「何ば読みよっと?」
 僕が顔を上げると、彼女と目があった。僕が3人は横に並んで寝転がれようかという大きさの机の向こう側に彼女はいた。
 「いつ来たんだよ。気付かなかったよ」
 「今。で、何ば読みよっとさ」
 僕は読んでいた本を立てる。
 「カミュのペスト? 面白かと?」
 「意外とね。ドラマティックな話じゃないけどさ」
 「他に面白い本あったら貸して」
 「珍しかね。僕に借りようなんて」
 「最近はあまり本ば読みよらんけど、やっぱ本は時間があれば読みたかけんね」
 「お気に召しそうなのがあったら貸すけん。あぁそうそう、昔薦めてくれた松本清張の「点と線」読んだよ」
 「どうやった?」
 「面白かっちゃけどさ、清張自身の姿勢があんまり好みじゃなかった」
 「そんな気がしてたわ」
 何処と無く杏奈は落ち込んだように見えた。お互い好みが違うのは解っているとは言え、僕だって好きな作品を好きじゃないと言われるのはちょっと悲しい。
 「いやでも、ミステリとしては僕にとっては新鮮だったし、良かったよ。ミステリに社会的な不純な動機を持ち込むのが気に食わんだけでさ」
 「陽はミステリの中でも本格・新本格ばかり読んでるからだよね
 「昔は好みが割と共通していたのになぁ」
 「嘘。小2の時に私の好きな絵本を面白くなかって散々言って、私を泣かせておばさんに怒られてくせに」
 うっ・・・そうだったっけ。記憶力は彼女の方がよっぽどいい。
 「でも、高学年の時はファンタジーはだいぶ重なってたじゃないか」
 「まぁそうね。ダレン・シャン、バーティミアス、えぇっと」
 「アルテミス・ファウル、ハリー・ポッター、デルトラ・クエスト、セブンス・タワー、」
 「私はデルトラ好きじゃなかったわよ。幼稚だったのやろ?」
 「そうだったけ? 面白そうに読んでなかったっけ」
 「え・・・いや、まぁ・・・」
 何となく歯切れが悪くなったような気がする。
 その後、暫く小学生の時に読んで貸し合い話し合った作品の話になった。
 国内は那須正幹「ズッコケ三人組」、はやみねかおるの「夢水清志郎」シリーズ、江戸川乱歩「少年探偵団」シリーズ、芥川の「杜子春」「蜘蛛の糸」「魔術」「煙草」、太宰の「走れメロス」、漱石の「坊ちゃん」「我が輩は猫である」なんてのが名前が挙がった。国外はコナン・ドイルのホームズ、モーリス・ルブランのルパン、アガサ・クリスティのポワロ、H.G.ウェルズの「タイムマシン」「海底二万海里」、ルイス・サッカーの「穴」、J.R.トールキンの「仔犬のローヴァーの冒険」。
 二人で挙げられるだけ挙げて小学生の時の読書に思いを馳せていた。二人とももっと読んでいたような気がしたのに、意外と挙げられる作品は少なくなっているのだった。お互い内容は覚えているのに、タイトルが一致しないとか、そういう作品も多かった。
 「結構忘れるもんやね」
 「そうね。陽のみならず私までもなかなか出せんなんて」
 「酷いな」
 笑いながら、彼女は顔にかかった髪をかきあげる仕草をした。
 会話が一段落して彼女をしげしげと眺めてみる。
 やや大きめの目、鼻筋の通った高めの鼻、小振りで弾力性に富んでいそうな形のよい唇。そういったパーツが並んだ顔は整然、といった印象を見る人に与える。緑の黒髪は肩より下まで伸びている。笑うと右頬に靨が出来、なかなかに男好きのする顔だと思う。これだけ近くに長くいる自分ですらドキッとする瞬間もある。
 幼なじみ、それも隣家同士とベタな関係だが、高校生なる今の今まで近い距離を保っていられたのは奇跡的なんじゃなかろうか。普通なら思春期に入る頃には同級生にからかわれたり、そうでなくとも自意識の芽生え、性差の自覚なんかで疎遠になるところなんだろうが、付き合いの長さから、からかわれることに対してある程度受け流す方法を二人とも身につけていた。特に彼女は精神年齢がからかうような輩よりよっぽど高く、それこそ上手くあしらっていた。それだからこそ、彼女は心ない発言によって辛い思いをすることも多いんじゃないかと当時僕は朧気ながら考えていた。決して口に出して訊くことはなかったし、彼女も何も言わなかった。
