揺れる身体。震える鼓膜。さざ波に身を任せるように、私はメロディーを奏でた。機械のような正確さで動く指が鳴らすのは、タイマーのような無機質な音の羅列ではなく、むしろ潮騒のようなどこか不規則で生々しい音だった。私の唯一にして絶対の愛用機GT413フルアコースティックエレキギターは、今日が特別な日であることを分かってくれているのか、素直に私の言うことを聞いてくれていた。リア側のピックアップの高域を絞り、ともすればバンドアンサンブル全体で埋もれてしまいそうな、それでいて私はここにいるよと必要最低限の主張をする音色に切り替える。さっきまで、泣き叫ぶように喚いていた私の愛機は、今度は恋人たちの愛の囁きを紡ぎ始めた。ホロウボディが生む豊かな倍音が強調され、音の輪郭がぼやけてしまわないよう、無意識に右手のストロークの歯切れがよくなる。“line dog”。私の友人がリクエストした、戦場へ向かう兵士たちへの愛の歌だ。そっと目を閉じて、自分と仲間たちで作り上げた音世界に没入していく。
“音楽とは数学である”と言ったのは誰だったか……もう思い出せないが、それは正しい。一定のルールで、音階という要素を計算することで出来上がる、曲という一つの答え。リズムはさながら計算の処理速度。限られた音階の中で、無数のパターンを計算する。先人達の感性によって生み出された美しい公式にあてはめられた音の世界は、厳格すぎることのない秩序と無限の広さを持つ箱庭みたいだ。
「だけど貴方の心は風。するりと私の横を通り過ぎて行ってしまう」
独り言のような歌声で、私は歌い続けた。不思議なもので、演奏する時私はいつも、音を奏でる自分とそれに聴き入る自分の二人が、私という一つの器にあるような気がしていた。それはただ自分の好きな音を好きなだけ聞くという自己完結した高揚を感じているだけなのかもしれないが、時々二人の自分が対話を始めるようなこともある。今日もそんな日だった。
“貴方は誰を思い浮かべているの?”
答えの明白な問いかけ。ひどく感傷的な気分になっていることを改めて確認させられた私は、自嘲気味に微笑んで、胸の内に浮かぶ一人の男の言葉を思い出した。
“音楽ってのはルーレットみたいなもんだ。決められたパターンに乗っ取ってルーレットのマス目を埋めて回せば、次の音は運が決めてくれる。リズムは回転数。ただ、一つだけ守らなきゃいけねぇのは、マス目の割合は自分で決めるんだ。例えばルーレットのマスが50あるとして、次の音の選択肢として三つの音があるなら、30と17と3ってな具合に分けてもいいってこった。betしねぇと賭けになんねぇからな。もちろん、自分の信じる音があるならマス目全部をその音で埋めればいい。ただ、次に何を弾こうかどうしようもなくなった時は、その時の気分に賭けてみるのも悪くねぇんだ。次に来るべき音の候補なんざ無数にあるわけじゃあねぇからな。ルールさえ知ってれば、あとはbetするだけ。簡単だろ?”
