少女がその場所に足を踏み入れたのは二回目のことだった。
 そこは腐敗していた。
 あるのは、漂う湿気と無気力だけ。
 人はみな抜け殻のように坐り、ドロのように沈澱している。
 地を這うゴキブリだけが妙に元気だ。
 そこは、棄てられた者たちの巣窟だった。

 鉄格子の扉を閉めると、使用人は何も言わず、背中を向けて去っていった。
 少女はありがたいと思い、小さく笑った。
 情けをかけられることは、屈辱以外の何物でもなかった。

 使用人の後ろ姿を見届けると、少女は近くの壁に腰を下ろした。
(嫌な視線を感じるな)
 顔を上げると、少し離れたところに数人の男が集い、ちらちらとこちらを見ている。
(下卑た笑みだ)
 少女が睨み上げるとそれに気づいたらしく、男の一人が向かってきた。
「ねえちゃん、どこから来た?」
 坊主頭の男がぞんざいに言う。少女はそっぽを向いて答えない。
「ケッ、まあいい。ちょっとついてきな」
「何の用だ」
「来れば分かる。まあ新人への洗礼だと思えばいい」
「いやだと言ったら」
「力ずくだ」
「なら力で抵抗するしかないな」
 少女は無表情のまま、指を鳴らす。
「調子にのるなよ。少しは腕に覚えがあるみたいだが、こっちに男が何人いると思って」
「うるせー」
 瞬間、少女が飛び上がって手を伸ばし、その爪が男の顔を切り刻んだ。
「いぎぃっ!?」
「あと何人だ?」
「は、あがっ…!」
 周囲がざわつく。
 男は言葉を発することも出来ずのたうち回る。
 少女はその姿を、蔑みとも哀れみともつかぬ顔で見下ろしている。
「てめえ、よくも!」
「やめろ!」
 襲いかかろうとする残りの男達を、低い声が制止する。
 目を向けると、顔が傷だらけの大男が、憮然とした顔で立っている。
「てめえら、恥を知りやがれ!」
「…!」
 低く響き渡る男の怒声に、男達は縮み上がる。
(こいつが親玉か、面倒なタイプだ)
「あんたよう、すまんかったな。ここには女なんか滅多に来やしねえからよ」
「あんたに謝られたってどうしようもないね」
「そりゃそうだが…とにかく忘れてやってくれ」
「できない相談だ」
「取り付く島もねえな。まあともかく、あんたも調子に乗らないことだ」
(ほらきた)
「あんまり暴れるようだと、狩っちまうぜ」
 男はこれで言うことはすんだとばかりに背を向け、のしのしと去っていく。
 少女はその後姿が見えなくなるまで睨みつけたあと、もとのところに腰を下ろした。

 ふと視線に気づく。
 見ると隣の中年の男がこちらを見て笑っている。
「なんだ」
「ねえちゃん、たくましいな」
 少女は答えない。男がまた笑う。
「どっから来たんだ」
「…尾上家だ」
「島一番の富豪じゃないか」
「私の家系は代々、尾上家に使われてきた」
「ほんじゃあ売りに出される心配もなかっただろうな」
 男は湿気ったタバコに火をつける。
「売られたほうがマシだ」
 自嘲気味に嗤う少女。男は興味ありげに眉を動かす。
「そんなにひどい主人だったのか」
「いいや、そうじゃない」
 言うなり少女は目を瞑った。



「高次様、こんなところで何をされているのですか」
「あっ、星川さん」
 晴れた日の朝、尾上家の使用人である星川が見かけたのは、庭園でまごまごとあたりを見回す次期当主の高次であった。
「とっくに朝食のお時間ですよ」
「いや、ちょっと用事がね…」
「わざわざお庭にですか?」
「うっ…うん」
「その用事とは何でしょう?よろしければ私が代わりにしておきますが?」
「ええと、実はあの、また…」
「カオリ、ですか?」
 星川の鋭い双眸が高次を見据える。高次は頷いた。
「見ていないかい?」
「存じません。ですが探しておきましょう。高次様はお食事にいらしてください」
「そうかい、すまないね…じゃ」
 高次が小走りで去っていく。やがて屋敷に入り、その姿は見えなくなった。
 それを見届けると、星川は口を開いた。
「もう大丈夫ですよ、出てきても」
 紫陽花がガサリと音を立てて揺れる。ボロ布を身に纏った泥まみれの少女が飛び出してきた。
「随分と汚しましたね、カオリ」
「うるせー。なんで私を庇った?」
「庇った?高次様と話をしたくなかったから追い払っただけです」
 カオリは鼻を鳴らし、苦笑する。
「そんなに嫌かね、あの男が」
「嫌いではありません。しかし、腹が立つ。終始オドオドと振る舞って、あれが次期当主の姿ですか」
 カオリは苦笑する。
「あんたは家思いのメイドだ」
「そういうわけでもないのですがね。あなたこそ、隠れるなんてして随分接触を嫌がっているじゃないですか」
「まあ、めんどくせーに違いはないのよ」

