僕がリナリのことを思い出したのは、終わりかけた春が足取りゆるく室内の空気を温めてバターのようにすっかり融かしてしまった午後のことだった。
 僕はパソコンのわきに置かれた、週末の同窓会の存在を示す紙切れに視線をやる。しかし相変わらずそのことに生産性のある意味を見出だせなくて、すぐ僕は再び画面を睨みつけて、生まれてこの方かつてない速度でリスクを計算する作業を再開した。
 成宮ルリの出演する新作アダルトビデオの購入画面を前に、その作業が始まってから壁時計の長針はすでに一周半の回転を終えていた。
 リスクというのはつまりこうだ。その作り物のように日本人形じみた顔に冷ややかな枯れた目を持つ少女の制服が、男の指のなぞる形に皺を寄せられる映像に僕の家族は快適な日曜日の朝を邪魔されたいと思わないだろうということだ。
 この時勢に自分宛ての荷物が届く日さえ思いのままに出来ない不便さは、もしかしたら一周回って愛でられるべきレトロ志向だと言えるかもしれない。でも実害として、家族の信用を裏切ることがすなわち我が家からの放逐及びニートからホームレスへの昇格につながるところの身たる僕としては、出来ることなら僕のもとへやってくる物事は僕の思惑に沿っていただきたい次第である。現実がここまで思うに任せないのだから、せめて郵便物くらい。
 どうやら思ったよりナーバスになってしまっているらしい。僕の視線はいつの間にか再び、画面から紙片の上へと移り、一人の少女を思い出していた。
 緩麻リナリ。
 白状すればこんな馬鹿げた物事に時間を割いてしまったのもひとえに週末の同窓会のことが気がかりであったからだし、もっと言えばそこに果たして彼女がやってくるのかという疑問が痛むほどに僕の胸を締め付けたから、ということになる。
 少しだけ彼女について話そう。
 僕が彼女と同じ時間を過ごしたのは2006年の春から2009年の頭までで、僕らは中学生だった。東電はまだ大きな事故もなく嫌になるほど上手く世間を騙し騙し稼いでいて、オバマは愚かな先達の尻拭いを始めたばかりの頃だ。つまらなかったけれど無害な時代だった。
 僕は画面を落として、家族がそれぞれの仕事や学校に出かけた人気のない家のなかを我が物顔で台所に向かって歩き出した。


 リナリについて僕がまず最初に思い出すのはその瞳の黒さだ。彼女の瞳は漆黒と呼べるような艶のある色ではなく、死んだ老婆の手の甲のような黒さだった。控えめに言って、彼女はあまり可愛くない少女だった。
 周囲の大人の無邪気さのせいで、そのことを自覚する機会を失ったままに育った彼女に僕が出会ったのは春。入学式でのことだったのだけれど、正直あまり印象に残っていない。言いたくないのだけど、彼女と付き合うこととなったきっかけも僕はあまり明確には把握していない。彼女が僕を恋人に選び、僕は選ばれたことを深刻な事態と受け止めて、慎重な対応を進めつつその申し出を断ろうとしているうちに僕らは付き合っていることになっていた。よくあることだと思いたい。
 彼女はまさか僕が彼女の期待に背くとは考えていなかったらしく、一度そのことについて尋ねた僕の問いに対して、きっぱりと言い切ったことがある。
「あなたがもし仮に私と付き合いたくないとして、そのことがあなたの責任に何か影響を与えるのかしら」
 責任、と彼女は僕のその行為を評した。あとから二人の間に数千の言葉を重ねて判明したところによれば、その責任とは詰まるところ彼女をその気にさせた責任であり、それは僕の生涯を尽くしても支払いきれないほどのものであったらしい。
 愛とは往々にしてそんなものかもしれないと、若さゆえの浅はかさで納得した僕は彼女と叶えられなかった約束をしてしまった。
 彼女に見合う以上に、素敵な人になる。
 雨の降り始めた夏。人の少ない市営プールの縁に腰掛けた僕らは監視員が合羽を取りに事務所へと引っ込んだ隙をついてキスをした。
 僕はその瞬間のことを思い出しては、毎回何かを取り落としそうになる。ほとんどの珈琲を零してしまったシンクに空のマグカップを投げ捨ててもう一度豆を挽くところから始めた。
 それからしばらくして、リナリは卒業と同時に別の場所に移り住んでしまった。長い手紙は片手で数えられる程度しか往復しなかったし、僕らはやはり若かった。連絡手段が手紙や電話に限らないという事実から目をそむける程度にはお互いの距離を言い訳に、そのまま忘れてしまったふりをすることにした。
 釈明をさせてもらえるなら、僕らの間に突然口を開けたその距離は、僕らにとって死よりも遠く言葉よりは近かった。