セッションを生まれて初めてやった時、ソロで思うように弾けず落胆する私にくれた言葉。彼は続けてこうも言った。
“人生も似たようなもんだ”
ソロを交えた間奏に入る手前、ドラムを叩く犬人のフォウの方を見ると、フォウは不敵な笑みを浮かべた。彼との付き合いは長く、その笑みの意味を私は知っている。ぶちかませ!躍らせろ!……だ。ご希望を叶えられるよう、私は足元にある自作のエフェクターの一番右にある“Fuck up”と書かれたスイッチを踏みつけ、ギター側のヴォリュームをフルテンにした。
スライドを交えた粘りのあるフレーズでソロに入った。愛機が自慢のエフェクターによって彩られた唸りを上げて音の階段を上がる。Fuck upによってわざとLow-fiに加工された音は、簡単に言うとラジオを通して聴く音のようで、多少歪ませ過ぎても聞き苦しくない。サスティンの長さを生かして、ロングトーンを随所に入れつつ、ゆっくりと、それでいて大胆に音階を上がっていく。私のルーレットは単純に上がることを許さずに、時には階段を踏み外したり、時には複数の段差をひとっ跳びに駆け上がったり、無邪気な子供の様に振る舞うことを選んだようだった。それを見守るように仲間達が手堅いラインを奏でる。
30小節弾いたところでベースの狐人のレイに目配せすると、彼女は澄ました顔でぷいと目を逸らした。どうやらまだまだ満足してないらしい。レイのソロに繋ぐために用意していた2小節分のフレーズを、急遽出鱈目で駄々をこねるようなフレーズに変更し、私はソロを続行した。エフェクターを全てoffにし、ギターとアンプ側のセッティングだけで勝負に出る。
軽い歪みに軽いリヴァーブ。高域が効きすぎて芯のない音になってしまわないようにギター側のトーンを絞り気味にする。ルーレットを高速で回す。いつもならこういう局面では慎重で堅実なbetの仕方をするのだが、今日の私は違った。人生をルーレットだと豪語したあの人のように、出鱈目で適当なbetをしつつ、その結果を繊細で豪快なプレイでまとめ上げていく。カッティングによる音の列に、気ままに差し込まれるミュート。跳ねたり、もたついたり、つんのめったり。時には正確に。踊るように。揺れるように。階段を飛び降り、駆け上がる。平坦な長い段はスキップで。小さい段差につまずいたと思えば、次の瞬間にははるか上方へと飛び上がったり。急停止したかと思えば、階段を転げ落ちる。空白にすら意味を持たせる世界。その中で確かに私は自由に踊っていた。仲間たちと手を取り合って。見守られながら。まるで今日のこの公演の後にすることになっている話の予行演習みたいね、と私の演奏に聴き入る私が微笑む中、私は音を奏で続けた。
アルストロメリア公国。その首都アルストロメリアの中心から少しずれたところにあるアンティキア市、そしてそのまた中心から少しずれたところにひっそりと存在するバーがある。“crescendo”と店の名前が雑に彫ってある扉を私は三回ノックした。返事を待たずに中へと入る。
「返事を待つ気がないならノックなんてすんな」
店主が不機嫌そうな声で、笑いながらそう言った。
「そう言いいながら許してくれるからやりたくなるのよ」
そう返して、私はカウンターの奥で作業する店主の前の丸椅子に座った。
「どうだ?足届くか?」
椅子は高く、座ると私の身長では足が付かないが、そもそも普通の人間で足の届く者はそうそういないだろう。このやり取りは私が店に来る度になされる挨拶みたいなものだ。その昔、私がまだまだ子供だった時、目の前からいなくなってしまったあの人にまた会いたいと駄々をこねる私に、店主が言った“この椅子に一人で座ることが出来たら来るさ”という適当な言葉の続きみたいなものだ。当時の餓鬼の私にはこの椅子が山のように高く見えたものだ。ようやくこの椅子に座れるようになった頃には、“この椅子に座って足が床に届くようになったら来るさ”なんて言葉を貰わなくても、色々と納得出来る年になっていたが。
「届くわけないでしょ。前に来た時が18の時、今は20。これで身長が伸びてたら嬉しいというよりも怖いわ」
「なにを飲む?」