 日の本の南に浮かぶ波虞令島。ここでは、外界との接触が絶たれ、住民は自給自足で生活している。
 尾上家を筆頭に、いくつかの名家が島内に屋敷を構え、島の統治を行なっているのだ。
 生活は安定し、大した諍いもなく、島は平和そのものだった。
 しかし一方で、その平和の皺寄せを受けている不幸な者たちもいた。
 それこそが、安定した労働力の源、つまりは奴隷である。
 波虞令島には奴隷制が強く根付き、現代においても多くの富豪が何人もの奴隷を抱えていた。
 奴隷に人権はない。人に使われるためだけに生かされ、ひたすらに虐げられる。
 小林香もまた、尾上高次に仕える奴隷であった。

 香が与えられた部屋(と言っても、高次の部屋から梯子を登った天井裏である)に戻ると、埃にまみれて高次が坐っていた。
「カオリ。一体どこへ行っていたんだ」
「どこに行こうと私の勝手だ」
「…あのなぁ、あまり俺を困らせないでくれ」
「ほうっておけば困ることもない。もともと私の仕事なんてないじゃないか」
 高次は苦笑し、頭を掻く。
「だからといって、キミにふらふらされると、僕がその、白い目で見られるんだよ」
「ただ大人しくしてろってことか」
「本当にすまない」
「謝るな」
 香は小さい声で、しかし鋭く言い放つ。
「謝られると、惨めになる」
 言うと香は煤けたブランケットに潜り込む。高次はしばらく黙って彼女を見ていたが、やがて諦めたように梯子を降りていった。
「高次様」
「ひっ!!」
 梯子を降り切った高次に、予期せぬ声がかかる。
「びっくりさせないでよ…星川さん」
 使用人の星川が、音もなく背後に立っていた。
「彼女、よろしいんですか、あれで」
「へっ?」
「カオリですよ」
「…いいもくそも、どうしようもないんだ」
「と、仰いますと?」
 星川の眼が光る。
「僕はあの子に何をすることもできない」
「こき使ってやればいいじゃないですか、奴隷でしょう」
「…僕はもともと、奴隷制に反対なんだ。人をモノのようにこき使うなんて、間違ってる」
「なのに、何もなさらないんですね」
 顔を歪めて星川が嗤う。
「高次様には力があります。ともすればご当主様にも対抗しうる力が」
「ないよ、そんなもの」
「あります。兄上の高智様を差し置いて次期当主に選ばれているのです」
「それは父が、この俺が自分の言いなりになると思っているだけのことだ!」
「いいえ。高次様自身に人望はある」
 声を荒げる高次だが、星川は動じないどころかますます目を鋭く尖らせて続ける。
「高次様が望めば、いつだってこの島を出ることもできる。その気になれば、カオリもろともね。そのくらいのツテはある」
「…っ」
「それができないのは、臆病だから」
 星川の昏い瞳が高次を見据える。
「貴方に足りないのは力ではなく、度胸。貴方には戦う度胸も逃げる度胸もない。現状を甘んじて受け入れることしかできない!」
「黙れぇっ!」
 高次はすっかり落ち着きを失い、肩で息をしている。表情がクシャクシャに歪み、その眼は魂が抉られたように虚ろだ。
「わかってる、わかってんだよ…もう、やめてくれ…」
「…」
「そうだよ。俺がクズなんだよ。温室で育てられて、ひとりでは何をすることもできない。でも、しょうがないだろ…」
 高次が項垂れる。星川は、呆れたように口をへの字に曲げる。
「いいえ、私こそ差し出がましいことを言いました。なんなりと処罰を」
「…頼むから、今は一人にしてくれ…」
「では、あと一つだけ」
 高次が黙って顔を上げると、前髪がいやにだらしなく垂れ下がる。
「貴方に人望があるのは本当です。皆、頭の凝り固まった者たちが権力を独占しているのに嫌気が差しています。話のわかるあなたは頼りにされている」
 一息置いて、星川は続ける。
「だから、貴方が困った時には誰かを頼ってもいいのですよ。高次様は、ひとりではありませんから」
 それだけ言うと星川は扉を閉めて出ていった。高次は、抜け殻のようにソファに倒れこみ、しばらく放心していた。
 天井裏の香もまた、自分の無力を呪い、一人震えた。

