あるいはその物語は一つの足音から始まる。革靴が階段を下り、その音に少女は目を開く。数年来の瞬きに光を思い出し、彼女は地下室に埋め込まれた大きすぎる手枷から手を引き抜く。あくびをひとつした。そして天井から吊るされたランプに火を入れる。
 一方で、灯りも持たないままに階段を降りきってしまった少年。彼は何がおかしいのかくすくすと笑いながら足を止め、初対面の少女に対して驚いたように目を見開いた。
「ずっと昔の話をしても構わないかしら」
 互いに戸惑ったような数刻の沈黙の後、先に口を開いたのはその地下室の主たる少女の方。
「……」
 少年は警戒もなく、肩をすくめるにとどめた。そこにはティーポットなんて数十年そこらでひとりでに割れてしまう贅沢なものはない。ひとつの大きな岩から切りだされた椅子と机。その片方に彼は座った。
「彼もあなたと同じように迷い込んできたの」
 少年を迷い込んできたと描写するには不自然な程度に、落ち着き払っている違和感に、彼女は未だ気付かないままだった。彼女自身もあまりに異常であったせいかもしれない。
「そういえばあなたは城で、私の家族に会ったかしら?」
 少年は静かに首を傾げて、迷った挙句に首を横に振った。
「あの子もそう言ったの。ここへと迷い込んだのではなく、本当は誘導されるように連れてこられたという自覚も、きっとないままだったのよ」
「可哀想ですね」
 少女は少年の、その言外の意味に盲目だ。あまりに人と話すのを懐かしむあまり。
「餌だったの。地下室に隠されている私の」
 微笑みが交差する。
「話はおしまいよ」
「ところで——」
 彼はその瞬間にちょうどよく用事を思い出したかのように切り出した。
「吸血鬼が死なないというのは本当なのかな」
「……」
 遅すぎたといえばその通りであろうが、それが何らかの意味を持つほどに彼女の優越は揺らぎやすいものではなかった。
 しかしその時ようやく彼女は、目の前に腰掛ける少年がありふれた愚かな迷い子ではないことに気付いた。
「あなたは——」
 あなたは、何と問えば良かったのだろうか。少女の知識に彼女を凌駕する存在は項を持たない。
「死神」
 自ら答えたその声に思考をかき乱される。
 答えたのは彼女自身の声だったのだから。
「……」
 思わず口元を抑える。首を傾げて唇の形をなぞり、思いがけない言葉の意味を考える。
「正確には、意味論的死神ですが。言わせた——わけではないのです」
 今度こそ少年が口を開いた。
「少しイメージしてほしいのですが、ここに記号があるとします」
 彼は冷たいテーブルの上に線をなぞった。
「二本の少し長い横線です。これは人間の数学でイコールと呼ばれているものですが。この左側に例えば数式を置きます。置いたところで、右側に答えが自動的に現れるわけではありません。しかし意味的には答えはその瞬間、すでに生まれているのです。
 わかりますか?それはイコールという記号の機能によるものなのですが。問いに対して答えを要求する。等価であるという意味です。
 僕も同じなんです。問いが記述された瞬間にはすでに答えが生まれている。あとは実際に言葉として追記的に語られるのを待つだけ。
 あなたが僕の存在を問いかける。死神であるという答えは問いかけたあなた自身の中に僕が口を開かずとも用意されている。それは最初から、僕と出会う前から存在した道理です。花瓶を傾けたら水が溢れるのと同じように、僕の存在を問いかけたら答えは既知となるのです」
 わかりましたかとでも尋ねるかのように微笑む。
「私の天敵、と言ったところかしら」
「種という意味ではそうかもしれないし、概念的には相容れない存在と言ったほうがより正確かもしれない。僕らが互いを捕食するとは、象の重さと麒麟の首の長さを比べるようなものです」
 少年は付け加えた。
「僕は麒麟の方が好きです」
「私もよ」
 少女はこれは長い話になりそうだと判断して、向かいの席に腰を下ろした。
「……家族は生きているのかしら」
 娘たちはと言いかけたのを家族と言い直した。
「残念ながら、僕がここまでたどり着くのを妨害しようとしたため、byte列の破片にまで解体されてしまいました」
「おかしいわね。彼女たちの身体はあくまで人間と同じで、構成源はタンパク質だと思っていたのだけど」
 彼女らは少女と違って、元々は人間だったのだから。
「間違いではありませんけど、タンパク質の配列を決めるのは実際のところ遺伝子という設計図です。つまり情報です。このアデニン、チミン、グアニン、シトシンの並びは一つのルールに沿って並べられているのですが、この記号列のエントロピーが最大になるよう並べ替えたのです。遺伝子を読み取った人体の各所があまりのその情報の無秩序さに機能を喪失してしまうほどに。
 すると次の瞬間から彼女らの身体は基礎代謝から生き物ではない何かへと作り変えられました。ご存知かもしれませんが、人の遺伝子の60%はハエと同じです。これを限界まで並べ替えたなら、彼女らはハエでさえ当たり前に持つ機能を失い、代わりに地球上のどんな生物も持ったことのない能力を手に入れます。とはいえ意味のないバグが蓄積するに等しいので、城の中は今、肉と骨の絡みあった血を吹き出す団子が転がるばかりなのですが」
「私も同じようにしてみたら?」
「しているんですけどね」
 苦笑する。
「先の質問に戻るんです。吸血鬼が死なないというのは本当なのかな」
「死んでるわよ。死に続けているわ」
「そうですよね」
 実際、彼女は何度も彼に殺されていた。されど同時多発的に生まれたいくつもの別の彼女が彼との会話を続けている。
