「赤」
銀色の玉がカラカラと音を立てて、回る円盤の上を走る。二人の女がそれを挟んで座っている。
「はずれ。黒」
長髪の女が言い放つ。盤面を見てもいない。しばらくして回転が止まった。結果は、黒。
「どう? 外さないでしょ」
そう言うと、笹川美頼は得意気に笑みを浮かべた。憎しげに睨む女の視線など気にせず、こちらにウインクを飛ばしてくる。俺はそれに気づかぬふりをしながら、もう一度ルーレットを回す。
「もう一度、赤!」
「残念、また黒ね」
間髪入れずに笹川がそう言い放つ。赤と宣言した女はルーレットを睨み続けるが、やがてルーレットが止まると、荷物をまとめて乱暴にドアを閉めて出て行ってしまった。
「まいど」
笹川は女が去っていった扉に向かって礼を言うと、机に置かれた五千円札を拾い上げて懐に仕舞った。
「ヨッシーも、ありがと」
そして、俺にまで礼を言う。今日は本当に機嫌がいいみたいだ。
ここ油島崎高校の生徒会室には代々伝わる古いルーレットがあって、それが入ったロッカーの鍵を(顧問の目を盗んで)生徒会長が管理することになっている。つまり今年は俺の担当だ。
「生徒会室で、ましてや生徒会長が手を引いて賭博なんて、気は進まないんだがな……」
俺は頬杖をつきながら、空いている左手を伸ばしてルーレットを回す。
「べつにいーんじゃない? 前の生徒会長も似たようなことしてたんでしょ? あ、それ赤だよ」
カラカラと乾いた音が止み、ルーレットを見るとやはり銀玉は赤のポケットに収まっている。賭けていなくて良かった。
「ね、せっかく小遣い入ったし何か食べに行こうよ。奢るよ」
今日は本当に機嫌がいいらしい。
笹川美頼は、本人が言うには『異常にカンがいい』らしい。『ルーレットの目くらいなら簡単に当たるよ。すごいでしょ』。本当なら凄いなんてものではない。今日も九回の勝負をして、五勝四分、すべて(うち二回は数字まで)当てていた。正直、イカサマをしているとしか思えないが、ルーレットにも玉にも仕掛けがされたような形跡はないし、回しているのは他ならぬ俺だ。
いずれにせよ、笹川はその百戦百勝のルーレットの腕と、教師が入ってこない生徒会室を使ってときどき荒稼ぎをしていた。
稼いだ金の使い道が気になってふと尋ねてみると、『ホテル代』と答えが返ってきた。そういうのは男が出すもんじゃないかと思ったが、彼女曰く『セックスはギブアンドテイクだから当然』らしい。
その方面で金を稼いでる訳でもなければ、誰彼構わずホテルに行っている訳でもないらしいので、生徒会長が出る幕でもないだろう。ただ笹川は、理想とする男に巡り合えない結果、色んな男と付き合っては別れているらしい。それをビッチと呼ぶ人もいるかもしれない。

