ある時、一人の老人が死んだ。
水のひんやりとした、浅い三途の川を渡りながら老人は考えた。
「この人生もあっと言う間、とうとう終わってしまったか・・・」
霧がかり白くぼんやりとした向こうの対岸に老人は目を凝らした。
おそらくあそこまで行けばいいのだろう。
裸の足で川底の冷たい石を踏みながら、老人は透き通った水をちゃぷちゃぷと前へ進んだ。風は全く吹いていないようで水の流れと老人以外に動くものはない。
少し歩いてようやく岸に辿りついた。こちらの岸も霧がかかっていて辺りは灰色の石ばかりで隙間からは彼岸花が少し生えている。
老人は見渡してみたが、同じ景色がぼんやりと広がっているように見えて視線を落とした。老人以外には誰もいない。
「へぇ」
老人は少しかがむと足下の彼岸花を思わずつまんでみた。寒い時節に真っ赤に咲く本来のものと違い、花びらが百合のように真っ白なのだ。
「死人の血で赤くなるってのは本当なのかねぇ」
捨子花とも言うから捨て子だったか、本当に生えてるんだな、とつぶやいた。口を閉じると水のちょろちょろちょろ、という音だけが聞こえた。
もう一度岸の奥を見たが何もない。仕方なく老人はよっこらっせ、と近くにあった小岩に腰を下ろした。疲れたから、というよりは年をとってからすぐ座ってしまう癖がついていた事に気付いた。
「はぁ・・・・・・・」
老人はもう一度溜息をつき直してつぶやいた。
「俺の人生も終わっちまったか・・・・息子は・・・まあなんとかやっていくだろう・・・大した金は残せなかったが孫の顔も見れて・・上々の人生だっただろうか?」
足下で彼岸花がふらりと揺れた。老人はつい濡れた足でころ、から、と小石を蹴ってみた。と、石の下に何か金属のようなものが見えることに気がついた。
「なんだ」
小岩から離れると老人は手で小石をばらばらと退けだした。するとそこに現れたのは、青銅製だろうか、50cm四方ほどの金属版だった。
そこに文字が刻まれている。
「・・・・・」
老人は読むと急に動きを止めてしまった。とても口は開かなかった。

なんだ?

考える前に次々と生前の出来事が脳裏をよぎった。
しかしその後は何も思い出せない。
「一体どうした、俺は何を」
老人は無意識に閉じていた目を開けた。
目の前の彼岸花は毒々しい真っ赤に染まっていた。老人はそれを我に返って見つめると、立ち上がって川を振り返った。川の流れは変わらない。
「俺は死んでいいのか?そう思うよな」
「どうして?」
対岸から声が聞こえた。
「俺はな・・・」
老人が何か言おうとしたとき、急に後ろから体を引っ張るものがあった。
「あーあ、駄目だ駄目だ、こういうものだ」
「どうして?」
老人の体をゆっくりと霧が覆いつつあった。老人は苦笑した。
「そりゃあ、来ちゃいけないってやつだろうよ。」
「・・・・・」
「これでいいんだ、こんなものだ、これっぽっちだ。」

ふっと風が吹くと、もう老人の姿はどこにもなかった。


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