 数年ぶりに母校の名前を字にして差し出されてみると妙な気恥ずかしさが残ってしまい、僕はそのハガキを捨てることも出来ないままに一ヶ月。気付けばパソコンの横にそれを放置し続けてしまっていた。
 彼女は来るのだろうか。
 そんな言葉を無意識に呟いてしまうけれど、僕はもう彼女を愛していないのだろうし彼女への責任だって文句のつけようもないくらいに霧散してしまったのだと思う。ただ悲しく僕の心を綺麗な形に抉りとる事実は目の前にあった。
 約束は果たされなかった。
 僕は多くの人間が認めるところのまともな人間にはなれなかった。家族の金で学ぶことも働くこともない生活を数年続け、生命の神秘をティッシュに丸めて捨てるところの裏切り者だった。
 彼女に見合うだけの素敵さなんて初めからなく、手に入る機会も尽く手放してきたのは自分だった。
 それでも、今の自分を。彼女だけは認めてくれるような気がして、それがどうしようもない僕自身の醜い望みだと知って僕は目をつむる。
 見たかった夢はこうだ。
 彼女は今、同窓会にかこつけた形で照れくさそうな、されど期待に満ちた表情で、僕の家を突然に訪ねてくる。そして僕の現状を知って約束が果たされなかったことに本気で腹を立てて、僕を叱る。
「あなたが約束を果たせなかったからといって、そのことがあなたの責任に何か影響を与えるのかしら」
 彼女は僕を立ち直らせようと鬼のように怒りながら連れ回すだろう。学のない僕にも出来る仕事を見つけてきて、一人で住める部屋を安く借りて、毎朝電話をかけてきて僕が首を吊ってないか確かめてくれる。
 そんな死にたくなる夢だ。


 夢現のままに聞いた呼び鈴が無人の家の中に消えてしまってからしばらく、僕は半ば信じられない思いで座り込んだままだった。頭が覚醒しだすと同時に椅子を蹴っ飛ばして立ち上がる。
 呼び鈴だって?!
 耳を疑うことは真っ先に考えたし、都合の良すぎることはわかっていた。しかし現に僕の意識は呼び起こされ、立ち上がってしまっている。気付けば勝手に動き出していた。
 苦しいほどの期待に顔を紅潮させて、僕は誰もいない家の中を走った。ドアの向こう側の彼女の背中が、どこかの角に消えてしまう前に呼び止めようとして、彼女の名前の形に口元が歪む。泣き出しそうな気持ちのまま、僕はその瞬間、リナリが僕を迎えに来たと信じて疑わなかった。
 まさかまさかと叫びそうな心を抑えて震える手で開いた玄関の扉の向こうに。果たして彼女はいなかった。奇妙なことにそこには呼び鈴を押した誰かさえもいなかった。
 裸足のままに踏み出た通りを端から端まで見渡しても、人影は見当たらず、誰かの足音さえ響かなかった。
 きっと幻聴だったのだと思う。
 僕は自嘲チックな半笑いを残り幾ばくもないプライドで押し潰しながら、通りを背にし、最後の悪あがきを込めて、郵便受けを覗いてやった。
 小さな包みが入っていた。
 手書きの宛名は僕だった。無地の紙袋を無造作にテープで止めたそれは軽く、僕は早まる鼓動を耳の奥で感じながら、その夢じみた目の前の光景が壊れないように、慎重な足取りで自室へと戻った。
 椅子に浅く腰掛けて、深呼吸を一度だけした。
 もう期待が裏切られる経験はうんざりだった。それが最後のチャンスだと思った。どうせ違うんだろうと精神的予防線をいくつも張りながら、その自分宛ての小包がリナリからのものであると愚かなまでに信じていた。
 過剰に力のこもった指でテープを剥がし、その中身を机に開けた。
 一つのDVDトールケース。
 成宮ルリが僕に微笑みかけていた。


 ちょっとした春の事件の話はこれでおしまいだ。僕は同窓会に参加しなかったし、届いたアダルトビデオは最高の出来で、僕は下半身の衣類を脱いだまま、本来の目的も忘れて泣きながら最後まで見通してしまった。
 後日談的に少しだけ付け足すことがあるならば、それはやはりリナリのことだろう。
 君らが気付いていたかは知らないけれど、僕はそのアダルトビデオをまだ注文していなかった。にも関わらずそれは僕のもとに届き、僕は二つの名前を見比べた。
 yuruma rinari
 narumiya ruri
 あの呼び鈴はやはり彼女のものだったのだと思う。僕がリナリのことを思い出したのも、彼女の『作り物のような』顔のなかの忘れられない瞳を見てのことだったのだし。
 ただひとつだけ、わからないことが心に引っかかって仕方ない。
 彼女の主観として彼女に見合う以上の素敵さに、僕の手は届いているのだろうか。
 仄暗い安堵に溺れてしまった僕は、未だにあれからずっと、呼び鈴を待っているだけだ。


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