都会ではまだ多くの人が眠っているであろう朝の4時に、工藤は山奥のテントの中で目覚めた。
秋も終わり、木枯らしの吹き始めた山は非常に寒く、防寒着を着ながらシュラフに入っているというのに工藤の体は少し震えている。しかし工藤は口元に笑みを浮かべた。この身に染みこむような寒さこそ山の証なのだ。工藤はゆっくりとシュラフから抜け出し、窮屈からの開放に思わず伸びをする。シュラフで遮っていた分の寒気が容赦なく彼にまとわりついたが、それは工藤にとっては山にいるという実感であり、寒さは清々しさに変わっていった。
シュラフを空気を抜きながら丁寧に畳み、シュラフカバーに包んでザックの奥底に仕舞う。そして逆にコッヘルとガスバーナー、ガス缶とコップを取り出す。最後に、工藤は忘れないうちに袋を取り出した。
準備が終わると工藤はテントから抜け出し、まだ薄暗い周りを見回した。冬深まる山の奥。まだ雪が降っていないとはいえ、こんな所に来るような人は彼以外いるはずもない。だからこそ映える自然の美しさがそこにあった。
夜明け前の暗い色を湛えながらも朝露が至る所で輝いている。そしてその朝露で湿った大量の杉がこれでもかとばかりに天へとそびえ立ち、まだ見ぬこの先の景色を隠し、工藤は楽しみに体を震わせる。登山靴の底は土の柔らかさと草の水々しさを足に伝え、遠くの鳥のさえずりが彼の心を暖かくさせた。こうしたあらゆる生を彼はその全身で受け止め、最後にゆっくりと深呼吸をする。これ以上無いほど新鮮で美味しく冷えた空気が肺に満たされていく。そして吐き出すと、それらは白い息となって周りの空気と同化して消えていった。
山の空気を堪能していると、ふと水の流れる音が工藤の耳をくすぐった。彼は自然と唾を飲み込む。ああ、朝の清い水を口に含めたらどんなに喉を潤すのだろう! 彼はテントに戻り、さっき取り出したものを手に抱え、そのまま茂みの奥深くへと歩いて行く。鼻歌を歌いながらしばらく進むと、澄み切った水の流れる小川がそこにあった。そっと手で水に触れると、その冷たさについ手を引っ込めてしまう。それでも彼は思い切って両手を川へ突っ込んだ。そして水を掬い、顔を洗う。気化熱で一気に熱が奪われ、寒さは取り巻くものから突き刺すものになった。工藤は痛みに顔をしかめる。しかし今まであったふわふわしたような眠気は一気に吹き飛び、ようやく山の一日が始まった気がした。
少しだけ水の冷たさに慣れた所で、工藤は手を洗い、もう一度水を掬う。そしてそれを口元に持って行き、口の中に流し込んだ。冷たいものが喉を潤していき、そのまま胃の中に落ち、今度は胃を冷やす。彼の体は芯から冷え、彼は自然と同化した感じがした。
目を閉じて山をを感じた後、工藤は持ってきたコッヘルを水につけて少し濯ぎ、それに水を溜めた。そしてガスバーナーを地面に置いたEPIガス缶にセットして、栓を緩め、点火する。ガスが燃え始めて急に手元が暖かくなり、彼は何だかほっとした。火を強火にした後、彼は先の水入りコッヘルをガスバーナーに乗せる。後はお湯が沸くまで待つだけだった。
沸騰するまでの間、工藤はまた周りを見渡し、大自然を目に収める。小川のほとりの綺麗な砂。ここにも並び立つ杉。その周りに生い茂るシダ。小川の下流の方を見ると、所々に、苔むした大きな岩が悠然としている。しかし、と彼は思う。これらは氷山の一角でしかないのだ。彼はまだ山の雄大さの百分の一も見ていないことにもどかしさを感じた。早く山に登りたい。だが焦ってもいけない。彼はこの景色を忘れないよう、大自然の一部をじっくりと目に焼き付ける。昔は彼もカメラを持ってきていたが、今ではファインダーで視界が制限されるのが嫌になり、その目で見るようになった。1秒でも長くこの目で自然を見ようとする彼の目は、決してここを忘れることは無いだろう。
