別にこれから特別な話をしようとしてるのではない。
いや、むしろつまらない男の、くだらない出来事を語ろうとしているのだ。
だからこの話に題は無く、彼の名前を語る事も無い。

 彼は、流されるように生きてきた。周りに合わせて、自己主張することもなく。影のように、といっても良いかもしれない。
勿論、物心ついた時からそうだった、というわけではない。もともと彼は正義感の強い子供であった。
子供ながらに、正義をなさねばならぬ、正しく在るべきなのだという念が根底に有ったようである。

 しかし小学校に入って彼は変わらざるをえなかった。
多くの者が経験するだろう挫折である。集団の中で我を通すのは難しい。それが正しいかどうかは全く関係が無いようだった。
どうやらそこでは、正しさとは違う何かに価値が置かれているようだった。
そんな中で彼は器用に立ちまわれる訳でもなく。幾度ともなく失敗を繰り返すうちに彼はしだいに無気力な人間となっていった。
 それは、人生を見限った、などというものではない。ただ挫折して拗ねているだけであったといえよう。

 そうやって日々を過ごして行く内、彼は違和感を覚え始めた。その違和感は初めは些末なものに過ぎなかった。
中学生の内は、形もはっきりとせず、時折ふっと顔を出す程度の存在だったのだ。
だが、高校生になると、次第に大きく、無視できないものへと膨れ上がっていった。
その違和感を感じる時、もはや発作と呼んで良い程の不安に駆られるようにすらなったのである。 

 ———流されるように生きてきた所為か,自我というものに不安が付きまとうようになってきたのである。
それは、彼がアイデンティティを喪失した後、その回復に努めなかったことから来たのかもしれなかった。
しかし、彼に分かることは原因ではなく結果であり、彼にとって重要なのも原因ではなく結果であった。
 自我の不安、という表現が正しいかは分からないが、発作がおきた時、彼は自分の連続性が信じられなくなるのだ。
昨日の自分と今日の自分が同じだと、誰が保障してくれようか。今日の自分が明日別人に成り代わられていたら。
この不安は『我思うゆえに我在り』などという論理では拭うことは出来なかった。
疑っているのは今日の自分の存在ではなく明日の自分の存在なのだ。
・・・彼には時折、ほんの5分前の“自分”の考えですら理解できないように感じられることがあった。

 そんな発作のおきたある日、帰り道すらも不確かな気がして、彼は道をわざと間違って進んでしまったようだった。
ようだ、などと表現しているのは、もはや今の彼にとってその判断すら不確かなものに変わってしまっていたからだ。

 ふと、われに返ると、彼は山にある団地の公園でブランコに座っていた。
覚えているのは、自分が迷子になっているときに感じていた、狂おしいほどの孤独感だった。
あるいはそれは多幸感を伴いすらしていて、それに導かれるようにして彼はここにたどり着いたのだった。
一応自分の行動自体は覚えているから、夢遊病とは言わないのかな、と、くだらないことを考えているうち、彼ははたと気づいた。

 あの不安がきれいさっぱり、消えうせている。今の彼は、確かに、ついさっきまでの彼に連続している。
しかし、それとは別に異物感があった。

———やはりまだ異常なのだろうか。
———いや、きっと正常だろうよ。夕日がきれいに見える位余裕があるのだから。
———いや待て、今まで夕日がきれいだなんて思ったことがあったか?
———いやいや、———

 そうやって思考を重ねていくうちに、彼は今の自分の状況が見えてきた。
どうも、彼の中の自我は完全に分裂してしまったらしい。
何をするにしても、別の彼が反論し、何も決まらない。結局、彼は自分の意思ではまともに動けないままである。
一見すると、これは変わってない、あるいは不安が取り除かれたのだからいいことのように思われるかもしれないが、彼には、前よりも歪で、不幸な事態に感じられた。

 以前の彼は、一応自分というものは存在していたのだ。だからそのとき限りでは有るが、自分の意見も持っていた。
だが、今の彼は、意思を持つことすら許されないようだった。
何を考えても、それと同時に、反論が思い浮かぶ。
どちらも彼の考えなのだから、どちらかに決めるということも出来ない。

 どうも、迷子のときに感じた孤独感で、彼の自我の仕切りが崩壊してしまったらしい。
彼はもはや、“彼ら”として混ざり合って存在していた。
ほとんど意見の一致することのない“彼ら”に共通していたことは、過去彼が感じていた不安感を耐えがたく思っていたこと、
そして何より、今の異物感の方がその何倍も耐え難いものだということだった。

 “彼ら”には一生、後悔と懐古が付きまとうこととなる。
ああ、僕はあの時かけがえのない今を過ごしていたのに、どうして過去で縛るなんて愚行をしてしまったのだろう、と———


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