「モスかよ。ヨッシー、容赦ないね」
日がすっかり傾いたころ、俺たちは少し高いハンバーガーショップの扉をくぐった。
「いや、だから奢んなくていいから」
「協力代だって」
笹川は悪びれる風もなく財布をちらつかせると、歯を見せて笑う。
「そんなもの受け取ったらただの共犯者だろ」
「違うの? だって今も——」
突如、笹川が黙った。かと思うと、俺の陰に身を隠すように頭を低くする。何かを警戒しているに違いなかったが、何のことかわからず、俺は周囲を窺った。
カランコロンという音がして振り返ると、二人の男子高校生が店内に入ってきたところだった。
どちらも見覚えはないが、俺と同じ学ランを着ている。笹川の反応から、どういう縁かは何となく察しはついてしまう。
様子を窺うだけのつもりだったが、背の高い方と目が合ってしまった。すぐ視線を戻し、やり過ごそうとしたが手遅れだった。
「あれ、生徒会長と……笹川じゃね?」
笹川は身を縮こませたまま、苦々しそうに眉をひそめた。
「は? マジかよ。ってか、男と一緒かよ」
そう言いながら背の低い方は店の床に唾を吐く。気分の悪い連中だ。
「美頼ィ、おめえも懲りねえなぁ。今度は会長かよ」
背の低い男が笹川に言い放つ。「そんなんじゃねえよ」答えていたのは俺だった。
「いや、会長には言ってないから」
この男が口を利くたびに腹が立った。自分は一方的に嘲笑する側、ケチをつける側。何を言っても、悪意をぶつけても構わないと思い込んでいる。むしろ、相手の心を土足で汚すことこそがこいつの喜びなのだろう。
「ってか、そんなんじゃないのはアンタだけかもよ?」
何が可笑しいのか、男は甲高い笑い声を上げた。
「最初はなんでもないつもりでも、知らず知らずにたぶらかされていくんだよ。それがそいつのやり方さ」
男は笹川に向き直り「なァ?」と同意を求める。返事は舌打ちだ。
「ったく、これだよ。行こうぜ、雄太ァ」
小柄な男がカウンターへと歩みを進めると、雄太と呼ばれた長身の男は困った顔をしてそれを追った。つるんでいるとはいえ、さすがに気分を害したのかもしれない。俺たちは黙ってそれを見届けると、注文もせずに席に向かった。
「最悪」
笹川が後ろを振り返り、恨めしげに言う。
「ごめん、ヨッシー」
「笹川のせいじゃねえよ。それにしても、笹川の勘でも男の良し悪しは分からないんだな」
冗談のつもりで放った言葉だったが、笹川は笑わなかった。
「ほんとだよね。肝心なときに限って働いてくれないんだから」
そう言って深くため息をつくものだから、それ以上は何も言えなかった。

興を削がれるとはこのことだったが、すぐ店を出る訳にもいかない。ぽつぽつと他愛もない話をしたが、三十分くらい経って笹川が「帰ろ」と言って鞄を持って席を立った。
電車通学の笹川を駅まで送り届け、自転車に飛び乗って家路を急いだ。笹川のことが少し心配だったが、あいつはこういった諍いには慣れっこだろう。
夕食はカレーとのメールを母さんから受信し、俺は自転車を漕ぐスピードを早めた。



翌日、授業を終えて生徒会室に向かう道すがら、廊下に立つ笹川の後姿が見えた。
あの後、奴らに絡まれていないか一応聞いておこうと思って近づくと、笹川に向かい合っている男子生徒の姿が目に入った。
笹川が陰になって見えない程には背の低いその男子は、それでも笹川の目をじっと見ながら何か語っているようだ。
見たところ、人畜無害な可愛い後輩といったところか。
会話に横やりを入れるのは趣味ではない。そのままポケットに手を突っ込んで二人の横を通り過ぎ、生徒会室へと向かった。

