目が覚めたのは三度目のアラームでした。しかも一時間おきにセットしておいた。夏休みに入ってまだ一週間も経っていないにもかかわらず、私は持ち前の怠けぐせを存分に発揮し、こうして惰眠を貪っているのでした。敵の襲来を告げるサイレンの如きアラーム音を振動付きで健気に鳴らし続けるスマートフォンに手を伸ばして、目覚ましOFF。時刻は午前九時。昨日は十一時に起きたから、かなりの進歩です。大きく伸びをしてから、布団から芋虫の様にのそのそと這い出て窓へと向かい、カーテンを開けたその瞬間、それまで私を頑なに布団に縛り付けていた眠気が吹き飛びました。
 「やぁ、僕は……」
 カーテンレールが壊れてしまいそうな勢いでカーテンを閉める私。カーテンの向こう、この格安アパートの一室に申し訳程度に付いているベランダにいたのは、真っ赤な目をした白い猫のような小動物だったのです。両耳の根本から生えた腕の様なものには金の輪っかがあり、背中には丸い赤の円。いかにも人畜無害でマスコットキャラクターのような愛嬌のある顔。間違いなくアイツでした。
 「落ち着け、私」
 わざとそう口に出して立ち上がり、私は流し場で水を一杯飲みました。思っている以上に私の頭は夏休みでボケてしまっているようです。さっきのは見間違いだったことを確認する為に、意を決して再びカーテンをオープン。
 「ひどいなぁ。挨拶もしないうちに閉めるなんて」
 全然見間違いではありませんでした。全然嬉しくありませんけど。ぼけている方がまだマシでした。朝起きて早々気落ちする私を気にすることなく、白猫は言いました。
 「とりあえず部屋に入れてくれないかい?」
 「はぁ」
 盛大にため息をついて私は窓を少し開き、渋々白猫を部屋に招き入れてあげました。これが夢だったなら……と思いましたが、それはそれで残念な夢な気もします。生意気にも布団の上にちょこんと座る猫に向かい合うようにして私も正座しました。
 「僕の名前は九太。君は?」
 畜生に名乗る名前などないのですけれど、ここは素直に答えておくのが吉でしょう。
 「羽地 霖です」
 「早速だけど、霖、僕と……」
 「お断りです」
 即答でした。まずちゃんと明確な意思表示をする。玄関での勧誘を断る時の基本ですね。話はそこから。ドアを閉められる前にいかに売り込むかは、勧誘員の腕の見せ所でもあります(経験者談)。
 「まだ何も言ってないのだけど」
 「分かっているので大丈夫ですよ」
 「いや、そういう意味じゃなくて」
 相手は数々のうら若き乙女達を失意のどん底に陥れてきたアイツなのです。僅かでも付け入る隙を見せてしまったが最後、一生を棒に振ってしまう可能性だってあるのです。聞く耳持たぬな態度は当然でしょう。とはいえこのままではほんの少し可哀想なので、こちらから話を振ってみることにしました。決してつまらないからという訳ではないですよ?
 「それで、九太さんは契約をせがみに来たんですよね?よろしければ契約書なんかを見せて欲しいのですけれど」
 「つれないなぁ。分かったよ。冗談はこれくらいにする」
 そう言って白猫が飛び跳ねた瞬間、風船が割れたような音がして、真っ白のパーカーに深い青のジーンズを着た少年が現れました。
 「まぁ」
 「面白半分にアニメのキャラに化けてみたけど、もうちょっと化ける相手を選ぶべきだったかな」
 目の前で頭を掻く少年。中々、端整で可愛らしい顔をしています。
 「あなたは、何者なのです?」
 「化け狐だよ。」
 「化け狐?」
 「この星の概念で言えば……ね。化け狐って言い方が一番近いと思う」
 化け狐ですか。これはあの腐れ外道の方がまだマシだったかもしれません。面倒くささ的に。
 「それで、化け狐さんは何がお望みで?」
 「ご飯を分けて下さい。お願いします」
 「やです」
 「ええぇ」
 甘い。考えが甘過ぎます。ちょっと現実離れした相手だからって、おいそれと施しを与える程、苦学生は甘くないのです。朝飯を奢ってあげる余裕なんてこれっぽっちもないのです。なんせ家賃を滞納している身分なのですから。というか誰かお金下さい、お願いします。
 「そんなぁ」
 「相手を間違えましたね」
 「この二日間飯にありつけなくて腹ペコなんだ。頼むよ」
 「そうですね……土下座したら考えなくもないですよ」
 小学校高学年くらいの子に土下座を要求する大学生。かなり大人気ない構図ですが、これくらい当然でしょう。大体、餓鬼は嫌……失礼。子供は苦手なのです。
