「うーん」
重い瞼を持ち上げ、瞳だけを動かして周りを見る。空はまだ薄暗く、静けさだけが辺りに漂っていた。ここは何処だ?後ろを見ようと寝返りを打つとすぐ横に女の顔があった。やや丸みを帯びた可愛らしい寝顔。所々跳ねた明るい茶色の髪。
「うわっ」
びっくりして思わず飛び起きた。布団がわりかぶっていたのであろうダンボールが風に飛ばされて行く。冴えない脳みそを叩き起こし、一気にフル回転させる。ここは駅のホームで、昨日は確かどっかの屋台で飲んで、それから……。
「は〜」
女が目を覚ました。目を擦りながら俺と同じように上半身を起こす。そのまま大きく伸びをして、何もできないでいる俺に気付いた。暫く目を合わせた状態が続いたあと、女が口を開いた。
「おはようございます」
「おはようございます」
困惑する俺とは対照的に、女は落ち着いて腕につけた小さな時計で時間を確認し始めた。
「あの〜どちら様でしょうか?」
「えっ?覚えてないのか?昨日あんな事やこんな事をした仲なのに?」
目を丸くする女。アニメのキャラクターみたいなハイトーンボイス。いやいやいや、まさかね。真っ白になりそうな頭をなんとか持ち直し、記憶を必死に辿る。そうだった。俺は昨日会社をクビになって、ムシャクシャして屋台で飲んでいた時にコイツが隣にいたんだ。そんで一緒に飲んでいるうちにすっかり意気投合して、終電に間に合わずそのままこんなところで寝たんだ。というか会社をクビになったなんて思い出したくなかった。うなだれる俺を見て女が言った。
「思い出したか?」
「ああ。余計な事まで全部な」
「じゃあ、問題。私の名前は何でしょう?」
うん?思い出せないぞ。地面の振動で電車が近付いてるのが分かる。首を捻る俺を尻目に女が立ち上がり、迷彩柄のつなぎをぱんぱんと払った。ちょうど扉が前にくるように止まった電車へと歩き始める。
「ちょっと!」
立ち上がって呼び止めようとする俺を見向きもせずに、女は電車へと乗り込みこう言った。
「そんじゃ、また後でな。コータ」
遠ざかる電車をただ茫然としながら俺は見送った。
「暑い……」
額から噴き出す汗をタオルで拭いながらそう愚痴をこぼす俺を、サラリーマンが急ぎ足で追い越して行った。真夏の太陽は手加減というものを知らないようで、滝のような汗でびしょ濡れのシャツなんてお構い無しに、容赦無く照りつけていた。赤信号。溜め息が漏れる。
会社をクビになった俺は、面倒見の良い部長が紹介してくれた新しい仕事場(仮)へ、面接を受けに向かっているのだった。ひとまずアパートに戻り、飯とシャワーを済ませてまた出たのが十時だったから、かれこれ四十分近く経っていることになる。
信号が変わった。人の波に逆らわない様に横断歩道を渡る。地図によるともうすぐ着くはず……それにしても朝の女は何者だったのだろう?
大通りから少し脇道に逸れた所にある小さなビルの二階にそれはあった。傾いた看板には“古宮私立探偵事務所”と書いてある。詳しいことを聞こうとすると部長が苦笑いで誤魔化した理由が分かった。探偵事務所って。目の前が真っ暗になるとはこのことかとか思いながら、俺は階段を上がった。果たして探偵に私立も公立もあるのかという疑問はさておき、ネクタイを締め直し、木製の古臭いドアに手をかける。深呼吸をしドアを開けようとしたその時、勝手にノブが回った。慌てて身を引こうとしたが間に合うはずも無く、開くドアが俺の顔面に直撃した。
「痛っ」
「ごっごめんなさい!」
おそらく腫れるまでにはいたらないものの赤くなっているであろうおでこをさすりながら、声の主を確認すると、何と朝の女だった。今度は迷彩柄ではなくジーンズ地のつなぎを着ている。向こうも俺だと気づいたのか、丁寧な言葉遣いをすっぱりやめて、
「何だコータか。遅かったな。そら、入れ入れ」
と半開きだったドアを全開にして、俺を中へと招き入れた。
「何でお前が……」
「いーからいーから。後は所長が説明してくれる。じゃ、面接頑張れよ」
渋る俺を強引に中へ押し込むと、女は入れ替わるように外に出ていった。閉まるドア。階段を降りる足音。遠ざかる軽快な口笛。展開の早さについていけていない頭を整理する。そうだ、俺は面接に来たのだ。落ちれば無職。絶体絶命の状況の中用意されたたった一つの逃げ道。動揺してはいけない。
