思いあたる節はないのだけど。

 どうやら私はあなたとの境目を忘れてしまったらしい。

 語り手と読み手。
 客観と主観。
 アルファとフォロワー。
 役者と観客。
 僕と世界。

 あそうだ。ちょっと戯れに付き合ってよ。
 当てっこ。あなたと私が別れた日を。


1,
 最初にあなたと別れたのは、もしかしたらあの日。
 私が息を止めて、母の胎内から頭を突き出したあの瞬間。
 だってそうでしょう?その直前まであなたと私はたったひとつだった。お母さんのお腹の中。誰もいない私とあなたはへその緒でそれこそ本当に繋がっていた。十月十日の神様。光あれなんて言ったのかもしれないけれど。世界なんてなかった。外なんてなかった。だけど誕生日が来て。私達は別々になってしまった。

"Hello, world!!!"

 私はきっと泣いた。あなたから引き剥がされて。痛くて苦しくて怖くて悲しくて。
 この世の果てに対峙した。その名前は孤独。
 吸える限りの空気をすべて悲しみに吐き出した。
 たったひとりの私だったあなたに向けて。


2,
 ちょっと待って。もしかしたらあの日かしら。
 私の顔についていた口という器官が物を食べるためだけのものじゃないと気付いた日。
 泣き声を上げて何かを訴えるだけじゃないと気付いた日。
 きっと悲しいくらいに望んだのだ。
 隣にいる女に。想いを伝えたいと。
 伝わらないぐずりでも形にならないうめきでもない。
 欲求以上の複雑でシステマティックな愛を込めて。
 ママと呼びたかったのだ。

"Hello, word!!!"

 その日、私の世界は幾千もの細々とした概念に分割された。
 頭上に広がるあの大きな何かを。私は『青』でもなく『宇宙』でもなく『空』と呼んだ。
 周りを取り囲むすべてを。『コンクリート』でもなく『ビル』でもなく『街』と呼んだ。
 私の感情は無限の比喩表現パターンに開かれ、私の意識はすべての人類と共有される言語空間の大海原に帆を張った。
 名前を呼んだ。
「お母さん、お父さん。そして——」

 あなた。


3,
 あー、待って待って。今のナシやっぱり違う。あの日よ。あの日でしょう?間違いないわ。
 この世界が私のものでないと知った時。
 この世界にいる他人という得体のしれない人々が私と同じように考え、苦しみ、笑い、それなのに、この世界がその人たちのものでもないと知った時。
 あなたでさえ世界ではない。誰もこの世界ではない。みんな小さな私でしかない。誰もがあたり前に死んで、誰も生き延びたいけど誰もが善人であれない。
 この世界は限られているから。

"Hello, war!!!"

 私はあなたたちに敵対した。私と同等の、同じ高さに立つ、屠るべき人間と認識した。
 世界は私のものではない。
 だけど私はそれでも私のために世界を変えようとしなくてはならない。
 だってお腹は減るし、痛いのは嫌だから。
 あなた=世界はやっぱり私ではなかった。


0,
 だけど、それでも私は。
 悲しかったのだ。あなたが泣けば。
 嬉しかったのだ。あなたが笑えば。
 どうしてかしら。私は戸惑う。あなたはもう私じゃない。私はあなたから私を守らないといけない。だからきっと敵なのに。
 それはきっと昔の記憶。あなたの中に残った私の欠片。
 私はティースプーンの先に残るしずくほどのあなたの中の私を通じて、あなたともう一度繋がる。
 あなたを思いやり、愛し、共に歩める。

 あなたとの境目。

 死ぬとき。きっと私とあなたはまたひとつになるだろう。世界はまた私の中に戻るのだろう。あなたの中に私は還るのだろう。でもその日が待ちきれないくらいに、あなたと私は繋がってしまっている。
 変えようのない事実。理解し合える。想像できる。共有できる。

"Hello, wonder."

 あなたへ。
 かつて私だった愛すべき世界よ。
 
 
 これからもよろしく。


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