長らくそうしていると、いつの間にかお湯が沸いていた。彼は袋を取り出して開ける。そこに入っていたのはインスタントコーヒーの袋だった。彼はお湯を火傷しないよう注意しながらコップに移す。それからコーヒーの袋を開けて粉を注ぎ、コップを揺らして混ぜる。辺りにコーヒーの香ばしい匂いが漂い、彼の鼻孔もそれで満たされる。混ぜ終わると、彼は少しずつコーヒーを飲んだ。自然と同化して冷えた彼の体は熱を取り戻し、火照ってくる。そしてコーヒーの匂いは喉の奥からも鼻に入り、味わい深いものとなった。山で寒い朝に温かいコーヒーを飲むこと。これ以上の至福を彼は知らない。都会のいくら値段の高いコーヒーでも、ここでのインスタントコーヒーには勝てないと彼は思った。最後まで味わいながら飲むと、工藤は名残惜しそうに立ち上がった。そろそろ朝食の準備をしないといけない。
朝食のメニューはおにぎりと菠薐草スープ。工藤のお気に入りのメニューである。彼は再びテントに戻り、調理セットを持ってくる。そして胡座を書いて砂の上に座り、軍手をつけて腕まくりをした。調理の始まりである。まず彼は米をコッヘルに1合入れた。無精米を持ってきたから米を洗う必要はないので冬場は助かる。そして小川の綺麗な水を入れ、コーヒーを作るときにセットしたガスバーナーに載せた。火をつけて蓋をし、沸騰まで待つ。それまでガスバーナーに乗ってたコッヘルのお湯はスープに使うのでとっておく。調理シートの上に洗った菠薐草を置き、適当に刻む。それからスープの素と一緒に先のお湯の中に入れて混ぜる。スープはこれで完成し、彼はそれを飲みながら沸騰を待つことにした。
菠薐草スープもとても美味しいものだった。コーヒー同様体の芯から温まる。スープから溢れ出る白い湯気が工藤の食欲を更にそそる。ゆっくりと飲んでいると、そのうちコッヘルがグツグツという音を立て始めるので、ほんのり弱火にする。コッヘルの蓋の隙間からお米の美味しそうな匂いのする煙が吹き出すので、さらに彼はお腹が減った。
工藤は樹を背もたれに座り直し、足を伸ばした。時計を見ると、まだ朝5時である。都会では光よりも速く進む時間が、山では自らの歩みより遅く感じられる。きっと世界が違うのであろう。彼はほっと溜息をついた。都会には妻もいるし、子供もいる。もちろん仕事をする会社もある。そんな生活が楽しくないという訳では決して無いが、たまに全てを投げ出して逃げ出したくなることがある。そんな時は数少ない有給をとってこうして山に来るのだ。どうして山に来たくなるのだろうかは自分でもよく分からない。山が好きだからという理由があるが、ならなぜ山が好きなのか。そんなことを考える。
そうしていると、突然パチパチという音が工藤の思考を遮った。彼は急いでコッヘルに寄り、バーナーを強火にする。炎は突然大きくなり、コッヘルは急に熱を受ける。数秒もするとコッヘルから漏れ出る煙に焦げたような匂いが混ざり始めたので、彼は調節器を回して火を止めた。後は10分ぐらい蒸すだけだった。
わくわくしながら腕時計のタイマーをセットし、10分を計る。秒数がどんどん減っていくが、こういう時も時間が進むのは遅いんだな、と工藤は少し笑った。彼は伸びをしながら砂の上に仰向けになる。木々の隙間に雲ひとつ無い空が見える。あと1時間もしたら日の出である。その時この空はどんなに美しく輝くのだろうと想像し、彼は楽しくなった。
3、2、1、と工藤が数えたあと、タイマーが騒ぐように鳴り出す。彼はわざと止めないまま、コッヘルを地面に下ろし、恐る恐る蓋を開けた。それと共に大量の湯気が吹き出す。匂いは完璧だった。工藤は杓文字でご飯をつつくと、水っぽくなく、適度な弾力があった。調理成功である。彼は小さくガッツポーズをした。
軍手を脱ぎ、川でまた手を洗ってから工藤は素手でご飯を丸め始めた。そのまま食べても何も支障はないのだが、彼は山での飯はおにぎりと決めていた。気分の問題である。彼はこれでもかとふりかけを掛け、味のりを巻いた。子供の頃から好きなおりぎりだった。そして彼はフライング気味に飲んださっきのスープを引き寄せ、おにぎりの隣に置き、手を合わせて頂きますの挨拶をした。
