第1節 変身
チャイムの音とともにけだるい授業が終わる。
時刻は12時半。
土曜は半ドン。ということは、今日のカリキュラムはこれで終了だ。
俺はひとつ欠伸をかますと、鞄を掴んで席を立った。
「終礼受けないのかよ」
「ああ」
「まあ受ける意味ないもんな。担任が担任だし。それで許されるお前が羨ましいよ」
「俺は授業だってサボりたいくらいだ」
「だはは、さすがにそうはいかんだろう」
友人といくつか言葉を交わすと、忌まわしき担任の姿が目に入らぬうちに教室を出た。
友人の発言通り、俺は朝夕のホームルームを始め、いくつかの学校行事を許可無く欠席することが黙認されている。成績が抜群なのもあるのだろうが、周囲の教師が揃って職務怠慢なのだ。この学校でありがたいと思ったことは、今のところそれだけといって差し支えない。
外はいい天気だ。
天が高い。空気が透き通っている。暖かな日射し、柔らかい風。
今の季節はすべてが心地よい。こんな日に引きこもって勉強なんて馬鹿げている。
一日中庭に寝転がってひなたぼっこをしている方が数倍有意義だ。
それもあと10日もすれば叶う。
もうすぐ春休みだ。
「ただいまー」
返事はない。この時間、両親は仕事なので当然だ。
昼飯をどうするか、と思いつつダイニングに入ると、ラップにくるまれた唐揚げの皿。
「ははあ、母さんが置いていったな」
俺はラップを剥がし、まだ少し温かい唐揚げをひとつ口に放った。
うまい! テーレッテレー。
肉汁が口腔中に染み渡る。それでいて油っこすぎずあっさりした味わい。これはいける。
二つ目の唐揚げに手を伸ばそうとした瞬間、俺の股間が何者かに蹴り上げられた。
「ん!? んげがああああ!!」
床に倒れこみ、暫く痛みにのたうち回る。我に返って見上げると、奈津が顔をしかめて仁王立ちしていた。
「何をする! 金玉は大事な臓器なんだぞ!」
「うっせぇ。なに人の唐揚げくってんだよ」
「お前のだなんて知らなかったんだよ! だいたいなんだ。お前、学校はどうしたんだ」
「休暇を取ってきたの」
「なに! 年に10日しか取れないんだから盆と彼岸にとっときなさいってお兄さんいつも言ってるでしょうが!」
「うっせぇ。もっぺんけるぞ」
失念していた。
春先のこの季節には、毎年奈津が帰ってくるのだった。
奈津は俺の2つ下の妹で、忍者だ。
5年前、つまり俺が12歳、奈津が10歳の時だが、奈津は突然小学校を辞めて忍者になると言い出した。俺も両親も冗談だと思って笑い飛ばしたのだが、翌日奈津は失踪した。
警察沙汰になり、町内を揺るがす大事件となった。
次に奈津と会ったのはそれからだいたい3ヶ月後。なんと奈津は、本当に忍者の里とやらに入門し、専門の学校にまで入ってしまっていたのだ。
里の責任者によると、初めは保護者を呼んで追い返すつもりだったらしいのだが、あまりの熱意に負けて試しに鍛錬をさせてみたらあまりに筋がいいのと、小学生の身で里に一人でたどり着いた根性(なにせ忍者の里というのだから、その所在は闇に隠されているのだそうだ)とを買って入学を認めたとのことだ。
俺は当惑した。ふざけていると思った。
両親は憤慨するかと思ったが、あっさりと了承した。
そこまでやりたいことならやってみればいい、とのこと。ただし、身の安全を責任者に約束させた上でのことだったが。
おそらく、奈津がすぐに挫折し、諦めると目論んでいたのだろう。
ともあれ、そうして俺の妹は晴れて忍者デヴューを果たしたのである。
それから5年。奈津は卓越した才能を発揮し、今や道場でいう師範代クラスの実力を身につけ、雑多な任務にあたっているとのこと。忍者の里などという馬鹿げた団体に仕事があるという事自体、俺には驚きだ。
その奈津が、俺の金玉を蹴り上げたのである。忍者の里は何を教えているというのか。
「どうしてくれんの、唐揚げ」
「どうって、また買えばいいじゃないか・・・金なら出すし、何なら作ってもいい」
「その言い草は何だ!」
「お前こそ何だよ。俺が食っちまった分を俺が作る。無問題だろうが。自分で言うのも何だが俺のは結構旨いぞ」
