「愛してる」
 それは母の口癖。
 「愛してる」
 それは父の口癖。
 「愛してる」
 それは皆の口癖。
 誰も彼もが俺を、伊都志を大好きだと言ってくれる。愛されているんだ伊都志は。両親が、皆に愛されますようにと付けてくれた「いとし」という名前。俺はこの名前が気に入っていた。誰かが俺の名前を呼ぶと誇らしい気分になれた。でも一人だけ、俺の事を名前で呼ばない奴がいた。
 朝学校へ行くと、皆が俺に声をかけてくれる。
 「伊都志おはよう!」
 「おはよー伊都志君!」
 この一瞬だけ俺はこの世界の中心にいるような、世界中から愛されている気がするのだ。でも自分の席に座ると、通りがかった女が俺を現実に引き戻す。
 「おはよう。君は今日も元気だね」
 その女の名前は「愛」という。きっとコイツの親も俺の親と同じ事を考えてつけたんだろう。でも俺と違ってコイツは愛されない。理由は簡単、コイツは誰もが認めるブスだからだ。そして身の毛がよだつことに、コイツも俺の事を愛してると言ってくる。ブスにいくら好かれても嬉しくもなんともないし、しかも「愛してる」と何のひねりもなく平然と言ってくる。
 ただ奇妙なことに、コイツは俺の名前を一切呼ばない。他の奴は名前で呼ぶのに、俺のことだけ「君」と呼ぶ。だから俺もコイツの事を名前で呼ばない。いつも「お前」と言っている。
 「お前なあ、俺には君じゃなくて伊都志っていうちゃんとした名前があるの」
 「でも君は君だよ」
 「そうだけどさぁ」
 埒が明かないので毎回その辺で会話をやめる。気持ち悪いことにコイツは俺の目をじっと見つめて話すのだ。負けじ俺もじっとその目を見つめなおす。いつも思うのだが、コイツは目だけ綺麗だ。すべてを包み込むような優しい瞳。この学校一の美人でもここまで綺麗な瞳はしていないと思う。いつもその目に少しだけドキリとしてしまうのだが、恥ずかしいので誰にも言わない。
 学校から帰ると、母親が抱擁してくれる。それは愛の証だ。父親がは会社から戻ってくると俺を抱擁してくれる。これも愛の証だ。俺がテストで失敗した時、母親は優しく言ってくれた。
 「お母さんは伊都志がテストが出来ても出来なくても、成功しても失敗しても、どんな伊都志であっても大好きよ」
 父親も同じようなことを言う。
 「伊都志の身体さえ無事ならいい。健康が一番だ」
 その日寝る前に、ベッドの中でふと思った。俺は世界一の幸せ者だ、と。だってこんなに愛されているんだから。
 その時アイツのことが頭に浮かんだ。アイツは親からぐらいは愛されているんだろうか。アイツはいつも身体に痣をつけている。話を聞くと毎晩アイツの家から夫婦喧嘩の声が聞こえてくるらしい。それでもあんな綺麗な瞳をするのだから、アイツは大した奴だ。
 「愛してる」
 それは母への思い。
 「愛してる」
 それは父への思い。
 「愛してる」
 それは皆への思い。
 皆から愛されてるんだから、俺も皆が大好きだ。だが、その中にアイツは入っているのだろうか。要するに俺はアイツを愛しているのだろうか。
 そんな事を考えながら、俺は眠りについた。