 夜、高次が自室のラウンジでタバコを吹かしていると、ノックの音がした。
「高次、俺だ。入るぜ」
 返事も待たずに大柄の男が扉を開け入ってきた。
 兄の高智である。
「兄さん…どうしたんだ」
「お前よ、最近コッチの方はどうなってんだ?」
 高智は左の親指と人差指で輪を作り、その間で右の人差し指を抜き差ししてみせる。
「最近もくそも童貞だよ死ねボケカス」
「つれねーなぁ」
「兄さん、酔ってんな。さっさと寝ろよ」
「お前よう、せっかくあの小娘がいるんだからやっちまえばいいのによ」
「おい、怒るぞ」
「なーんだよー。いいじゃねーか。どうせ反抗できや…」
 瞬間、高次の拳が、高智の土手っ腹にめり込む。高智は数歩後退すると蹲り、うっと吐瀉物を吐き出した。
「き…さま…」
「うせろ下衆め」
「この野郎…弟のくせに!」
「酔いが覚めたようでよかったじゃないか」
 高次は目を見開き、口の端を歪めて嗤う。
 それを見て、あろうことか、高智も嗤った。
「ハハハ!そうでなくちゃな!」
 眉をひそめる高次を、高智の鋭い目が見据える。
「やはりお前は俺の弟だ。本性はそうなんだよ。誰かを見下すことを糧にしか生きられねえ。それが俺たちの血筋べぶっ!」
 高智の顎先に高次のローキックが炸裂した。
「いいから、消えろよ」
「ククク…覚えていやがれ。跡取りはこの俺だ!そこんとこオヤジにも、そろそろ認めさせてやるからな」
 捨て台詞を残し、高智は走り去っていった。
 残された高次は小さくため息をつく。一筋の汗が頬を流れ落ちた。
「迫真だったね」
「…カオリ。き、聞いていたのか」
「あれで聞こえないほうがおかしい」
 見上げると、香が梯子を降りてくるところだった。高次は苦笑する。
「…柄にもないことをしてしまったよ」
「まああの兄貴を追い払うには、あれでよかったんじゃないか」
「いや、…まあいい。僕は風呂に入るから、もう寝るんだ、カオリ」
「ほーい」

 高次が手際よく着替えを出して浴室へ向かう。
 それを見届けると、香は顔を険しくした。
(悪いが、私はおとなしくしているつもりはない。自分で動かなくては…まずは)
 香がドアノブを掴み、音が立たぬようにゆっくりと回す。
 ふと、何かの気配に気づく。
 そこに潜む邪気。
 悪い予感がした。
 腕を戻そうとする。
 しかし、もう遅い。
 ノブに力が加わり、勢い良く開く。
「キヒヒ…」
 倒れこむ香。それを見下ろすのは、悪意を隠しもせずこちらへ向ける高智だった。
 高智は、咄嗟に香をにのしかかり、その口をふさいだ。
 香はその手に噛み付く。
「逃げたふりして見張っていて正解だったぜ」
 狂気で痛みを感じていないのか、高智は動じない。力づくで香をフルネルソン気味に捕らえ、連れ去ろうとする。
「あのボンクラ、何の意地を張っているんだか…てめえがヤラねえんなら、俺が貰うぜ」
 もがく香。
 手当たり次第に肘鉄砲を繰り出す。
「ハッ、ムダムダ…」
 ふとフルネルソンの腕が緩む。
 瞬間、肘が不敵に笑う高智の顔面に直撃する。
「!?いでぇーっ!」
 唇から血が滲んだ。
「っこーのヤロウーッ!」
 高智は廊下にあった花瓶を掴み、勢い良く香の後頭部に叩きつけた。
 香は、何が起こったのかを把握する間もなく、気を失った。

