「なあ、理想のヒロインってどういうもんだと思うよ?」
柿本のそんな質問が、田辺がその日初めて耳にした発言だった。
「どういう意味だ?」田辺は机に頬杖をついたまま、振り返らずに答える。
「そのままの意味さ」
「それがわからないから聞き返したんだよ。言葉が通じないやつだな」
ようやく柿本の方へ向きなおして、田辺が言葉を続ける。
「お前の言う理想は、お前の中だけのものか?」
「違う」柿本が眼鏡を上げて答える。
「なら答えることはない。普遍的な理想なんて存在しない。理想っていうのは個人が持つものだと、俺は考える」田辺が不機嫌そうに髪を掻き上げる。
「そう話を急がないでくれ」柿本は苦笑いを返す。「実は、小説を書こうと思ってるんだよ」
「ほう」
「恋愛ものにしようと思ってね。主人公が恋をする相手になる女性を中心に据えるわけだけど、そのイメージが沸かないんだ」
「読者に理想と思わせるだけのヒロインを描きたいわけだ。難しい話だ」
「何か考えがないかな?」
田辺は手の甲を鼻に押しあてて少し考え込んだ。やがて顔を上げて答える。
「あまり余計な描写を加えないのがいいだろうな」
「どういうこと?」
「身体的特徴にしろ、内面にしろ、一つでも気に食わないところがあれば好きなところも霞む。魅力は減点法だ」
「だから描写を抑えめにして、なるべく嫌われないヒロインを、まあ、演出しようってわけだな」柿本が眉を傾けて腕を組む。
「そうだ」
「俺はそうは思わないな。そうやって作られたヒロインは無難なものにしかならないんじゃないか。むしろ欠点があってもそれが霞むほどの美点があったほうがいい。魅力は加点法だよ」
「かといって挑戦すればするほど、万人には受け入れられなくなる気がするがな」
「でも誰にでもわかるような恋愛を鏤めても、『あるあるネタ』にしかならない。新鮮な魅力が必要になる。そのための試行錯誤を繰り返さなくてはならないんだよ」
柿本が身振りを加えて熱弁を振るう中、田辺は頬杖をつき直し、目を細めて一言だけ言い放った。
「難しい話だ」
柿本と田辺は、日本の端に位置する高校に通う同級生である。
一クラスに四十人は所属しているが、突飛なことばかりを口にする柿本とまともに会話をするのは、田辺一人であった。マイペースで掴みどころのない田辺に話しかける相手も、柿本しかいない。自由気ままに振舞っているうちに、二人は敬遠され、クラスの中で浮いた存在となっていた。無論、それを気に留める二人ではない。
その日も田辺の突然の提案によって、いつもどおりの会話が繰り広げられていた。
「なあ、いい考え浮かんだか?」
「飯くらい黙ってくわせろ」
柿本の熱気は昼休みにまで及んだ。教室の隅で広げた弁当を田辺は不機嫌そうに口に運ぶ。そこへ柿本も自分の弁当を乗せる。
「おい。せまいだろうが」
「いつものことだし、いいだろ」
「頻度は関係ないと思うがな」
眉を顰める田辺に笑いかける柿本だが、田辺の不機嫌は直らない。そこから一言も発しないまま早々と弁当を平らげてしまった。
「もう片付けるのかよ、少しくらいのんびりくおうよ」
「俺の勝手だ」そう言って弁当箱を鞄にしまうと、田辺は前髪を掴んでそのまま掻きむしった。
「あーあー。そこまで頑張ってひねり出さなくてもいいのに」
「違う。お前の言ったこととは関係ない」言うと田辺は席を立ち、教室の扉に向かう。
「どこいくの」
「便所だ」
振り向かずに答えると、そのまま扉を閉めた。
一人残された柿本は、夜更かしが祟ったか、急激な眠気に襲われてひとつ欠伸をした。
「じゃあな、ちゃんと考えてこいよ。約束な」
「わかってるよ」
学校が終わる。部活にも入っていない柿本はまっすぐに家に帰ることになる。田辺も同じである。
田辺と別れると、柿本は一人家路を歩き出した。
既に陽が傾いている。
夕暮れは余計なまでに赤い。
そのどこまでも続く斑な赤は妙な不安を掻き立てる。
まるで死の色だ。
カラスが鳴いている。
車のエンジン音が疎らに聞こえる。
意味もなく嫌な感覚が満ちる時間。
生命のない負の世界。
孤独の世界が目の前に現れる。
不吉な気分を紛らわせるように柿本は走りだした。
重い夕食を終えると田辺は階段を上がった。
田辺の家族はすごぶる仲が悪い。互いに言葉を交わすことなどほとんどなく、食事の間はそれは居心地の悪い空間ができる。
田辺は二階の最奥にある自室に入ると同時に鍵をかけ、ベッドに倒れ込んだ。
今日も疲れた。
もうこのまま寝てしまおうか。
そうしよう。やらなければならない事などない。
学校の勉強など起きてからすればいいだけの話だ。柿本に相談された事にしても、考えるだけ無駄だとわかっている。
