人に迷惑をかけたくないと、彼は考えていた。だから、できるだけ早く死んでしまいたかった。生きている限り人に迷惑をかけるのだから、死んでしまいたいと。自殺のように家族に迷惑をかける死に方ではなく。いっそのこと世界が滅亡してしまえばいいと、彼は本気で願っていたのだ。人の迷惑に巻き込まれて死ぬことは、人に迷惑をかけて生きることより幾分かマシに思われた。
 その日豪雨の中を彼は歩いていた。出るときは降っていなかったから、傘は持っていない。引き返すのも癪だからと歩いているうちに土砂降りとなった。車通りの多い割りに、狭い道路だったが、雨のせいかいつもより車は少ない。少々気を抜いてしまっていた事と、暗い色調の服装であったことが災いしたのか、雨で視界が悪い中運転しているトラックは彼に気づかなかった。ぼんやりと歩いている彼にトラックは突っ込んで来た。トラックに気づくのが遅れた彼に、避けようとする余裕はなかった。だから、トラックを見た時『あ、死んだな。』という言葉しか心に浮かばなかった。
 結果的に彼は死ななかった。———とある青年が彼を助けて死んだ、と聞かされた。横から彼を突き飛ばしたらしい。そのことを聞いたときに浮かんだ感情は困惑だった。理解できなかったし、認めたくなかった。その感情とは別に、死に損ねた、という思いも浮かんだ。生き損ねた、とも。人生そのものが失敗したように彼には思われた。失敗した。生き損ねた。

 彼にはほとんど怪我はなかった。気絶したときに出来たタンコブくらいのものである。ただ、一応体に異常がないかの検査をするために数日入院することとなった。

 その青年のことは、彼が大学生だったらしい、くらいしか聞いていない。特に聞きたいとも彼は思わなかった。死者のことを語る言葉は彼の耳には白々しく無意味に響いていた。
 その青年が死んだ、という事実だけが彼にとって重要だった。彼のために死んだ、というのでなければ彼はたいして衝撃を受けなかったであろう。彼が見知らぬ他人のことで心を痛めることなどほとんどない。しかし、この青年の死へのショックは、食事も喉を通らないほどだった。その入院中は、いつも頭の片隅で青年の死について考えていた。
 見舞いに来る人も何人か居たが、それ以外の暇な時間は、何もしないで過すには長すぎた。結局、病院の売店から適当に買った本を読んで過ごした。
 その数冊の本の中にO・ヘンリの短編集があった。その中の『最後の一葉』という短編が妙に引っかかった。過去一度読んだときにはこのような違和感は感じていなかったのに、これは一体どういう事だろう。昔はハッピーエンドだと思っていたその話も、今では救いのない話に見える。画家は自分の生涯唯一の傑作を描いたのに、それが役目を果たしたと知らずに死んだ。少女は自分の妄念のせいで画家が死んだことを教えられた。どこに救いがあろうか。少女の命は救われたが、言ってしまえばただそれだけだ。誰も、この話では救われていない。
 
 何をしていても空虚感が共にあるようになった。生き損ねた、という言葉も彼について回る。生き損ねたのだ。決定的な失敗だ。彼はもはや生きているという実感すらなかった。

 検査の結果、まったく体に異常は見られなかった。明日には退院して良いと医者も言っていた。そもそもトラックにはねられたのは彼ではなくて青年なのだから、異常などあるわけがない。
 そうして退院する前日、夢を見た。名前も覚えていない元クラスメイトの夢だった。
 小学2年の時だったろうか、肉が食べられないクラスメイトがいた。家の近くが屠殺場だったらしく、肉を食べようとするとどこからか家畜たちの悲鳴が聞こえてくるような気がして、気分が悪くなるのだそうだ。その彼に一度、悪童達がそれとわからないように細切れにした肉を給食に混ぜてその子に食べさせるという悪戯をしたことがあった。なんとなくそわそわした空気の給食の後、その事を教えられたその子はその場で激しく嘔吐した。騒然となるクラスの中、その彼の苦しそうな顔に言いようのない不安感を感じる。『こいつは一生肉を食べられないんだろうな。』と思い、体にまとわりつくような不安を感じたことを覚えている。
 記憶がそのまま夢になったかのようだったが、ただそれだけであるのに彼にとってはこの上ない悪夢だった。ああなってはお終いだ。己はもう死ぬことも生きることも出来なくなるじゃないか。

 退院した日、何かに突き動かされるように事故の現場へ向かった。そうせねばならぬと理由もなく思っていた。事故の現場は花が添えられていたのですぐにわかった。ふと道路の脇を見ると肉屋がある。青年はここから出てきたのではないか、と思い当たったので、その肉屋へ入ってみる。中年男性がカウンターの奥にたたずんでいた。彼に気づいてのそのそと出てくる。店主と思われるその男性に思わず、事故の前に青年が何を買っていたのかを聞いてしまった。その質問を受けて初めは怪訝そうな顔をした店主も、彼の真剣な態度に気圧されたのであろうか、唐揚げを五個買っていた、と最後には彼に教えることとなった。じゃあその唐揚げを五個下さいと彼が言うと、ますます怪しむような様子を見せながら、唐揚げを包んだ。自分でもなぜ青年と同じものを買うのかは分からなかったが、やはりそのようにしなければならないように感じた。
 唐揚げを携えて家に帰る。その日の夕食はその唐揚げを食べることにした。
 唐揚げを食べ始めるとすぐに、涙が流れてきた。そういえば事故から今まで泣いていなかったと気づいた。一口食べるごとに涙が流れる。味などは分からなかったが、彼はどうしてもこの唐揚げを食べねばならない気がした。こうしなければ生き直せない。こうすれば己は生き直せるのだ。消化しなければならない。血肉にしなければならない。———でなければ誰も救われない。
 涙の意味は彼にはわからなかった。後悔か喜びか。あるいは懺悔かもしれなかった。
 あるいはこの日が己が本当に生き始めた日かもしれないと彼は後になって気づいた。


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