椿


   一

 椿という女がこの屋敷に入ってきたのは、師走の暮れ。年越しも間近という頃合いだった。若枝を力づくで折り曲げたような、眩暈を引き起こす寒さの残る晴れた雪景色の庭で、私は彼女が敷居を跨ぐ姿を盗み見た。
 濃い紫の着物の裾とその細腕に見合わないトランクを半ば引きずるように、彼女は屋敷の門から玄関までを過ぎるところであった。垣根越しに私に見えたのはからころと音を立てる小さな二つの下駄ばかりで、その足元もすぐに壁の向こうに吸われてしまった。
 程なくして女中頭の対応する声が聞こえ、それが新しくこの屋敷に住む娘であったと悟る。私はひとつ伸びをしたところで庭を眺めるにも飽き、雪ごと砂利を踏みしだいて、縁側へと上った。


 それは年末の忙しい時期にどうしても断りきれない方面から転がり込んだ急な話だったらしく、雇い主にあたる当家主人の私の父などは最初あまりいい顔もしなかったらしい。一方、女中頭はぶつくさと文句を言いながらも丁寧に仕事を教えていったようである。私とそう年も離れていないにも関わらず、あれで自分の仕事には手を抜かない女なのだ。
 椿はその翌年、干支をようやく一周りする歳であった。
 この家に奉公した女は誰もが、最初は便所や風呂場の掃除を任される。手の切れるような冷たい水でタイル張りの床を擦るそれは、彼女らにとって生まれて初めて経験する掃除という名の労働であった。というのも屋敷に奉公する人間は余程の事情がない限り中流の良家から集められていて、椿もその例に漏れずとある財閥の分家筋の子女であった。
 大抵の娘は初め、思い描いていたそれと似ても似つかない仕事に肩透かしを食らったような顔をし、その上やり方がわからず苦労を覚える。されどついに戸惑いを何処かに失くしてしまえば、いくらか仕事にも楽しみを見出し、同時に屋敷そのものにも馴染み始める。
 さて、椿という女を初めに妙だと思い始めたのは女中頭のようであった。とはいえ、その時はそう大したことではないといったように私に向かって漏らしたに過ぎなかった。
「今度入ってきた娘は坊っちゃんのことをお慕い上げているようですわね」
 私は苦笑混じりに畳まれたシャツを女中頭から半ば奪い去るようにして受け取った。勝手に衣装棚に詰め込まれても、出す時に私自身がわからなくなっては困るからだ。
「下手な兄よりも年の離れているだろうに、いったいどうして若い花が自ら枯れるような迷いに至るのだろうね」
「あら、坊っちゃんも満更ではなくて?」
 軽口のつもりが思わずぎょっとしてしまう。
「冗談は止しておくれよ。いくつの頃の話だ」
 昔の話である。たとえ末娘であれ貴族の子女ともなれば、私の顔をどこかの末席から盗み見る機会もあったのだろう。かつては私もそんな気まぐれのような思慕に一々舞い上がりもしただろうけれど、今となれば女中頭にからかわれる種に過ぎず苦々しい笑みしか浮かばない。
「あれでご心配していらっしゃるのですわ」
「何の話だ」
 女中頭はため息を吐きながら呆れたように微笑む。まるでとぼけるなとでも責め立てるようでさえあった。
「ご当主様ですよ」
 私は黙してしまう。