生徒会室に他の委員の姿はなく、お茶を飲みながら資料作りを始めた。
この広い部屋に一人でいる贅沢な雰囲気が心地いい。
気分が良くなって鼻歌を歌いながら、タイピングを続けていると勢いよく扉が開かれた。
「やっほーヨッシー。ちょっと匿って」
笹川は急いできたのか、少しだけ息が上がっているようだ。
「ノックくらいしたらどうだ」
こう好き勝手に出入りされては、作業の一つも落ち着いてできない。だが笹川は俺の文句を意にも介さず、顔の前で人差し指を立てる。それから『ゴメンゴメン』と言わんばかりに手を合わせた。
次に扉の鍵を閉めると、なるべく音を立てないようにそろそろと歩き、俺の二つ隣の椅子に着席した。
「危なかった」
小声で笹川がそう言ったのとほとんど同時に、硬い靴音が聞こえてきた。乾いた音が一定の、少し速いリズムを刻む。嫌というほど聞き覚えのある音だ。ああ、それでか、と悟った。
「なーにやってんだ、お前らァ」
外の廊下から『そいつ』の声が聞こえてくる。誰かが早速、絡まれているらしい。用務員の藤田だ。
「いや、別に……」
「『別に』じゃねえんだよ。何しゃべってたんだよ。俺にも聞かせろよ」
藤田は生徒に声を掛け、からかうのを趣味としている。灰色のつなぎを着て、いつも唇を歪ませて気味の悪い笑みを浮かべたその男は、おじさんと言うには若く、お兄さんと言うには老けている。
そんな奴が親しげに話しかけてきたところで、ほとんどの生徒にとっては迷惑でしかない。そのことは本人にもわかっているはずだが、藤田は歳の差にものを言わせ、はっきりと拒絶されないのをいいことにやたらと威張り散らしていた。
『一回、ヤらせただけなんだけどね』以前、笹川が語ったのを思い出す。『何を勘違いしちゃったんだか、見るたびに舞い上がって話しかけてきてさ。それも自慢話ばっかり、自慢するようなことでもないのに。自分のことしか考えてないからそうなるんだ。アッチも雑で、自分本位だった』
生徒会という職務の都合上、用務員とは『仕事上の付き合い』がある程度存在する。
階段の手すりが取れかけている、部室棟の空調が壊れたといった苦情は用務員に直接言えばいいものを、藤田と話したくないのか、単に同じ学生の方が話しやすいだけなのか分からないが、時折生徒会で受け付ける。
それで大体こちらが藤田に頼みごとをすることになり、何かと恩着せがましいので俺も好ましく思っていないというのが本音だ。
藤田は、扉の外の生徒の話を聞き終えると「ナハハハ」と奇妙な笑い声をあげ、生徒会室の前から遠ざかっていった。
笹川は「ふぅー」と息を吐いて椅子から立ち上がって生徒会室をぐるぐる歩き始めた。
「あー、入って来なくてよかった。そんじゃヨッシー、ルーレット出してよ」
笹川は俺の背後からマウスを勝手に動かして、素早く上書き保存してワードを閉じた。
「あっ、お前……また今日もやるのか」
「まぁまぁいいじゃん。藤田もどっか行ったし、ね?」
この生徒会室のドアをノックせずに開ける人物は基本的に二人しかいない。笹川と藤田だ。
靴の音で察しがつく分笹川よりマシだが、判別がつかなかった頃、ノックをせず入ってきた藤田にルーレットを目撃されている。
それがなかったら、職員会議で『藤田があの汚い用務員室で女子生徒と淫行に及んでいた』と糾弾していたかもしれない。
俺が奥の棚からルーレットを取り出したと同時に、ノックをして女子生徒が生徒会室に入ってきた。
三十分後、昨日と同じその女子は、一万円札を叩きつけて帰っていった。