 次の日目覚めると俺は伊都志ではなくなっていた。目を開けた途端自分が拓也なる別の存在になっていて、それに沿うように世界が変わっていることを認識した。
 一階に降りると俺の母親でない母親がいて、俺の父親でない父親がいた。彼らの口癖も「愛してる」であることは想像に固くなかったが、彼らの愛のこもった視線を撥ね退けるように俺はその家を飛び出した。
 学校へ行った時、当然ながら俺は愛されてなかった。伊都志こそいなかったが、同じような存在が皆の愛を集めていて、それらは俺に向けられていなかった。だから思わず叫んでしまった。
 「俺だよ、伊都志だよ!」
 皆の反応はもちろん冷たいものだった。俺は自分が伊都志であることを説明したが、誰一人話を聞いてくれなかった。耐え切れなくなって俺はそこから逃げ出した。行き先は伊都志の家だった。
 伊都志は存在しなかったが、伊都志の両親は存在した。家も自分が住んでいたのと同じ家だった。インターホンを鳴らすと母親が出てきた。抱きつきたい衝動を抑えて俺はまた叫んだ。
 「母さん、俺だよ! 伊都志だよ」
 当然母親の反応はクラスメートとまったく同じものだった。俺は必死に言葉を紡いだ。
 「そんな顔するなよ! 確かに俺は今拓也だけどさ。信じられないかもしれないけど伊都志だったんだよ!」
 伊都志なんて子はうちにはいません、と言われただけだった。いつの間にか涙が頬をつたっていた。喉の奥から震える声を絞り出しても、それが母親に届いていないのは明白だった。
 「だって母さん言ったじゃん! どんな伊都志であっても大好きだって。俺は今拓也だけど、伊都志なんだよ!」
 そこでドアが閉じられた。愛の証はドアに挟まれて砕け散った。「あ」という声がどこにも届かずに浮遊した。俺は気づいてしまった。
 もし子供が別の所に生まれていたら愛することはないということを。両親が愛していたのは俺ではなく「伊都志」だったということを。いや伊都志とかそういう問題ではなく、親は自分の息子というその殻だけを愛しているということを。いや親だけでなく全ての人間は他の人間の皮だけしか見ていないことを。その意味で本当の愛なんてこの世にはないということを————
 ぽん、と肩に手がのせられた。振り向くと知らない中年の男が何も言わず立っていた。最初俺はポカンとしていたが、すぐあることに気がついた。涙の溜まった俺の目を見つめる、そのすべてを包み込むような優しい瞳は紛れも無くアイツのものだった。
 「おはよう。君は今日元気ないね」
 その瞳が愛しくて愛しくて、俺は男——アイツを見つめ続けた。アイツも優しく俺を見つめてくれた。そしてアイツは呟いた。
 「愛してる」
 いつも嫌悪してきたそのセリフがもううれしくてうれしくて、俺はうずくまって泣いた。アイツはそんな俺をその優しい瞳で見ていた。俺の父親だった奴が帰ってきて俺たちを追っ払うまでそのままだった。
 二人で公演のベンチに座り、月を静かに眺めた。月から目を話すとアイツと目が合った。
 「お前を愛してるよ」
 「君を愛してる」
 俺はアイツを愛していたが、肉欲を感じなかった。抱きしめたいとも思わなかった。それはアイツが中年の男だからとかそういうのではなくて、ただ単に肉体なんて、いや存在なんてどうでもいいと、今になって思えてきたからだった。
 やっと気づいた。
 愛している。ただそれだけでいいんだと。
 その日はベンチで二人で寝ることにした。次の日目覚めたらきっとまた別の存在になっているだろう。それでもきっと俺は世界一の幸せ者だ。だってこんなに愛されているんだから。

 ・・・

 ある科学者は不思議な細胞を発見した。とある二つの細胞だけ他には見られない特殊な動きをしていたのだ。それらの細胞はそのうち消滅し、二度と同じようなものは現れなかった。ある猟師はイノシシを撃ち殺した。不思議なことにその瞬間近くにあった杉の木が一瞬で枯れて倒れたという。ある漁師が釣った鯛を食べた所、地球の反対側のくじらが息絶えた。ある家で飼っていた犬とカナリアが一晩で性格がガラリと変わったという話がある。ある学者は地球と月の動きのデータのうち一日分だけ違和感を感じた。ある天体観測者は二つの超新星爆発を同時に観測した——

 ・・・

 「純粋な愛なんて存在しないと思ってた」
 俺はアイツにそう語りかけた。アイツは黙って聞いていた。これまで俺たちは様々な存在になってきていたが、二人が意思疎通出来る機会は非常に少なかった。今回はその奇跡みたいな機会のうちの一つだった。
 「人間は、他の人を愛するときはその殻を好きになる。そんなの純愛でもなんでもない。親子の愛ですら純愛じゃなかった」
 アイツは頷いた。
 「でも俺はお前がどんな存在であっても愛してるし、きっとお前もそうだろう」
 アイツはまた頷いた。
 「俺は幸せだよ。多分この世界で唯一の純愛をすることができたんだから」
 だから俺は呟き続ける。嘘の愛でなく、純粋なる真なる愛を。
 他の何者でもない「I」から、他の何者でもない「you」へ。
 その口癖が、愛の証。


トップに戻る