いざ寝るとなると制服のままでは窮屈だし、風呂に入っていないのも気になる。
体中が痒みと汗の不快感を訴え、顔にかかりそうな前髪さえ鬱陶しい。
とはいえ一度寝転んでしまっては動くのも億劫だ。
ジレンマに苦しんでいると携帯電話の着信音が鳴った。この音はメールだ。
「柿本か・・・」田辺にメールを送ってくる者は一人しかいない。
田辺はやっと体を起こした。携帯電話を開いてメールを確認する。
from: 柿本 hyper_persimmon@fmail.com
to: 田辺 qawsedrftyhujiko@cocomo.ne.jp
date: 10/10/13 18:49
subject: 考えたんだけど、女性視点にしたほうがいいんじゃなイカ?そのほうがやりやすい気もする
body:
「アホが、逆だ」田辺はつぶやきながら返信を打つ。
to: 柿本 hyper_persimmon@fmail.com
subject: お前がそう思うならすればいい
body:
送信が終わるか終わらないかのうちに田辺は携帯電話を閉じ、制服の上着を脱ぎ捨てて風呂場へ向かった。
湯船に浮かんだ自分の髪。切らないまま随分と伸びてしまったように感じる。
そろそろ切ってしまうか。
切ったところでなにかが変わるわけでもないのはわかっているが、少なくとも前髪に悩まされなくて済む。
目を閉じる。
少し体が温まってきた。
水滴の落ちる音だけがする。
心地がいい。このまま寝てしまいそうだ。
自分の生活の中で、唯一心が休まる時間かもしれない。
やはり風呂に入ってよかった。
そういう意味では、柿本に感謝をしなければ。
だが、あまりのぼせてもよくないだろう。
ゆっくりと目を開いて田辺は腰を上げた。
バスタオルでひと通り体を拭くと、下着に続いてTシャツと短パンを身につける。
ふと冷たい牛乳が欲しくなったので、専用のコップに注いで一杯呷った。
喉が潤うのに加え、気怠さが吹き飛び、思考が活性化するのを感じる。
生き返ったよう、とはこのことを言うのだろう。
田辺はコップを流しに置くと再び二階の部屋へと上がった。
部屋に入り携帯電話に目をやると、また何通かメールが来ているようだが、今度は確認をしないで眠りに入る。
数分もすれば、田辺の意識は浮き上がり、混沌の中へ落ちていった。
翌朝、田辺が登校するとすでに柿本が田辺の席の座っていた。怪しい笑みを浮かべている。
「できたのか」田辺が尋ねる。
「ああ。プロットはね」柿本は歯を見せて笑った。
「結局俺の力はいらなかったんじゃねえか」
「いや、諦めたんだ。やっぱり他人に理想と思わせるものを作るのは至難の業だよ」
「じゃあ何ができたって言うんだ」田辺は眉を顰める。
「理想は個人が持つものだと昨日言ってたろ。だから俺個人にとっての理想のヒロインを前面に押し出したんだよ」
「お前の理想じゃ、好感は得にくいだろうな。まあ、出来たら読ませてくれ」
「それはちょっと・・・」
あ?俺は協力者だぞ、と言いかけてやめる。無理を言ってまで読ませてもらうようなものでもない。田辺は黙った。
「いや、やっぱり読んでもらおうかな」柿本が開き直ったように言う。「でもその前に、お前にとっての理想のヒロイン、というものを聞かせてくれよ」
「それを俺に聞くか」田辺は苦笑する。
「まあいいじゃないか」
「俺の理想か。うん・・・まあその・・・」田辺は言いにくそうにたじろぐ。
「うん?」
「ヒロインってのは、その・・・主人公に当たる人物のパートナーであるべきだと、俺は考える」
「パートナーねえ」
「恋人という意味ではなくてもだ」念を押すように付け加える。
「わかってるよ」
「その意味で・・・俺にとってのヒロインというのはお前しかいない」
最後はごまかすような早口になって、田辺は言った。言ったきり顔を伏せてしまった。
その隣で柿本は顔を赤くして小刻みに震えていた。
呆れ返るように晴れた秋の夕刻、舗道を縦に並んで歩く一組の男女の姿があった。
「いやー、俺がヒロインと呼ばれる日が来るとはね・・・」柿本はまだ笑いを隠せないでいる。
「お前があんな質問をするからだ」田辺はその前を、下を向いて歩いている。
「いや、悪かった悪かった」
「悪いと思う必要はない」
空はどこまでも続き、太陽がそれを紅く染め上げている。
光が街の建物の群れにぶつかって輝く。
その光景を、柿本は初めて美しいと思った。
「昨日書いた小説のヒロイン、実はお前なんだよ。いやー、書いて正解だったなあ」
言うと柿本悠一は声を上げて笑う。
田辺理香子も、振り返らずに笑った。
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