「いやしかし、参ったな」
勝負に完勝した笹川がそう言って頭を掻く。
「もうすぐ夏休みじゃん? だからだと思うけど、付き合ってくれって相談が多いんだよね」
「何かまずいのか」
『お前からすればよりどりみどりで結構なことじゃないか』とは言えない。
「うーん、今はね。しっかし、どいつもこいつも涼しい顔でさ。『今度は僕と付き合うことを考えてみてもいいんじゃない?』みたいな態度してんの。あれは告白なんてかわいいもんじゃないね。交渉だ」
「随分とドライなんだな」
「まあ、わかりやすくていいけど」
お互い苦笑する。笹川は自分を性の対象としてしか見ず、それを隠そうともしない男どもの傲慢に呆れているようだった。それには俺も同感だ。
「モテるのも大変だな。でも、夏までには彼氏がいた方が楽しいんじゃないか?」
「まあいないよりはね」
『でも、どいつもこいつもしょうもない男ばっかりで』と言いたそうに笹川は大きく伸びをしてため息をついた。
「さっきの後輩とかいいんじゃないか? 廊下で話してた」
「廊下?」
「背の低い男の子と話してたよな。一途そうで、可愛げがあるじゃないか」
くりくりとした大きな目と綺麗に切りそろえた前髪が印象的な少年だった。ああいう男が『今度は僕と付き合うことを考えてみてもいいんじゃない?』と言っている姿は、俺には想像がつかない。
「あー……ヨッシー見てたんだ」
笹川はまたため息をついた。
「いや、なんていうか、確かにいい子だし、顔も中性的な女受けする感じだよ? でもね、あの子は純粋無垢すぎてね」
「だったら、どんな奴ならいいんだよ」
笹川は首を傾げるばかりで、はっきりとは答えなかった。違和感があった。普通の女性であればこういった物言いで相手を選り好みすることもあるだろうが、少し前までの笹川は付き合う前から不平を言うことはあまりなかった。何かが以前と違っている。
まあ、多くの人間と付き合ってきたのだ。どうしても合わないタイプがわかってきたのかもしれない。あるいは、彼らの態度から昔の厭な男を連想してうんざりしているのかもしれない。そう考えると妥当な振る舞いにも思えた。
「それよりヨッシー、自分はどうなの?」
「えっ、俺?」
不意をつかれて戸惑う。自分に話が飛んでくるとは思わなかった。
「夏までに彼女を作りたいだとか、思わないのかね? みんなが海に行ったりホテルに行ったりしてる間、延々と部屋にこもって、宿題や生徒会の仕事をせっせとこなして過ごすおつもりかな」
「それはあまりに極端な話だ」だが、ありえなくもない話だ。
俺は進学組だし、部活にも入っていない。気軽に遊びに誘える友達も多くはない。笹川の言うとおり、たいした思い出もなく、粛々と過ごすはめになるかもしれなかった。それは確かに味気ないが、そうなったらそうなったで仕方がないと半ば諦めてもいる。
「まあ、自分のペースで過ごすさ」
笹川はわざとらしく「ふーん」と言うと、俺を試すように笑った。『ほんとにそれでいいの?』と言いたげだった。俺が挑発に乗らなかったので、その話はそこで終わりになった。
じきに書類が出来上がり、俺はパソコンに印刷の指示を出した。それと同時に、笹川が立ち上がった。
「じゃあまたね」
俺は「おう」とだけ返事をして席を立つ。まだ作業が終わったとも言っていないのに、よく見ているやつだ。勘が鋭いというのも本当に思える。人の動向をよく観察し、意図を推測し、自信を持って判断を下している。そうでなければ、ここまで素早くは動けないだろう。
その感覚と技量に少し羨ましさを覚えつつ、俺はコピー機のある職員室へ向かった。

書類は問題なく受理され、『茶でも飲んでくか?』という顧問の提案を丁重に辞して職員室を出た。
既に日が傾きかけているが、野球部やサッカー部は怒鳴り声に近い声をあげながら練習に励んでいる。
声が聞こえなくとも、文化系の部活はそこら中の部室で青春のエネルギーを消費している。
生徒会が縁の下にいることで、学生が清く正しく美しい青春の汗を流せるなど殊勝なことは思わない。
誰かが困らないように、やらなきゃやらないことをやっているだけに過ぎない(その誰かは生徒であることより、規則を気にする教師の場合が多いのかもしれない)。
ただ、デスクワークと会議でほとんどが完結し、自分以外の役員が滅多に来ない生徒会に対して思うところがないと言えば嘘になる。
そんな風潮に改革を断行する、なんて気にはならない。俺は俺のペースでやるだけだ。それでいい。