「そういう問題じゃないんだよ。一度失った唐揚げは帰ってこない。目の前にある唐揚げすべてを愛する! それが我々人類の義務であり、かけがえのない喜びなのではないだろうか!」
「人類の俺が遂行したんだからいいじゃねえか・・・」
『偉い! よく言ったでござる』
突如鳴り響いた声。
驚く俺を尻目に、「曲者!」の一声で奈津が苦無を飛ばす。
苦無は天井に刺さった。
いや、正確には天井に張り付いていた男に。
男は呻き声を上げてバランスを崩し、大きな音を立てて落下した。気絶している。
まったくもって怪しい。
天井に張り付いていただけでも十分すぎるほどに怪しいのだが、刮目すべきはこの男が着ている中国服だ。
「変な奴だな。ござる、とか言ってたけど忍者の一派かな?」
「失礼ね、今の忍者はそんな変な言葉遣いしないの。昔だってしてたかわかんないのに。それにチャイナ服なんて着るはずもないし」
「でも天井にいただろ」
「確かに只者じゃなさそうね。私が全く気配を感じなかったくらいだし」
「とりあえず縛っておこう」
「そうだな」
「んはっ! ここはいずこ!?」
「お前が侵入した家だよ」
目を覚ました中国男に奈津が蹴りを入れる。
「ぐはぁん! いたいでござるぅ!」
態度が気に食わなかったのか、奈津は倒れた男をリズムよく踏みつけ続ける。俺も殴ってやりたいが、このままでは死んでしまう。
「そのへんにしとけよ。聞きたいこともある」
「しょうがないな」
奈津はようやく鉾を収めた。気を取り直して男に話しかける。
「おっさん、あんた何者だ」
「よ・・・よくぞ・・・聞いてくれたでござるぅ・・・」
おっさんは既に満身創痍だ。
「私は、唐揚げの神でござる!」
「嘘だね。おまえなんかが唐揚げの神のわけねえ」
神の存在は信じるのね。
「ただで信じてもらえるとは思っていないでござる。証明するだけの力をお見せするでござるよ」
「縄は解かないよ」
「結構。それではしばしお待ちくだされ」
言うと男は座禅の格好になり目を閉じた。少し場が固まる。
暫くして男がかっと目を開くと目の前に唐揚げの山が現れた。
「・・・驚いたな。ほんとに唐揚げの神だったのか。世の中には私の知らないこともいっぱいあるんだなあ」
「わかっていただけたでござるか」
「ただこれ床にぶちまけちゃってんだけど容器は出せないの?」
「私に生成できるのは唐揚げだけでござる」
「ふーん、まあこの唐揚げはありがたくいただくけどいいよね」
「お好きにどうぞ」
驚いたというが、奈津の言動は極めて冷静なものだった。
俺は驚愕のあまり一言も発せずにいるというのに。
これはどういう状況だ。なんだ唐揚げの神って。なんでその神が俺んちの天井にくっついてたんだ。どうやって唐揚げを出したんだ。ラヴォアジエの質量保存の法則はどこに行ったんだ。なんで俺の妹は平然と超常現象を受け入れているんだ。それもジーンズの上からケツを掻きながら。忍者だからなのか。
「どうしたの、ぼーっとして」
奈津の声で我に返る。
「いや・・・ちょっと衝撃がでかすぎだろ・・・」
「そうだなあ。でもまあ目の前で見せられちゃ受け入れるしかないだろ」
「そりゃそうだが・・・ってかそれ喰うのかよ。地べたに落ちたやつだぞ」
「地べたに落ちたって唐揚げは唐揚げさ」
「いやいや汚いから。俺が作ってやるからそっち喰え。な」
「汚い?」
突然背後から声がした。振り返ると、神が縛られたままこちらを睨んでいる。さっきまでの間抜けな様子は影を潜め、その瞳は業火に燃えるかのように赤い気魄に満ちている。
「今、汚いと仰ったのでござるか?」
「いや、下に落ちたやつだからさ・・・」
「お主は無礼者でござるな。そういえば、先程も唐揚げを軽んじる発言をしていたでござる」
「そういやしてたな」
後ろから奈津が割り込んでくる。
「黙ってろ。お前が入ってくるとまたこんがらがるだろうが」
奈津を追い払って神へと向き直す。
「いや軽んじてるわけじゃないんだって。どうせなら綺麗なやつを食べたいじゃないか」
「問答無用! 愚かなる食者よ、罰を受けよ!」
神が叫ぶと、その背後から閃光が発する。
「唐揚げに、なぁ〜れっ!」
は?