 目を覚ますと、香は暗い部屋に横たえられていた。体が思うように動かない。
 裸にひん剥かれ、軽く縛られている。おまけにしびれ薬を投与されたようだ。
「お目覚めかい」
 声のする方向に目を動かすと、高智がそばにしゃがんで見下ろしている。
「暴れん坊の小娘もこうなっちまってはただのお人形さんと一緒だなァ、キヒヒ!」
 高智は歯を見せて嗤い、香の頬をペチペチと叩く。悔しさに歯軋りをしようにも、顎が上手く動かない。
「ククク、その間抜けな顔。あいつにも見せてやりてえなァ…おっと」
 高智は何かに気づいたように顔を上げると立ち上がり、ジッパーを下げて己の亀を取り出した。
「ぎっ…」
「もたもたしてると高次が出てきちまうな。オラ、口開けろよ」
「がっ、ごああ…!」
「ハハッハ、いいな。醜い声だぜ」
 力任せに下顎を掴むなり、香の口を無理矢理開かせる。
「カッカッカ、もうパンッパンだよ」
 真っ赤に膨張した男根を口元にロックオンすると、準備完了とばかりに高智はまた笑った。
「さあ、存分に味わいやがれ!」
 叫ぶと同時に逸物を香の口に突っ込み、只管に腰を振り続ける。
 マラカスの歪んだ芳香と汗の蒸れた匂いとの絶妙なるハーモニーが香の喉を、鼻を犯す。
「オラっ!舌を動かせ」
 高智の声も遠くに聞こえる。香は、押し寄せる過剰な刺激を受け止めるので精一杯だった。
「クカカカカ!こいつはいい!これからもしゃぶるためだけのお人形として扱ってやるぜ!」
(私は…何をしているのか…?)
 自由を求めて立ち上がった途端あっさりと捕まり、こうして憎むべき敵の魔羅に苛まれ、されるがままになっている。
「お?何だあその目は!」
(うるせえ!!)
 この様では、いつまでたっても奴隷のままだ。
「うあっ!オラ行くぜ!受け止めろおおおおおおおお」
(変えろ!断ち切れ…!自分の無力を!今!!)

 香は目を見開いた。
 かつてないほどに感覚を研ぎ澄ませた。
 神経を集中させた。
 この一撃に、すべてを込める。
 この顎に、明確な殺意を。
 そして、香は限界を超えた。

 ブチャッ
「アオオオォォオオアアアアア!!!!」
 荒れ狂う絶叫と激しい頭痛の中、香の意識は再び飛んだ。



 波虞令島のそのまたはずれに、山を切り開いた小さな施設がある。
 入り口は牢獄のように閉ざされ、中ではボロ雑巾のような集団が共同生活を送っている。
 彼らは主人によって棄てられた、元奴隷の者者である。
 この施設の正式名称は『被追放奴隷収容所』であるが、その性質と汚らしい様子から、『ゴミ箱』と呼ばれている。

「よーし、てめえらあああ!朝だぞ!起きやがれえ!」
 時刻は朝の5時。『ゴミ箱』を仕切る大男、貝原の声が響き渡り、住人たちは布団を畳み出す。
「ねえちゃん、よく眠れたかい」
「あんたの鼾が聞こえてくるまでは順調だったよ」
 小林香もまた、『男根噛み切り事件』の咎を受けて尾上家を追放され、『ゴミ箱』送りにされた。尾上家当主、尾上興高の意志だった。
 事件以降高次に会うことはなかったが、『ゴミ箱』までの道中で星川に聞いた限りでは、自分を守れなかった罪悪感で寝込んでしまったと聞いた。
(余計な世話だ)
 香は腰をあげた。

 『ゴミ箱』では毎日が肉体労働だ。
 主な仕事は、石切場で石を切り出すことと、それを所定の場所まで移動させること。
 苛酷な重労働に、住人たちはいつも体中擦り傷だらけになっている。
 それは女性の香とて例外ではない。もともと腕力があるわけではない香には、その疲労がすこしずつ負担となっていった。