ご飯が美味しかったのは言うまでもない。ふっくらとしたお米を噛み締めて、工藤は朝はやはりお米に限るな、と改めて確信する。ご飯の美味しさを噛み締めて、彼は満たされた気分になっていく。普段は貧相な食事だと思うのだろうが、彼には、山においてこれ以上豪華な食事を想像することが出来なかった。ここで今日美味しいご飯が食べられることを山に感謝しながら、彼は残りのスープを飲んだ。
ごちそうさま、の声と共に朝食は終了し、片付けとなる。なるべく山を汚さない様にするのが登山マナーである。コッヘルはトイレットペーパーで拭き、ゴミはビニール袋に入れる。あとに残るのは香ばしい匂いの残滓ぐらいであった。
調理セットを腕に抱えて工藤はテントに戻る。器具をザックに詰め始めると、ザックの上から本が落ちた。昨晩読んでいた文庫本である。荷物を全部詰め終わってから彼はその本を手に取る。三島由紀夫の「憂国」。彼の好きな本だ。この本は確固たる美意識を持った男が、それを余すところ無く表現する技術を持っていたという奇跡が産み出した本であり、数ある短編の中で一番素晴らしいものだと彼は思っていた。こういう本を夜、テントの中、ランタンの明かりで読むというのがとても趣深いのだ。この本の表す美しさと自然の美しさはまた別だが、その違いがまた彼の心を豊かにさせる。片付けも後はテントを仕舞うだけなので、しばらく外で読むことにした。
読みながら、工藤は考える。今年は2011年。この「憂国」が発表されてから丁度50年だ。三島由紀夫は別の本で、ずっと50年後、或いは100年後には自分の存在すら知らない時代が来ることを想像しているが、結局そんなことはなかった。100年後もきっとそんな事はないだろう。素晴らしい物は残すなといっても残り、そうでないものは残せといっても消えていく。そういうものだと彼は思っている。この大自然も、なんだかんだあっても残り続けるのだろう。そしてこれからも山は人を惹きつけるに違いない。なぜなら人は・・・。
キリの良いところまで読んで、工藤は本を閉じ、防水のために袋に入れてザックに仕舞う。そしてそのザックをテントから出し、テントの解体にかかる。フライを取り、ポールを外して畳む。中の銀マットも折りたたんでザックの中へ。フライとテント本体も空気を抜きながら袋に詰め、それはザックの一番底へ入れる。後にはパンパンに膨らんだザックしかなかった。
工藤はザックを背負い、目を瞑る。彼はさっき、昔の事を思い出した。高校で彼が所属していた山岳部で聞いた言葉だ。
『人は昔、猿だったのだろう。こんなにも森が恋しい』
何か冗談で言ったような言葉なのだろうが、それでも今、工藤にはしっくりと来た。自然は人類の故郷なのである。だから偶に郷愁に駆られて山に登る人がいるのだ。そして「憂国」がずっと読まれ続けるように、森や山は永遠に人類の故郷で在り続けるのだろう。そう思うと彼はひどく懐かしい気持ちに駆られた。昔自分の先祖がここを出て、今ようやく帰ってきたような、そんな気持ちだった。だから彼は叫んだのだ。
「ただいま!」
その途端遠くの山の端から太陽が顔を覗かせ、その光は山のあらゆる物を包み込んだ。木々の朝露は日に輝き、風景は一変した。霧として辺りに漂っていたコロイド粒子は陽光を帯びて光の筋を具現化させ、空はさらに青く青く輝いた。それは今まで見た中で最も美しい光景だった。工藤はその光景を放心しながら見ていた。朝日に満たされていく中、彼は確かに『おかえり』という言葉を感じ取った。
完全に太陽が登り、景色も落ち着いた時にようやく工藤は我に返った。そして先の出来事を見せてくれた山に感謝をする。その内彼はまた都会に戻る。しかし、今こうしている時間もいつかは郷愁の思いで思い出し、また自分は山に来るのだろうと彼は思った。彼は全てに満足して、今朝一番のすっきりした、清々しい顔をした。そしてこれから登るであろう道の方を見る。
「今日は久しぶりの故郷を堪能しようか」
工藤は足を一歩、前に踏み出した。
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