そんなことを考えながら階段を下りて、下駄箱で靴ひもを結んでいると声をかけられた。
「すいません、生徒会長の吉井先輩ですよね?」
「え? うん、そうだけど何か用?」
結びかけの靴ひもから手を離して立ち上がると、その相手が自分より随分背の低い男子生徒だとわかった。
「あ、名乗らなくてごめんなさい。僕、一年の桑原です。それで、先輩ってよく笹川先輩と一緒にいますよね? 今日は一緒に帰らないんですか? あ、僕はその笹川先輩に用事があってそれで会いたくてここで待ってたんですけど、中々来なくて。何か知りませんか?」
その桑原と名乗る後輩は、早口でしかしハキハキとしっかり俺の目を見てそう聞いてきた。
「先に帰ったと聞いてるよ」
それだけ答えて俺は腰を折って靴ひもを結び直す作業に戻った。
「あ、そうなんですか!でも、見てないな……。とにかく、追いかけます!ありがとうございます、先輩!」
そう言うと鞄を持って桑原は走り出していった。
『靴箱を見ればいいんじゃないか?』と教えなかったことに罪悪感は感じたが、笹川の気持ちが分かる気もした。
俺は自分の靴を取り出して駐輪場へ向かう。蝉の哭く声がうるさい。もう夕方の六時過ぎだというのに、まだ陽射しが強く、空気は煮えたぎるように熱い。
背中に滲んだ汗が、やけに存在感を放っている。
早く風呂に入ろう。
俺は自転車を走らせた。

家の前に自転車を止めて腕時計を見ると、七時を回っていた。陽はほとんど落ちていて、家のカーテンの隙間からも光が漏れている。
「ただいまー」
「あら、おかえりー」
玄関を開けた瞬間、味噌汁の匂いが鼻をついた。台所まで真っ直ぐ進むと、既に夕飯の準備は八割方済んでいるようだった。
「あっくんおかえり。夕飯、もう少し待っててね」
「今日は帰り早かったんだね、母さん」
母さんは俺より帰りが早い日さえ、月に数日しかない。放課後、ハンバーガーショップやコンビニによく寄るのも、母さんが帰って夕飯を作ってくれるまで我慢するためだ。今日も家で食べる為に途中でパンを買ってきたが、明日食べればいいだろう。
「今日の朝も言ったじゃない、明日から三日間出張だから今日は早めに帰れるって」
「あーそうだっけ? ごめん、忘れてた」
「だから、それで三日間頑張ってね」
テーブルの上を見ると五千円札が一枚置いてある。昼は学食の定食、夜は弁当を食べるだけならば十分な額だ。
「分かった。じゃあ、夕飯の前に風呂入ってくる」
「はいはい、すぐご飯だから早く入っちゃいなさい」
母さんがそう言うと同時に、炊飯器が二度音を立てる。十分後には炊き上がるようだ。急いで部屋に鞄を置いて風呂場へ向かった。



今日が母さんの出張の最終日だ。俺は今日も学食に出掛けた。
ほどほどに栄養豊富で無難に美味しいカレーライスを堪能して学食を出ると、数人の集団が渡り廊下を遮っていた。
ただでさえ人が行き交う昼休みの渡り廊下で、通行人から向けられる視線に気がつかないのだろうか。
生徒会長として軽く注意しようと近づくと、その真ん中にいたのは笹川だった。
残り二人にも見覚えがあった。一人はハンバーガーショップで絡んできた連中の片割れ(確か雄太といったか)で、もう一人は後輩の桑原だ。
雄太は高身長という以外には際立った特徴はないが、記憶力には自信がある。
桑原も一度話しただけだが、この背の低さと、学ランのボタンを几帳面に一番上まで閉めた立ち姿が特徴的だったから、よく憶えている。
ひとまず、彼らに向かって注意しようと「君ら、邪魔になってるからよそでやってくれ」と話しかけるが、気がついた笹川が苦笑いしながら「よっ」と言うだけで、男たちは気付かない。
背の高い男と桑原が互いに言い合いながら、笹川に話しかけ続けることに必死のようだ。
笹川が後ろ、後ろと指を指しても気がつかない。
言い争っているニ人の肩を同時に叩き、この場を収める為に一番有効だと思われる言葉を放つことにした。
「全員、生徒会室に来い」

