「正義と悪の境目とはなんだろうか?」
朝一番に、柿本が詰め寄ってくる。田辺がどこかで息をつこうとすると、必ず現れて妨げるのがこの男だ。
「また小説か?」
「そうだが、別にそこに限った話じゃなくてな。お前の感覚を聞きたいんだ」
柿本悠一は傲慢だ。無遠慮で、マイペースで、自分に都合のいいところだけを持って行こうとする。昔から何一つ変わらない、勝手な男だ。
「私は現実の世界には、正義も悪も存在しないと思うぞ」
「ほう?」
「小説だったら、どの視点から描かれるかで決めることはできるがな。それだって、ひっくり返すのは簡単だ」
田辺理香子は誠実だ。機嫌が悪くても、聞かれたことには答えてしまう。だから柿本につけこまれるのだろうとわかってはいるが、今更直す気にもなれない。それに、そうしなければ自分の中の自信という自信が消え失せてしまう気がしていた。
「すべては捉え方次第だってことかい」
「有り体に言うとそうだ」
「なんか、お前にしては普通だな」
「普通なんだよ。感覚にズレはあれど、誰もが普通の人間として生まれてくるんだよ。そこにいいも悪いもないって話だ」
「でも世の中にはいいヤツと悪いヤツがいると思うけどなあ」
「それは、都合がいいか悪いかという話であって、それを人を測るものさしにするのは傲慢だろう」
「でた!『傲慢』!」
鬼の首をとったかのように喜ぶ柿本。この男は隙あらば田辺の発する言葉を分析して面白がっている。
「決め台詞じゃない。適切な言葉を選んだら、そうなるだけだ」
「でも、言葉の選び方ってのはどうしてもニュートラルにはならないからな。そりゃ、お前が傲慢に対して敏感な証だろ」
「それはそうだろうな。それに、枠にはめてしまえば楽だと思ってもいるんだろう」
「とはいえ、俺の匙加減で善も悪も自由自在となると、それはそれで困るんだよな」
田辺は一瞬、戸惑った。どこまで会話が戻ったのか。柿本は相手の話を簡単に遮る。そして自分が頭のなかで展開させていたことを、脈絡もなくポンと出してくる。
「俺が筆を動かしてやっている以上、キャラクターのあり方が俺に決められるのは、まあしょうがない。でも、人形にしたくはないからな」
「まあ確かに、どうせ作者の掌の上だと感じさせられてしまうのは、つまらないな」
「キャラクターってのはさ、そりゃ虚構だといえばそれまでなんだけど、でも、実在する人間と同じように、他人の心を動かす力を持たなきゃいけないと思うんだ。こいつは見た目がかわいいとか、パワーがあるとか、そういう次元じゃなくてさ。それこそ、目の前に本当にそのキャラがいるかと錯覚させるような。人生を変える作品ってのは、そういうもんだと思うんだ」
「それが正義の話とどうつながるんだ?」
柿本が自分に酔い始めると始末に負えない。危険を察知した田辺は、早々と軌道を戻す。
「んー。お前の言うとおり、いい悪いなんて観念的なもんで、境界線なんて曖昧なんだろう。そしたら、俺は何を肯定すればいいんだろうな、って思ってさ」
「さっきので言えば、肯定するのはお前じゃなくて、それを受け取る人間なんじゃないか?他人の人生を変えるったって、そんなもの、制御なんてできまい」
「だからって、たまたまにぶちあたるのを待つのは悔しいじゃないか」
「まあ、まずは書くことだな。そういうことは書くときに、フル回転で考えろよ。できてきたら、ダメ出しくらいはしてやるよ」
田辺は立ち上がる。貴重な昼休みを、柿本に付き合って潰すわけにはいかない。
「最後にも一個」
「なんだよ」
「お前からしたら、俺は善かい?悪かい?」
「都合がいいかどうかで言えば、悪に決まっている」
「おいおい、ゴーマンだぜ、そりゃ」
「冗談だよ」
柿本は笑う。田辺が冗談を言うという事実そのものを、笑っているように見えた。
「そんな境界線は、誰もが越える力を持っているだろう。結局、良かぶるか、悪ぶるか、ということなんじゃないか?」
「普通だな」
「普通なんだよ。それがすべてだ」
そう言うと、田辺理香子は歩き出す。もうどんな声を掛けても、振り向きはしないだろう。
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