「わたしたち、別れましょう」
 その言葉が離婚を意味するのだと気づくのに、数秒かかった。
「えっ」
 今、なんて?その言葉を吐く寸前で飲み込む。冗談や聞き間違いではない、とわかる。佐都子の顔つきはいたって神妙で、そのまっすぐな視線はこちらの覚悟を試すように透き通っていた。
「なんで?」
 苦笑いが溢れる。想定外の事態には、凡庸な言葉しか出てこない。自分が大いに動揺しているのがわかった。
「もう十分だから。それに、もう限界だと思う」
 佐都子は悪びれない。出会ってからこの方、一度も悪びれたことがない。あるわけがない。この女には悪意がない。
「飽きたってことか?おれに」
「満ち足りたという意味なら、そうね」
 なんで?頭の中で繰り返した。結婚して五年で、夫に満足して、それでどうして、離れようという結論に至るのだ。
「いつまでがいい?」
 これは猶予だ。佐都子にしてみれば今すぐに出ていってもいいのだろう。しかし、私に時間をくれようとしている。決断には時間が必要だ。
「一週間くれ」
 口にしてから考える。一週間で何ができる?
「一週間ね。一週間後の今日、正午にここを出ていくわ。そのつもりで」
 佐都子は悪びれない。ただ自分が思うとおりに、適切な判断を下していくだけだ。


 佐都子に救われた日のことを思い出す。
 彼女には私を救う気などなかったのだが、結果として私は命を拾った。

「どこに行くの?」
 はじめは面倒な奴に見つかったと思った。三つ編みの女が、不思議そうに私を見下ろしている。
「おれの勝手だろう」
「聞くのも、わたしの勝手よね。いつも塾でしょ?なんで駅に向かってるの」
 私が通っていた高校は進学校だった。多くの生徒は学校以外に何かしらの学習手段を持っていて、私もその一人だったが、須藤佐都子は違った。
 最低限の勉強だけをして好成績を取り、それを鼻にかけようともしない、いけ好かない女だった。
「なら、答えないのもおれの勝手だ」
「いいよ。勝手についてくから」
 ついてこられては困る。だが、追い払ったところで素直に引いてくれそうもない。私は、この場では黙認しておいて、どこかで撒くのがいいと考えた。
「いったい何のつもりだ。おれについてきて、なにか面白いのか?」
 電車に乗ると、佐都子は当然のように私の隣に腰掛ける。鬱陶しさを感じるが、興味もあった。
 何の目的、何の意味があって私に同行しようと思ったのかが気になったのだ。
 佐都子が私を見る。心の内を計るようにして、見詰める。
「死ぬ気なんでしょ?」
「…なんで」
 わかったんだ?後半は言葉にならなかった。


「なんでわかったんだ?あの時、おれが死にたがっていたと」
ぼんやりと天井を眺め、隣に寝転がる佐都子に尋ねる。佐都子がこちらを見た気がする。
「何日か前から、あなたの目が変わっていたから」
「どんなふうに?」
「誰に対しても無関心で、投げやりな目をしていたわ」
 不意に天井の模様が、無数の眼球に見えてくる。等間隔に並んだその目玉は、何も見ていない。この世のありとあらゆる物体や現象に価値などない。そう言いたげだ。
「何もかもがどうでもよく見えるほど、あなたは自由を渇望していたのね」
 きっと私もあんな目をしていたんだな。


「自由になりたかったんだよ」
 私たちは四つ先の駅で降りた。このあたりは山に囲まれ、住宅や商店はまばらだ。私はここで自殺をしようと計画していたのだ。
「過去形なのね」
「無理だとわかったからさ。結局、おれは飼い馴らされるためだけの存在だとわかってしまった」
 言わなくてもいいことが口をついて出てくる。やはり私は、投げやりになっていたのだろう。
「おれは漫画家になりたかったんだ。小さい頃からの夢だ」
「ならないの?」
「親に話したら、なんて言ったと思う?『そんなくだらないことに時間を使うな。おまえは弁護士の器だ』と言ったんだよ。それで毎日塾通い。もう嫌だ」
 佐都子は眉を顰めたが、口を開こうとはしない。
「くだらないかどうかは、おれが決めるんだよ。おれに言わせれば、この世こそが無価値さ」

 山の麓の小さな物置に入った。何年放置されているのか、物置の中は埃にまみれて、窓も壁板もいつ壊れるかわからないくらい劣化している。
「ここで死ぬ。もういいだろ。帰ってくれ」
 ロープを取り出す。縊死だ。溺死は嫌だった。飛び降りは考えたが、目立ちたがりだと思われるのは本意ではない。
「帰らないわ」
 睨みをきかせても、佐都子には柳に風、のれんに腕押しだ。腕を組み、入口近くに陣取る。
「…止めても無駄だ」
「止めないわ。あなたの死を見届けにきたの」
「見届けに?」
 思わず聞き返す。
「本当に死ぬ覚悟があるんだったら、誰が見ていようが同じでしょ。不自由で無価値な世界から、切り離されるだけなら」
 冗談や聞き間違いではないらしい。その声は、挑発しているようにも聞こえた。それにしては、彼女の眼差しはやけにまっすぐで、私の心を見極めるように貫いていた。