「ツォンに任せる」
「なら牛乳だな」
なんて軽口を叩きながら、店主のツォンは背後の酒棚から瓶を何本か取り出し、カクテルを作り始めた。シェイカーに氷を入れ、目分量で手際よくお酒を注いでいく。五種の液体を注ぎ終わった後、次にツォンが取り出した物を見て私は思わず声を上げた。
「な、生卵!?」
私の驚きを無視して、ツォンはシェイカーに生卵を落とすと、蓋をしてすました顔でシェイカーを振った。
「お前卵アレルギーだったか?」
「いや、大丈夫だけど……」
「こんな適当で無責任な狐に任せるなんて言うからだ。ほれ、牛乳だ」
グラスに注がれた“牛乳”は、カオスとしか言いようのない奇天烈な色をしていた。一呼吸を置いて覚悟を決めてから、恐る恐る口にその液体を含む。つんとくる酸味の後にくる、卵黄独特の甘み。しつこくない後味。
「お、おいしい」
「だろ?正直、客には出せねぇけどな」
「そりゃあ、この色じゃあ、ねぇ?」
私の反応を楽しむようにツォンは目を細めた。狐人のツォンは獣の血が強く、横暴な言い方をすれば二足歩行する狐といったいでたちで、元々細い目が横線のようになった。
「この牛乳はルーベンスが遊び半分で作ったやつでな。中身をルーレットで決めて、量は適当にぶっこんで、出来たのがこいつってわけさ。運もたまにはいかしたもんを作るもんだ」
「ルーなら納得出来るわ……」
ルーベンス。私にとって忘れることの出来ない、大事な名前。その名を聞いても悲しくならなくなったのは、私が成長しただけなのだと信じたい。
「それで、表の“closed”の看板はなに?今日は店開けなかったの?いつもはこの時間開けてるでしょ?」
「ご丁寧に入んなって看板立ててんのに、迷わずドアを開ける馬鹿が訊くことじゃないな」
「ツォンのことだから、鍵が掛かってないってことは大丈夫ってことじゃないの」
「年々ルーベンスに似てくるお前が心配だよ。今日はやる気が出なかったのと……そうだな、人払いだよ。お前の為のな」
そう言ってツォンはシェイカーに残っている牛乳をぐいと飲んだ。
「なんで私が来るって分かってたのよ。電話もなんもしないで、驚かせてやろうと思ったのに」
「付き合いが長いからな、大体分かるんだよ。それにお前が来なかったら、俺はクエスから貰ったゼニキス産の年代物のワインを片手に、大好きな異種族混同ラグビーの生中継をゆっくり観ることが出来たんだ。貴族のお嬢ちゃんはどう埋め合わせをするつもりだ?」
ツォンは部屋の奥に置いてある、古臭い図体ばかりが大きなモノクロテレビを指さした。チャンネルはニュースに合わせてあって、アルストロメリア各地域の明日の天気を新人天気予報士が熱っぽい口調で説明している。
「そうね、少なくとも異種族混同ラグビーよりは楽しめるような会話を心がけるわ」
私が煙草とライターをカウンターの机の上に出すと、ツォンはすっと灰皿を出してくれた。こういうところはちゃんとしてるから憎めない。夫から貰ったシルバーのシンプルなジッポーライターで火をつけた。
「レイマルクか。お前ずっとそれだよな。そろそろ銘柄変えた方がいいんじゃないか?お前ももう20なんだし、女向けの落ち着いたやつにさ。相手もいることだしな」
「女もの吸ってたら馬鹿にするくせに。老けこんだ顔して葉巻を吸ってるよりマシでしょ?」
「俺はもう年だからな。葉巻の方がいいんだよ」
「私が初めて会った時からずっと葉巻じゃない……」
ツォンが葉巻を取り出し、片方の先端をパイプカッターで切り落とした。続いて取り出したマッチに火をつけようとするのを私は制止して、手からマッチをひったくるように奪った。私は慣れた手つきでマッチに火をつけ、ツォンの呼吸に合わせて葉巻の先端をじっくり炙るように火を添えた。こんなことをするのは久しぶりで少々心配だったが、身体はしっかりと覚えていてくれていた。
「ありがとな。さすがというか当然というか、俺達が仕込んだだけあって、上手なもんだ」
「ふふ、私が何本の貴方達の葉巻に火をつけてたと思ってるの。まったく、暇さえあれば煙草咥えるんだから」