 私の婚約が破談になったのはもうかれこれ五年前の話だった。産まれる以前からの許嫁を目前に当の私がその縁談を断る旨を切り出したのだから、それは常識はずれな一大事であった。
 というより一大事だったはず、なのだ。されど、そう。腹を括って覚悟していたよりも私への責は少なかった。当の私としては肩透かしもいいところであったが、あとに聞いた話では腹を痛めて私を産む母にも相談せずに自分一人でさっさとその婚約を決めた父自身にとっても、向こうの家が没落しきっていた当時となってはそれは望まぬ婚姻だったらしく、息子の我が儘をこれ幸いと一気に縁切りまで持ち込んだのだとか。
 それの負い目もあってか、未だに仕事ばかりにかまけてのらりくらりと新たな縁談を断り続けている私に婚姻を強くは勧められないようであった。
 しかしこの頃、父上はどうも妙な思い違いに至ったらしい。
「坊っちゃんがその、もしや幼児性愛趣味をお持ちなのではないかと」
「さすがにそれは酷くないかい」
 言いにくそうにした女中頭には申し訳ないが、いくらなんでも心配の方向が明後日である。
 たとえその憶測が正しかったとして、それで父が赤飯も炊かない少女を屋敷に入れたなんて何処の陽の下に顔向けできよう。
 嘆息する私の横で女中頭は、用事も済んだろうに、私の部屋の火鉢をいじりつつ手持ち無沙汰に留まっていた。互いが幼かった頃を私に思い出させるその懐かしい様子は、どうも長居するつもりのようだ。
「……茶でも淹れてきたらどうかね」
「あら気が利かなくて」
 皮肉のつもりが本当に茶を取りに出ていかれて閉口した。先日来た父の客からという洋菓子まで付けられて運ばれた湯呑みは、さすがに私の分だけであった。
 甘すぎるそれに眉を潜めながら私は尋ねた。
「それでその、椿というのが良くないのかい?」
「いいえ、覚えもいいですしよく気が付いて重宝しておりましてよ」
「ならなんだ。もしや嫉妬じゃあるまいな」
 その言葉に女中頭はきょとんとした顔をした後、かまびすしく笑い始めた。私はますます気分が悪い。
「端のう御座いました」
 笑い止んでみれば、嬉しそうに顔を赤らめているのだからこの女には年月がいくら経ても敵わない。
「こんな可愛い人が独り身というのは本当に世の生娘のためになりませんでしょうね」
「うるさいな、さっさと用を足して下がったらどうだい」
 何度も手折られたとはいえ私にも残るプライドくらいある。
「そうですね、では手短に」
 彼女は昔と同じように居住まいを正し、微笑んだ。それは自業自得で困窮した私に泣きつかれた時のように。幼い私に戯れで抱かれた晩のように。

「明日から坊っちゃんのお付は椿がいたします」

 その女は、私を突き放したのだった。
「……お前がするままで良くはないのかい」
「女中らの管理は私に任されておりますから、いくら坊っちゃんの我が儘でも、しかとした理由のないままに聞き入れることはできませんわ」
 実のところ。私はその女中頭以外の小間使いに世話をされたことがなかったのだ。生まれて以来この方、ずっと側にいた彼女が身を引くということの意味がわからないほど、もう私は若くもない。
 女は私の手を取った。
 それはいつもの仕草だった。それが始まりの合図であった。
「……やめよう」
 しかし私はその手を振り払った。女中頭の口元はそれでも、平然と微笑んでいた。
「最後なら、訊かせておくれ。父ともこんな風に」
 十五であった彼女が父の寝室に通されていた光景は、ふとした瞬間に思い出されてぎょっとする。あるいは当時そんな夢を見ただけではないかと。あるいは私を誘ったのも父の言いつけであったのではないかと。
「さぁどうかしら」
 本当に敵わない。
 ため息を引き裂かれるような心に代えた。
「まぁいいさ」
 彼女は深々と頭を下げた。



   二

 俗物的に物事を考えてしまえば詰まるところ、あの女も私に呆れ果てたとでもいった所なのかもしれない。誰もがこのままふらふらと独り身を貫きそうな私の行く末を心苦しく案じているのだ。
 確かに思い返してみればその責任も、あの女中頭にまったくないとまでは言い切れないのやもしれぬ。あれこそが私に女を教え、行き過ぎるほどに甘やかし、他の女から遠ざける壁とあり続けてきたのだから。
 無論、万に一つもそれをあの女中頭自身が思い悩んだのだとすれば、それは的外れではあるのだけれど。
 つまり私が婚姻に乗り気でないのはまったく別の事情による。そしてその秘め事は誰に語られることもなくこの身とともに冷たく堅牢な墓石の元に納まるのだ。
 万が一にもそれが人に知られることと相成れば、私は世間に後ろ指を差されながら司法の裁きも待たず、忍びきれない恥に罪を贖い舌を噛みきって死ぬのだろう。
 どこかそれを心待ちにしている自分がいる。