「どういうつもり?」
長身の水野雄太が言う。生徒会室で机を囲み、俺と笹川と桑原が椅子に座る中、彼だけが立ったままでいる。
「それはこちらが聞きたい。何についてあそこで言い合いをしてたのか教えてくれよ、二人とも」
「どっちが私と付き合うか、だよ。ヨッシー」
間髪入れず、笹川が答える。当の二人も黙ったままでいるから、冗談ではないようだ。
つまり、二人はともに笹川との交際を望んでおり、その『交渉』のタイミングが一致したため、お互いを敵視し『お前なんかに笹川の男が務まるか』『笹川さんの恋人としてあなたはふさわしくない』と口論になったというわけだ。横柄そうな水野はともかく、桑原までそういった強引な手段に出るとは意外だ。
「争うのはいいけど、渡り廊下で延々とみんなの進行を止めてまでやるのはよくないな」
もっとも、それを楽しんでいる奴もいた。そいつらは今も外に並んで息を潜めているようだが。
「それに何より大事なのは笹川本人の意志だ。誰と付き合うか、もしくは付き合わないか、笹川に決めてもらってこの場を収める。いいだろ」
「その通り!」
そう言って笹川が頷くやいなや、水野と桑原が我先にと笹川に詰め寄った。
「じゃあまず俺からアピールするぞ」
体格のいい水野がずいっと前に出てくる。
「いや、僕が先に!」
座っていた桑原も負けじと立ちあがって水野を押しのけようとする。
仕方なくもう一度止めようとしたが、桑原は喧嘩を嫌ったのか、椅子に座りなおし「……やっぱり先にどうぞ」と言った。
こんなことでも少し自尊心が満たされたのか、水野は満足気だ。
「よし、じゃあ俺から。笹川美頼、一目見た時からお前が好きだ。そうだな、あのモスで会った時だ」
最近すぎるだろうとツッコミを入れかけたが、個人の告白に割って入るのは生徒会長の権利を越えている。
笹川はそういう短絡的な告白に慣れているのだろうか、動じていないように見える。
「それより、俺はアレがデカい。太さ、長さ、カリの硬さ、どれを取ってもこの女みたいな男には負けねえな。今までヤった女全員、もう俺以外の奴とセックスしても満足できない!って言ってるしな」
ある意味では、この男は桑原と同じくらい純粋なのかもしれない。
「無駄にデカくても痛いだけだし、それ嘘だよ」
笹川は携帯電話をいじりながらそう言った。
「……マジかよ」
水野は本気で落ち込んでいるようで、そのまま椅子に倒れるように座り込んだ。
水野には悪いが、少し安心した。
「じゃあ、次は僕の番だね」
桑原が立ちあがると、笹川は携帯電話をポケットにしまったが、窓の外を見つめている。
「後の方が印象に残るから、順番こっちの方が良かったんだよね」
桑原は悪戯っぽく笑うと、「この野郎!卑怯だぞ!」などという水野の怒号も気にせず、語り始めた。
「えーっと、笹川先輩。僕は世界の中で誰よりも先輩の事を好きでいる自信があります。」
語りながら、桑原は笹川を真っすぐに見つめている。俺や水野の存在など忘れてしまったかのようだ。
「朝起きてから寝るまでずっと先輩の事を考えています。でも、先輩と会える時間は放課後しかありません。それじゃ嫌です。朝一緒に起きて、一緒に登校して、一緒に昼ごはん食べて、一緒に下校して、一緒にお風呂入って、一緒に寝たいです」
息を切らす素振りもない。
「それから、休日は一緒にデートに行きたいです。僕みたいなチビで顔もカッコよくない僕なんかがエスコートできるか分かりませんが、先輩の事絶対幸せにします!それから……」
いつ止めに入ろうか悩んでいたところに予鈴が響いた。
全員の動きが、一瞬止まったように感じた。
「のど自慢の鐘みたいになったね」我に返って笹川が笑う。「ごめんね。バカにしてるわけじゃないんだ」
その笑う顔を見て桑原は呆気にとられ、黙って座った。そして呟いた。
「……やっぱり、僕はあなたが好きです」
「じゃあ、そろそろ決めてくれるか、笹川」
予鈴が鳴ったということは、もう時間がない。この部屋にいる四人だけならまだしも、外にいる人だかりを早く解散させなくては大事になりそうだ。
「オッケー。ヨッシー、あれ出してよ」
「……あれ?」
笹川は、緊張する水野と桑原をよそに、俺の困惑も気にせず、ニカッと歯を見せた。
「ルーレットだよ、ルーレット。ルーレット回してどっちが出るか。それで決める」
「「「はあ!?」」」その場にいる三人の男の気持ちが、初めて一致した。
「お、おい笹川、それはあまりにも失礼じゃないのか」
たとえ告白が『交渉』だろうが、その提案は他者の思いを踏みにじる行為だ。
水野は握りこぶしを作り、桑原は目に涙を溜めている。
「ここで私が二人をフっちゃえば終わりだよ? でも、ルーレットでどっちか決めれば、付き合う可能性は50パーセントになる。悪い話じゃないんじゃない?」
「いや、そうだけど……」
二人の気持ちはどうなるんだ。
「いや、それでいい」
「……僕も」
水野は握りこぶしを自分の太腿にぶつけながら、桑原は涙を袖で拭いながら答えた。
過程はどうあれ、好きな相手と付き合えるのなら手段を選ばないものかもしれない。
「オッケー。じゃ、ヨッシーよろしく」
笹川は普段賭けをする時と何ら変わらない。
「……分かった」
そもそも俺はこの空間で唯一当事者ではないのだ。
ルーレットを取り出し、ルーレットを回すディーラーが口を挟むことではない。