事務所は長方形の広くも狭くもない部屋で、手前にはおそらく来客用と思われるテーブルとソファ、奥にはオフィスでよく見る金属製の灰色の大きなデスクとその後ろの壁に窓があった。通りに面した右側面の壁には開け放たれた二つの窓が、左側面には三つのドアがあるが、多分トイレや給湯室であろう。乳白色の壁は所々煤けて、木張りの床はくすんでほとんど黒に近い茶色になっているが、けしてボロいという印象はなく、歩んできた年月をほのかに訴えていた。居心地の良さが空気で分かってしまう、そんな雰囲気。
「お、来たか。そこのパイプ椅子を取って机の前に来てくれ」
奥のデスクに座っていた男がそう言って壁に立てかけていたパイプ椅子を指さした。この男が所長なのだろう。言われるままに椅子を取り机の前に座る。
「俺がこの事務所の経営者の、古宮竜司だ。よろしく」
「長谷康太です。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げながら、息をそっと吐いて心を落ち着かせる。というのも竜司さんの風貌に内心怯んでしまっていたからだ。年は五十代前半と部長から聞いてはいたが、白髪をオールバック気味にしていて、眼光は獣のように鋭く、皺が少したたまれた顔はよく見ると大小様々な無数の傷が。肘までまくり上げた白のシャツに黒のネクタイ、同じく黒のズボンを履いている。年のせいか身体は少し細めではあるが、けっして弱々しいわけではなく、ちゃんと鍛えられて引き締まっているのがうかがえる。分かりやすく……というより身も蓋もない言い方をすれば、いかにもヤクザの組長なイメージの人だ。
「まぁ、面接と言っても適当に質問振って色々確認するだけだから、落ち着いて答えてくれ」
「はい」
頷く俺に竜司さんは机の上に置いてあった書類を手に取り、淡々とした口調で始めた。
「長谷康太、二十一歳。家族構成は父、母、高校二年生の妹の四人。高校卒業後、大学には行かず家を離れてサラリーマンに。二年近く誠実に働き、その熱心さや仕事ぶりから周囲からの評価は高く、上司からもかわいがられていたが、今年入った有能な新入社員達に押され、あえなく解雇と」
警察の取り調べを受けているような気分だった。受けたことはないが。会社をクビになったなんて他人から改めて聞かされると、溜め息が出そうになった。まぁ、会社としても大学も出ていない若手社員なんて、使えるか使えないか早急に判断し見切りをつけることが大事なのは重々承知しているが、それでも割り切れないものはある。俯く俺に竜司さんは続けた。
「一般教養は十分あり本なんかも多少は読んでいる、と前原から聞いているが、これは本当か?」
「は、はい」
前原というのはこの事務所を紹介してくれた部長である。俺だって人並みには知識は持っているという自負はある。
「体任せの業務もきっちりこなしてきてるな。体力は問題なし……か。喧嘩は強いか?」
「それなりには」
母校である地元の公立高校は、俺も含め、よろしいとは言い切れない頭を持った連中が集うような高校だったので、血が伴う喧嘩は日常茶飯事だった。
「よし、採用」
「はい?」
「だから採用だって」
「えっいや、その、もっとこう……」
「これ以上確認することはない。前原とは昔色々あってな。あいつが嘘を書くこたぁないし、実際に会って俺はお前が俺の必要としている人材であることを確認できた。まぁ、俺の人を見る目が信用ならないなら話は別だが」
そう言って竜司さんは引き出しから年季の入った焦げ茶色のパイプを取り出して、煙をくゆらせた。座り心地のよさそうな革張りの椅子に寄り掛かり悠々と煙を吐く姿は、似合い過ぎていて映画でも見ているようである。
「そんなことはないですけど……」
動揺しながらも、必要と言われてどこか誇らしげな自分が少し恥ずかしい。
「だったら……いや、ちょっと待て。このまま少し遊んでみるか」
竜司さんは背もたれに預けていた身を起こし、再び書類を手に取った。
「長谷。お前、童貞だろ」
「は、はい?」
図星だった。
「シスコン、とまではいかないが、妹との仲は良い」
「そっそれは」
これも正解。
「付き合った女はこれまでで二人」
「ちょっと待ってください!そんなことまで把握してるんですか?」
思わず立ち上がり、机の方へ身を乗り出す俺。見事三問連続正解を果たした竜司さんは
「探偵をなめるなよ」
と言うと、再びパイプを咥えた。煙が風の流れにそって、デスクの後ろ側にある窓から外へ出ていく。恐るべし探偵。他にも何か重大な秘密を握られているのではないかと、あれこれ思索していると、竜司さんが笑いながら言った。
「なんてな。冗談だ」
「びっくりさせないで下さいよー」
ほっとしてパイプ椅子に座り直した俺だが、すぐに安心するのはまだ早いことに気が付いた。冗談だとしても、何故あんなことを言い当てられたんだ?