(ここの奴らが屍のように生気を失うのも已むなしか)
 香は施設内に設けられたトイレに腰掛け、用を足していた。
 トイレといっても、岩壁を刳り抜いて作られた洞穴のなかに、また小さな穴が開けられて下でつながり、汚物が下水として流されるという簡易的なもの。
(ハードな、そして『決して終わることのない』労働。何も得られない。精神的負担は、それで数倍だ)
 絶望的な状況。
 香はニヤリと笑みを浮かべる。
(ふざけんな。私が終わらせてやるよ)
 小水の音が止む。
「その前に…」
 香は視線を後方に向ける。薄暗闇の中に、気配が3つ。彼らは少し動揺の色を見せるが、すぐに持ち直し、こちらに悪意を向ける。
「何を見てる」
 香は立ち上がる。
 男たちは答えず、細長い何かを取り出す。
 石製の錐のようなもののようだ。おそらく、石の端材を持ちだして自分の手で作ったのだろう。
「そんなもので刺そうってことか?やめておくほうがいいよ」
「うるせえ!どうせ使い物にならなくなれば処分されるんだよ、俺たちは。だったら、ここで果ててやる」
「なるほどね。どこかで聞いた声だ」
 真ん中の男は、顔に包帯を巻いていた。香には見覚えがあった。彼女が入所した日、絡んできて返り討ちにした男だ。
「決めたんだよ。どんな手を使っても、お前だけはギッタギタにしてやるってな」
 男が目を血走らせる。香は舌打ちをした。
(さすがにこの状況は分が悪いな)
「できるものならやってみるんだね。根性なしが」
「ハハハ、そんな安い挑発に乗るか。俺たちが怒りに任せて暴れ出せば、動きに無駄が生じてそこを突けるもんな」
(こいつ、思ったよりも冷静だ)
「ゆっくりと、確実に仕留める。こんな外れの洞穴じゃ、叫んでも誰も来やしねえからな」
「仕方ねー。それなら、抵抗するまでだ」
 香は、水洗用のバケツから柄杓を取り出し、水を撒き散らした。
「ぐあっ!冷てっ!」
「つってもこの程度かい!覚悟しやが…」
 瞬間、視界が融けいるように途切れる。
「ぐあっ!いったい何が!」
「…そういうことか。やりやがったな。最初からこいつが狙いだったのか」
 トイレを照らしていた蝋燭式のランプが、水をかけられたことでその役目を失った。
 もともと洞穴であるが故、ひとたびランプが切れるとあたりは真っ暗闇だ。
「くそっ!何も見え…ぶっ!」
「お、おい!何が…がふっ!」
 両脇の男が倒れる。
「夜目が効くみたいだな」
「住んでたところがところだったからね」
「ひどい環境だったんだな。だが、そんな奴は元奴隷階級には腐るほどいるんだよ!」
 言うなり男が石の錐を構え、香の眼球めがけて突きかかった。
 それを感知するや、香は身を捩る。
 顔の左半分に痛みが走る。
 頬に触れると手前から奥にかけてパックリと切れ、生暖かい血を湛えていた。
「手応えアリだ。痛いだろ、怖いだろ。もうお前は、俺の突きを避けられねえ」
 男はチョコマカと動きまわり、香に向かって錐を次々に繰り出す。
 香は間一髪致命傷は避けていたが、それでも確実にダメージは刻まれていた。
「頑張るな。だがだいーぶ反応が鈍ってきたぜ。さあ、これで最後だ!」
 その言葉通り、男は俊敏な所作で香に詰め寄り、その腹部に錐を突き刺した。
「ぐっ…!」
「ハハハハ!これで終わりだ!俺もお前もな…!」
 言うと男は香を力任せに倒し、床に押し付けた。
「さあ、この時がどんなに楽しみだったか。おいお前らいつまで寝てやがる!犯んぞ」
(結局こいつらも、あの男と同じか)
「抵抗したってムダだぜ。そのザマじゃあ失血死も時間の問題だ」
「ク、ククク…」
「ここで笑うかい。気でも狂っ」
 狂ったか、というのも待たず、香は全力で蹴りを繰り出した。標的は言うまでもない。
「くき、きぴいいいいいいいい!!!」
「ハハハ、なんて声だ!」
 男が怯んだ隙に香は起き上がった。そして爪で男の全身を引き裂く。
「最後の最後に弱点を晒すなんて、男ってのはどこにいても馬鹿だね」
(とはいえ、私も…限界か)
 感覚が揺らぐ。次第に遠のく意識の中で、香は上着を引き千切って腰に巻いた。
(死ぬわけには…いかないからな)
 足取りも覚束ないまま、香は這い出るようにトイレを後にした。