「君は変わらないな」
 朝陽が差し込む中、佐都子は緑茶を入れている。彼女は紅茶もコーヒーも飲めない。だから我が家の朝には、いつも緑茶が並ぶ。
「程度が人より小さいだけだと思うわ」
「いや、時折おれに向けるその試すような眼差しは、出会った頃からずっと変わらない」
 佐都子の顔つきをじっと見る。確かめていく。本人は素知らぬ顔だ。
「あの頃のことを考えているの?」
「夢に見るほどね」
 ここ数日間はずっと、あの日を思い出していた。あの日の出来事を、私はまだ過去にできない。
「着替えないの?」
「仕事は休みをとった。最後くらい、一緒に過ごしてくれよ」
 佐都子は、しばらく不思議そうにこちらを眺めていたが、やがて頷いた。
「そうね。最後だからね」


「君はどう思うんだ」
「何について?」
 佐都子がまた透き通った目でこちらを見据える。これは質問ではない。念押しだ、とわかる。
「今おれが、ここで死ぬことについてだ」
 よろしい。確認するように、佐都子は頷く。
「愚かだと思うわ」
 一瞬、がっくりくる。そうだよな。死ぬことには意味がない、ってか?
 生憎だったな、生きることにも意味はない。
「だってあなたは今も縛られているもの」
 えっ?
 こめかみが蠕動する。
「生を拒んで死を迎え入れたところで、逃げられない。逃げるのを諦めただけ。不自由に縛られたくないから死ぬというなら、その思考こそが縛られているのよ」
 これは説得ではない。真意だ、とわかる。
「漫画家になるという夢も捨てることになる。縛られて生きようが、縛られて死のうが一緒よ。それで自由が手に入るなんて、勘違いだと思うわ。死にたい人は死ぬ。生きたい人は生きるだけ。そこに自由の拠なんてないわ」
 佐都子は悪びれない。善意も悪意もない。私が死のうが生きようが構わない。
「ところでさ」
「なんだよ」
 真剣な面持ちから急に明るい顔になって、佐都子が切り出す。もう言いたいことは言った。そんな顔だ。
「そこの駅の食堂、お茶が美味しいんだよね。死ぬ前に飲んでいかない?」
「はあ?」
「もしくは、さっさと死んじゃってよ」
 これは冗談だ、とわかる。それも、ユーモアのない人間がきっと初めて言う冗談だ。
 はあ、なんてことだ。
 決心したつもりだったのになあ。
 彼女の中に、自由が見えてしまった。


「あまりに馬鹿馬鹿しくて、死ぬ気も失せちまったよ」
 乾いた土を踏みしめて立つ。あの物置小屋は、もう撤去されたらしい。山も岩壁が崩落し、半分は禿げている。
「違うよ。そうじゃない」
 風に流された髪を、佐都子は指で梳く。
「わたしに意見を求めた時点で、死にたいと思っているあなたは、たぶんいなかったんだと思う」
「そうだな。君は正直だったからな」
「なに、それ」
「自分の中の真実を隠さない君の態度に、おれは憧れたんだ」
 私と佐都子の間を、風が吹き抜けていく。
「佐都子、あの時の答えは出たか?」
 佐都子は応えない。


「自由ってなんだと思う?」
 結婚式の前日、私は佐都子に尋ねた。
「さあ。不自由だったことがないから。あなたはどう思うの?」
「おれもわからない。自由だったことがないからな」
 佐都子の手を取る。
「これから、ふたりで見つけよう。じゃないと、あの時死ななかった意味がない」
 そう言って彼女の手に指輪を通すと、佐都子は指を見つめ、眉を顰めた。
「普段は外していてもいい?窮屈だから」


「これから、どうやっていくんだ?」
 一週間が経った。
 佐都子は、家どころか、夫婦の財産さえもほとんど私のところに置いていくという。身一つで出て行くというのだ。
「しばらくはパートでもしながら放浪かな。飽きてきたら、漫画家でも目指すわ」
 言うと佐都子は帽子の鍔を掴んでかぶり直す。その白い帽子は、彼女のお気に入りだ。
「デビューしたら、せいぜい悔しがってね」
 冗談ではないとわかる。だが、少しだけ楽しんでいるように見えた。
「じゃあね、時田くん。元気で」
「ああ。じゃあな」
 道の向こうに、女の細い影が消えていくのを見届けると、私は背を向けた。
「ねえ!」
 不意に大きな声で呼び止められる。今までに聞いたこともないくらいの大声だ。振り向くと、佐都子が曲がり角から顔を出していた。
「自由ってね、手放すことだと思うよ!」


 時田くんへ

 わたしは勝手な人間です。
 あなたがわたしを好いてくれているのはもちろん知っているし、わたしも好きなんだけど。
 でも、別れたくなっちゃったから。許してね。
 それに、こうしないとあなたはいつまでも、自由に縛られたままだから。
 少し考えるのをやめにしたら?
 離婚届が必要になったら、いつでも言ってね。
 
 須藤佐都子


 リビングに残された置き手紙に気づく。
 なるわけないだろ。おれは君に気に入られたくて、今まで生きてきたんだぜ。
 でもまあ、手放すのが自由だというなら、しょうがないよな。
 君はそうやって、大事なものも、思考も、人でさえも、悪びれずに切り離して生きていくのだろう。
 なんていけ好かない女だ。素直で自由でいけ好かない、最高の女だ。


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