 「うぬぅ、しょうがないか」
 少年はしっかりと膝を合わせて正座をし、手で綺麗な正三角形を作り、布団に額をピッタリとつけて
 「どうかご飯を分けていただけないでしょうか」
 とよく通る声で言いました。正真正銘完璧な土下座でした。分かりやすく表すとこんな感じ“orz”です。非の打ち所がありません。若干、慣れている感じがあるのが気になりますが。幼い少年のいたいけな様子に心苦しくなった……わけではなく、普通に満足した私は
 「よろしい。少し待ってて下さいね」
 と言ってキッチンへと向かいました。錆びてボロボロになったトースターに二枚の食パンを放り込み、冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎます。三十秒後、ボクシングの試合開始のゴングのような音が鳴り、焼けたパンを何も塗ることなく皿の上に乗せて朝食完成。想定されていた年数より遥かに長い使用年月によって独自の進化を遂げたトースターは、明らかに規格外の熱量を発するので、食パンなんてこんなに早く焼けてしまうのです。うらやましいでしょう?あなたのトースターと交換しませんか?
 「そこの丸テーブルを立てて下さい」
 少年が立てた三脚の小さな丸テーブルに私はパンと牛乳を置きました。
 「どうぞ」
 「ありがとう」
 二人向かい合うようにして座り、簡素な朝食が始まりました。パン食べてるだけですけど。私だってそれくらい本当は分かっています。
 「あの言いづらいんだけど」
 「何でしょう?」
 「何かジャム的なものとかは……」
 「あんなもの邪道です。素材本来の味を殺してしまいます。塗ればその味がするのなら、別にパンでなくともよいわけで」
 そう、別にお金が勿体ないわけではないわけで。私は壁に貼ってある“清貧”と書いた紙を一瞥しました。ケチとは違うのですよ、ケチとは。
 「牛乳のコップが一つなのは……」
 「何か言いました?」
 「何でもありません」
 牛乳は栄養価が高いんですよ?値段も。スーパーで安売りされていたパサパサの食パンを貪り、乾いた口に冷たい牛乳を流し込んで完食。ご馳走様をして、さっさと皿を片付けます。
 「それで、九ちゃんはどうやって暮らしてるんです?」
 自分を人外だと主張する少年に私は訪ねました。まぁ実際この目で見てしまったわけで、彼が普通でないことは確かに本当なのですが、それならなおのこと聞きたいことは色々出てきます。
 「九ちゃんて……別にいいけど」
 まさか九兵衛なんて呼ぶわけにもいかないでしょう。
 「勝手気ままに生活してるよ。動物に化ければ人間から餌を貰えたりするし、時には商品を盜んだり……ね。住むとこだって高望みしなければ色々あるし」
 九ちゃん、中々私の憧れるような生活をしていらっしゃいます。
 「今日はたまたま飯にありつけてなかっただけ。もちろん、霖には感謝してるよ」
 殊勝な態度は評価に値しますが、私の明日の分の朝ご飯が無くなったのですから感謝されないと困ります。
 「それにしても、霖は驚かないんだね。僕が化け狐だって聞いても」
 それに関してはちゃんとした理由があります。私のバイト先である、小粋なオカマの店長が経営するバーは、何やら昔から時空間事象平面が歪んでいる土地にあって色々な世界と繋がっているようで、たまに異世界の住民が行き来するので、九ちゃんのような不可思議には少し耐性があるのです。私が望まずとも。因みに実は店の土地の特殊性については店長もよく知らなかったりするので、異世界の住民とか何とか言っても結構おざなりな対応だったりします。他にもこの店のように時空が歪んでいる場所は存在するらしいですが、別段知りたくもないので割愛させていただきます。私だって好きでこんな中二病設定に足首を突っ込んでいるわけではないのです。
 「事実は小説よりも奇なりですよ、九ちゃん」
 ぽかんとした表情を浮かべる九ちゃん。それっぽいことを言えば適当に反応してくれると思ったのですが、考えが甘かったようですね。自分の失言に軽い自己嫌悪に陥っていると、突然玄関の横の壁に掛かっている受話器が鳴り始めました。みるみる血の気が引いていき、真っ青になる私。
 「なになに?どうしたの?」