「ここは?」
 香が目を覚ましたのは白い壁に囲まれた部屋だった。簡易的な造りの寝台が並んでいる。
 自分もその寝台のひとつに寝かせられ、毛布をかけられていた。
「施設の医務室だ」
 隣に坐っていた大男の貝原が低い声で答える。
「ここにもこんな部屋があったんだ」
「ああ」
「あんた、見てくれてたのか」
「ああ」
「まったく、びっくりしたよ」
 藤崎が少し離れて腰掛けていた。入所初日から馴れ馴れしく話しかけてきた中年である。
「何やらざわついてるから見てみれば、ねえちゃんがトップレスの血まみれで倒れてるんだからな」
「何があったかはだいたい想像がつくがな。あいつらにはきつい灸を据えておく。すまなかったな」
「あんたに謝ってもらわなくてもいいよ。全員ぶっ飛ばしたし」
「そうか…体の調子はどうだ」
「まだ痛いけど割と平気だな。…あんた、よく見れば目の隈がひどいけど、寝てる間ずっと見てたのか」
「ああ。正直目が霞んできた」
「なんでそこまでしてくれる」
「ククク、なんでもクソも…俺はお前のようなやつを、ずっと待っていたんだよ」
 貝原の目に鋭い光が宿った。
「どういうことだ」
「普通、女はこんなところまで堕ちてこねえ。だからこそ勤労内容も女が想定されてない。なぜか分かるか?」
「堕ちないで生き残る方法があるからだ」
「そうだ。女はおとなしくいいようにされていれば誰かに『飼ってもらう』ことができる。大概が捨てられるよりそのほうがいいと判断する。そういうふうに教え慣らされてもいる」
「でも、ねえちゃんはそうじゃなかったんだよな。売られたほうがマシ、とはっきり言った」
「お前は拒絶を恐れなかった。それ以上に、自由を求めた。そうだろ」
 貝原が歯を見せて笑う。香は黙って頷く。
「ここに来てからもそうだ」
 貝原は目をキラつかせて続ける。
「逃げ場のない終着点のようなこの施設でとち狂う奴もいれば、この間のように暴挙に走る奴もいる。だがお前は微塵もクサってない。行き詰ってない。それは自分に未来があると、未来を切り開けると確信しているから」
「よくわかるね」
 香は目を瞠ると、貝原の目が一層輝く。
「わかるさ。俺と藤崎のジジイも同じだからな」
「ジジイは言いすぎだろ」
 藤崎は苦笑する。
「そして俺は、腐った連中をまとめながらお前のような同士を待っていた」
 そこまで言うと、貝原は香に向かって拳を突き出した。
「俺達と革命を起こさないか、カオリ」
「へっ。『ゴミ箱』も捨てたもんじゃねーね。そう、私も支配されるのにはいいかげん飽き飽きしてた。協力するよ」
 香も合わせて拳を貝原に向ける。
「…」
 それを見届けると、突如、貝原が沈黙した。
「ん?どうした?」
 返事はない。代わりに出たのは、低い鼾と鼻提灯だった。
「…気が抜けるな」
「そういわんでやれ。こいつ、お前が起きるのをワクワクしながら待ってたんだ。3日間寝ずにな」
「私は3日も寝てたのか…」
「とりあえず、包帯替えてやるから来な」
「自分でやるよ」
「奴隷時代、俺は奴隷の間で医者の真似事をしていた。3日間ねえちゃんの処置も俺がしてた。腕に自信はあるぜ」
「包帯くらい巻けるっつってんだよ」
「チッ」
「如何わしいことなら寝てる間にできただろーに」
「それじゃ人形と変わらん。嫌がる相手、恥ずかしがる相手だからいいんだよ」