 私はその夜分、邸内を突き抜けて裏奥の一等古い書庫に向かっていた。寒さが床から足の裏に染み入り、肺まで真水で洗われるような心地の真夜中であった。ランプの細い明かりの下、自室で書きもの仕事をひとつやっているうちに学生の時分に読んだ覚えのある書物を当たる必要ができたのだ。滅多に足を運ばない屋敷の隅側には物置を兼ねた部屋がいくつかあり、今の職についた時、もう使わないと判断したものはそこにまとめて放り込んだものと記憶している。
 視線を感じて振り返った。
 廊下は薄暗く、手元の灯りを掲げても廊下の端々の焦げ付いたような闇の先までは視界が至らない。されど何者かが声を潜めて息づくような音のみがかすかに聞こえた。そういえばこちら側には女中らの寝泊まりする部屋がある。夜も更けるとはいえ厠に立った誰かに怪しばまれたのやもしれない。
 想像するに女中の方とて家のものを盗人と勘違いしたなどと申し開きするのは気の滅入ることなのであろう。となれば咄嗟に隠れるようであるのも仕方ないことだと思う。
 私はその女中にどことなく申し訳なく思いながら書庫の方へと足を進めた。
 されど、その気配はぴったりと私のあとを付いて来た。
 気付かないふりをしながら、流石に訝しむ。私であると気付かなかったのだろうか。もしや女中でなく背後の彼こそが盗人であるのやもしれない。されど隠しきれぬかのようにこぼれ落ちる気配は間違えようもなく若い娘のそれだと思われた。
 さてどうしたものかと思われていたところに、思いがけなく目的の書物部屋にたどりついてしまう。当初の用事をさっさと済ませて退散してしまう方が得策であると考えた。
 入ってみればそこでは埃臭い絨毯張りの床に書棚がところ狭しと列べられていた。申し訳程度にそれぞれの隙間に人の入る余地は残されているが、それでも尚狭い。いくらかの掃除はされているらしく、衣服を汚す覚悟をしていた私は安堵した。
 件の書を探した。それは無名の学者が記した、取るに足らない田舎村に伝わる怪異の記録を書き写したものだ。確りとした論文には引けまいが、生徒らの興味を引く枕くらいにはなるだろうと思われた。
「誰だい」
 予想よりもなかなかそれは見つからず、尋ねる私の声は思わず苛立った声音になってしまった。されど扉の向こうに佇んでいた娘は、却ってこちらの心が鎮まるまでに落ち着き払った声で返事を寄越した。
「申し訳ございません」
 ***様の影が見えましたもので。
 それは私が耳にしたことのない儚さを持った声であった。私の名を流れるように唱えたことから少なくともこの家に住んでいる者だと判じたのは、早計に過ぎただろうか。
「驚かせてしまったかな、探しものをしているだけだよ」
「お探し致しましょうか、私めは普段ここの掃除を任されていますから」
 すぐに探し出してお目にかかりましょう。
 私はしばし躊躇った。時間が時間であり、彼女らの朝は早い。けれど望まずともここまで連れてきてしまったのは私であるようだし、下手に断って閨に帰してしまっても却って気にさせてしまうやもしれない。それに娘の言葉がその通りであるのなら、私が探すより遥かに早く目的のそれは見つかるだろう。
 そう考えた私は、ひとつ頷いて扉の向こうへ声をかけた。
「それじゃあすまないけれど、頼まれて少し夜更かしに付き合ってくれるかい」
「構いません」
 私は書の題を口にした。
「ただし私も一緒に探させておくれ」
 その言葉に戸惑うような間を置かれる。
「お部屋でお待ちくださっていればすぐにお持ちいたしますが」
「二人で探した方が早いだろう」
 幼い声は静かに呼応した。微かに扉の開く音がした。彼女は逆の端の書棚を探し始めたようだった。
「椿です」
 名を尋ねれば、未だその姿を確りと見ない彼女はそう答えた。その名は予感した通りであった。
「聞いているよ。今日からよろしく」
「勿体無いお言葉です」
「顔を見せてはくれないかい」
 椿は黙り込んだ。迷っているといった様子ではなかった。本を取り出しては題を確かめて戻す音が止まず聞こえる。
「貴方様は悲しいお人ですね」
 そして娘は思いがけなく私を哀れんだ。唖然とする。自分でも意外なことに、その言葉は私の芯の部分を握り潰すように苦しませ、大いに狼狽させた。恥辱さえ覚えたその声も、きっと震えていたに違いない。
「……顔も見せないお前が、私の何を知っていると言うつもりだい」
「すべてです」
 怒り混じりのそれは水を掛けたように容易に立ち消えてしまった。思わず言葉を失った私に、彼女はその証とばかりに突き放す。
「貴方様の罪なんて取るに足りません」
 さて、その娘の指した罪が私の思うそれであるかはいざ知れず。自分が惚けることさえ許せずに私はただ答えた。
「どうあろうと私の罪は赦されないよ」
「赦されます」
 私はそのために貴方様に仕えるのですから。
 聞こえさせるつもりさえない囁き混じりに書棚の影から袖を引いた手だけを伸ばし、古びたそれを差し出した。間違いなく私の探していた書であった。
 書物を支えられることが不思議なほどに細いその手首を引き寄せてしまおうかとつかの間迷う。
 その躊躇いさえその女には隠しきれなかった。
「下女の寝惚け顔なんてつまらないものですよ」
 結局は黙ってただ本のみを受け取った。
「占いが得意なんです」
 おやすみなさいませ。
 そして私だけが取り残され、扉をすり抜ける布擦れの音が聞こえた。手渡された古びた紙の香りに混じって、仄かに長らく忘れていた若い娘の匂いがした。