 急に顔色が悪くなった私を見て不安そうな九ちゃんを尻目に、私は立ち上がって恐怖の到来を告げる受話器を取りました。運命に立ち向かう勇者はこんな気持ちだったんでしょうかね。いや、むしろ敗北が決定している最終決戦に望む魔王でしょうか。
 「もしもし?」
 相手はもう分かっています。このアパートには各部屋の同じ位置に受話器があって、大家さんの部屋といつでも通話できるようになっているのです。いつでも、です。
 「もしもし。霖さん?今時間あります?」
 ありませんと言いたい所ですが、嘘が通じる相手ではないことは重々承知しています。
 「はい」
 「じゃあ、私の部屋に来て下さい。早急に」
 「分かりました」
 受話器を戻し、うなだれる私。“訳が分からないよ”という顔をしている九ちゃんに、わざわざ詳細を説明する気力もないので、お願いだけしちゃうことにしました。
 「九ちゃん、大家さんに呼び出されてしまいました。一人では心細いので猫に化けて見守っていてくれませんか?」
 「うん、いいよ」
 九ちゃんは二つ返事で白猫に化けてくれました。もちろん、普通の白猫です。私はパジャマのままで部屋を出ました。大家さんは早急にと念を押していたので、事は一分一秒を争うのです。決して着替えるのが面倒くさいわけではないのです。
 私が部屋を借りている、格安アパート“秋風荘”は、一階と二階に四部屋づつの計八部屋から成る古い建物で、各部屋はトイレ風呂小さなベランダ付きの1LDKとなっています。日本の聖地秋葉原へ歩いて十五分程のところにあり、はじめの頃はそのありがたみがちっとも分からなかったのですが、最近になってほんの少し嬉しく思えるようになりました。住民は多種多様な面々が集まっているものの、皆歳が近いからか仲が良く、居心地の良いかなり幸せな生活をリーズナブルな値段でエンジョイさせてもらっています。私の部屋は204号室で二階にあり、大家さんの101号室は一階にあるので、外付けの階段を降りなければなりません。一段降りる度に軋んだ音を立てる金属製の階段を下り、101号室の前で深く深呼吸。意を決して、呼び鈴を鳴らします。
 「はーい。どうぞー」
 安っぽい鐘の音が鳴るのとほぼ同時に返事が返ってきました。九ちゃんと目を合わせてから、私はゆっくりとドアを開けました。
 「上がって上がって……って、猫?」
 大家さんが九ちゃんを見て、驚いた様子でそう言いました。
 「何か懐かれてしまって」
 嘘ではありません。飯で釣ったのかと問われれば、頷くしかありませんけど。
 「そうなんだ。まぁいいや。どうぞ」
 さして九ちゃんを気に留めることなく、大家さんは私に座布団を渡しました。
 「あっ、とそうだった。ごめん、ちょっと待ってて」
 座布団にピシッと正座する私に、大家さんはそう言って隣の個室に入っていきました。大家さんの101号室とその上にある201号室の二部屋は、他の部屋よりも少し広く、小さな個室が加えられている特別仕様なのです。因みに、201号室には京乃祐一と京乃玲奈の兄妹が住んでいるのですが、その部屋の広さ(とはいえ他の部屋より少し広いだけですが)から秋風荘の住民達の集会所として使われていたりします。用事を終えたらしい大家さんが、向かい合うようにして正座しました。
 真っ赤な髪に、色白の肌、真紅の瞳。ジーパンと白シャツに、緑に赤のラインが入ったジャケット(何処かの軍服の改造品らしいです)を羽織るといういつもの格好。この方が、格安で部屋を提供してくれるとともに個性豊かな住民達をきっちり統率する、秋風荘の大家さんのアキさんです。本名不明(偽名が覚え切れないほどあります)、歳も不明(見たところ二十代前半です)、職業不明(殺し屋なんて噂もあったりします)という一切素性の分からない女性なのですが、ちゃんとアパートの皆のことを考えてくれて何かと助けてくれたりするので信頼できる人物であることは確かです。壁に掛かっているアサルトライフルやら拳銃やらは多分偽物でしょう。最近のモデルガンは金属光沢すら完璧に再現出来ちゃうのです……多分。
 「それで、霖さんを呼んだのは、他でもない家賃のことなのだけど」
 「はい」
 ええ、存じ上げておりますとも。
 「今の所、二ヶ月分滞納してるんだけど、今払える?」
 「ごめんなさい、今は無理なんです」
 私は躊躇なく床に頭をつけて謝りました。さっき調子に乗って九ちゃんに土下座なんてさせるんじゃなかったですね。後悔先に立たず。しかし、謝って済む話なら精一杯謝るのが筋というもの。