「調べようと思えば調べられるが、調べるメリットが無いからな。さっきのは全部推測だ」
「推測?」
興味津々な俺を喜ぶように、竜司さんは説明を始めた。
「一個目の質問は、正解率は半々と読んでいた。前原から、お前は前の会社に入社してすぐに仕送りを止めてもらったりしていたことなんかを聞いていたから、中々の真面目な孝行息子だと判断できるし、出身校はまぁ……荒れていないとは言えないが、そういう学校ほど社会に出てから真面目な奴は大概高校時代から真面目だからな。一線は守るというか。会社に入ってからはチャンスは無かっただろう。社内恋愛は何かと面倒だし、新入社員には生活や今後の不安が尽きないから精神的余裕もない。何より相手を探しにコンパその他に出席する時間がない。熱心に働いていたお前なら尚更だ」
頷く俺に竜司さんは続ける。
「とはいえ、いくらお前が真面目だと推理しても、お前が童貞であることの理由としては弱い。ああいうのはやるときゃやるもんだからな。だから正解率は半々。はずれる可能性も高かったわけだ」
「でも、それなら何でわざわざ最初に言ったんですか?もっと分の良い賭けの方が……」
「別に正解が目的じゃなかったからだ。あの質問はいわばつかみみたいなもの。相手の意識をこちらの対話にもっていくためのな。そのためにはある程度自分と相手の両者に共通する身近な話題が必要だが、見ての通り俺とお前は年が大きく離れている。だからあんなことを言ったわけだ。あの手の話はジェネレーションギャップが生まれにくいし、掘り下げるのも流すのもどっちにも持って行きやすいからな。不正解ならそれでよし、正解ならイニシアティブをとったも同然。さっきのお前を思い出せば分かるだろう?」
「なるほど」
素直に説明に聞き入ってしまう俺。いつの間にか竜司さんのいかつい風貌も気にならなくなっている。
「二つ目の質問は、正解率八割ってところか」
「当てないといけないからですね?」
「そうだ。あそこで当てないと興が削がれてしまう。ま、資料を使ってそれっぽく確実な質問にしても良かったが、たかが遊びだしそれじゃあ俺が面白くない。だからある程度自信がある推測にした」
「根拠は何だったんです?皆目見当がつかないんですけど」
妹との関係なんて初対面の人に言い当てられるものなのだろうか。
「まず最初に、俺が持っているお前の妹に関する情報は、地元の俗に進学校と呼ばれる公立高校に通っている二年生だということだけだと断っておく。これから予想出来るのは、お前と妹との関係は特別仲が良いか、悪いかのどちらかだということ。有名大学に進学、その後就職を考えている高校生にとって、卒業すればいいだけの高校に行ってすぐに就職した兄は、多少なりとも不甲斐なく感じるだろう。しかしながら高校生ともなれば、そんなことも含めて折り合いをつけて付き合えるだけの大人になっていることもある。だから兄妹仲は良好か不良のどちらかというわけだ。あくまで予想ではあるがな。年の差も四つってことを考慮すればこれに”特に”がつく。年が離れてると、親密になるほど離れにくく、一旦距離が開くと近付くのは難しくなるからな。」
もっともな意見だと俺は思った。俺の同僚の中で、俺と似たような家族構成の奴は確かに皆兄妹仲は特に良い、悪いの二極化していたからだ。
「ここまで目星をつけておいて……いや、直接言ったほうが早いな。長谷、そのネクタイ、妹からのプレゼントだろ?貰ったのは多分、この前のお前の誕生日」
竜司さんは俺のネクタイを指差して言った。大正解だった。紛れもなくこれは、先日の誕生日に妹から貰ったものだ。
「あってますけど、何で分かったんですか?」
「まず、ロゴからネクタイのメーカーを判断した。そのメーカーは高くも安くもない程良い価格帯で、フォーマルな場にもつけていけるレベルのクオリティを持つネクタイが売りの、若い社会人に人気のブランドだ。少し背伸びすれば高校生にも十分買える代物だし、プレゼントにネクタイはありきたりだからせめてブランド物をと思う妹には丁度いい」
「でも、プレゼントとは限らないじゃないですか?俺が自分で買ったかもしれないし。それに、両親からのプレゼントかもしれない」
そこで竜司さんは煙を吐いて一呼吸置いた。
