「じゃあ、行ってくる」
「ああ、頑張れ」
「うん」
 言うと茜はニッと笑みを作る。そして僕に背を向けて歩き出し、光の中に入っていく。
 数年前なら、中指のひとつも立てられて『頑張るなんて嫌いだよ』なんて言われたもんだが。あいつも素直になったってことか、それとも大人になったのか。
 茜が舞台に立つと、空気が変わる。声こそ起こらないが、誰もが息を呑むのがわかる。期待の沈黙。圧力。
『あの感覚だけは、いつまでたっても慣れないね。恐ろしくて、震えが止まらない』
 茜がそう言っていたのを思い出す。だが、それが心地よくてたまらないのだとも言っていた。今日は、それも格別だろう。
 音楽が流れ出す。リズムが溢れ出す。それは渦となり、この場のすべての視線を、集中を、飲み込んで集めていく。すべてが茜に注がれた瞬間、彼女は大地を蹴った。

 木戸茜との出会いは7年前。僕とあいつは当時高校生。僕はなんとなく友達ができなくて、クラスで浮いていた。仲間に入れてもらおうとする行動力もなかったんで、気味悪がられ、誰とも口を利かなくなった。茜はというと、校内一の不良として名を馳せていた。頭を金色に染めあげ、女にしてはガタイもよく、愛想も最悪だったから、別の意味でみんなに避けられていた。それどころかヤンキーのグループからも敵視されて、もっともあの頃のあいつは反抗心の塊で、誰にも迎合する気はハナからなかった、という話だが。
 僕はその自由さ、一人でも平気でいられる図太さに、密かに憧れていたんだが、近づく勇気はなかった。
 それがある日、ひょんなことで顔を突き合わせることになってしまった。僕は風邪で学校を休んだ次の日、先生に呼び止められた。宿題でもあったのかと思ったが、先生の口から出たのは予想もしない言葉だった。文化祭で学校をあげておこなわれる演劇の、うちのクラスの代表のひとりに僕が選ばれたというのだ。そしてもう一人の代表が木戸茜だった。
 横暴だと思った。しかし、口答えはできなかった。僕が意見を言ったところで、耳を傾けてくれる人はうちのクラスにはいなかったからだ。僕が選ばれたのも、僕の心なら数の力で圧殺できると思ったからだろう。実際、そのとおりだった。
 青い顔で狼狽えるそんな僕の目の前に立ち、茜は平然と言い放った。
『面白えじゃん。やってやろうよ、あたしらが面白いことして盛り上げれば、それだけあいつら嫌な気分になるぜ』
 一瞬何を言われたのかわからず、戸惑う僕をよそに、茜は不敵に笑った。
『そんな顔すんなよ。あたしはもう一人があんたでよかったと思ってるんだぜ。あたしとおんなじ負け犬でね』
 不思議な感動があった。あの悪名高い木戸茜の声が意外とキレイだったこと。それから、演劇に参加するのがまんざらでもなかったこと。さらにそいつがなんと、僕を見下していなかったということ。
 あとから知った話だが、実は茜は厄介事を押しつけられたのではなく、自分から志願して参加を決めたんだそうだ。

 結局、その演劇はパッとしないものに終わり、周りを見返すなんてことにはならなかったわけだが、僕はその後の学生生活には、けっこう満足していた。仲間が見つかった、っていうわけじゃないが、やっぱり僕一人が孤独なわけじゃないとわかったし、それはそれで開き直って生きていくやつがいると知って、少しは気が楽になったんだろう。
 そんな中、高3の夏の終業式のあとで、茜に呼び止められた。
『なあ、越野さ、大学に行く気ある?』
『ああ。一応ね』
『ふーん。じゃあ、その後でいいや。大学出たらさ、劇団に入らねえ?』
 へ?
『あたし、高校出たらいくつか受けるんだ。入れたら、お前が大学出る頃には、少しは仕事もらえるようになってるはずだろ。したら、お前のこと紹介してやっから』
『な、なんで』
 唐突な話に少し驚いたが、しかし馬鹿げているとは思えなかった。劇団員として働く茜の姿は、なんとなく想像できたからだ。
『そんなん、お前と一緒にやりたいからだよ。な? また衣裳作れよな』
『分かった。いいよ』
 無責任な返事だったと思う。茜も芯から信じたわけではなさそうだった。だが、この先のことは決めていなかったし、そんな未来も悪くないと思ったんだ。
『今度は、役者がやりてえなあ。悪くはなかったもんな、あいつらの演技もよ』
 そう、悪くないはずだ。
 悪くない人生になるはずだ。

 観客席から沸きあがる拍手の嵐に見送られて、役者たちがはけてくる。
 その中から茜の姿を見つけると、彼女に駆け寄った。
「最高だったよ」
「だろ?」
 言うと茜は親指を立てて不敵に笑う。
「ちっと疲れたわ。控室まで肩貸してくれよ」
「大丈夫か?」
「力が抜けちまっただけだ。想像以上に緊張するもんだな、主役ってやつはよ」
「それこそ、俺には想像すらできんな」
「ハッ、そりゃそーだ。でもな、お前の作った衣裳も最高だったぜ。腕、あげたじゃん」
「それはどうも」
「もしガッコの奴らがいたら、目を回しちまってるぜ」
「ああ」
「ホント、お前でよかったよ。ずっとお前とやりたかったんだ。最高だ」
 息も絶え絶えな茜のそんな言葉を聞くたび、目元が潤んでくるのを感じる。ダメだ、今は耐えろ。
 控室にはすでにたくさんの人がいたが、不自然なほど静かだ。みんなが遠巻きにこちらを見ているのがわかった。
 こいつらは、先刻ご承知ってわけだ。だからって余計な気を回されても困るんだけど。
 茜を無事に椅子に座らせて、僕は自分の鞄に向かう。
「修一?」
「茜。話したいことがある」
 涙声になってしまうのを堪えて、なるべく落ち着いた声を出そうと努める。
「…うん」
 それを察してか、茜は神妙な顔つきになった。周りは薄笑いを浮かべたり、僕と同じで涙目になっていたり、ガッツポーズでこちらを見つめたり。『祝いたくて仕方がない』ってか。

 やってやるよ。

 僕はゆっくりと、彼女に歩み寄っていく。ゆっくりと。高鳴りすぎた心臓が破裂しないように。後ろ手に隠した指輪を、落っことしたりなんかしないように。


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