 「いや、無理とか言われても私は出ていってとしか言えないんだけど」
 謝って済みませんでした。謝り損です。
 「そこを何とか」
 「まぁそんなことだろうと思って、今回もこっちで仕事用意したから。少しは返済の足しになるようにね。私だって霖さんが学費生活費その他諸々稼ぐために、普段から結構バイト入れてること分かってるし」
 アキさんは私の家賃の返済が危うくなるとどこからかツテで仕事を仕入れてくれるのです。短期間で高給料の仕事を。しかも何故か私がちゃんと時間がある時に。時間の割合的に高給料とはいえ仕事内容はやはりハードで、詳しいことはここでは語れませんが、前回は恥ずかしながら素で泣きそうになった記憶があります。バイトではなく仕事というのがみそです。それでもありがたい話であることには変わりませんが。
 「それで、仕事とは?」
 「あるビジネスホテルの清掃員」
 「お断り……っ、もがっ」
 「ん?」
 最後まで言えなかったのは、アキさんが電光石火で腰にぶら下げているコルトガバメントを抜き、私の口に天使のような笑顔でその銃口を突っ込んだからです。これも極めて精巧なモデルガン……であって欲しい。
 「やります。喜んでやらせていただきます」
 口をあんぐり開けたままなんとかそう言うと、アキさんはガバメントを仕舞ってくれました。
 「じゃあこれ、詳細を書いた書類だから、よく目を通しておいてね。頑張って」
 「サー、イエッサー」
 ビシッと敬礼をして私は部屋を出ました。予想通りの結果となりました。ホテルの清掃員とか、絶対掃除だけやらされるはずがないでしょう。接待サービスでロシアンルーレットとかやらされちゃうかもしれません、いや、脱衣麻雀とか……なんて被害妄想を膨らませながら階段を上がり、自分の部屋に着きました。ふと足元を見ると、九ちゃんがドアを見て不思議そうな顔をしていました。おそらく、鍵穴が見当たらないからでしょう。
 「ああ、鍵は要らないんですよ。ノブに指紋認証が付いてるんです」
 そう言って私はノブを握りました。センサーが私の指紋を検知し鍵が開きます。そのままノブを捻ってドアを開け、九ちゃんを招き入れてから私も中へ。この機能、アキさんが何となくで付けたらしいです。色々突っ込みどころ満載ですが、意外と便利なので住民達は割と素直に受け入れています。指紋認証がうまく行かない場合、レーザー光による網膜パターン認証も出来るそうです。私はまだ未経験ですが。
 「はぁ、どうしたものですかね」
 本日何度目かのため息をついて、私は布団に座り込みました。私に運命に抗う力が無い以上、どうするもこうするもないわけですが。
 「霖も大変だね」
 “も”って言われました。畜生と一緒にしないでいただきたい。今となっては本物のインキュベ何とかの方が良かった気もします。喜んで魔法少女に転職してやりますとも。願いは夢もへったくれもない億万長者とかで。変身後の衣装は金ピカ成金仕様で。
 「三日間ですか。前回よりはマシみたいですね……」
 私は渡された書類に目を通しました。一週間を覚悟してたのですが、思っていた程ハードではない模様。
 「……あれ?九ちゃん、今日って何日でしたっけ?」
 「○○日だよ」
 「これって今日からじゃないですかぁ!!」
 予定時刻まであと三十分。移動時間を考慮すると今すぐ出なければ間に合いません。大急ぎで支度をし部屋を出ます。
 「僕も付いて行っていい?」
 「お好きにどうぞ」
 こうして私は九ちゃんと秋風荘をあとにしました。



 大手有名企業の本社ビルが乱立するビジネス街の最寄り駅から歩いて五分のところにそれはありました。○○ホテル。私がこれから数日間お世話にならざるおえない場所。日本各地に展開しているそこそこ名の知られた安さが売りのビジネスホテルです。今更ですが、この物語は実在の人物、団体、既存の作品、その他諸々とは一切関係がないはずです。ご了承を。
 「パッと見はホテルと気付かないデザインですね」
 数色の単色でシンプルに仕上げられた外装は、控えめなお洒落といった印象で中々好感が持てます。内装も似たような雰囲気のようで、何だか頑張れそうな気がしてきました。まともそうという意味で。全く関係ないのですがスマフォって凄い便利ですね。カーナビ以上の精度で、建物単位で目的地ヘと案内してくれるのですもの。