幼い私がこの店に出入りしていた頃、ツォンやルー、その他店に来る大人達がこぞって紫煙をまき散らしているのを見て、私も煙草を吸いたい!なんて言い出した私をなだめるために、大人達は火のつけ方を懇切丁寧に教え、とにかく誰でもいいから火をつけたがる私に嫌な顔一つせず自分のライターを渡し、咥えた煙草を突き出してくれたのだった。最初の方は下手くそで特にマッチは苦手だった。上手く火をつけられたかと思えば、煙草に火を移そうとしてツォンのヒゲを危うく燃やしてしまいそうになったこともある。その後罰としてツォンには皿洗いを命じられたが。
「それにしても、カラーテレビ買わないの?もうそれなりに普及してるからモノクロの方が珍しいくらいよ?値段も下がってるし」
「金がない。ていうかお前もな、一端の貴族なんだからテレビの一つぐらい贈ってくれてもいいだろ?」
「嘘言わないの。そこの棚にあるレガルシアのワイン、いくらするか知ってるんだから。嘘つきに贈るものはありません」
「これだから貴族は……物の価値が正確に分かるってのも厄介なもんだ」
やれやれと首を振り、ツォンはワイングラスを二つ並べ、件のレガルシアの赤ワインを注いだ。
「これでテレビを贈る気になったか?」
「貴族との付き合い方なら心得てる、みたいな言い方やめて欲しいものね」
私はそう返して、差し出されたグラスを受け取った。
「冗談だ。そうだな……祝い酒って言えばいいか。世界に秘密を打ち明けたお前のな」
「昼のライブの後の演説観てくれたの?」
「テレビで、だがな。直接行こうとも思ったんだが、人が多いところは苦手なんだ。それに獣人があんましどでかい公の場に出るのは、メディアに食い物にされそうで嫌いだ」
ワインを一口ゆっくり味わうと、ツォンは続けた。
「それで……アルストロメリア全土に名が知れ渡ってると言っても過言でもない獣人と人間の混成バンド“セルビア”、そのリーダーの貴族出身売れっ子ギタリストは、あろうことか自分が実は獣の血を引くことを公言したわけだが」
アルストロメリアは建国からずっと、獣の血を引かない純粋な人間からなる、貴族と呼ばれる者達によって統治されてきた。“純血”……彼らは血統というまやかしを、洗脳にも近い教育で国民に刷り込み、確固たる地位を築きあげた。両国イグニスとの二十年前と五年前の二回の戦争における、獣人の活躍とつかの間の両種族の協調を経て、今でこそ獣人に対する理解と許容が中、下位層に位置する人間にも浸透してきたが、まだまだ根強い差別意識は残っている。
「お前は革命家にでもなるつもりか?」
「そうね。その通り、革命家と言えばしっくりくるのかもしれないわね。でもねツォン。私が小さい頃、帝王学に特別力を入れて勉強してきたのはこのためだったの」
「俺はてっきり、この店でガキの分際で馬鹿な大人達に上手く取り入る方法を学ぶためだと思ってたがな」
私はゆっくりと紫煙吐いた。
「分かってるわ。私だけの問題じゃないってことぐらい。一族の了承も得た。夫にも背中を押してもらった。その上でのあの演説なのよ」
演説の内容は至極単純で、私が貴族の身分でありながら実は獣の血を引いていたことと、獣人への理解を求めることの二点だけ。ただ、体制に喧嘩を売るには充分な内容だった。
「それだけじゃねぇだろう。反貴族派の連中は黙っちゃいないぜ。貴族に混血がいたなんて、連中の喉から手が出るほど欲しかった口実じゃねぇか。隣国との戦争の次は内戦と来たもんだ」
「大丈夫よ。私がなんとか舵を取りきるわ。もちろん責任もね。メディア、レジスタンス、貴族、その他もろもろ、そのヘッド達と定期的にコンタクトを取り合うくらいには仲良くさせてもらってるの。それに腐っても私も貴族。交渉事と強行手段は十八番よ」
「たまげた、男勝りのジョンがまさかこんな風に育つとはな」
まだ二言三言小言を言いたそうなツォンの顔には、しかし満足げな笑みが浮かんでいた。
「そのあだ名はやめてって言ってるでしょ?もう子供じゃないんだからちゃんとジェーンって呼んで」
そう言ってワインを飲み干す私。この手の高級ワインには偽物がつきものなのだが、流石と言うべきかツォンの手に入れたものは本物の味だった。