俺は光りに包まれ、意識を失った。
目が覚めると俺は唐揚げだった。
信じられん。
これからどうやって暮らして行けと言うんだ。
「おい、どういうことだ神! なんで唐揚げになってんだ俺! そんでなんで喋れるんだよ。目も見えるし」
「日常生活に支障を来さない程度には配慮したのでござる。歩くこともできるでござるよ」
「なにその中途半端な気遣い。どうでもいいから戻せ」
「ヤ、でござる」
「なっ・・・!」
「お主が唐揚げの心を解するまでは戻す気はないでござる」
取り付く島もない。そのまま神はそっぽを向いてしまった。
「いや似合ってるよ兄貴。いっそ一生その姿でいたら?」
「ふざくんな! このままじゃ腐るだろうが」
「それも運命ってことだ」
「黙れ。自分の運命は自分で切り開くわ。ってことで戻せよ。な。神さん」
「まだまだ反省が足りんでござるな。食っていいでござるか」
「いいよ」
「よくねぇえ!」
-幕間-
「そういや、あんたなんでも唐揚げに出来んだよな」
「基本的にはなんでもいけるでござるよ」
「じゃあ縄を唐揚げにして脱出できたはずだな」
「ええ」
「蹴られてる時に私を唐揚げにすることもできたわけだ」
「できたでござる」
「なんでそうしなかったの?」
「唐揚げを愛する者に罰は与えられませぬし、それにもう1つ」
「何」
「わたしはMなのでござる」
「悦んでたのかよ」
第2節 試練
「孝一、牛乳取って」
「いやごめん、唐揚げの体だからとれんわ」
「いいからとれ」
「無理だって」
「はい、母さん」
「ありがと、奈津」
おかしい。なんで唐揚げになった俺が普通に受け容れられてんだ。
「お母さん、おかわりお願いするでござる」
「自分でよそれ」
なんでこいつうちで飯食ってんだ。
っていうかなんで唐揚げの神なのに嬉々としてコロッケを頬張ってるんだ。
「孝一も災難だねえ、神様に唐揚げにされちゃうなんて」
「よくそう気楽でいられるな。このままだと腐って死ぬぞ俺」
「なに、お前がちゃんと研鑽を積めば神様だって許してくれるさ」
「ほのほーりでごある」
神は3杯目のご飯を飲み下すと、B5のルーズリーフを取り出した。
「これがお主が完全なる唐揚げとなるためこなすべきカリキュラムでござる!」
「完全なる唐揚げになんかなりたかねーよ!」
「冗談でござる。しかし元に戻るには唐揚げの心を理解してもらうといったはず」
「っていうか神様の試練なのに巻物とかじゃなくルーズリーフなわけ? カリキュラムとか言っちゃってるし・・・」
「神とて今を生きているのでござる」
「一理あるな。古来より存在しているからといっていつまでも昔のままでいる道理はない」
「少しはもっともらしいこともいえるのね」
母と妹は感心したように頷く。
「それも違うでござる。実はわたしは今32歳でござる」
「随分と若い神だな。私よりも下じゃないか」
「そちらは30過ぎには見えぬでござるな」
「ああ。私は見た目若いね」
「そこで素直に肯定できるのが母さんの凄みね」
雑談で盛り上がる家族(と神)をよそに、俺はルーズリーフを読み終えた。
体が小さいと、これだけの作業でもかなりきつい。
「やっと読んだのでござるか」
「先が思いやられるな」
「ほんとだよ」
「うるせー」
内容は大きく3つ。唐揚げとして然るべき生活を送ること。(然るべきってなんだ?)毎日唐揚げの神殿への参拝をすること。そしてThe ピーズの『カラーゲ』を毎日聞くこと。
「おい最後のはなんだ」