   三

 窓ガラスに切り取られた雪庭には月灯りがしとしとと降り注いで、今にも手元の書物を濡らさんばかりであった。
 その書物を私が手に入れた経緯を語るのは少し込み入ったものになる。強いて手短に言えば、私が師から譲り受けた師自身の著作であるのだが、恩師はとある事情の所以に途中で筆を折ったため、結局世に出なかった未完の書物なのだ。
 中身は至って平凡な田舎村の怪異の覚書。若かりし頃の恩師が直接その村に赴いて、記録の精読や聞き取り調査によってまとめ、完成すれば画期的ではなくとも貴重な民俗学の資料となるはずであった。
 しかしそれは完成しなかった。その理由として当初、私は半信半疑であったのだが、恩師はこう語った。

 村が消えてしまった。

 近頃は村ごとの住民登録も進み、軍事目的の土地でない限りはかなり正確な地理が記されているが、当時は戦後間もなくのためか、あまり信頼のおけない記録も多い。
 されど私の調べた限りであれば、確かにその村はちょうど恩師が赴いていたと思われる時期以降、その場所に住むものはおらず、ただ廃墟が幾つか残るのみであるらしい。
 こう語るとまるで出来損ないの怪談のようで愉快ですらあるが、事実は味気ないものだ。
 まずひとつにはその村というのがすでに人口二桁足らずであったこと。そしてそれらの人々はほとんどが互いに血族であり家長の一言で全員が一度に都市部へ引っ越してしまったこと。
 それだけである。
 師の調査がよほどはた迷惑なものであったのかと邪推もするが真相は知れず。兎にも角にもそのような理由で師の研究は続行不可能と相成った。そのようないわくのある記録書物であるが、中身はやはりよく出来ている。
 その村での社を中心とした信仰体系は元より、独自の神話と無理のない解釈。村の歴史から一族の由来までを網羅されてある。されど最も大幅に項を費やしているのは、その村にしかない珍しい怪異の記録である。
 例えば次のようなものがある。
 ある男が娘の首を絞めて殺してしまった。仲の良かった父娘だけに周りの者も訝しんでいると、カギツネサマの験でその娘殺しは因果によるものでありその男はカギツネサマの縁に従ったに過ぎないとわかる。かくして村人は捕えていた男を解き、娘を手厚く葬って、元通りに暮らし始めた。また、その男は二度と人を殺すこともなく死ぬまで善行を積んだ。
 ここでいうカギツネサマとは一種の神格で特殊な方法によって村に験を与え、その時々に村の悩まされている重要な物事を解決するらしい。師はこの怪異を原始的な裁判システムと捉えており、カギツネサマの名のもとに村の有力者が有意に手打ちを行っていたものと推察する。
 されどここで注目すべきはその事例の量と新しさである。記録に残っているだけで似たような怪異がいくつも起こっており、またそれが当時までも生まれ続けていたという。
 天気の話をするような呑気さで、カギツネサマにお供えをしたところ老父の病状が良くなったというような話から、家の中で失くしたものをカギツネサマが持っていかれたというように表現し、諍いの種を事前に解消していたようである。
 師がこの独特な信仰の何処に惹かれて、研究対象と定めたのかは知れない。されど未完とはいえかくたるまで尽力して記録を残したのであれば、当時調査を断念せざるを得ない事情に行き当たった時分はさぞかし無念であったろうと推察される。
 正気を失ったのも仕方のないことであろう。