「お前の夫はよく了承したな。コーネリウスだったけか」
「コーラウス。憶える気がないだけでしょうに……」
「そうそうコーラウスだ。あそこは貴族の中でも過激な反獣人派だったろ?」
「そうね、彼の家系は典型的な純血至上主義を貫いてる。でも彼自身はそれに対してずっと疑問を持ち続けてたみたいで……私を選んでくれたの」
少し恥ずかしくなったのは、自分の恵まれた環境からなのか、それともツォンの前で不意に年相応の女の顔をしてしまったからなのか。
「なるほどな。よろしくやってるようで安心したぞ」
ツォンは自分のワインを空にして、今度は二つのロックグラスにウィスキーを注いだ。どうやら本当に機嫌がいいらしい。その証拠に、いつもなら音がする方向に常にぴたりと向いて止まっているはずの尖った耳が、時々不必要に細かく動いている。
「でもなお前。あんな話をしたその日の夜に、こんな場末のバーに一人でひょこひょこやってくるなんて気でも触れてんのか?命狙われてもおかしくないんだぞ」
「小さな貴族の子供に本物の軍隊式の護身術教えたのはどこの大人達だったかしら?」
「いつか必要になるかもしれないつって断ったうえで教えてただろうが。それにまぁ、必要になったみたいだしな」
この店に来る大人達は幼い私に何かを教えてあげるのが楽しみだったらしく、護身術もその一つだった。それも、実際に従軍経験のある人間から教わったものだから、加減を間違えれば危うく相手の命を落としてしまうほどの。おかげで私は同じ学校に通うガキ大将を締め上げた挙句、この店の中だけだった男勝りのジョンなんてあだ名は、店の外にまで広がってしまったのだが。
「銃の扱いも他でもない貴方に教わってるし……なんだか不思議なものね」
「必要になって欲しくはなかった、とは言っておくぞ」
ウィスキーをぐいとあおって私は五本目の煙草に火をつけた。どうやら私も機嫌がいいらしい。
「ねぇ、ルーに会いたい」
私にbetする選択肢を増やしてくれた人に。そして、その彼から貰った選択肢を選んだ私を見せるために。
「どうだろうな。俺もあいつといつでも連絡とれるわけじゃあないからな。せいぜいたまに手紙が届く程度。あいつがここを出て行ってからは顔合せてねぇし……まぁ運がよけりゃあ会えるんじゃねぇのか?」
「運ねぇ……」
それから私達二人はしばらく気ままな思い出話に花を咲かせた。
ルーベンスと呼ばれる狼男に会ったのは、私が8歳の時だった。身長は二メートルをゆうに超えた、見た目はツォンと同じでほとんど狼に近い大男。道端で男の子二人にいじめられているところを偶然通りかかったルーが、わざとらしく私とその二人の間を“あほくせぇな”とぼやきながら通りぬけ、ルーの恐ろしい風貌に気勢をそがれた二人は慌ててどこかへ逃げて行ってしまった。私がお礼を言いにその背を追いかけると、こちらを振り返ることなく彼はこう言った。
「だめだ。何も言うな。知らないふりでどっかいけ。じゃねぇと食っちまうぞ」
何を思ったのかそれでも私は食い下がり、彼のコートの裾にしがみついた。当時、自分の血統に関する秘密、貴族でありながら獣の血が混ざっているという違和感、一族が、自分が、何に恐れていて、何が問題になっているのかがおぼろげながらに理解していくうちに、獣人蔑視というものに対してなんとなく抵抗意識を持っていたからかもしれない。自分も獣人でありながら、貴族という立場にいる罪悪感。負い目。幼いながらに罪滅ぼしのつもりだったのだろうか。
「やだ。ありがとうを言っていないもの」
「おいおい、困った嬢ちゃんだ。あんたは貴族。俺は平民以下の獣人。分かるだろ?」
「知らないわ。私にとっては別に貴方が狼でもかまわないもの」
「こんなとこ知り合いに見られたら困るのは嬢ちゃんなんだぞ」
勿論もっと困るのはルーの方なのだが、ルーはそうとは言わなかった。
「私が困るからって、私が正しくないわけじゃないもん」
そう言ってかたくなにコートにしがみつく私を見て、ルーは諦めたように首を振った。
「分かった分かった、俺の負けだ。お前の蛮勇をたたえて面白いとこに連れてってやろう」
