誰も寄り付かない空き地の隅に、使われなくなったトイレがあった。
 そこに男は暮らしていた。
 伸び放題の雑草を主食に、古びた便器を寝床にして。
 男は既に人としての誇りを投げ捨て、粉々に砕いて飲み下し、うんこへと消化してしまっていた。
 声の出し方も、物事の考え方も忘れ、誰と関わることもなく、人知れずただ生きているだけの存在。いや、彼のこの状態を『生きている』とは認めない人もあるだろう。
 男にとって、世界は果てしなくどうでもよかった。

 ある晴れた日。
 男はいつものように雑草を貪っていた。
 そこへ、幾人かの若者の笑い声が近づいてくる。
 男は叢に飛び込んだ。
 人間が現れるとすぐさま隠れる。いつの間にかついた習性である。
 大概の人間は、そうすることで獣と勘違いして、無視してくれる。尤も、姿を見られない限りにおいて、男と獣に等しい存在だった。人間にとっても、自分にとっても。
 だが、その日は効果がなかった。その音に興味を惹かれたらしい若者たちは、空き地にずしずしと入り込んできたのだ。
 彼らが叢を少し探ると、男がすぐに見つかった。若者たちは大いに笑った。
 見るに、彼らは近くを縄張りとしている不良少年たちのようだった。その多くが顔にピアスをあしらい、歯並びの悪い口からタバコの匂いを放っている。
 不良のひとりが喜びに満ちた叫びを上げて男を蹴飛ばした。
 それに続いて他の不良たちも彼に暴行を加えていく。
 伸びに伸びた髭は好き放題毟られ、傷だらけにされた体中から血が滲んだ。
 それでも男は抵抗しなかった。ただ耐えていた。いや、そのまま殺されても構わなかったのだろう。今まで生きてきたのも、空腹に苛まれるよりも目の前の草を貪ったほうが楽だったというだけのことだ。
 
 不良少年たちは、ひとしきり暴虐の限りを尽くしたのち、飽きてしまったのかその場を立ち去った。
 男は今にも腐り落ちんばかりの肉体をさらして倒れていた。
 微動だにしない瞳の焦点は失われ、周囲には蝿が集ってくる。
 彼は生きていた。
 結果として生き延びた。それさえも彼にはどうだってよかった。
 男は暫く何もせずただ倒れていたが、日が傾きだすと、いつものようにトイレの中へ戻ろうと立ち上がった。
 その時であった。不意に空き地の中央のあたりから旋風が巻き起こり、砂埃が立った。
 同時に現れたのは、奇妙な出で立ちをした小柄な少女だった。髪を後頭部のあたりで縛り、黒い装束を纏っている。顔立ちは子供のそれではないが、成人もしていないだろう。
 周囲を警戒し、危険がないと分かったのか、安堵の色を浮かべて一息つく。
 男は隠れることも忘れて呆然としていたが、少女が落ち着きを取り戻したことで我に返り、物陰に飛び込んだ。
「ん?誰か居るのかい?」
 少女は首を捻ってあたりを見渡す。やがて男の姿を捕捉すると、その目は丸く見開いた。
「驚いたな。人がいるなんて全く気づかなかったよ」
 男は、どこかへ逃げなければならないという危機感に襲われた。
「あんた、人の気配が全くしないんだな。どちらかというと犬猫のそれに近い」
 男は頭を振って逃げ道を探す。
「それにしてもひどい有様だな。誰かにやられたのかい?」
 男は何も答えず、ただ頭を振る。
「幾つか聞きたいこともあるけど、今はその傷の治療が先決だな。来てくれ」
 少女は男の服を、いやかつて服であったボロキレを、背中からつかみ、彼を担いだ。
 男は逃げるのを諦めた。
「すこし飛ぶよ。舌をかまないようにしてくれよ」
 言うと少女はその言葉通りに地を蹴って飛び上がった。ものすごいスピードで民家の上を屋根から屋根へと駈けていく。
 男は戸惑って何も出来ず、ただ運ばれるがままであった。

