「あー……またやってしまった」
朝から嫌な予感はしていた。
食パン1枚食って家を出て駅へ向かう。
昨日と同じ。
スーツを身にまとい、時代遅れとなったVistaのノートパソコンがカバンを重くする。
いつもと変わらない、気だるい朝。
電車に乗ると嫌でも他人の存在を意識させられる。
右手にはカバン、左手は伸ばしてなんとか吊り革を掴む。
しかし、周りの人は右手にカバンと傘を持っている。
吊り革を掴めない人は左手に傘を持っている。
まぁ折り畳み傘あるから大丈夫だろう、と思って満員電車に揺られる。
会社でもいつも通り、与えられた仕事を片付けていく。
タイムカードを切って外に出ると夜空から雨が降り注いでいる。
カバンの中から折り畳み傘を出そうとするが、ない。
そういえば、一昨日の雨の日に使ってそのまま干しっぱなしだった。
「あー……またやってしまった」
会社の向かいのビルの1階にあるコンビニに駆け込む。
一番安いビニール傘を買って外に出た。
何となく天気予報を見ずに傘を忘れた愚かさが恥ずかしく、会社の知り合いが周りにいないことを確かめて歩き出す。
駅に着いて傘を畳んだ頃にはそんなことも忘れて、朝よりちょっとだけ人が少ない電車に揺られて帰路につく。
「ただいまー」
誰もいない暗い部屋に向かって呟く。
玄関の電気をつけ、買ったばかりの傘を靴箱に立てかける。
濡れた傘はバサッと音を立てて床に倒れた。
明日にはどれが今日買った傘かも分からなくなるだろう。
靴箱の脇には、同じコンビニで買った同じビニール傘が10本近く積まれている。
どれも一度使ったきりのものばかりだ。
捨てなきゃな、と思いつついつも忘れてしまう。
ゴミ袋を持って外に出る時に玄関を通るはずなのに。
傘を立てかけた直後にはそんな自省も忘れ、テレビをつけて冷蔵庫からビールを取り出す。
明日は晴れるといいな。
「……またやってしまった」
翌日も夕方から雨が降り出した。
傘は持っていない。
朝、駅に向かう道中で傘を持った人をちらほら見かけたが、家に取りに戻る時間はなかった。
別に金に困っている訳ではないが、連日傘を買うのは気が引けた。
会社から駅までは走れば5分、昨日より雨足は弱い。
それでもずぶ濡れは免れないが、駅まで走ろうと決めた。
「あの、傘持ってないですか……?」
スーツを脱いで頭から被ろうとしていると、後ろから声をかけられた。
振り向くと同じ会社の事務の女性が立っていた。
「あ、いえ、僕も持ってなくて……走って帰ろうかなと」
「え、それだと風邪ひいちゃいますよ! 私、そこのコンビニで買ってきますから一緒に入りましょう!」
そう言って雨の中コンビニに走っていこうとするので、止めない訳にもいかなかった。
「いやいや、大丈夫ですよ! というか、それなら僕が買ってきますんで待っててください」
とっさに出まかせを言って俺はコンビニに駆け込んで昨日と同じ店員から同じ傘を1本買った。
朝、いつものご飯と焼き魚と味噌汁を食べる。
スーツを着て、最新型の薄型ノートパソコンをカバンに詰めて家を出る。
「ちょっと、今日は夕方から雨だってさっき言ったでしょー?」
「あーそうだったな、ありがとう」
妻の助言を聞いて、傘立てから紺色の傘を持って玄関のドアを開ける。
「それじゃ、いってきまーす」
「はーい、いってらっしゃい。ほら、拓也も学校遅刻するよ! 傘忘れないでね」
拓也のはーいという間の抜けた返事を聞きながら外に出る。
隣の家から出てきたおっさんも傘を持っている。
あ、本当に雨なんだなと思いながら軽く会釈をする。
あの時気を利かせて傘を2本買ってたら、俺は今日も傘を持たずに家を出て、玄関には大量のビニール傘が積まれていたのかもしれない。
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