そうしてルーは私を抱き上げ、コートの中に隠すようにして、ツォンの店へと連れて行ってくれたのだった。
それから私はルーのもとによく行くようになった。嘘はつきたくなくて、秘密も打ち明けた。彼は私の尻の上に生える小さな犬のしっぽを見ると、今にも引っこ抜けそうじゃねぇかと笑い飛ばした。両親はおそらく私がどこへ行っているのか知っていたが、あえて見逃すことを選んでいたようだった。ルーは楽器の職人で、楽器の製作や修理といった仕事の合間に、気の合う友人達とカフェや街角で演奏を楽しんでいた。ある日、演奏の後でルーは私に問いかけた。
「お前も一緒にやるか?」
「でも人目が……」
「ツォンのとこなら大丈夫だ。噂になりゃしないし、俺がさせない」
そう言って恐ろしい牙をぎらつかせて笑うルーの目は優しかった。
「貴族のお嬢様だからヴァイオリンとかか?」
「私、音楽は分かるのだけど、楽器触ったことないの。爪がちょっと鋭すぎて……」
犬の血が混ざってるからか私の爪は普通の人間よりも鋭く硬い。私生活に支障はないし、特にカモフラージュしなくとも普通の人間として認識されるくらいのものなのだが、楽器の演奏となると話は別だった。なんでもすぐに傷つけてしまい、弦楽器なんてやろうものなら、たちまち全ての弦が切れてしまう。それでも最低限貴族としての教養を身に着けるために、理論や鑑賞の仕方だけは教わっている、といった次第だったのだ。
「ふん、なるほどな。それなら俺が作ってやるよ」
「え?」
翌日ルーが持ってきたのは一台のフルアコースティックタイプのエレキギターだった。メーカーロゴはなく、型番がGT413とだけ掘ってあり、その下に“John”と焼き印がしてあった。
「見た目は人間用の普通のフルアコだが、指板とネックを一部獣人用の頑丈なパーツに差し替えてるから、多少重いのは勘弁な。弦は獣人用楽器ローレライ社のとびきり硬い奴だ。どこそこの楽器屋で売ってるが、その頑丈さゆえに別の用途で買う客も多いから、お前が買っても怪しまれることはないだろう。大事にしろよ?」
目を丸くする私。
「貰っていいの?」
「当然だ。いいか、このギターは全部俺が作った。身体の成長を見込んだうえでお前にぴったり合わせて作った、一生使える、お前の為だけのオールハンドメイドのギターだ。一点ものだ。価値がつけられない、な。もう一度言うぞ?大事にするんだぞ?」
「もちろん!ありがとう、ルー!」
そうして、念願の自分でも弾くことの出来る楽器を手に入れた私は、ルーに教わりつつ彼と一緒に演奏がしたいがために必死に練習を重ね、しまいにはツォンの店に来る知らない大人達ともセッションをするまでになっていた。そうして家や学校では教えてもらえないことを教わりつつ、ルーと出会ってから3年経ったころ、事件は起きた。
放火。犯人は貴族の息子。当然警察は別の犯人を仕立て上げなければいけない。放火が起きた丁度その時偶然現場を通りかかっていた私とルーにその手が伸びた。人間の私と、獣人のルー。本来ならば獣人であるルーに真っ先に嫌疑がかかるところであるが、その時は違った。貴族の中でも、私の一族の秘密を知っている者は少ないながらもいて、異端者を排除しようとする動きもあったのだ。これは好都合とばかりに嫌疑の手は私にも伸び、ルーは私を庇った。いつもなら知らん顔を通して何とかするところを、自分が犯人だと言い張った。自分は獣人だ、それで充分だろ?と。ただ、彼がそう簡単に事を済ませるわけもなく、わずかなスキをついて彼はこの街から出て行った。
それから私は時々ツォンの店を訪れつつも貴族として年を重ねていき、そこで知り合った獣人たちとバンドを組み、奇しくも五年前の戦争開始と同時にアーティストとしてデビューを果たした。人間と獣人の混成バンドなんてものは、粛清の対象になってもけしておかしくはなかったが、戦時中の戦力不足解消の為の人間と獣人の協調を促すという名目と合致しているのもあってか、貴族たちから目を瞑られていた。そうして有名になるにつれ、私は色んな業界、組織のトップと繋がっていき、その過程で最愛の人を見つけ、来るべき日の為に準備を進めて行った。自分は獣人だと言えなかったあの日の自分を悔いながら。