「わたしの希望」
奈津が手を挙げる。
「お前かよ! 忍者のくせにピーズなんて聞いてんじゃねえ」
「忍者は関係ないね」
「とにかく明日からは、参拝とピーズ鑑賞を毎日やるのでござる」
「神殿ってのはどこにあるんだ?」
「近所の神社の建物を一棟を拝借しているでござる」
「いいのかよそれで」
「ノープロブレムでござる。神社に行くときは、歩くのを人に見られぬよう」
「ああそうだよな。まあ人通りも少ないからいけるだろう」
「よろしい。それでは明日からしっかり修行に励むでござる」
「あ、学校は?」
「しばらく休みな。どうせ春休みだし。連絡は私からしておくよ」
「そりゃいいな」
翌日、俺は朝から神社へと向かっていた。
「くそ・・・いつもなら5分とかからないってのに・・・」
1時間ほど歩いたが、まだ半分も到達できていない。歩くといっても、体を捩ることで進む行為だ。だから余計に時間がかかる。
「ほいほい、頑張るでござるよ」
「なんでついてきてんだ。余計目立つだろう」
「だが急に人に出くわしたときに少しはごまかしが利くでござる」
「そうかな・・・」
しかし情けない。何故こんなちっぽけな唐揚げの体で、歩くこともろくにできないで、無意味に神社を目指さなければならないのか。唐揚げの心など分かりたくもないし、これで分かるとも思えない。
「さあ、もうすぐそこでござる」
ようやく神社だ。石畳を歩いて行く。
「神殿ってのはどこにあるんだ」
「見れば分かるでござる。ほれ」
神が指さした先には『唐揚神殿』と書かれた看板があり、犬小屋が建っていた。
「神殿って犬小屋だったのかよ・・・」
「宮司が自宅で飼っていた犬が病気で死んでしまったので、犬小屋を借り受けたのでござる」
「ともあれこれでやっと到達か。長かったぜ」
「帰りもあるのでござるよ」
「あーくそっ」
2時間弱は歩いたので、暫くベンチで休むことにした。俺はベンチに昇れないので、その横に座る(?)。
今日もいい天気だ。
いやはや春というのはいい季節だ。すべてが穏やかで、やわらかい。
一陣の風が吹くと、心地よい空虚を感じる。
いい季節だ。
惜しむらくは人間の体で享受できないということだ。
深呼吸をしても、新鮮な空気を受け容れる肺がない。
「やっぱり早く戻らなきゃいけないな・・・」
しばらくすると、すぐそこの建物から男が出てきた。白髪混じりの老人だが、背筋は伸びている。銀縁の眼鏡と茶色のベストがよく似合って見えた。
「おや、宮司さんではござりませぬか」
「ああ、あなたは唐揚げの・・・」
神が声をかけると、男が寄ってきた。なるほど、宮司か。しかし本当に知り合いとは。
「神殿を貸してくださって、いつもありがたく存じておりまする」
「処分に困っていたところでしたから。本日はどのような御用で?」
「彼の修行に付き合ってきたのでござる」
言うと神は俺を掴み、掌に乗せて宮司に見せる。
「ほう・・・この唐揚げはまさか」
「そのまさかでござる」
宮司は上から俺を覗き込んできた。ジロジロ見られるだけというのも気分が悪い。
「どーも、唐揚げにされた瀬木孝一です」
宮司は少し驚いた様子を見せだが、すぐに平静に戻る。
「本当に喋る、いや歴とした人間なんですね・・・」
「そうです。そこの神とやらの仕打ちを受けて、この姿ですがね」
「えっ」
宮司は戸惑うような表情を浮かべた。
「どうかしたんですか」
「い、いえ・・・」