 共通の趣味、特に語り合える趣味として読書があるのは大きかったように感じる。多趣味で器用、人付き合いも上手い彼女と違い、趣味も少なく内向的で不器用な僕にとっては、趣味の話が思う存分出来る彼女は貴重な存在であった。男の読書友達もいたことにはいたが、彼女以上に話が面白いと思うことはなかった。精神年齢、好み、その他いろんな要素があったのだろう。彼女は常に物事の違う切り口を教えてくれる。それが頭の良さに依るのか、性差に依るのかは僕にはわからないが。
 「どうしたと? 急に喋らなくなったけど」
 「あ、いや、ちょっと考え事ば」
 「おーい。もう下校時刻やけんお前らはよ出て行かんか」
 声のした方を見ると、今年赴任の若い男の司書がこちらを見ながら戸締まりをしていた。
 「今出ます」
 杏奈は答える。
 「陽、この後、久しぶりに本屋に付き合わん?」
 腕時計を見る。ほとんど18時を指し示していた。今からスクールバスに乗ると家に帰りつくのは19時頃になるだろうか。だいたい、家が微妙な位置にあるから、スクールバス朝に2本、夕方に2本程度しか通ってないのだ。もう少し違うところであればバスに限らない交通手段があるのだが、僕らは今日みたいに1本乗り遅れると、学校にいるのが許されるギリギリまで待たないとバスに乗れない。家に帰ることが遅れるのを考えて逡巡したが、たまには書店に行くのもいいかもしれない。最近は面倒なのと安い割に状態がいいのとでオンラインの中古書店に頼ることも多いから書店にはなかなか行かないのだ。
 僕は本を閉じて立ち上がりながら訊いた。
 「何が欲しかと」
 彼女も立ち上がりながら答える。
 「文藝春秋。芥川賞が載っとーけん。オール讀物も買おうかな? 直木賞今回も面白いって話だし」
 「あぁもうそんな時期か。でも最近のって面白かと?」
 「そりゃぁ全部が全部いいとは思わんけど、やっぱり現役の作家を読みたくなか?」
 「なんか昔のと比べて薄っぺらか気がするとさね」
 「そうかもしれんけど、現代的な魅力もやっぱりあるばい」
 「あんまり心惹かれんばい」
 僕も杏奈も乱読するタイプではあるが、乱読と言ってもある程度の傾向はやはりある。僕は基本的に近現代の日本文学、それももう既に文学史として確立してしまい、評価も固まっているような作家の作品を中心に読んでいる。一方の杏奈は洋の東西を問わず直近の作家を好んで読んでいる。
 そのせいで読書スタイルにも差がある。僕は新古書店の最近の目覚ましい発達のおかげで大量に安く読みたい本を仕入れることが出来るため、買いすぎて積ん読している本が三桁に届こうかというような状態である。杏奈は読む本が中古で安くでまだ出回っていないことも多いので、自然読む本は少なくなり、精読する。
 一括りに読書家と言えども、本の嗜好、対する姿勢、何から何まで違うのだ。その割に話が合うのは、好みに関わらず乱読することも多いからであろう。
 本の話題から離れて、学校のこと、勉強のこと、それこそ他愛もないことを話している内に、バスは本屋近くのバス停に着いた。
 本屋の中に入ると、とりあえず、彼女は雑誌コーナーに急ぐ。僕自身はあまり欲しい本もないのでついていく。
 文藝春秋、オール讀物、ファウスト、すばる、新潮、名前だけは聞いたことのある雑誌が並んでいる。こういうのは連載も多いし、途中から読み始めるのに抵抗のある僕は読んだことはない。電子書籍になったら雑誌という形態は果たして成立しうるのだろうか、音楽のように、小説単位での売買になるのだろうか、なんてことを考えながら、彼女が嬉しそうに二冊を手に取るのを眺めていた。
 その後、新刊コーナーに行き、手に取ったり置いたりを繰り返す彼女を僕は眺めていた。