 少女は三階建てのオフィスビルの前で立ち止まった。すでに日はどっぷりと暮れていて、街灯だけが道を照らしている。
「着いたぜ」
 それだけ言うと、少女はビル脇の階段を昇り、三階まで来ると男を下ろした。
 扉には厳重な鍵がかかっている。
 男はまだ呆然としていた。やがて落ち着きがない表情になり、キョロキョロと首を振り回し始めた。唇を震わせ、顎を揺らしている。
「心配するなよ。怪しい者じゃないからさ。ここを拠点に私立忍者をやってる『篝火』って者だ」
 少女は手際よく鍵を開けた。

「せんぱーい!遅かったじゃないでぶげ!いでぇ!」
 建物に入るやいなや駈けてきた茶髪の少女を、篝火の手刀が射止める。少女はそのまま倒れた。
「なにするんれすか・・・」
「忍たるもの、一瞬の油断が命取りなんだよ。精進しろ」
「ぐすん・・・これでもすげえ心配してたんですからね・・・」
 そこまで言うと、少女はブレイクダンスのように回り、その勢いで起き上がった。気を取り直して口を開く。
「それでその男は何なんです?」
「私もよくわからないんだけどさ・・・拾ってきた」
「育てる責任もないのに安易に拾ってきちゃだめですよーう」
 篝火は背負っていた男を降ろし、壁を背に座らせる。
 男はなにがなんだかわからないといった風で瞬きを繰り返している。
「『雷槌』、ちょっとあっちいってろ」
「あーなんですかー!?わたしは邪魔だっていうんですかーっ!?先輩ひでーおごげっ!」
「そういう所が邪魔なんだよ」
 雷槌と呼ばれた少女は、篝火の横蹴りを腹に受けて失神した。
「おっさん、喋れるかい?」
「・・・ア・・・アア・・・?」
「んー、ヤバめだな・・・まあちょっと手当てするからよ、沁みるけどじっとしててな」
 篝火は懐から丸いケースに入った塗り薬を取り出した。それを指につけると男の傷口にテキパキと塗りこんでいく。
「・・・ガ・・・ンガガガ!!」
「我慢してくれよー」
「・・・モ、モウダイジョブ、ダイジョブダカラ・・・!」
「大丈夫なもんかよ。・・・ん、今喋ったよな?」
 男を見返すと、呼吸を荒くして肩を震わせるだけで、先ほどと変わった様子はない。
「うーん、まあ記憶が完全には失われてないってことだよな」
 ひととおり塗り終わったのを確認して、篝火は箪笥から救急箱を取り出す。
 男に包帯を巻き、丁寧にテープで留めていく。
「・・・アア・・・」

「よーし、こんなもんだろう」
 処置を仕上げると篝火は手を叩いた。 
「雷槌だったらもっと綺麗にできたですよ・・・」
「起きてやがったか」
「先輩がばんばん殴る蹴るするから気絶グセがついたんですよ。耐性も」
「そりゃ悪かったな」
 篝火が救急箱を片付けていく。それを箪笥にしまうと、雷槌が男をじっと見ているのに気づいた。
「どうした?」
「・・・さっきまでとなんか違いませんか?なんというか、戸惑ってるような」
「ここに来てから戸惑いっぱなしだったじゃないか」
「そうじゃなくてですね。うーんなんて言えばいいんだろ・・・意識が入り混じってるというか・・・」
「そういわれれば少し変わったかも」
 眉を顰めて首を傾げる雷槌。やがて合点したように頷いて、目を輝かせていった。
「そうだ、葛藤してるんですよ!」
「雷槌、それは誤読だ」

 男は動揺していた。
 自分の中に未知の蠢きを感じていた。
 それはかつて人であったときに彼が持っていた情緒の成れの果てであった。
 獣のような暮らしの中で忘れられ、腐っていたものが再び命を持った。
 目の前の少女が自分にした行為が、彼の中の情緒を呼び覚ましたのだ。
 痛みと窮屈さの中で一瞬だけ現れたそれの正体を掴めず、男は動揺していた。
「ウウ・・・アガガ・・・?」
 男は自分という存在の不確定さを自覚した。自分に疑問を持った。それが既に人たる証であった。
 男の中に、少しずつ人間らしさが戻ろうとしていた。