 恩師はその言動を知る人が口を揃えて変わり者だと認める稀有な人物である。普段から狐の面を被り、何もない場所に訥々と語りかけたかと思えば、次の瞬間には猛烈な勢いで論文の執筆を始め、二日は飲まず食わずで部屋から出てこない。そのようでありながら、なまじその論考の視点は鋭く後進への教育にも熱心であったので、とうとう追い出されることもなく定年まで教授職を務め上げ、お年を召されてからもご自宅で研究を続けている。
 かくいう私は師の末弟子にあたる。学生の時分、彼の研究室に通いその学識にあやかるばかりでは飽きたらず、恥知らずにも師の退職後はその屋敷に泊まりこんで教えを請うた。
 心酔していたといえばその通りであろうし、今尚、言動はともかくその秀でた知能に感嘆するばかりである。かくも厚かましい学生を可愛がっていただいた恩は容易に返しきれるものでもない。
 されど、そう。
 私はその恩に罪を返した。


 長らく書き物の手が止まり、思念に没頭していたことに気が付き嘆息した。ランプの灯りが揺れる時計盤の数字をひとつふたつと数えてみれば、そろそろ夜明けも近い時分である。あのあと目当ての本を自室に持ち帰った私は師の書物を捲りつつ、学生らに読ませる要旨を拾ってはノートの端に写し書きをしていた。しかし一向にその手が進まず、代わりにあの頃の記憶ばかりがまざまざと蘇ってくる。
 散らすように宙を掻きむしり、床に就くことにする。考えがまとまらぬ時は考えぬが宜しい。下手に無理をすれば自身の罪を思い返してそのまま圧し潰されるであろう。
 ふと見下ろした自筆にその文字を認めた。
 禍狐。
 カギツネサマと呼ばれたその名への当て字である。この字は恩師が村人らの語る由来から考察して当てた。禍を引き連れる妖狐。堕ちたものには災禍を与え、平穏に暮らすものからは災禍を取り去るという。
 しかしはたと私は違和感を覚えた。
 『禍狐』の由縁については師の故意であるのか、詳細は曖昧である。具体的な怪異の事例を見ていっても、災禍の事柄以上に断罪的な意味合いの方が多く強調されているように思われる。
 すなわちこれらの事例にはカギツネサマが用いられる必然性がないのだ。天罰だという言い方でも因果応報という言い方でも説明のつくところを村人らは無理にカギツネサマを用いて説明を試みたために、カギツネサマそのものの特性が忘れ去られているような節さえ見られる。
 じっと考えこんでしまう。思えば思うほど不自然だ。
 当たり前のことであるが怪異において重要なのは、その名を持つ神格の特性である。語られることによって存在する怪異は他と区別がつかなくなれば簡単に混じり合い、次第にもっと有力な怪異と置き換わってしまう。つまるところ必然性がないのである。カギツネサマという怪異が生き残り、語り継がれるだけの必然性が。
 その不可思議な自体に恩師が気づいていなかったはずもあるまいが、しかしそのことについて触れられた箇所はない。一度気になるとどうにも落ち着かない。何よりその不合理について師がどのような解釈を行ったのかを拝聞したかった。
 久々に師の家に参上しようかと思った。実に私が学生として住み込んでいた時分以来である。長い年月かの屋敷には近寄りさえしなかったのだから。
 それは私に仕える若い女中の言葉を思い出したからである。
 私の罪など取るに足らないらしい。
 気になってしまったのだ。
 あの女はまだ生きているのだろうか。
 私の子を孕んだに違いないあの少女は。