 結局、彼女はその二冊の雑誌と僕が名前を聞いたことのないような現代の海外の文庫本数冊をレジに持っていった。その足取りは大変軽い。
 彼女が財布を開くその幾らか離れた横に立っていると、彼女がアッと声を上げた。
 唇を噛みしめて固まっている。彼女の形の良い唇が歯と同じ白に染まる。
 「ん」
 「ねぇ、千円でよかけん貸してくれん?」
 彼女は振り向きざま手を合わせてこっちを見る。上目遣いのみでも必死の懇願が伝わってくる彼女の態度はどこか小動物を思い起こさせた。舞姫の一節を思い出すような目である。
 「今月のお小遣い貰うの忘れてた・・・」
 僕は黙って財布から千円札を出して渡す。
 「ありがと」
 彼女は自らの不明を恥じているようにも見えた。さして気にすることもないと思うが。
 本屋を出るともう既に真っ暗である。夜風が少し肌寒い。
 僕らは本屋を出て坂道を上っていた。本当はバスに乗ったままであれば、この坂の上までは行けるのだが、いかんせん本屋があるのが坂の下なので、これから10分ばかり坂道を上らねばならない。丘の上の新興団地住まいの辛さである。
 杏奈に何を買ったか聞くと、作家名を答えられたが、やはり今までに聞いたこともない作家であった。メキシコ、イギリス、ポーランドの作家の作品であるらしい。それぞれノンフィクション、SF、ミステリィとジャンルもバラバラであった。
 その後も、杏奈が語るに任せていた。最近気に入った作家たちであるらしい。人が好きな物について語る姿は見ていて楽しいものだと思う。何より幸せそうなのがまたね。
 その時ふと疑問が浮かんだ。そういえば、今まで聞いたことがなかったような気がする。
 話が一段落したので僕が口を開く。
 「杏奈にとって読書って何? 何で読書するの?」
 彼女は固まった。彼女は突然の質問に驚いたようだった。答えづらい質問ではあるとは思う。彼女のそれまで楽しげな様子から急に真顔になる。
 「ねぇ、じゃぁ陽にとっては何なの?」
 訊かれるよなぁ、やっぱり。
 「ええっと、そうだな・・・。教養・・・コストパフォーマンスのいい趣味・・・暇潰し・・・現実逃避の手法・・・経験の獲得・・・。こんな感じ? あぁ、でも一番の理由は、それが面白いから、かな? 兎に角楽しいってのは大きいと思う」
 「ふぅん。じゃぁ私も今は同じかな」
 「昔は違った?」
 彼女はまた唇を噛んだ。言うべきか迷うようなことなのだろうか。それとも俺は訊くべきじゃなかったのか?
 「・・・そうね。多分、本を読み始めたのは陽のせいだよ」
 「えっ」
 「私は別に元々本が好きやった訳じゃなかった。最初、陽と会ったとき、覚えとらん?」
 「・・・いや、全く」
 「もう何の本だったか忘れたばってん、私と陽が親に引き会わせられて、私が何を話しかけても、陽は顔を上げようとせんやった。それでも、私がその本について訊いた途端に、饒舌になって、それこそ人が変わったように語り始めよった。私は何もわかっとらんとに。私はいきなりで何もしゃべれんかった。それでも語るのは幸せそうに見えた。そいば見たら、なんか悔しくて羨ましい気がしたとやろうね、私も陽が読んでた本を片っ端から読もうと決めたとさね。多分最初の頃はあまり面白いとも思わんで読んどった。いつからか自分で面白いと思って読むようにもなったけど、最初の読書の目的は、陽と対等に話が出来たら、ってのやったと思う」
 そこでふっと彼女は言葉を切った。
 既に彼女の家の前であった。
 「じゃぁ陽、また明日」
 彼女は手を振りながら、家の門を入っていった。
 彼女がドアに手をかけたときだった。
 「なぁ」
 彼女が振り向く。
 僕は今まで歩いていた方向の空を指さした。
 「月が綺麗だと思わん?」
 彼女がどんな表情をして家に入っていったのかは分からなかった。
 僕が一人で見上げた月は綺麗な満月であった。


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