「それにしても、なんでお前みたいなのがここまで成長したかな」
ツォンが恨めし気な目で私を見つつ言った。
「運がよかったのよ。ルーの言葉を借りれば“出目が良かった”の。私は可能性にbetしただけ」
実際、戦時中という特異な状況だったからこそ、人間と獣人の混成バンドなんてものが許されたのもあるし、結婚も出会いは偶然だった。環境に恵まれ、ルーレットの出目に恵まれた……我ながらそれに尽きると思っている。勿論、私は自分の配分でbetすることは一度も怠ることはなかったが。
「一つだけ残念なのは、混成じゃなくなったことね」
「言ってくれるぜ」
笑い声がこだまする室内にふとノックの音が三回鳴り響いた。
「まさか……」
続く言葉を私は発することが出来なかった。ノックの主は返事を待つことを知らなかったからだ。
「よう、元気してたか?ジェーンにツォン」
私とツォンは目を丸くして互いに確認し合った後、もう一度ドアの方を見た。紺のベレー帽を被り、緑のシンプルなコートを着た、二足歩行をする狼が確かにそこにいた。
「おいおい、まるで幽霊でも見るような顔つきだな。安心しろ、例え幽霊になってもお前らのとこに用事はねぇからな。化けて出るなら俺の買ったばかりの愛車をおしゃかにしたリンベル通りに住む糞ババァのところに決めてるんだ……うおっ!」
「ルー!」
私は記憶と寸分も違わない狼男に抱きついた。少し獣臭いところも変わらないみたいだ。
「あー、気持ちは分からんでもないが、感動の再会ってのが俺は苦手でね。座らせてくれ」
そう言って私を引きはがし、葉巻を咥えつつ私が座っていた椅子の隣に座るルー。足が地に届いているのを見て、私はくくっ笑いつつも、自分の席へと戻る。
「久しぶりだなルーベンス。何を飲む?」
「そうだな……牛乳なんてのはどうだ?」
「お安い御用だ。さっきこいつに出したばっかりなもんでな」
「お前も、下らないことばかりしっかり覚えてるところは変わらないな」
ルーが無言でマッチを差し出した。私はそれを受け取り、葉巻に火をつけた。
「さて、矢継ぎ早に質問されるのはたまらんから、先に自分語りを済ませとくぞ」
懐かしい香りのする紫煙が部屋に広がる。
「この街を出た後、俺はアルストロメリアの北西にあるレジスティア市のアンテラっつー街で暮らしてた。ジェーン、お前の母さんのつてでな」
「母様が!?」
ルーに関して両親に質問したことはあったものの、二人ともだんまりを決め込んでいた。幼い私は他の貴族からの弾劾を恐れて何も出来なかったのだと勝手に思い込んでいた。血統の秘密をダシに貴族の中でも腫物扱いされる私達の一族、両親は両親なりの折り合いのつけ方をずっと守ってきたらしい。そして今度は私に賭けることに決めてくれた。
「お前の両親は最愛の一人娘と同じくらい俺のことを心配してくれてな。審問中に警察署から逃げる手配から、逃亡先での偽りの身分証まで準備してくれた。家事のあったマンションの立てなおしの尻拭いも含め慎重に、な。この親がいてなんでお前みたいなおてんば娘が育つか疑問に思ったくらいだ」
そこでルーはツォンから受け取ったグラスを一口で飲み干してしまった。
「やっぱりうまいなこれ……そうして俺は放火の罪が時効になるまでのアンテラでひっそりと暮らしてたってわけだ。そんでつい先月時効が来たんで、アンテラに残るかここに戻るかの賭けをしたところ、ここに至るってわけ。要は出目が良かったんだな」
「ツォンはルーがアンテラにいること知ってたの?」
ツォンはルーの分のウィスキーを注ぎながら、こちらを見向きもせずに答えた。
「知ってるか?狐ってのは元来化かす動物なんだぞ?」
あきれ顔の私にルーが続けた。
「ツォンには俺が口止めした。それにアンテラから戻ってきたことは誰にも言ってない。お前に知られると色々面倒そうだったからな」
「酷いわ!ずっと会いたかったのに」
「こんな狼男になんの価値があるんだか……」
「あら?値札をつけたのは私よ?勝手に値切らないでちょうだい」
「ははは、言うようになったなジェーン。全く、誰に似たんだか」