「それでどうするんです、このひと」
「んー、どうしようか。市役所に突き出して鉄格子のついた病院に入れるのも可哀想だよな」
 男は部屋の片隅で、警戒した様子で縮こまっている。
 篝火は冷蔵庫からコンビニの蕎麦を取り出し、啜り始めた。雷槌はすでにパジャマに着替えて歯磨きをしている。
「かといってここに住まわせてあげるにも食費が持たないですよ」
「うん。あまり長く世話してあげられるわけじゃない」
 そばを啜る篝火。
「だがなんとかして、彼が社会復帰できる状態に持っていこう」
「まあわたしたちもまともな社会生活送ってるわけじゃないですけどね」
「それはそれだ。彼の記憶が戻せるなら一番いいんだがな」
「狼に育てられてるかも知れないですよ」
「はじめから野生ってことは・・・まあねえだろ。たぶん根本的には人間だよ。さっき喋ったし」
「そういえば、ちょっとずつ人間の気配が増している気もしなくはないですが」
 篝火は蕎麦を食べ終えると、流しで容器を洗ってプラスティック用のゴミ箱に放り込む。その間に、雷槌は口を漱ぎに洗面台に立った。
「といわけで私は明日も早いから寝るよ。仕事もあるし」
 篝火も髪を解き、寝る態勢に入っていく。
「・・・ん?ってことは明日はわたしがおっさんの相手をするんですか?」
「非番だしちょうどいいんじゃないか」
「めんどくせーですねえ・・・そこまでしておっさんに入れ込んでどーするんです?」
 言いながら雷槌は蒲団を取り出し、潜る。着替えを終えた篝火も蒲団を広げた。
「どうするってわけじゃないけどさ。だって獣になっちまった人間だぜ。絶対面白いぞ」
「雷槌を付きあわせてでもですか?」
「無論だよ」
 言うなり篝火は電灯を切った。
 二人の忍者はもう一言も発しなかった。男は暫く身構えていたが、二つの寝息を確認すると警戒が解けたのか、ころりと眠りに落ちた。

 カーテンの開く音がして、光が差し込んでくる。雷槌は目を覚ました。
 寝ぼけ眼を擦ってあたりを見回すと、篝火は黒のスーツを着込み、ネクタイを締めているところだった。その目にはサングラスが掛けられている。
「起きたか。私はもう出かけるよ」
「今日はボディガードですか。私立忍者大変ですねえ」
「不本意な仕事も多いけどな。生活のためにはしょうがねえ」
「まあそこは雷槌も微力ながらサポートするですよ」
「おう。じゃ今日はおっさんよろしく」
 篝火が指さすと、部屋の隅に座りこんでいた男が視線を向ける。
「すっかりくつろいでますね。昨日は縮こまってたのに」
「私もお前も敵意はないからね。そこは察してくれんだろう」
 篝火は玄関に行くと靴箱から革靴を引っ張り出し、履き始めた。
「じゃ行ってくるわ」
「車に気をつけてくださいねー」
「忍者に言うことか」
 言うと篝火は片手をポケットに突っ込み、あいている方の手を振って出ていった。
 玄関の扉が閉まるのを見届けて、雷槌が男のほうに向き直す。
「お世話といっても何をすればいいんでしょうねー」
 男は何も答えず、ただ雷槌を見つめている。いや、何も見ていないのかも知れない。すでに人間の気配は影を潜めていた。
「とりあえずそのみすぼらしい服装を何とかしなきゃですね。折角の休日、お買い物に繰り出しますか」
 言い終わるまでには雷槌は着替えを始めていた。
「それにしても、先輩のような幼児体型ならともかく雷槌のこの魅力あふれる肢体を見ても何も思わねーですね・・・おじさん致命的ですよ」