時間がないので急いでルーレットを用意していると「二人とも、どっちにする?」と笹川が問いかけた。
「俺は黒だ」
ルーレットという方法が決まった時から決めていたのか、水野がきっぱり答えた。
「じゃあ、僕は赤」
赤い糸っぽいし、とかすかに聞こえたような気がする。
「じゃあ水野君が黒、桑原君が赤で。回していいか?」
二人の緊張が伝染したのか、俺まで手が震えてしまう。金属の柱に触れると、ひやりと冷たい感覚がした。
「じゃあ、いくぞ」
回した。
赤と黒が混ざる。
球体が外周を走る。こいつが中心に落ちたとき、勝負が決まる。
回る。
「そういえば」水野が口を開く。「このルーレット、今、『0』あったよな。0が出たら?」
それはノーゲームとなって、もう一回だろう。口を開こうとしたら、すかさず笹川が俺を制し、それから答えた。
「0が出たら、間を取ってヨッシーと付き合う、ってのはどう?」
心臓が跳ねた。
え?
「そんなの、全然間を取ってないじゃないですか!」そう怒鳴って机を叩くのは桑原だ。
「ふざけてやがる」水野は開き直ったのか、可笑しそうに笑っている。
どちらの声も頭には入っていなかった。
回る。
ルーレットと一緒に、俺の思考までぐるぐると回る感覚がした。絶え間なく、回り続けた。
笹川のルーレットは百発百中。結果を意のままに操れると言ってもいい。
だからどちらかの告白を遠回しに断るために、結果をもって返事とするつもりだと思っていた。
やり方は不誠実だが、俺は部外者。文句を言う立場ではないと思っていた。
回る。

でも、もしもこのルーレットが0に止まったとしたら?
俺は——『当事者』だ。
もしも笹川が両者の告白を断るつもりで、最初から俺に告白するために、ルーレットを提案したのだとしたら——?

回る。
回る。
その回転は段々と鈍くなり、カラン、という音とともに止まった。

銀色の玉は、緑色のポケットに収まっていた。盤にふたつしかない『0』のポケットだった。
見上げると、笹川がこっちを、俺の顔を見ている。
『驚いたでしょ。どう? 私、ルーレットは外さないんだから』
笹川美頼は得意気に笑みを浮かべ、こちらにウィンクを飛ばしてきた。そして、照れくさそうに笑った。


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