 それから、香は貝原、藤崎の二人と『革命』の計画を進める算段を立てていった。
「えー、革命とか言ったが、早い話が脱出作戦だ。正面切って島と争う気はない」
 立案者の貝原が話を進める。それによると、計画は以下のとおり。

 決行は晴れた日の夜。
 施設の正面には看守がいる。そのため、貝原が秘密裏に掘っていた穴を使って、海沿いの崖に出る。
 崖伝いにしばらく渡ると、施設から少し離れたところの、小さな草原に出る。
 そこから森へと入り、島の南端に位置する寂れた船着場を目指す。
 ただでさえ外界の交流をほとんど絶っている波虞令島で、しかも本国と真逆の位置にある南の船着場など誰も使わない。
 そこを狙う。
 船着場で船を盗むと、動きが悟られないように迂回して船で日の本本国へ向かう。

「以上が脱出経路。そしてこれが島全体の地図だ」
 言うと貝原は、滲んだインクで図と文字が書かれた布を広げる。
「雑だな」
「仕方がないだろう。施設の住人に聞いた情報の寄せ集めだ。もともと正確な情報でもないから、あまり信用するな」
 貝原が口をへの字に曲げる。
「まあ、計画自体ダメで元々と思っておいたほうがいい。これが一番いい方法とはいえねえが、なにしろ先が不透明なんだ」
 藤崎も眉を傾ける。
「頼りねーね。いざとなったらふたりとも捨てて逃げるよ。そのつもりで」
「それはお互い様だ」
 香と貝原は、互いに見合って笑う。
「その穴ってのは、見に行けないのか?」
「駄目だ。俺の部屋にお前らを今連れて行くわけにはいかん。目立つからな。なに、あの穴は俺のサイズに合わせてつくってある。お前らならするりと通れる」
「そうだといいがね」



 夜。尾上家当主の尾上興高は、ガタガタの老眼鏡を左手で支えながら自室の机に向かっていた。
 ぞんざいなノックの音が響く。
「入れ」
 興高がメガネを外して呼ぶと、扉が音を立てて開く。
「自分をお呼びになるとは、珍しいですね」
「よく来たな。伊集院饅頭食べる?」
「それ、お好きですね。あまりにも甘くありませんか」
「それがいーんだよ」
「あんまり偏った食生活してると早死にしますよ」
「食いたいもんが食えねえなら、長生きしたってしょうがねえよ」
「そう仰ると思いました」
「んで、おめー傭兵の経験あったよな?」
「はい、外にいた時に」
「んじゃちょうどよかった。少し働いてくれ」
「…それはそれは。どんな仕事で?」
「あのな、ちょっと、ドブネズミ狩りをしてもらいたくてよ」
「ドブネズミ、ですか」
「まあそんなかわいいものかどうかは別としてね」
(ネズミは可愛くなんかねえだろ)
「承知しました。詳しい話をお伺いしましょう」
「んじゃ、ちょっとそっちのソファにかけてくれ」
 興高が顎でソファを示す。
 そこにドスンと腰を下ろしたときには、彼女の目つきが傭兵隊長のそれに変わっていた。
 その目は、すでに目の前の興高を見てはいなかった。
(…カオリ)
 星川結は、覚悟を決めた。



 夕陽が山にかかっている。
 香は、広場の一隅に腰を下ろし、悶々としていた。
 今日が自分の命運を左右する日になる。
 やり果せれば、自由になる。
 生まれて初めて、本当の意味での自由を手にする。
 ずっと渇望していた。
 掴みたいと願っていた。
 しかし籠の中にいたうちには、幻想でしかなかった。
 それが今初めて、片鱗を現そうとしている。

 確信する。
 自分は捨てられたのではない。
 解放されたのだ。

「生き延びてやる」

 全身に武者震いが走った。



 その夜、『ゴミ箱』の住人がすっかり寝静まった頃。
 香と藤崎は足を忍ばせて貝原の部屋の前にやって来た。
「誰にも見つからなかったろうな」
 貝原が顔を出す。
「看守に見つかったから気絶させて縛っておいた」
「ちゃんと見つからないところに隠したか?」
「勿論。それに仮に奴らに見つかっても、看守がリンチに遭うだけさ」
「違いねえ」
 貝原と香はニヤリと笑い、藤崎は苦笑する。
「そんじゃあ、行くか」
 貝原が石の床板を外すと、巨大な穴が現れた。
「これ、掘るのにどれくらいかかった」
「四年弱だな」
 香は絶句する。貝原は、気にせず穴の中を進んでいく。
「ハッハッハ、こりゃぁますます失敗できなくなっちまったなぁ」
「フン、関係ないね」
 藤崎もカラカラと笑いながら歩き出した。香もそれを追う。

