そいつを見たのは、夏のぬるく晴れた夜だった。
三日月が夜空の中にうっすらと浮かんでいただけで、星はほとんど見えなかった。
唾を吐く。清涼な風が一筋だけ頬を撫でた気がした。だがそれもすぐに闇に溶け、実感だか錯覚だかわからなくなる。何もかもが気だるさに包まれ、支配されていた。
わけもなく苛立って蹴り飛ばした石ころが壁に当たってはむなしい音を立てて虚空に消えていく。
静かだった。古い街灯がばちばちと苦しげな音を立てて点滅している以外は、何も動いていないように思えた。
人も車も通る時間ではない。意味もなく道路の真ん中を歩き始めた。
どこを見て歩いていたかは憶えていない。とはいえ、目を瞑っていたつもりもない。だというのに、そいつは前触れもなく、突然に俺の視界に現れた。
最初は街頭が消えて月も隠れてしまったのかと思った。この夜に存在していたすべてから、光が消え去ったように見えた。それほどに、そいつは白かった。
輪郭すらもあやふやで不気味に淡く光りを放ちながらこちらにゆっくりと近づいてくる。地面を滑るように。
宇宙人かと思った。宇宙人など信じてもいないくせに、宇宙人かと思った。だが違った。
そいつは女だった。
女は目の前に来ると向き合うように立ち止まった。長い髪が夜風に揺れる。
しばらくそうして止まっていた。言葉もかわさず、目線もそらさずに向かい合った。時間そのものが止まったように感じた。
先に動いたのは女だった。俺に手招きをしたかと思うと、どこかへと向けて歩き出す。
ついていくべきか否か。少し迷ったが俺はついていくことにした。
この無気力な夜が溜め込んだ湿気を、生ぐさい気だるさを、そいつが吹き飛ばしてくれるかもしれない、と期待していた。
右に曲がったり、左に曲がったりと女は意外と長い距離を歩いていく。周りに注意を払う暇もなく、ついていくだけで精一杯だった。
思えばここしばらくは座り仕事ばかりで、まともに体を動かした記憶がない。脚を持ち上げることもままならず、膝はすでに悲鳴をあげていた。
俺の息が上がってきたところでようやく目的地にたどり着いたらしい。息を整えて見渡すとなんと元の場所だった。
汗にまみれた体を空気が冷やしていくのを感じる。「やってられるか」思わず言葉が口をついて出ていた。もういい。俺は回れ右でその場を立ち去ろうとした。
しかし、そうはさせまいとばかりに女はすばやく俺の左腕を掴んだ。両手で必死に掴まれると疲れた体では振り払えなかった。
どういうつもりだ。俺は目で問う。
先程までのぬるさが嘘のように冴えきった夜の空気よりもはるかに、そいつの腕は冷たく感じた。
夜風を切って歩き続けたせいで女も手が冷えきっていた。
女は俺の腕を掴んだまま、まだ行かないでと言うかのように首をぶんぶんと振った。
なぜだ、と思った。
俺でなくてもいいはずだ。俺はお前など知らない。俺など何者でもないはずだ。なぜお前は、俺の手を離すまいとしている。
どうすることもできず、立ち去る気もなくして俺は女の方に向き直した。それを察してか女も腕を離す。そして、少しほっとしたように微笑んだ。
俺は塀に寄りかかると、またそいつとしばらく向き合っていた。話すことがないのは相変わらずで、ずっと黙ったままでいたが、それでよかった。
ふと空を見上げると三日月が沈みはじめている。結構な時間こいつといるらしい。全く何をしているんだろうか俺は。
汗がすっかり引く頃には、疲れは眠気に変わりつつあった。ひとつ欠伸が出て、視界がぼやける。その瞬間、こそばゆい感覚が頬を撫でた気がした。
視界が戻ると、女が俺の顔に触れていた。ふたつの手で包むようにして、懐かしむように触れていた。
その両手はさっきと違ってかすかなぬくもりをもっていた。どきりとして思わず逃れるように俺は後ずさり塀にぴったりと背をつけてしまった。
そいつは俺に顔を近づけ、目を閉じさせると、頬に軽く口をつけた。そこからじわじわと熱が広がっていくのを感じる。広がった熱が俺の中の体温と溶け合い、ひとつになっていく。
温もりが伝わりあうとあっけなく、だが名残惜しそうにそいつは口を離した。俺が目を開けると同時に冷たい風が吹いた。反射的に目を閉じてしまう。
次に目を開けたとき、そいつはいなかった。
道路の向こう、水平線から太陽の光がこぼれはじめていた。透き通った空気が、妙によそよそしく感じられた。
秋が来て、冬が来た。
あれからそいつは俺の前には現れていない。
あの夜出会った女が何者だったのかはいまだによくわかっていないが、彼女のことを今でも鮮明に思い出すことがある。それと、あの不愉快な熱気も。
おそらく忘れられないだろう。彼女の記憶がそこにあり続ける限り、俺はまだあのぬるい夏の夜にいるのだ。
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