「プレゼントかどうかはすぐに分かる。その色はプレゼントとして買わないと手に入らない限定色だ」
俺は妹からこのネクタイを貰うときにそのようなことを言っていたのを思い出した。
「後は妹が渡したかどうかだが……長谷、そのネクタイを貰った時どう思った?」
「どうって、嬉しいとしか。強いて言えば、もう少し控え目な色だったら良かったなとは思いましたけど」
俺は自分の首にぶら下がっているそれを見ながら言った。アクアブルーとでも言うべき鮮やかな水色に、青系統の色でチェックが入っている。縁をなぞるように紺色でステッチも入っていて芸が細かく、お洒落な感じがそれとなく出ている。確かに、会社につけて行くのを一瞬躊躇う代物ではある。ま、まだ若いんだからいいかと思うような。
「そう、若い奴には気にならないかもしれないが、歳をそれなりに食ってる奴には正直抵抗がある色だ。プレゼントとはいえお前のご両親が買うのはかなり勇気が要るだろう。だから妹の物だと思った。それでお前達はプレゼントを渡すくらいの仲の良い兄妹ってわけだ。まぁ、少々強引なところもある読みだから、正解率八割ぐらい」
「じゃあ、最後の質問は?」
「完全に俺の勘で当てた。勘とはいえ、お前の大体の人物像は掴めていたから、正解率は九割。どうだ?おもしろかったか?」
竜司さんはそう言うとパイプを咥えて笑った。俺は頷いて、感心しながら言った。
「はい。ネクタイなんかでそんなことまで分かるんですね」
「人のパーソナリティなんてもんは、ネクタイに限らず色々なものから読み取れる。それはおいおい教えていくとして、とにかくお前は今からこの事務所の一員な。さてと、そろそろ美結が帰ってくるはずだが……」
竜司さんが壁にかかっている時計を見ていると、入り口のドアが勢いよく開いた。
「たっだいま〜」
つなぎ女帰還。手にはビニール袋に入った二リットルのペットボトルのお茶が二本。ドアの開け方を見るに、さっきの反省を全然していない模様。
「あいつがこの事務所のもう一人のメンバー、川原美結だ。お前と同い年」
「ミユだ。よろしくな、コータ」
事務所と言いつつ俺を含めメンバーが三人しかいないことに激しくツッコみたくなったが、ひとまず差し出された手を握り返す。
「長谷康太だ。よろしくな、美結」
身長のやや低い美結は、俺の顔を見上げるようにしてはにかんだ。幼なめの顔立ちからか、年下のように見える。
「というかお前達、知り合いだったのか?」
「昨日の夜、コータと偶然屋台で出くわしたから一緒に飲んだだけであります、所長。今度事務所に来るからってあらかじめ資料に目を通してたら、本人にばったり出会ってびっくりした」
なるほど。だから朝はあんな意味深なことを言ったのか。一人納得している俺など毛ほども気にかけていない様子の美結が、少し憎たらしい。
「そうか。さて、早速一仕事やってもらうから説明するぞ。美結、お茶を頼む」
「りょうかーい」
美結はビニール袋を持ってドアの一つに入り、しばらくすると紙コップを三つ持って出てきた。中身は先程のペットボトルのお茶だろう。三人で来客用のテーブルにつくと、向かいに座る竜司さんは説明を始めた。
「お前達にやってもらうのは飼い猫探しだ」
「飼い猫探し?」
「とある金持ちの飼い猫が失踪したから見つけ出して捕獲しろってところだ。俺は別件でちょっと用事があるから、お前達に任せる。資料は必要なものは大体揃ってるし、四、五日あれば終わるだろう」
そう言って竜司さんはテーブルに数枚の書類を広げた。横に座る美結が一枚一枚手にとって眺めているのを、横から覗き込む。目撃証言とそれを供述した人、予想される猫の大まかな行動範囲、ここら辺一帯にあるペットショップの情報など、様々な情報が載っていた。美結が繰り返し書類を行ったり来たりしながらうんうん唸っているのが気になるが、放っておくのが吉だろう。
「味気なく感じるかもしれんが、最初の仕事には丁度いいだろう。頑張れよ、長谷」
「分かりました」
やや緊張気味の俺を見て笑う竜司さん。
「それと美結、お前はちゃんと長谷に色々教えるんだぞ」
「了解であります、所長」
「じゃ、俺は出るから、後は任せた」
お茶をぐいと飲み干して出ていく竜司さんを見送って、俺は書類をファイルにまとめる美結に話しかけた。
「それで、これからどうするんだ?美結」