   四

 通された応接間は記憶に違わず雑然としていた。本国のみならず海外の儀式用品までが手広く蒐集され、壁や棚に飾った挙句にその数は今も増え続けているというのだから空恐ろしい。客間を掃除する家政婦らの苦労が偲ばれる。
「やぁしばらく」
 自身の屋敷の中だというのに、師は小走りに室内にやって来た。驚くことに紅茶の盆まで手前で運んだらしく、多少中身を零しながらそれをごとりと私の目の前のテーブルに置いた。また少し飛び散り私の頬は強張りを隠せない。
 受け皿ごとカップを手に取り、左手の皿から飲むか右手のカップから飲むかを乾いた笑みで迷った。師は皿を選んだようだった。仮面をずらし、干からびた唇を付ける。
「何用かな。見た目には変わりないようだが」
「先生も相変わらずのようで」
 途端に機嫌を悪くしたような半笑いを声音に混ぜた。
「嫌味のつもりだったのだがね。嫌な男になったなお前も」
 こうまで言われては返す言葉もなく、私は茶を啜った。零されたことが悔やまれるほどに良い品であるようだった。
「椿のことかな」
 思わず呆けた声が出た。
「はて違うのかね、そろそろかと期待していたのだが」
「……椿をご存知で」
 いや、違うのだろう。仮面の下で憎たらしいまでにカカと笑う師は無駄な会話を好む御仁ではない。こちらの意図をかき乱せど、結果として迂遠な前置きを跳ね飛ばすその独特の口上は懐かしいまでだ。
「あれは私の屋敷からそちらに出した娘だ」
 されど相変わらず。この恩師の話しぶりは私の心の臓に宜しくない。手元に視線を落とし、頭を抱えないだけで精一杯だった。
「戯れ言を」
 無論わかっている。そんなお人ではない。
「戯れ?諧謔を覚えたかね若造」
「年齢の算数が合いませんよ」
 私がここに住み込んでいた時分、師の娘が今の椿と同じ年頃。他に娘はなく、師に兄弟のいたという話も拝聴したことはない。
「まぁ細かいことは宜しい」
「奥様の姪で御座いましょう」
 私は妥当な考えを尋ね直した。当然答えは返ってこない。
「勉強の類いか」
 嘆息混じりに本題を切り出す。
「ええ、先生の著作のことで」
 私は昨夜の疑問をすっかり話した。すると師は心無しか嬉しげにほうとため息を吐いた。
「結局は椿のことじゃないか」
「……」
 師は突如立ち上がり、窓際に寄って分厚いカーテンを閉じた。暗暗とした闇に部屋が閉ざされ、隙間を漏れる陽光のみが視界を助ける。
「敬意だ」
 そう理由づけた。
「君の疑問は怪異の可換性を大きく見積もりすぎたことに由来する。あるいは学者としての立場からみればそれも仕様のないことなのかもしれないが、民話の分類を見誤っていると言った方が宜しいかも知れぬ」
 老人は一息にそれだけを言い切った。こちらの反応を伺うような間が置かれる。
「つまりカギツネサマは怪異と別物だと仰るのですね」
「英雄譚。詰まるところ敬意である」
 すとんと腑に落ちるものがあった。
「内実や機能以上に名前自体、即ち村民の敬意が意味を持ったということですね」
「そうさ。村人らの間には半ば身内自慢のような心地でその存在を話の俎上に乗せ、あたかも側で聞かれていながら失礼に当たらないような言葉を選んでいたのだろう。我々は忘れがちだが、怪異は信じる者にとっては間違いなく存在するのだよ」
 あるいはそれは信じていない者にも伝染する。
「更には談じるにも場所を選ばねばならぬようになる。日の当たる場所ではカギツネサマの名を口にしてはいけない。余所者に話していいのは屋内だけである。といったようにだね」
 だから師はわざわざ話し出すに当たり、カーテンを閉めたのだ。カギツネサマという怪異への敬意を表するために。
「しかしそれらには実際的な理由も含まれているように見えます。例えば暗がりで話すのはその語られる経験の効果を高めるため。余所者への語りを屋内に限るのは、それだけ村にとって信頼のおける人間だけに伝わるようにするため」
「無論そのような理由付けも出来る。されど自然と残ってしまう習慣は、常に目的から逆算してその発生を決められるものではない。いくらでも恣意的なものも偶発的なものも混ざりこむ余地はある」

