一番街の喧噪を見て、今日が金曜日だったことを田中は思い出した。いわゆる花金というやつだ。もっとも田中は土日祝も会社に出向き、気まぐれのような休日を与えられる底辺の人間なので金だろうが木だろうが関係ない。たまたま二週間ぶりに貰った休暇が金曜日だったというだけの話で、もちろん飲み会なんてありやしない。普段ならば彼は一人寂しく狭苦しいアパートに帰るはずだった。
 ベンチに座る人相の悪い男を見かけたのはそんな時だった。視界にその姿がちらりと入ると、田中は驚いて振り返った。見忘れようもない二本の角。坂井以外の何者でもなかった。
 「おい坂井! 久しぶりだな!」
 ベンチに駆け寄って声をかけると、坂井はゆっくり首をあげた。そして田中を見ると目を丸くし、苦笑する。
 「……田中か。見ないうちに痩せたな」
 「ロクなもん食ってねえからな」
 最後に会ってから二年経っているが、坂井という男は悪い意味で何も変わっていなかった。痩せこけて血色の悪い顔にひょろひょろの腕。この二年よく生きていたなという姿だった。
 「ここで話すのもなんだからそこら辺の店に入んねえか?」
 「……だが」
 「分かってるって! どうせ金持ってないんだろ。俺のおごりだ」
 「……すまないな」
 正直自分の分の代金すら払えそうにないが、なにしろ二年ぶりの再会だ。飲まないわけにはいかない。近くにあった小さい店に入ると、二人はカウンターに腰掛けた。酒が入ると、無口な坂井が少しずつしゃべるようになってきた。積もる話で盛り上がってくる。聞けば坂井はこの二年ホームレスとして暮らしてきたらしい。そのうち坂井はぼそりと言った。
 「もう諦めてるんだ」
 「何を?」
 「まともに生きていくことだ」
 「生きるのにまとももクソもねえと思うけどな。てかお前は最初っからまともな生き方してねえじゃん。魔王だったし」
 坂井の頭の上に申し訳程度にのっかる角を見ながら田中は懐かしそうな顔をした。まだ坂井が「魔王」とか呼ばれていた時代、まだ田中が「勇者」とか呼ばれていた時代。魔王がホームレスに、勇者が社蓄になろうと当時誰が思っていただろうか。世界に平和とやらが戻ってきてからはこのざまである。勇者手当は統一政府が出来て三年で打ち切られた。魔王は賠償金で多額の借金を負った。
 「いっつも思うんだよな」
 田中は器に半分ほど残っているビールを喉の奥に流し込んだ。
 「俺がお前に負けていて、お前が魔王として全てを手に入れていたらさ、少なくともお前だけはこんな苦しい生活しなくてもよかったのになってな」
 坂井はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
 「それは、きっと無理だった」
 「なんでだ?」
 「覚えているか、あの戦いを。俺は何度もあんたにとどめを刺そうとした。だけどその度にあんたは助かった。ある時は仲間が突然現れて危機を救った。ある時は俺の部下が同士討ちをした。俺が『これで、終わりだ』と言ってそれで本当に終わったことなんて一度もなかったぞ」
 「そりゃお前」話を聞いていた田中が可笑しそうに口を開いた。「『フラグ』って奴だよきっと」
 「フラグ?」
 「要するにだな。そうなる運命だったんだってことだ」
 「運命……」
 「まあお前の言うとおりだ。お前は俺を殺せない。魔王が勇者にとどめを刺そうとするってこと自体フラグなんだよ。絶体絶命ってのはそれこそ『これで終わり』ってことだ。大体助かる。大体終わらない。大体絶命しない」
 「ならば俺たちが今こうなってるのも、そのフラグってやつのせいなのか?」
 「……もしかしたら、そうなのかもな」
 それきり二人は口をつぐんだ。運ばれてきた食べ物を黙々と食べる。やがて坂井はポケットから袋を取り出した。カウンターの上でひっくり返すと錠剤が何個か転がり出てきた。それをビールの中に放り込むと、泡を出して溶けていく。
 「なんだそれ」
 「いつかの最終決戦の時に持ってた自決用の薬だ。結局使わなかったが」
 「最終決戦って……何年前の薬だよそれ。大丈夫なのか?」
 「毒に消費期限もクソもない」
 「そりゃそうだが……」
 坂井は薬が溶けた器を持つ。手が少し震えていた。
 「飲むのか?」
 田中が聞くと、坂井は頷いた。
 「……何度これを飲もうとして諦めてきたことか。飲もう飲もうと思っても、これで終わると考えるとどうしても飲めなかった。……だが」
 坂井は震える手で口元に器を持ってくる。
 「今度こそ『これで終わり』にする」
 「そうか」
 「ああ、さよならだ」
 坂井はビールを口の中に流し込んだ。
 はずだった。
 急に田中がカウンターを叩き、その衝撃に驚いた坂井の手から器が外れた。カウンターに落ちた器は倒れ、薬入りビールがぶちまけられる。その状況を認識すると坂井に怒りがこみ上げてきた。つかみかかろうと田中の方を見たが、田中は坂井を見ていなかった。彼の目は部屋の隅にあるテレビに釘付けになっていた。その画面の中に坂井は懐かしい物を見た。
 「おい」
 田中が信じられい物をみたように目を見開いていた。
 「クーデター、だってよ」
 魔王の昔の手下がクーデターを起こし、しかもそれに成功したというニュースだった。政府のシンボルである建物の上にあるのは、かつて魔王城に掲げてあった旗だった。
 「まーた立っちまったようだな。フラグがよ」
 田中が笑いながら振り返った。
 「どうする? なんかリーダーを欲しがってるみたいだぞあいつら」
 しばし坂井は呆然としていた。そして急に立ち上がる。その顔にはすでに正気が戻っていた。
 「行ってくる」
 「ん? 薬を買いに行くのか?」
 「ああ。死にかけの野望を復活させる特効薬をな」
 「そうか。行ってこい」
 さっきまで死に体だった男が、元気よく店を飛び出していった。それを眺めながら田中もおもむろに立ち上がる。そしてカウンターまで行くと、レジの人に告げた。
 「大変申し訳ないが、出世払いて頼む」
 「はあ?」
 「なーにもうすぐ貰えるはずだ」
 そして田中はポケットからその役職を示すメダルを取り出し首にかけた。
 「勇者手当がよ」


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