「さて、そろそろ休憩は十分でござろう。行くでござるよ。宮司さん、またお会いしましょう」
神は返事もまたずに宮司に手を振り、俺を手に持ったまま歩き出した。
「おい、どうしたんだ。何を急いているんだ」
「なんでもないでござるよ。それじゃそろそろ、自分の足で歩くでござる」
俺は石畳へと放り出され、再び体を捻って進む作業に駆られた。
「こりゃなんかおかしいぜ」
奈津の部屋に大音量でピーズの『グレイテスト・ヒッツ VOL.2』が流れている。今は『このままでいよう』だ。
俺はテーブルの上から、ハンモックで悠々と揺れている奈津に語りかけた。
「そんな姿形で、今更おかしいも何も無いだろう」
「いやそりゃそうなんだが、何か違和感があるんだよ。あいつ、本当に神なんだろうか?」
「見たところそうとしか思えないな」
「でもあれだぜ。あいつが唐揚げを生み出したりものを唐揚げに変えたりできるとはいっても、神だとは断定できないじゃないか」
「確かにね。でも神じゃないと言ったら、何か変わるのか?」
「まあそうなんだけどよ・・・」
「外出の時に何かあったの?」
「神が犬小屋を借りてる神社の宮司に会ったんだ」
「犬小屋なのかよ」
「それも驚きだよな。んで、恐らくだがその宮司、俺があいつを神と呼んだら不思議そうな顔をしたんだよ。それを見て、神の奴は俺をひっつかんで逃げ出した」
「そら怪しいかも。でももし嘘をついてるんだとしたら、何の意図があるのかな」
「うーん・・・まあそのうちまたあの宮司に会えるかもしれない。その時に何か聞いてみるとしよう」
「そーね。のんびり行こうか。兄貴、神に下手に逆らったりするんじゃないよ。このまま戻れないなんてことになったら、私も嫌だし母さんも悲しむ。あの人も表向きじゃあんたをからかってるが、心の底では心配してんだよ」
深刻な空気が流れる。鳴り響くハルさんの声だけが『さんざん気持ちいいったらねーぜ』だった。
次の日からも修行が続いたが、あれ以来宮司の姿は見かけなかった。
そして俺の体も綻び始め、危機を覚えるようになった五日目、異変が起こった。
-幕間-
「俺の体って何の唐揚げなの? 鳥?」
「お主の唐揚げでござる」
「えっ」
「あえていうなら、人でござるな」
「えっなんなの。福山さんのパイみたいなアレなの」
「ああ近いでござるな。なかなかいいところを突く」
「えぇーグロいなー・・・なんかがっかりだわ」
「悔しいならもっと立派な食材になってみせるでござる」
「なにいうてんの」
第3節 神
朝の光を浴びて目が覚めた。
目の前に腕がある。試しに動かしてみると、思い通りに動く。
飛び起きる。あたりを見回そうと首を動かす。思い通りに動く。
「人間に戻ってる・・・」
間違いなかった。視界も元に戻っている。
俺は四肢を動かしてベッドを降りた。それだけで、実感が沸き起こる。
不意に部屋の扉がノックされた。
「兄貴ー、起きてる? 朝飯できたから迎えに来たよ。開けるぞ」
返事よりも先に扉が開いた。奈津が現れる。
「あっ、戻れたのか。よかったな。これなら迎えに来ることなかったな」
「ってことは、夢ではなかったってことか」
「ああ。現実に唐揚げになってたよ」
「しかし、いきなり戻れたのはどういう了見なんだろうな。神はどこに?」
「そういえば今朝は見てないな。どうしたんだろ」
二人がかりで、しばらくすると両親も加わって家中を探したが、神は見つからなかった。
そして居間に戻ってきて、神が落下した時の床の傷が消えていることに気がついた。