 それこそ怪異そのものが混ざりこんでしまう余地も。

 師はそう締めくくった。
「先生は怪異が存在するとお思いですか」
「あるともさ」
 さも当然とばかりに老父は若さを滲ませてククと笑った。
「私だってひとつの怪異の結果だ」
 狐憑き。
 それは師に与えられた世間一般の評価だ。どうしようもないほどにその言動も容姿も社会不適合。その異端は痛ましいまでに疎外される。数十年前の怪異をむやみに調査した代償がこれであるというのならば、それはあまりに大きすぎる呪いだ。
 果たしてその発狂は怪異であったのか、偶発であったのか。
「怪異をご自分で名乗らないで下さい」
 興ざめもいいところだと、笑って見せた。師の問題は師のものであり私には関係なく、ただ弟子として不都合ない恩恵を得られればそれで十分。そんな態度を貫いたからこそ、彼の弟子として私だけが彼の側に残り続けてしまったのだろう。
「椿の話をしようか」
 しかしその不接触は唐突に終わりを告げ、気付けば私もまたその怪異に巻き込まれている。
「椿、でございますか」
 彼はついぞその下の顔を誰にも見せたことのなかった狐の面を外した。
「私ももう長くないのでな」
 ここで一度、私の記憶は途切れる。



   五

 気付けば私は、ちょうど師の御宅を出るところであった。
 懐に硬いものを感じ、取り出してみればそれは恩師の面であった。振り返った視界を門戸が遮り、人の住んでいるとは思えないほどにその空気は硬質であった。
「お迎えに上がりました」
 雪が降っていた。今朝はそんな兆しもなかったのに、それは用意されたかのように視界も効かぬほど吹雪いていた。庭先に二本の傘を抱えて、椿が立っていた。
 彼女は傘を少し持ち上げて、私を見上げた。
「ありがとう」
 初めて見せるその顔はよく覚えのあるものであった。しかしついに、どこで見覚えたのかさえ思い出せず、私はただ傘を受け取る。
 自然と彼女の手を取って、二人で歩き出した。
「懐かしいお話をなされたそうですね」
 土の上にうっすらと積もる雪に下駄の跡ばかりが残る。椿はもう必要がないからとでも言わんばかりに、顔を隠すこともせずこちらの瞳をじっと見通した。
「得意の占いかい」
「お祖父様に聴きましたわ」
 私はその顔にあの娘の面影を思い起こす。悲しいほどに感情を失くした哀れな娘を。その顔が私の前で微笑むのを目の当たりにして、不意に感情が昂り喉を鳴らす。誤魔化すように尋ね返した。
「仲が良いんだね」
「そうかも知れません」
 重ねたばかりの手が冷たく震えた。そっと思いやるように握り返され、私ははっとして彼女の方を見てしまった。
「泣かないで下さい」
 果たして悲しげに見返された私の両眼は涙を流していた。気付かぬほど静かに。雪よりも優しく。ただ私は悲しみを思い返して泣いていた。
「母はあなた様に救われたのです」
 憑き者。すなわち人と怪異の間の子は目も耳も効かず、心さえ持たずに産まれてくることがある。私はかつて、そんな人形のような少女に恋をした。
「私はまたあなた様の傍らにいられることがただ嬉しいのです」
 あるいはそれは寄生であるのかもしれない。不死である怪異に対して生殖の概念は至極曖昧だ。人の伴侶を媒介に同一の怪異が子孫代々にまで人として寄り添うばかりであるのかもしれない。
 ただ隣にあるばかりなのかもしれない。
「私はあなた様に恋を致しました」
 怪異に憑かれるとは、案外こんなものなのかもしれない。


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