 「さすがにこのままじゃ入れないよね」
 足元でお座りをしている九ちゃんが言いました。何食わぬ顔で改札を通り抜け電車に乗り、ここまでずっと私に付いて来た白猫が言う台詞ではないような……でもまぁ確かにホテルに猫が入るのはまずいでしょう。それ以上にまずいのが、猫と普通に会話してる私なのですが。
 「待ってますか?」
 「いや、それじゃ面白くないよ。ちょっと違うものに化けてみる」
 別に会ったばかりの他人を楽しませるために私生活を晒す程、私は生粋のエンターティナーではないのですけどね。九ちゃんは周りに人がいないのを再度確認すると、大きく跳び上がって破裂音とともに今度は小さな髪留めに変身しました。私は掌に乗ったそれをしげしげと眺めます。
 「これでどう?」
 髪留めから声が聞こえて少々気色悪いですが、派手な装飾が一切ない、ワンポイントアクセントにピッタリなデザインは評価に値します。ただ……。
 「お上手じゃないですか。だけど、ちょっと重すぎやしませんかね?」
 そう、このヘヤピン、猫一匹くらいの重さがあるのです。平気なフリもそろそろ限界で、道端に投げ捨てたい衝動に駆られます。
 「ああごめん。質量を調整するの忘れてた」
 九ちゃん、当たり前のように衝撃発言を炸裂させました。世に溢れる法則の数多くは、未だ発見されていない想像の域を超えた例外を含んでいるものなのかもしれません。ふと、“私はこの子を何処かの怪しげな研究組織に提供すれば一生遊んで暮らせるのでは?”という邪念が頭をよぎりましたが、よぎっただけでした。ヘヤピンはすぐにヘヤピンの重さになりました(混乱中)。
 「じゃあ、行きましょうか」
 私はヘヤピンを付けてホテルに入りました。なんだかんだと言いながら、たとえ見知らぬ人外でも一緒にいてくれると心強いのです。外人じゃないですよ?
 「いらっしゃいませ」
 入り口のすぐそばにあるフロントにいる受付の女の子が声をかけてきました。おそらくまだ二十歳をむかえていないであろう彼女の、太陽のような営業スマイルに臆せず立ち向かいます。
 「あのー、今日から数日間ここで働くことになっている、羽地 霖と申します」
 「ああっ!ちょっと待ってて。谷田部さーん」
 呼ばれて出てきたのは黒のスーツをきっちり着た、いかにもホテルのボーイ風情の男性でした。歳は見た感じ二十代後半。特別厳しそうでもなく優しそうでもない、普通の印象です。私も嬉しくも悲しくもありません。
 「ここ、○○ホテル○○駅前店の支配人の谷田部です。よろしく。こちらへどうぞ」
 ○が多くて見苦しいかと思いますがどうかご了承下さい。谷田部さんに通されたのは、フロントの奥にある“staff only”と書かれている扉の向こう側でした。早くもホテル裏側的なものを見せられてしまった気分です。こっちも心の準備というものがあるでしょうに。
 「座って座って」
 明るくて開放的なロビーとは対照的に、控室は薄暗くて狭く、正直窮屈でした。もちろん、お客様が使う空間を出来るだけ広くする為に、職員の使うスペースが最小限に抑えられるのは至極納得のいく話ではありますが、狭すぎやしませんかね。床には各々の職員達の荷物がまとめられていて、それだけで部屋の半分を占めています。ボロい小さな丸椅子に座って、私同様言い方を少し変えれば味のある椅子に座っている谷田部さんと向かい合います。
 「よく来てくれた。実は先日スタッフの一人が倒れてしまってね。助っ人を探していたんだ。まさか大学生が来るとは思わなかったけど」
 何故倒れたのかは聞かない方が身の為でしょう。平凡な大学二年生に務まる仕事だとよいのですが。そしてこういう仕事を、一小市民でしかない私に、簡単に回すことのできるアキさんの人脈とは何なのでしょうね。
 「それで、私は何をすれば?」
 「まずは清掃を手伝ってくれないかい?服やら道具やらはもう準備してあるから」
 渡されたのは水色のつなぎと、目にしたこともない多種多様な道具がぶら下がったベルトでした。私もこれでそこいらのビルなどで見かける掃除のプロの一員になるのですね。そして聞き間違いじゃなければ、“まずは”って言いましたね、谷田部さん。気になりまくりなんですが。
 「着替えたら、外階段を上がって二階に行ってくれ。あとは朴(パク)さんが教えてくれる」
 「あの、一つ質問が。支配人」
 「谷田部でいいよ」