神は、一切の手がかりとともに、跡形もなく消えた。
俺は神社を訪ねた。
宮司の家のインターフォンを鳴らすと少し枯れた女性の声(宮司の妻だろうか)。俺が名乗ってしばらくすると、宮司が出てきた。
「人間に戻れたんだね」
「ええ、おかげさまで。それで、唐揚げの神と名乗ってたあいつ、今どこにいるかご存じないですか?」
「悪いがわからない。僕も君といたときに会ったのが最後だよ。それと、気づいているかも知れないが・・・」
「あいつ、神なんかじゃないってことですか」
「うん。彼は僕と会った時、『唐揚げの思念』と名乗っていた。どちらにせよ、常世のものではないんだが」
「・・・すみません。お尋ねしていいですか?」
「なんだい」
宮司が眼鏡を上げてこちらを見る。以前会った時と同じ眼差しだ。
「あいつが現れたのは、いつのことですか?」
「そうだな。うちの犬が死んですぐだから・・・三ヶ月ほど前かな」
「わかりました。ありがとうございます」
「お役に立てたかな」
俺は宮司に何度か礼をして、その場を去った。
宮司は黙って微笑んでいた。
「おかえり。何か分かった、兄貴?」
家まで帰ってきた俺は、まっさきに奈津の部屋に入った。
「ああ。全部分かっちまった。神の正体も、俺に何がおきたのかも」
「はあ?」
「あいつは俺から生じた思念体だったんだよ」
「待って、順序立てて説明してくれ」
「少し気狂いじみた話になるぞ」
忘れもしない三ヶ月前。
冬休みが始まり、テンションが最高潮に達した俺は、溢れるリビドーを抑えきれず、下手すると街中で性犯罪でも犯しかねない危険な状態だった。
隙あらば欲望の赴くままに妄想を繰り広げ、暴れ、壁に頭を打ちつけながらしごいた。
そしてただの肉欲で満足できなくなった俺は、とうとう禁忌を犯した。
食卓に並べられた唐揚げで抜いたのだ。
俺は唐揚げに憧れ、欲情し、愛した。だがそれは一方通行の愛情にすぎず、行き場を失くした盲目な感情は思念体となって現れたのだ。
「そしてあいつは、俺の目の前に現れた。一度は唐揚げを愛しておきながら、代替可能なものと軽んじた俺に罰を下すために」
「恐ろしい話だな・・・」
「お前に聞かせるかどうか、何度も迷ったんだ」
「その結果、話すことを選んでくれたのは嬉しいよ。兄貴に隠し事なんてして欲しくない」
「うん。こっちもお前に隠し事をしたら殴られると思ってね。それに今回の事は、確かに苦痛ではあったけど、俺にとっては少しも悪い出来事じゃないんだ」
「ほう?」
「あの日以来、俺は平生に戻ったけど、唐揚げへの歪んだ思いは掻き消えることなく尾を引いていたんだ。今回唐揚げになったというのも、その憧れの現れだったのかも知れない。今回、それが吹っ切れた気がする。だから、神も消えたんだと思う。俺はもう、あの日の唐揚げを忘れられる」
「唐揚げの苦しみを理解したから?」
俺は首を振った。
「自分が自分であることの喜びが分かったからさ」
「クサイこと言うね。今更か」
「俺はお前らいい家族に囲まれて、旨い唐揚げをいくらでも食べられる幸せ者だ。それだけで、前向きに生きていける」
「そりゃよかった。でも私は頭おかしい兄貴も好きだからたまには迷走してくれよ」
もう迷わない。
人として生まれた幸せを、余すことなく享受してやる。
呼吸をするたびに空気が肺を満たすその一度一度を、大切にしていこう。
俺には生を謳歌する権利がある。
そうだろう、神よ。
トップに戻る