安寧の日々は突然終わりを迎えた。

 あの出来事から一週間経ち、悲鳴や怒声で騒がしかった外はすっかり静かになった。天井を見上げると所々ぽっかり丸い穴が空き、穴の隙間からは桜色の何かが見える。桜色、という表現は不適格かもしれない。というのも穴から見える「それ」は桜そのものだからだ。
 ちらりと見えた桜に体を震わせ、怯えながら外の様子を見る。カーテンを開けた途端、天を覆い尽くすような桜色が自分を出迎える。フィクションでも見たことのないような大きな桜の木。雲のように空に広がる花と阿蘇の外輪山のように太い幹。ゲームならばそれを「世界樹」とでも表現するのだろうか。ただその木は一般の世界樹のように世界を守り支える木ではない。世界を破壊し尽くす木だ。
 昔プールでアキレス腱を切ったことがある。それはこれまでに聞いたことのないほどの破裂音であったが、アキレス腱ですらそのレベルなのだ。コンクリートがちぎれる音を初めて聞いたときは気絶するかと思ったものだ。衝撃に体が麻痺してしまうほどの轟音とともに、コンクリートのビルが軽々と吹き飛んでいく。桜の木の根っこが伸びる度にそんな事が起こるので、夜もおちおち寝れない。
 根っこだけならば避難すればなんとかなるだろう。しかし根っこに加えてこの世界を破壊するものがもう一つある。花びらだ。
 急な突風が吹き、空を覆い尽くす満開の桜から百舌の大群のごとく花びらが散っていく。この花びらはただの花びらではない。舞い落ちていって何かに接触した瞬間、半径約30センチメートルの範囲のものを消し飛ばす。まさに悪魔の桜だ。自分の家は風向きの関係で屋根に何個か穴が空くだけで済んでいるが、風下の街は見るも無惨なものだろう。
 最初のうちは一心不乱に逃げようとしたのだが、この世界のいたるところに同じような木がぼんぼん立っているというニュースが流れれば逃げる気も失せる。というより動かない方が安全だ。人々は急遽建設された桜シェルターに逃げ込んだが、あぶれてしまった自分のような人間は、運命を呪い、神に命乞いをしながら1時間1時間を過ごす。長針が12を差すたびに、まだ生きているという安心と、次の1時間を生きれるかどうかの不安に挟まれ、押しつぶされそうになる。
 突然機関銃のような連続した爆発音が地面を揺らす。さっき散った花びらであろう。思考が絶望に染まる。ああ、世界は—————
 ……轟音と共に屋根が消えた。一瞬コンクリートの塊が見えた気がした。脳味噌がフリーズして10分間その場を動けなかった。恐る恐る見上げると、木の根がこの町まで伸びてきていた。
 ああ、世界はもうすぐ終わる。

 一夜明けたが、一睡も眠れなかった。これまでは屋根があったから不安はそこまでなかったが、今はもう一枚でも花びらが落ちてきたらジ・エンドだ。
 何か悪いことをしただろうか、という問いを何度してきただろう。今まで通り、平和な日常を過ごさせてさえくれれば、それで良かったのに。何も良いことはないが、何の悪いこともない、そんな素敵でつまらない世界で良かったのに。
 また何かに呼ばれたような気がする。これも何度目か分からない。その呼び声に必死に耳を塞ぐ。終わりへの誘いのようなその呼び声は、自分の心を恐怖で蝕んでいった。
 パン、という音と共に窓がはじけ飛んだ。ぎょっとして外を見ると、花びらが何枚か舞い落ちてくるのが見えた。もうここにはいられない。
 最低限の荷物を持って家を出る。移動するなら今しかない。昨日の夜怯えながら1つの考えに至った。皆桜から逃げることしか考えておらず、なるべく遠くへ、遠くへと逃げているが、逆の方がいいのではないかと。あの巨大な根っこの下、そこなら木の根が伸びることによる被害も、花びらの被害も受けないはずだ。
 もう迷ってる暇はない。他にもっと良い案があるかもしれないが、今はその案にすがるしか方法はない。
 木の根元に行くのには特攻と表現してもよい位のリスクが伴う。桜の木から30キロ離れているこの町ですらこの被害なのだ。木の真下に行くことは自殺行為でしかない。
 それでも、行くしかない。どうせ死ぬなら、リターンを信じて死にたい。
 震える体に鞭打って、一歩前へ歩き出す————
 ……途端に、目の前が桜色に染まった。いつの間にか花びらの雨が降ってきていたのだ。これまで住んできたこの町は、シャボン玉の様にはかなく割れて消えた。
 無我夢中に走り出していた。それは現実から逃げるのと同じ速さだったかもしれない。
 秒速5センチメートル、それは世界が壊れるスピード。

