながらそれを机の上に置き、私を見て目を丸くした。
「あらら汗びっしょりじゃない。もっと冷房の温度下げようか?」
「大丈夫……大丈夫です」
「そう?」
今はぼたんさんの事よりも今手に持っている本の内容が気になっていた。隠れるように本棚の裏へ回ると、置いてあった椅子に座って「禁忌」を読み始める。
驚くことに、スズランが主人公なのは1話だけだった。姉の存在に嫌気がさして妹が家を出て行くところまでで1話。そこから先はずっと姉の話だった。妹に嫌われた事を嘆く姉、唯一魔法の理解者であった妹を失ってしまったことの悲しみ、孤独感、閉塞感、そういった姉の苦しみの描写が何話も何話も続いていた。
他人事とは思えなかった。
私は小学校を卒業して県外の中学へ行った。憧れだった女子校だ。おばさんの家が近くにあったからそこから通うようになった。それまでは誰よりも姉と仲が良かった。しかし一旦家を出てしまうと疎遠になる。実家に帰るのも数ヶ月に一度。姉よりもっと仲の良い友達が沢山できた。楽しい中学生活だった。高校もそんな感じだった。姉の事は忘れて、姉を残して、一人だけ楽しんできた。友達には姉の事を言わなかった。変な目で見られるかもしれないという思いはもちろんあった。でも一番耐えられないと思ったのは、友達が私に同情してくるかもしれないことだった。私は悲劇のヒロイン気質がある。何事も必要以上に大げさに自分の不幸を言いふらして、誰かに同情してもらうのを心地よく感じる自分がいる。
もし、もし姉の話をして同情されてしまったら、私は大好きな姉の障害の話をタネにして同情を稼いだことにならないか?
そんな事をしたら、もう私は、人間のクズだ。
……だから私は姉の存在を「禁忌」として隠してきた。隠している内に、姉の存在自体も私の中から薄れていった。こうやって偶にプレゼントを買うような罪滅ぼしじみた事しかしてこなかった。どれだけ寂しい思いをさせただろう。どれだけ辛い思いをさせただろう。恨まれたって仕方ない。いや、恨んで欲しい。恨まれなければと、私の犯してきた罪はどうすればいいというのか——
自分を重ねながら『禁忌』を読んでいく。「姉」の辛いシーンが何度も描かれているのに、1コマたりとも「妹」を恨むシーンがない。何故……何故なの……?
「恨んでよ……」
いつの間にか口に出していた。もう思いは止められなかった。
「恨んでよ! あんなに酷いことしてきたのに————」
息を呑んだ。優しい感触に体中が包まれていた。ぼたんさんが私を抱きしめてくれたと気づくのに、かなり時間がかかった。
いつまでそうしていただろうか。ぼたんさんは私の頭を撫でながら、ゆっくり口を開いた。
「その本では、最後までお姉ちゃんはスズランを恨まなかったわ。それが不思議でならないのね?」
「……はい」
目を真っ赤にしたまま私は頷いた。
「なんでだと思う?」
しばらく考えて、私は首を横に振った。するともう一回ぼたんさんはぎゅっと強く抱きしめてくれた。
「……からよ」
「え……?」
「可愛い可愛い、妹だからよ」
・・・
その後、ぼたんさんはスターバックスでココアを奢ってくれた。私はずっと頭を下げていた。ぼたんさんは「いいのよ」と言いながら私に袋を渡してくれた。取り出すと、さっき読んでた「禁忌」の後日談だった。
「この本、続きがあったんですね」
「ええ。つい最近出たのよ。それまでの話と全然違う空気で面白いわよ。プレゼント、それにしたら?」
代金を払おうと財布を探そうとして、ぼたんさんに止められた。
「ここまでしてもらって流石に申し訳……」
「いいのいいの」
そう言ってぼたんさんは笑った。
「なんだかんだ言って私も妹になんにもしてあげられなかったから。代わりに、ね。偶にはお姉ちゃんみたいなことしなきゃバチが当たるもの」
「そんな……」
「妹さんを、大切にね」
もう一回お礼を言おうと顔を上げると、ぼたんさんは風のようにいなくなっていた。
漫画が入った紙袋だけがスタバのテーブルに残っていた。
・・・
家に帰ると、両親と妹が出迎えてくれた。
姉と私、二人分の誕生会だから豪勢な料理だった。ケーキも二つ分用意してあって、でかでかと「Happy Birthday!」と描いてある。皆でハッピーバースデーの歌を歌って、二人で蝋燭を消して、料理を食べて……最後に、プレゼントを姉に渡した。袋をビリビリやぶいて飛び跳ねて喜んでくれた。
「ありがとー! とっても面白そ!」
そしてニコニコしながら姉は紙を取り出した。私へのプレゼントらしく、リボンが滅茶苦茶に縛られていて思わず苦笑してしまった。
「絵を描いたよ! あげる!」
わくわくしながらリボンをほどくと、私が描いてあった。そしてその隣を見て目を見開いた。
「これあたし! 今日はこれでお話しよう!」
姉が指差した先、私の隣に。そこに短い黒髪に白い肌、ボタン付きのエプロンを着けた女の人が描いてあった。下に大きな汚い字で「ぼたん」と書いてあった。
今日のぼたんさんのセリフがフラッシュバックのように頭の中を駆け巡った。
『私も昔読んだよ』
『私にもねあなたみたいな年頃の妹がいてね』
『偶にはお姉ちゃんみたいなことしなきゃ』
そして。
『可愛い可愛い、妹だからよ』
涙が溢れて止まらなかった。いい年した女がわんわん泣いた。絵を抱えながら泣きじゃくっていると、ぎゅっと抱きしめられた感触があった。ぼたんさんに抱きしめられたときと同じ感触だった。
「誰だ! 鈴蘭を泣かせたのは!」
抱きしめながら姉は私の為に怒ってくれた。それが嬉しくて嬉しくて、私はまた泣いた。
一華は私の双子の片割れであり、妹みたいなものだ。
だけどその前に、私の大切な、大好きなお姉ちゃんだ。
今夜のお話は、今までで一番盛り上がるに違いない。
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