「ということで、まずはユ○クロですよね」
 雷槌は男を連れて低価格衣料品店に向かっていた。男も雷槌に親しみを見出しているのか、抵抗なくついてくる。
 黒のダッフルコートにハイネック、ミニスカートに茶色のタイツといった雷槌の出で立ちに比べ、髭は剃ったものの、ボロキレまみれのミイラになっている男は道中目立った。何度も警官に呼び止められそうになったが、そのたびに雷槌が男を抱えて逃げ出していた。
 ようやく○ニクロに到着したのは昼前であった。
「お客さん、困りますって!」
「何が困るですか。私はこの人に合う服を探しに来ただけですよ」
「ですが」
「うるせーです。おじさん、このジーンズなんかいいんじゃないですか。痩せてるから似合うですよ」
 店内でもミイラは注目の的だった。店員が焦って止めに来るが、雷槌は動じない。
「試着室借りるですね」
 言うと男の腕を引っ張り、個室が並ぶスペースに向かって歩いて行く。
「ちょ、ちょっと、お客さん!」
 店員も男の腕を掴み、
「なんですか!うるせーって言ってるでしょうが」
 雷槌が声を荒げる。男は二人に挟まれておろおろしている。
「それともなんですか、この店は自分のイメージのためならちょっと見苦しい格好の客を追い出すっていうんですか!横暴そのものですよ!みなさーん!聴いてくださー」
「わかりました!わかりましたから!ちょうどいいサイズの品をこちらで見繕いますから、今はどうか外へ」
「チッ!いいでしょう。そのかわり、おじさんにぴったりの服を用意しなかったらただじゃおかないですよ!」
 そう啖呵を切る雷槌を、男は不安気に見つめていた。

「あーもう!腹の立つ店員だったですね」
 雷槌はユニ○ロの袋をいっぱいに抱え、憤慨して言う。隣にはタートルネックのトレーナとジーンズを着た男。
「おじさん、大丈夫だったですか?あいつに腕を引っ張られて怪我が増えたりしてないですよね」
 男は答えず、キョトンとしている。しかしそれからすぐに雷槌の目に焦点を合わせ、全身を見回すように視線を動かした。
「もしかして、私の心配してるですか?」
 男は頷かない。代わりに雷槌をじっと見つめた。
「雷槌は大丈夫ですよ。伊達に鍛えてないですから。メンタル面でもね」
 そう言って雷槌が無理矢理ガッツポーズを作ると、男の口許が緩んだ。
「お、ちゃんと笑えるじゃないですか」
「・・・ア・・・」
「昨日と違って落ち着いてますね。さて、モ○にでも入りますか」
 雷槌もニカっと笑った。

「お腹へってたんですねえ・・・というかジャンクフードなんて贅沢なもの、食って来なかったんですよね」
 男は5個ものハンバーガーを既に平らげている。満足そうにそれを見つめる雷槌。
「ウ・・・ウア?」
「雷槌はもうお腹いっぱいですから」
 男は不審げな顔をした。
「そんな顔してもお腹いっぱいですって」
 苦笑する雷槌。男はその様子に、なにがしかの情緒を覚えていた。
 見覚えがあった。
 それが何なのかはわからない。記憶の海を漂い流れる、遥か彼方の断片のようなもの。
 しかし男にはその面影が、輪郭が雷槌に重なって見えた。
 男はいつの間にか考えていた。自覚がないとはいえ、思考という営みが始まるほどに、男は人間に戻りつつあった。
「おじさーん。ハンバーガーはもういいですか」
 雷槌の声で男は我に返った(帰る我が既にあるのだ)。手に喰いかけのハンバーガーをもったまま放心していたらしい。
 男はそのハンバーガーを口に放り込むと、口の周りを舐めた。
「食事終了ですね。でもきたねーですよ。拭いてあげますから」
 そう言うと雷槌は紙ナプキンで口元を拭いてやる。
「じゃあそろそろ帰るですか・・・あれ」
 雷槌の携帯電話が鳴っている。忍者学校で支給された特注ものだ。番号を知っている人は数えるほどしかいない。
「はい、雷槌です」
『私だ』
「先輩。どうしたですか」
『お前私のことを幼児体型と言いやがったな。まだ聞こえてたぞ』
「バケモノみたいな耳ですね」
『それはいいんだ。忍者の里とのネットワークを使って、ちょっと調べてみたんだ』
「おじさんのことですか?」
『うん。ここ十何年かの間、この街で行方不明になった若い男が居なかったかって』
「そんなのいっぱいいるに決まってるじゃないですか」
『一般的にはそうでも、里は大概把握してるさ。忍者が消した者も多い』
「ひぇー。それでどうだったですか」
『それでも十数件はある。その中の一つなんだが、この街に出てきていたはずの息子が忽然と姿を消したと警察に捜索願が出された事例があったらしい。七年前のことだ』
「ほほう、それでそれで?」
『息子の写真をみたんだが、どう見ても昨日のおっさんだった』
「話が早いですね」
『ということで、実家に帰してあげることができそうだ』
「でも当のおじさんがこれですからねえ」
『まあそこはうん・・・とりあえず8時くらいには帰るからな。弁当よろしく』
「わかりましたー」
 電話が切れる。雷槌は携帯を仕舞いながら男のほうに向き直った。
「よかったですね、おじさん。帰れるですよ」
「?」
「おうち帰れるですよ。おうち」
「・・・オウチ・・・?」
「家ですよ」
「・・・イエ・・・イエ!アアアア!」
「ど、どうしたですか?そんなに雷槌と離れたくねーですか?」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
「お、落ち着くですよ、おじさん!」
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア
 狂ったような叫びを上げながら、男の意識は薄れていった。