 支配人って一回言ってみたかったんです。
 「谷田部さん、着替えは何処で?」
 「この部屋で。すまないけどロッカー室とか無いんだ。じゃあ、頼んだよ」
 ですよね。不平不満を言っていても仕方がないのでさっさと着替えることにします。作業用つなぎは、バイトその他で何度も着たことがあるので、戸惑うことなく着替えられました。女子として嬉しくも何ともないですけれど。手荷物のハンドバックの口のチャックをしっかり閉め、ミニ南京錠を掛けます。これまでの経験則でこういう仕事場では荷物に鍵を掛けるのが大切だと痛い程思い知っているからです。自分が変な奴であることは認めますが、これは変の判断基準に入れないでいただきたい。
 つなぎと同じ色をしたキャップを被り、控室を出て外階段から二階へ。ここまで来る途中に読んだ資料によれば、このホテルは十一階建てのビルで、二階から十階までの各階には八部屋の客室があり、一階はロビーと朝食時のバイキングの食堂も兼ねているとか。敷地自体は狭いのですがその分を高さで補う典型的な都心の建物の構造ですね。宿泊には朝食がオプションではなくもとからついていて、洗濯機と乾燥機が各二台づつの小規模ながらコインランドリーもあって、中々ビジネスマンには魅力的な仕様になっています。
 せっせと階段を駆け上がり、二階に着きました。荷物もないのにエレベーターという文明の利器を使って、たかが一階分の位置エネルギーを肩代わりしてもらうことなど、清掃員には許されていないのです。フロアの真ん中を人二人が並ぶと肩がぶつかる程度の狭い廊下が突っ切るように伸びていて、その両側に四部屋づつ客室が並んでいます。階段横のエレベーターの前に立っていた男性が話しかけてきました。もちろん私と同じつなぎを着ています。ユニフォームとは不思議なもので、ただ服装が同じというだけで仲間意識が芽生えてきます。
 「遅かったナ。さっさと済ませるネ。タイムイズマネ。ついてこい」
 朴さん、予想通り中国の方でした。別にだからといって何か不都合なわけではありませんよ?私が気になっているのは、日本語が微妙に上手なくせに人への接し方が少々雑な朴さんという一個人であって、別に中国人が嫌いとは一言も申しておりません。誤解なきよう。ところで、都会の飲食店やコンビニは外国の方の店員さんが多いですよね。九州のど田舎から上京してきた当初は、軽いカルチャー(?)ショックを受けました。他にも小さい頃から慣れ親しんだ飲み物が無かったりと色々衝撃を受けたのですが、長くなりそうなのでまたの機会に。
 「ドアはマスターキーで開けるネ」
 そう言って朴さんは201号室の鍵を開け、中に入りました。ノックなしとか。確かにドアノブには“掃除しないで下さい”というプレートはかけられていませんでしたが、さすがにノックぐらいしましょうよ。悲鳴がなかったということは、部屋の主はちゃんと外出中だったみたいですが。
 「いつもなら、二人デ各々別の部屋をクリーンして回るガ、リンには任せられないネ。一緒に回ってサポートやってもらうヨ。よいカ?」
 「はい」
 言われた通り、朴さんに付いて回りその作業を手伝うことにします。まずはベットに向かい、シーツ交換。朴さん、さすがというか、ものの数秒でシーツを皺ひとつないあの状態に仕上げました。ベットメイキングの真髄を見た気がします。一応コツを教えてもらったので、家で練習……できたらいいですね。
 次にバスルームに移ります。このホテルも例に漏れずユニットバスになっていて小さなトイレにバスタブ、流し場がセットになっています。無言でユニットバスと流し場の掃除を始める朴さん。これはトイレ掃除を任されたと受け取っていいのでしょうか。いいんですよね?やれってことですよね?自分の部屋を掃除する要領で私はトイレを掃除し始めました。便座にヒーターが付いているのを見る限り、私の部屋にあるのと比べて幾分上等な代物らしく、少々腹立たしさを覚えながらも便器を磨いていきます。時折朴さんがこちらに視線をよこしてきますが、何も指摘してこないのでおそらく私の清掃法は間違ってはいないのでしょう。そんなこんなでハイピッチで作業は進み(盗み見した限り、朴さんの作業量は私の半分もなかった気がしますが……気のせいですよね)、バスタオル等の日用品の交換も終わって、十分もしない内に私達は201号室の清掃を終えました。これは案外いけるかも?