 見上げると首を痛めそうになる。その木はそう表現するしかなかった。
 走り始めて2時間近く経ち、ようやく木の根元にたどり着いた。途中近くに落ちた花びらに巻き込まれて荷物を一部失ったが、特に目立った怪我もない。奇跡のような2時間だった。
 肩で息をしながらその場にへたり込む。花びらは根っこなら当たっても爆発しないらしく、根っこの上に大量に積もっていた。これが落ちてくればひとたまりもないが、木の根の陰ならその心配もない。外から30センチメートル以上奥へ行けばいいのだから。
 桜の木の下は何もない。地面すらなかった。桜の木は白い床の上に生えていて、桜から少し離れた場所から床に少しずつ土が乗っている。花びらが地面に落ちる度に土が消え、その下の白い床が露わになる。それが本当の姿だと言わんばかりに、桜は世界を抉り取り、白い床を露出させていく。
 春の暖かい風が顔を撫でた。おぞましい暖かさだった。きっと死んだばかりの人間の臓器を触ったら、こんな温度なのだろう————
 ……また何かに呼ばれたような気がした。いつもなら耳を塞ぐところだが、今度はそうしなかった。その声はすぐ近くでしたからだ。
 花びらに注意しながら根っこの下から這いだし、声のする方へ行く。その呼び声は木の幹の中からしてくる。
 ゆっくりと、幹に向かって一歩踏み出す。これ以上行くと後戻りはできないと直感で分かる。しかし引き返さない。引き返したら後悔すると、これも直感で分かるからだ。
 自分の一歩は破滅への一歩。平和だったこの世界を破壊する一歩。
 でも、もう行かなくてはならない。
 果てしなく巨大な幹の目の前に立ち。
 両手を木の樹皮にあてて。
 耳を木にあてたその時、『声』は世界に響き渡った。


 「お父さん!」


 瞬間、世界が震えた。
 満開の桜は一斉に散り、この世界を隅から隅まで消し飛ばした。木の根っこは世界の果てまで伸び、途中にあったあらゆるものをはじき飛ばした。いつまでもいつまでも、破壊が続いた。桜の幹に耳を当てながらずっとその光景を見ていた。世界が白くなっていくことに、最早快感しか感じていなかった。何かの終わりと、そして何かの始まりに対する歓喜が体を満たしていた。
 昼も夜も桜は散り続け、最後に残ったのは、どこまでも続く白い世界と、散ってしまった桜と、そして自分だけ。
 ふと上を見上げると、最後の1枚の花びらがヒラヒラと舞い降りてきていた。それはぽかんと開けていた口の中に飛び込んで舌の上に落ちた。
 懐かしい甘さを感じたときには、すでに自分ははじけ飛んでいた。

 ・・・

 目を開けると、自分は病室のベッドに横たわっていた。ベッドの隣にある机の上で、今年10歳になる娘が寝息を立てている。机には食べかけの桜餅が置いてあった。
 口の中に何かが入っている。咀嚼すると、心地よい甘さが口の中に広がった。それは桜餅だった。
 自分が大好きな、桜餅だった。


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