『夜中ぁ、腹減んないすか?』
『減ったなぁ』
『この辺にぃ、うまいラーメン屋の屋台、来てるらしいんすよ』
『あ、そうか。行きてぇなぁ』
『行きましょうよ!じゃけん夜いきましょうねぇ〜』
多数の花が咲き乱れ、真新しい学生服あるいはスーツに着られている人々が増える季節の夜に、何の気もなくつけていたテレビがそう話しているのを耳にした。夕食もそこそこにとったはずなのだが『ラーメン』という言葉は想像以上に暴力的で、健康な学生である私のお腹は小さな悲鳴をあげ、ふと気が付くと唾液が口の外にも溢れんばかりに溜まっており、慌ててそれを飲み込んだ。それが呼び水となったのか、先ほどと同じものがあげたとは思えない音が響いてしまった。夜間にものを食べることを控えるように心がけていたが、今回だけと自分に言い聞かせながら財布を手に玄関を開けたが、部屋へと入る風がまだ少し肌寒く感じ、一度部屋に戻りしまいそびれていた冬物のジャケットを羽織ってから外に出ることにした。
勢いに任せて外に出たものの私は困り果てていた。そもそも郊外に位置するこの場所で、すべてを把握しているわけではないが、飲食店は両手で数え切れてしまうほどしかなく、ましてや今日があと数十分で終わろうとしている中で営業している店はまずないだろう。かといって空腹を我慢するには少し遅かった。私の気持ちは完全に胃を満たすことに向いていたのだ。寝間着にジャケットという姿で遠出することもできず、最寄りの駅まで行くことさえも憚れた。
途方に暮れてあてもなくふら付いていると近所の川に出た。この川は大きくもなく小さくもないのだが、この季節になると川岸が淡い赤色に染められ、ちょっとした名所になっている。だが今の時期は散り始めも過ぎてしまい、少し緑が増えていた。その河川敷を歩いている時、ふとジャケットに手を入れると何かが触れた。こういう時童話において、行き場のない空腹な少女がポケットをまさぐると決まってビスケットなどが出てくるものだが、残念ながら幼いとは言い難い年齢の私にはタバコしか取り出すことができなかった。珍しい銘柄だったので好奇心に負けて買ったのだが、あまりおいしくもなく数本吸っただけだった。普段ならばまたポケットに戻すだろうが、実のところ新年度が始まったころから禁煙をしているので、久々に欲が出てきてしまった。非喫煙者の方々には賛同を得られないだろうが、喫煙欲は突然に湧いてきてしまうもので抑えの効かないものなのだ。先刻までの食欲は川に流れていったのだろう。今や私の心にあるものは肺を満たしたいという気持ちだけだった。私は火を起こせるものを探したが、残念なことにジャケットの小さなポケットにはタバコしかなかった。食べ物も、タバコも駄目になるのはどうにか避けたかった。食べ物はともかく、タバコの火は部屋に戻ればどうにかなるのだが、家に帰るといつもの銘柄があり間違いなくそれを吸ってしまう。私はふと買ってしまったこのメロン味のタバコを吸いたくなったのだ。思い立ったが吉日、どうにかして吸えないだろうかと考えていると、足元に雑誌が落ちていることに気付いた。いかがわしい雑誌は河川敷がよく似合う、昔付き合っていた人がそういていたのを思い出した。あの人の吸い方は煙を覚えたての学生のようだったがそういうとこは嫌いではなかった、と過去を懐かしんでいる時閃いてしまった。この河川敷にライターも落ちているのではないだろうか。本来なら取らない行動だろうが、夜は人を狂わせるのか、私は迷うことなく繁みに分け入った。
私はこれといって取柄はないが運気だけは頭一つ飛び出ていると感じるときがある。マッチを拾うことに成功した。どうやらマッチもいかがわしいお店のもので、家に持って帰れなかったのだろう、河川敷に捨ててあった。朝露にやられたのか少々湿っていて、火が起きるか定かではなかった。私は景観を損ねるという理由で去年伐採された木の切り株に腰を下ろしタバコを咥えた。箱からマッチを取り出し、火を起こそうと試みたがなかなかうまく行かない。残り数本となったところでようやく火が灯り、私はメロン味を堪能することができた。一口目はなんとも言えない心地よさがあった。それは禁煙明けだからか、達成感からかはわからなかった。零時を知らせる鐘の音が聞こえてきた。越してきたころは夜中に非常識な、と憤慨したが、今となっては感慨深いものとなった。タバコが冷えた頬に温もりをくれる。果たして彼らはラーメンを食べることができたのだろうか。せめて代わりのなにかを探せただろうか。重い腰をあげ、私はシャワーを目当てに早足で帰路についた。
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