 「最後に、コノ名札カードをデスクに置いて完成ネ」
 そう言って朴さんが“今日の清掃は 朴 が担当しました。ごゆっくりおくつろぎ下さい”と書かれた安っぽいカードを机の上に置いて私達は部屋を出ました。
 「さ、ガンガン次行くヨ」
 「あの、朴さん。一つ聞きたいのですが」
 「何カ?」
 「私達は何部屋担当してるのでしょう?」
 「二十四部屋。三階分ネ。大体一階ヲ一時間で済ませるカラ、計三時間クリーンヨ」
 うぅ。全然いけそうじゃありませんでした。このハイペースをぶっ続け三時間とか。しかもこの後も雑用を回されるであろうことを考慮すれば、中々の重労働です。
 「次行くヨ、次」
 朴さんがマスターキーで鍵を開け、202号室へと入ります。もうノックをしないのは気にならなくなりました。先ほどと全く同じ工程を済ませ(もちろんトイレは私がやりました)、使用済みの日用品を入れ替える段階になって、朴さんが衝撃の行動にうってでました。歯ブラシと歯磨き粉のセットが未使用であるのを確認すると、本来替えずにそのままにしておくべき替えの歯ブラシセットを自分のポケットに入れたのです。
 「いやいやいや、それはマズいでしょう!普通にそれ窃盗ですよ!」
 「歯ブラシを交換しただけダガ?」
 この男、あくまで歯ブラシを新しいものに入れ替えたと主張するつもりのようです。まあ、別にいいですけどね。ばれるわけでもなし。ただ、朴さんの行動を見るに、このホテルが“ECOを目指した環境に優しいLOHASなHOTEL”を名乗るのは間違っている気がします。
 「それじゃ、次行くネ」
 今度は“今日の清掃は 霖 が担当しました。……”と書かれたカードを置いて、私達は部屋を後にしました。朴と霖、不覚にも名前だけはぴったりのコンビなような。
 203号室は“掃除要らないよ!(意訳)”のプレートがドアノブに掛かっていたのでスルーすると思いきや、朴さん何か袋をドアノブに掛けて行きました。
 「今のは何ですか?」
 「バスタオルとか交換ガ必要なモノが入った袋ネ。部屋に入れないカラ、自分で取り替えてもらうヨ」
 なるほど、そういうシステムになっているわけですか。ほんの少しだけ賢くなりました。204号室も“掃除要らないよ!”を期待したのですが、ドアノブには見事に何も引っかかっていなかったので、ノック無しで突撃。無言で制圧していきます。
 「さてト……」
 掃除も日用品交換も終えた後で、朴さんがおもむろに部屋を物色し始めました。そしておもむろに冷蔵庫を開き、中にあった食べかけのお菓子の袋からおもむろに一つを取り出して、おもむろに口に放り込みました。何なんでしょうね、この余裕。
 「朴さん、それも普通に犯罪ですよ」
 「ここの部屋ハ子連れだたネ。一個ぐらい無くなってモ、バレなイ」
 宿泊客を把握してるのは分かりますが、悪用しないでいただきたい。議論しても勝てる気がしないので忠告だけしといてあげました。
 「そんなことして、変なの食べて食あたり起こしても知りませんよ」
 「明白了」
 「はい?」
 「承知シタ。霖は中国語ヤってないのカ?」
 残念ながら私の選択した第二外国語はスペイン語です。第一志望は中国語だったのですが、志願者が多すぎて抽選になり、見事に落ちた私は、第二志望のスペイン語をやる羽目になったのです。今となってはどうでもいい話ですが。朴さんが今度も私の名札カードを置いて、部屋を出ました。
 405号室。やっとこさこの階の半分が終わったことになります。先は長い……ため息を堪え、私はずっと気になっていたことを朴さんに訊ねました。
 「あの、マスターキーって言ってましたけど……」
 このホテルはドアノブの上側についたセンサーにカードをかざすことで鍵が開くようになっています。
 「どこからどう見てもそれ、Suicaですよね?」