「先輩」
「は?」
「ミユ先輩だ、コータ」
この女……確かに同い年とはいえ立場的には上司だが、コイツに言われると何か腹立たしい。いや、こういうのは偏見っていうのかもしれない。我慢我慢。
「俺達はこれからどうするんだ?美結先輩」
美結は満足げな笑みを浮かべて答えた。デコピンしてやりたくなったが、不覚にもちょっと可愛らしいと思ってしまった自分がいるので、またの機会。
「ミユ達も出るぞ。聞き込みだ。でもその前に準備だな」
「準備?」
美結がさっき入っていったのとは別のドアを開けた。手招きされ、一緒に入ると、やや狭い控え室のようだった。荷物置き場やちょっとした鏡台がある。ただ、普通のと違うのは、元々狭い部屋の半分以上が服で一杯になっている点だ。ハンガーで掛けられている服は、作業服、スーツ、警備服から、不良向けの服、いかにもオタクな服、ホームレスを髣髴とさせる小汚い服まで多種多様で、まるで劇団の衣装部屋みたいだった。学生服とセーラー服が置いてあるのは多分気のせいだろう。よく見ると隅には小物が並べられていて、こちらもカツラ、サングラス、ヘルメット、ピアス等々バラエティに富んでいる。ランドセルが赤黒セットで並んでるのも多分気のせい。
「なんじゃこりゃ……」
「驚いたか?」
「ていうか何のためにこんなもんを?」
「必要だからだ。何でかはおいおい分かる。コータのゾーンはここからここまでな。私のはここからここ。所長はあそこ。自分の分は勝手に使っていいぞ。小物は共用」
美結が指差すのを見ると、どうやら三人それぞれの服が分けられて用意されているようだった。
「俺の分まで既に揃っちゃってるのが何か怖いんだが」
「コータが来てから揃えるんじゃ遅いからって、先に用意したんだ。サイズはちゃんとピッタリだから心配するな」
いつ俺の寸法測ったんだよというツッコミは無駄だろう。
「今日はこれとこれを使う」
美結がそう言って灰色の作業服、花屋とかで使ってそうなエプロンとシャツとジーパンのセットを、自分と俺のゾーンから一組ずつ計四組取って部屋を出た。そのまま事務所のドアを開けたところで二つの鍵を渡された。車の鍵とドアの鍵。
「これがコータの分の鍵な。ちょっと試しに閉めてみろ」
「おう」
ノブについた穴に鍵を差し込みそのまま捻ると、カチャリと乾いた音を立てて鍵が回った。油がちゃんとさしてあるのか、思ったよりスムーズだ。
「因みにピッキングとか変な真似すると、防犯センサーが作動してノブが爆発するって所長が言ってた」
「はぁ!?」
竜司さんならやりかねない。鍵をなくしたら余計なこと考えないようにしようとか思いながら、美結について階段を降りる。事務所から少し歩いたところに貸駐車場があり、そこに停めてあった一台のワゴンタイプの普通車に乗り込んだ。どうやらこれが事務所の車らしい。車の鍵は、美結のは赤外線で鍵が開け閉め出来るタイプで、先ほど渡された俺のはそんな便利機能付いていない普通の鍵だった。細かいとこに気がついてなんとなく格差を感じる己の小ささを反省しつつ、助手席に座りシートベルトを締める。
「ここの駐車場の三番と四番をウチは借りてるから、停めるときはどっちかに停めろよ」
「分かった」
美結が車を発進させた。ふと、ガラスが暗くなっていて、後ろの席の窓にはカーテンが付いているのに気が付いたが、それより気になっていたことがあったので、俺はハンドルを切る美結に訊ねた。
「なぁ、お前朝にお前の名前を俺に訊いただろ?昨日飲んだ時って、お前俺に名乗ったっけ」
「ミユ先輩」
「ぐっ、美結先輩」
先輩風をドライヤーで吹かせている様な憎たらしい……は言い過ぎにしても涼し気な顔で、美結は答えた。
「いや、名乗ってないぞ。ちょっとからかってやっただけ」
足元にあったCDケースを投げつけてやったらさぞかし気持ちがいいんだろうななんて思いつつ、俺は窓を開けた。新しい職場の先輩は中々強敵である。負けるな俺。美結はニヤニヤしながら運転を続けていたが、ふと一瞬寂しげな表情で
「昨日は……な」
と呟いたのを俺は見逃さなかった。その後は大した会話もなく、目的地に着いた。
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