 あー。
 頭いてー。
 なんだっけ?
 どうも意識がはっきりしねーな。
 俺何してんだっけ?
 っていうか俺、何だっけ?
 たしか人間だよな。人間ってなんだ?
 何も思い出せねー。
 でもなんだろ。
 なんか、なんだ?
 なんともいえねーけど、なんかなんだよな。
 えーっと。
 ん?あれ、体が動かねえ。
 っていうか、体どこだ?
 視界が真っ白だ。
 なんもみえん。
 これはまさかあれか。いまわの際って奴か。
 まじかよ。
 死ぬのかよ俺。
 まあでも、死んでもいいよな。
 どうせ記憶もねーんだし。
 このまま何も分かんねーままでいても、つらいままだしな。
 でもなあ。
 なーんか思い残してる気がすんだよな。
 なんだっけ?
 あー・・・
 えーっと・・・
 まーいっか。
 とっとと閻魔様に会いに行くか・・・
 でもなんか、申し訳ないな。
 なんにだ?
 これが先立つ不幸って奴?
 なんにだ?
 えーなんだっけ。
 最近考えた気がするんだけどな。そいつらについて。
 最近っても、覚えてねえけど・・・

 ・・・さーん、お・・・すよ・・・

 あ?
 なんか聞こえんな。
 声だな。
 そうだよ。人間ってのは声でしゃべんだよ。
 それにしても、なんか聞き覚えがあんな。

 ・・・ん、・・・え・・・ろ!

 また声がする。
 なんか必死な感じがするな。
 そーだよな。
 みんな生きてる限り必死だよ。そりゃ。
 俺は必死になったこと、あったっけ・・・?
 ん。
 あー・・・なんかぼやけてきた。
 なんかの影が見えんな。
 まだ開くのか、俺の目。
 まあそりゃそれでいいけどよ。


「おじさん、起きるですよ!」
「目えあけろ、おっさん!」
 ああ、こいつら最近見たぞ。なんだ?誰だっけ?
「先輩、目を覚ましたですよ!」
「・・・一安心だな」
 ああそうだ。昨日から世話してくれてる奴らだっけ。忍者とか言ってたな。
 しっかしどうしたんだ俺。茶髪の方なんか涙目だけど。
「俺に何かおきたのか?」
 おお、うまく声が出ねえ。よくよく見ると、俺ガリガリじゃねーか。だいぶ衰弱してやがる。
「記憶が戻ったですか!?」
「記憶はほとんどねえ。お前ら、俺がなにか分かるか?」


「正式に名乗っておこうか。私は私立忍者の篝火という者だ」
「助手の雷槌ですー」
 気をとり直したように座って、二人の忍者が名乗る。
「ああどうも。私立忍者ってのがよくわからねえがまあいいだろう。それで、俺のこと分かるか?」
「身元は分かってるよ。だからあんたを実家に送り返そうと思ったんだけど、家って言葉が出た途端にあんた、発狂したみたいでね」
 篝火が腕を組んで答える。
「ああそうか。そうだ。思い出した。そうだ家だ」
 男は合点したように頷いた。
「俺自分ちが嫌いで、飛び出して一人暮らししてたんだよ。そうだそうだ。ドンドン記憶がクリアになっていくな」
「こっちでの家はどうしたんだ?」
「家賃が払えなくて追い出されちまったよ」
 