 そう、朴さんが毎度かざしているのはSuica(モノレール仕様)なのです。改札を通り抜ける時に使うアレですよ、アレ。
 「細かいことは気にすんなヤ」
 普通にイラッとしましたが、心当たりはあるような気もするので何も言い返しませんでした。手95、口5ぐらいの割合で淡々と掃除を進めていきます。
 それからは特に問題なく……なかったわけではないですが(主に朴さんの行動が)、何とか三階分二十四部屋の清掃を終えることが出来ました。十一階の倉庫に道具その他をしまい、一階へと帰ります。もちろん階段で。この時点で時刻は午後一時。予定通りといえばそれまでですが、明日もこの調子でいけるかどうか。不安を胸にひとまず受付で弁当を受け取ったものの、食べる場所で困っていると、朴さんに袖を引っ張られました。
 「飯は皆屋上で食うネ」
 「なるほど」
 早速外階段を上がろうとする私に、朴さんが待ったを掛けました。
 「霖はジュース買わないのカ?」
 このホテルには一階にしか自販機はないのです。そして私はお金がないのです。
 「節約ですよ、節約」
 「タダでもカ?」
 「ん?」
 朴さん、紙コップ式の自販機に近寄り、何やら操作を始めました。一番上の列の左隅のボタンと一番下の列の右隅のボタンを長押しし、すべてのボタンが点灯したのを確認すると、今度は真ん中の列の右から二番目、上の列の左から三番目、下の列の真ん中のボタンを順に押していきます。操作が終了すると全ボタンが再び点灯しました。
 「これでオッケーネ」
 朴さんがブラックコーヒーのボタンを押すと、当然のように紙コップが落ちてきてコーヒーが注がれました。もちろんお金は入れていません。
 「は?」
 溢れる疑問はひとまず胸にとどめておき、私はアイスレモンティーのボタンを押しました。無料でジュースを頂くのが先でしょう。朴さんが先程の操作を繰り返すと、自販機は元の通りに戻りました。紅茶に満足し階段を上ろうとした私ですが、朴さんの“谷田部がいなかったから大丈夫ネ”という言葉に甘えてエレベーターを使わせていただきました。エレベーターで上がっている途中で聞いた朴さんの説明によると、一階の紙コップの自販機は朝食の時間だけ無料になるのですが、偶然(あくまで偶然です)朴さんが自販機を無料にするモードに変更するコマンドを谷田部さんが入力しているのを見かけたらしく、きっちり暗記したのだとか。口止め料としてタダジュースを貰っている身分で何も言えないのですが、人間って強いなって思いました。
 十一階でエレベーターを降り、外階段で屋上へと上がりました。屋上はちゃんと四方をフェンスで囲まれていて、転落の心配はなさそうです。屋上の半分ほどの面積にプラスチック製の安っぽい屋根があり、その下に同じくプラスチック製のベンチが並べて置いてあって、既に他の清掃員や事務員の方々が座って昼食をとっていました。強い日差しを避けるように私達も屋根の下に避難します。
 「ところで朴さん」
 「何カ?」
 黙々と弁当を食べ進める朴さんに私は訊ねました。
 「あなた、自分がヤバいことした部屋には皆私のカードを置いていきましたよね?」
 そうなのです。後から気づきましたが、朴さんはつまみ食いその他規格外の行動をした部屋では、“今日の清掃は 霖 が担当しました。……”のカードを置いていったのです。
 「気のせいヨ」
 朴さん、こちらを見向きもせずにそう言いました。
 「はぁ……」
 今日も暑いなぁ。夏休みは始まったばかり。ため息……。清掃は終わったものの、また別の仕事が回ってくるはずです。先は長い。私はご飯粒一つ残さずに弁当を平らげ、一階に向かいました……エレベーターで。

次回に続く


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