「可能世界の増殖ですか?」
「そういう言い方が好み?」
「気に入りませんか」
「ありえなかった物語って私は呼んでるの」
「間違ってはいませんね」
 しかし、と少年は顎に手を当てた。
「吸血鬼的とはとても思えませんが」
「そうかしら」
「と言いますと?」
「ねぇあなた。卵と鶏の話はご存知?」
「それは、まぁ。この世に産まれたのは卵が先だったのか鶏が先だったのかという議題ですよね」
「そう。私も似たようなものなの。伝説が先か、実体が先か」
「本質的にあなたは噂話そのものだと?」
「というより、私は物語なの」
 彼女は立ち上がってくるりと回ってみせた。
「血を吸うもの、血を吸った相手を隷属させるもの、死なないもの。にんにくと太陽の光が苦手なもの。そういう物語として私は産まれ、人々に語られる間だけ存在していられるの」
「つまりあなたを殺すためには——」
「舌を持つ生き物すべてを殺すべきね」
「……差し当たって、物語的吸血鬼といったところですか」
 少年が呆れたように嘆息したのを尻目に彼女は元の椅子に腰掛け直した。
「あなたは死神というからには、私を殺しに来たのかしら」
「正確ではないですね。まるで死神が殺し屋のようです」
 確かにその通りだとは思うのの、ではどのような存在なのかと改めて考えるとよくわからない。
「死神は、死を監視するだけなのです」
「直接的関与はないと?」
「ないこともないのですが、例外。今のようにどうしても殺さなければならない相手がいる時だけ、手を汚します」
 少年は自分の白い手を眺めた。
「どうして私を殺しに来たの?」
「殺せていないのだから、言い訳がましく、こう申し上げるのは恥ずかしいのですけど。本当はあなたの持つ情報量をリセットできればあなたの生死はどちらでもいいのです」
「情報量?」
「人の記憶は何処に蓄積されるか、と尋ねると大体の人は脳や、身体と答えてくださるのですが、実はアカシックレコードという存在が、今すぐお見せするのが難しい場所にあって、そこにあなた方の記憶したものはそのまま保存されているのです。とはいえ、情報の蓄積リソースは無限にあるわけではなく、そこに残された記憶情報はその当人が死ぬと同時に棄却され続けてきました。
 何故ならその存在目的がコミュニケーションによる歴史の生成シミュレートだからです。つまり歴史が誰かによって自覚的に、あるいは無自覚的に偽装される過程のデータを集めている機関だというわけです。
 まぁ我々死神にとってそんな本来の機能には興味がなくて、人がいつ死ぬ予定であるか確認するための便利な自動点鬼簿なんですが」
「それで、不死の私が邪魔になったというわけ?」
「あなたというよりあなたの記憶ですけどね」
「私自身があまり昔のことを覚えていないことは関係ないの?」
「関係ありませんね、ですからアカシックレコードがパンクしてしまう前にあなたの存在を一度リセットしてしまいたいのです」
「そして手っ取り早く殺してしまおうとしてるのね」
「他に方法が思い付かず申し訳ないのですが。ここは一つ、さっくりと死んでいただけませんか」
「構いませんよ」
「……」
「昔の話をしたわね?男の子があなたと同じようにここに降りてきて、私の餌になった話。私は自分が殺してしまったあの子に恋をしたの」
 死ぬことで万が一にも、もう一度彼と会えるなら、命なんて軽いものだわ。
「では、どのように不死のあなたが死ぬというのです?」
「夜のお伽話は陽の光でまどろみに見る夢から掻き消されるの」
「つまり」
「この地下室を出て陽の光を浴びるだけよ」
「それでも『あなたが出て行かなかった可能性』がある限り、あなたの何割かは生き残り、また別の可能性を生み出すのでしょう?」
「餌にするってどういう意味かわかるかしら?」
「血を吸うのでは?」
「それは私の物語の中での話。私の本質は物語なの。だから餌にするとは幾通りもの可能世界のすべてで幾つもの物語を紡ぐことなの。あの人とここで年を重ねたこともあったし、昼の合間を潜って西洋まで旅をしてそこの王と妃になったこともあったわ。宇宙人と戦う物語も殺人事件を解決してしまう物語も互いを殺しあう物語も私たちは語ったの。
 そんな無限通りの物語すべてで、私は彼に恋をした。私は彼という存在を骨の髄まで堪能して人生を使い潰してしまったの。
 だからすべてのありうる私は、同じ選択をすると断言できる。私はありえないほどに彼に恋をしてしまったのだから」
「……なるほど、承知いたしました」
「それじゃあ、こんな暗い場所はさっさと抜け出て、外へ行きましょう?死ぬなんて初めてなの。少しわくわくするわ」
 立ち上がり、階段へと歩み寄る彼女の背中に少年は座ったまま口を開いた。
「そう、本来は。死ぬなんてただの終わりで、次の命の準備なのだから怖がる必要なんてないのです。
 あなたの場合はもう少し怖がっていただいても良いかとは思いますが」
「あら、どうして」
「地獄なんて、ないかもしれませんよ?」
 死後の世界なんて存在しないとしたら。ただ物質的に生命が終わり、真っ暗な夜の向こうへと投げ込まれるだけだとしたら。
「構わないわ」
「……」
「死ぬってそういうことだと思うもの」
「…………」
 死神の少年は嘆息した。
「まだ、夜なんです」
「……え?」
「朝までは時間があります。だから」
 そこに座って、あなたの恋の話を語っていただけませんか?
 夜のお伽噺のように。





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