「ほんとに嫌いだったですか?」
「いや嫌いって言葉には語弊があんな。疲れたんだよ」
「疲れた?」
 雷槌が首を傾ける。
「気を使ってもらうのに疲れたんだ。親も兄貴も世話焼きでね。ああそう、兄貴もいたんだったな」
「なるほどね。昨日から、私たちの行動に家族を思い出して悶えてたってわけだ」
「親父肌の先輩の頑固さと母性あふれる雷槌の優しさの賜も・・・いでででででグリグリやめて!」
「おらあ!」
「あがががががが!エレベーターやめてええ!頭割れるー!」
 握りこぶしで雷槌の頭を挟み、力任せに持ち上げる篝火。これは痛そうだ。
「まあそうだな。昨日は篝火さんが包帯を巻いてくれたときには、確かに親父を思い出したよ」
「ム・・・」
「まあそれもこれも、二人が親しみを持って接してくれた結果だと思うよ。ありがとうよ」
「それはいいんだが、これからどうする?」
 男は少し考えて、答えた。
「そうだな・・・」

 男は家の前に立っていた。
 十年ぶりの自分の家である。
 しかし、その敷地に足を踏み入れる動きはない。
 ただ、何らかの意思を宿した瞳で建物を見つめている。
 家の周りを、何度かぐるぐる回ってみる。
 そうして生まれ育った家の様子を目に焼き付けてから、男は名残惜しげに立ち去ろうとした。
 誰かが立っていた。
「芳彦・・・」
 兄だった。信じられないといった目で、男を見つめる。その目が次第に潤んだ。
「生きてたのか、芳彦!」
「ストップだ、兄貴」
 兄が肩をつかもうとするのを、男は即座に止めた。
「俺がどうして行方不明になって、何をしてたか、今はまだ言えねえ。でも、必ず戻ってきて話すよ」
 兄は呆然としている。
「だから、少しだけ待っていてくれ」
 男の態度から覚悟を感じ取ったのか、兄は涙を拭い、そして頷いた。
「じゃあ今は行くよ。俺がきたこと、母さんには内緒にしててくれ!」
 言うと男はふらついた足取りで走りだした。兄はただその場にじっとしている。
 通りを曲がり、停まっていたミニクーパーに乗り込む。
「よかったのかい?」
 サングラスを上げながら、シャツ姿の篝火が尋ねる。
「いいんだよ。今の俺じゃあ、親に顔向けなんて出来ねえ」
「親御さんは無事だっただけでも喜ぶと思うですけどね」
「それじゃダメなんだよ。ちゃんと職を持って、父さん母さんを養えるくらいの男になってから戻ってくるさ」
「そりゃ結構なことだが・・・本気なんだよな?」
「ああ。忍者学校に行くよ。そしてお前らの仕事を手伝う。俺は、お前らの恩にも報いたい」
「仲間が増えれば嬉しいですよ。おじさんなら尚更です」
「安月給だぞ」
 篝火はカラカラと笑う。そして、ギアに手をかけた。
「そんじゃ、そろそろ行くか」

「ああそうそう。そのおじさんっての、やめてくれねえかな。俺まだ27なんだよ」
「えー」
「俺もお前のこと巨乳って呼んでやってもいいんだぜ」
「えー。わかったですよう。なんて名前なんですか?」
「兄貴が芳彦って呼んでたから、多分芳彦だと思う」
「まだ思い出せてないですね・・・」
「んー。折角だから忍者名をつければいいかもな」
 運転席の篝火が口を挟む。
「『迷子』とかどうだ?」
「いいですねえ」
「なんで俺だけ情けない感じなんだよ」
「んー、じゃあ何にするかな。獣みたいな風体をしてたから・・・」
「『鬣』とかどうです?」
「いいかもな」
「巨乳ちゃんにしちゃいい発想だ」
「やっぱり『おっさん』しかねーですね」
 三人声を上げて笑う。白いミニクーパーは、彼らの本拠地に向けて走っていく。
「あっそうそう、おっさん記憶戻ったし今日から別室な」
「そういえば雷槌のことをエッチな目で見るようになったです」
「えぇー!さびしいだろ!見なきゃ見ないで致命的とか言ったくせによー!っていうか鬣って呼んでよー!」
「その名前は一人前になってからです」
「まあ期待してるから。頑張れよ、おっさん」
「はっはっは!くそったれが!やってやるよ!ビッグになって見返してやるからな!うんこみてーな誇りを見せてやらあー!」


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