大声を上げて笑うルーは心底嬉しそうだった。私も自分の煙草に火をつける。
「そういや、ここに来る前にお前の家にあいさつしに行ったんだがな、お前の夫が話したいって言うもんで、ちょっと話してきた」
「コーラウスと?」
「中々度胸のあるやつじゃねぇか。秘密を知ったうえであっちからプロポーズしてきたんだって?ええ?」
「そうだったのか!?てっきり俺はジェーンの方から押したと思ってたんだがなぁ」
「やめてよ恥ずかしい……」
再会の興奮がやっと冷めてきたと思えば、今度は恥ずかしさで熱くなる。
「でもなぁ、男としては犬より猫の方がグッとくるよな。ベットの上でキャンキャン吠えられてもうっとおしい」
「うるさい!!」
既に二人にペースを握られつつあるのを不安に思っていると、ルーがポケットから金属製のやや小さな箱を取り出した。
「おっとそうだった。ジェーン、お前に渡すもんがあってな。開けてみろ」
蓋を開けると中にはリボルバー拳銃が一丁入っていた。
「銃?」
「必要だろ?貴族全体に対してあんな啖呵を切ったんだ。いつ殺されてもおかしくない。ま、もともと渡す予定だったし作ったのは一週間前なんだけどな」
「作ったって……ルーが?」
「楽器職人てのは悲しいもんでな、俺も年が年だし戦時中はその手先の器用さでしか貢献できんだろって色々作らされたんだよ。別に誇るわけじゃないが、その時のノウハウを詰め込んだ一丁だ。大事にしろよ」
手に取って感触を確かめる。グリップを握るとサイズがぴったりで手に吸い付くような感触を覚えた。銃身のサイドには“RV103 Jane”と彫ってあった。
「女のお前でも非力な力で、いつでも、すぐに撃てるように、シングルアクション機構ながら安全装置を引き金の方に仕込んである。ハンマーを上げた状態で携行しても問題ないわけだ。口径は少し狭い。上手く当てないと相手が死なないようにな、自衛にはそれくらいがちょうどいい。持ち運びを考慮して銃身はやや短めだ。ほんとはオートマチックの拳銃をあげたかったがまだまだ高くてな。扱い方は知ってんだろ?」
「うん。ありがとう。大事にするわ」
「お前の命も、だ。贈りもんは贈る奴の影が落ちるようで嫌いなんだが、これで少しでも引き金が軽くなるならと思ってる。もちろん……」
「すすんで撃てとは言ってないが……でしょ?」
「はは、ほんと、誰に似たんだか」
私はルーから貰ったそのリボルバーをコートの内ポケットにしまった。
「贈り物が嫌いならなんでジェーンにギターなんて作ってあげた?お前もなんだかんだこいつを甘やかしてるじゃねぇか」
ツォンがルーに問いかけ、にやりと口の端を上げる。
「あ〜、今となっては言ってもいいか」
ルーはそこでゆっくりと葉巻をくゆらせて答えた。
「あの時、俺は楽器作りで新しい試みを考えてたんだ。ジェーンみたいな、獣の血が薄いものの部分的に獣人仕様の楽器が必要な奴向けの、楽器の改修ビジネスだな。顧客に合わせて必要最低限だけ獣人仕様に仕上げることで、顧客が一番使いやすい楽器を作るってな具合に。そんでちょうどよかったからものは試しと作った試作品としてジェーンにはあれを贈ってやった、てなわけだ」
「あれ、試作品だったのね……」
「おかげで俺の仕事は予想以上に増えた。感謝してるぜ。ちゃんと大切にしてくれてるみたいだし、今後ともよろしく頼むな」
記憶よりもこの狼男は幾分粗雑だったみたいだ。会いたい……ただそれだけを思っていた相手がこんな調子なのだから、可笑しくて笑ってしまう。
「そうだな、用もすんだし、これからコーラルのおっさんのとこに行く予定だが二人とも来るか?」
「勿論行くぜ、お前とは話さないといけないことが山ほどある。たまったツケの清算だ」
「私も行く!」
「決まりだな。さっさと行くぞ時は金なりだ。それとジェーン、いつでもそいつを抜けるようにしとけよ?お前の首、もう闇市場で賞金かかってたぞ」
「はぁ!?」
驚きながらも私は再会の喜びをかみしめながら、私を育ててくれた二人の獣人と店を出た。
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