「クッ…結構しんどいな、これは」
「頑張れ、もうすぐだ」
 崖を渡り始めて1時間は経過したであろうか。香と藤崎は疲労を見せるが、貝原は平気な顔でスイスイと進んでいく。
(あんな巨体しながら、やけに機敏に動きやがる。さすがに、肉体的経験はだてじゃないってことか)
「ほら、見えてきたぜ」
 見ると崖が途切れ、その先に背の高い草が生い茂っている。
「ようやくか…最初の関門でこうもへバるとは」
 3人は崖を渡りきり、草原に降り立った。貝原を除く二人は既に満身創痍だ。
「情けないぞお前ら。まあいい。少しだけ休憩するか…!?伏せろ!」
 貝原は鋭く言い放つ。香と藤崎が叢の中に見を縮めた瞬間、数多の明かりがこちらを照らした。
 ひとりの男が前に出る。木刀を斜めに持ち、肩にかけている。
「残念だったなぁあー貝原。てめえの浅知恵なんざ、とっくにお見通しなんだよ」
 香の顔が歪む。男の声に聞き覚えがあったからだ。
「てめえらはどこまで言っても奴隷なんだ。俺達から逃げることも歯向かうことも許されないんだよ!」
 木刀を地面に叩きつけて、尾上高智は哭んだ。
(チッ、気分が悪い。でも、今はじっとしていないと)
 高智は十数人のSPを引き連れてきていた。力ではなんとかできない。何とか逃げる方法はないものか、香は頭を捻った。
「だぁーが喜べ。チャンスをやろう」
 高智は唇の端を歪めて笑う。
「この間お前のところに、新入りが入ってきただろう」
「カオリのことか」
「そう、そのカオリだ。そいつを俺の許に差し出せ」
 貝原は黙って高智を睨む。
「そうすりゃ今回のことは不問にしてやるし、なんならこれからは俺の下で働かせてやろう。奴隷としてじゃない、従業員としてな」
 その空間にいた全員に戦慄が走る。
「た、高智様、その様なことがお父君の耳に入れば…」
「お前クビ」
「は…?」
「たった今お前は俺の専属SPではなくなった。消えろ」
「そ、そんな…!」
 SP一同がどよめく中、高智は貝原に向き直った。
「どーうだ、悪い話じゃないだろう?小娘ひとり売れば自分の地位が確立されるんだ。問題は全部俺が揉み消してやる。アイツだけはブッ殺してやらないと気がすまねえからな」
「フン」
 貝原は目を閉じて笑う。
「あァ?何のつもりだ」
「いや、とんだ下衆がいたものだと思ってな」
「なんだそりゃ?てめぇ、この野郎!」
「3つ、言わせてもらおう」
「言ってみやがれ」
 高智は叢に唾を吐き、貝原にじりじりと近づく。
「俺はその提案に乗るつもりはない。お前の下につくなど、考えたくもないからな」
「そいつは残念だなァ!お前、死んだよ!ハーハハ!」
「それと、お前らが力づくで俺達の自由を阻害しているのを、『許す』だとか表現するのはやめろ。吐き気がする」
「ほーう。いい度胸だなァ、オイ!」
「最後に、俺は女を人とも思わない下衆が大嫌いなんだよ。殺したいほどにな」
「よーし、糞野郎、言いたいこと全部言ったな。ってわけで、死ねよ!じゃあな、貝原…」
 言いながら木刀を振り下ろす。しかし、次の瞬間、木刀は貝原の拳によって2つに折られ、草の上に落ちた。
「あまり俺を舐めるなよ」
 貝原は鬼の形相で高智を睨む。その眼光には明確な殺意が込められていた。
「く、クソォオ!てめえら、やっちまえ!こいつをぶっ殺せ!」
 高智が叫ぶが、SPは誰一人動かない。
「な、何突っ立ってやがんだ!殺れよ、オイ!」
「俺の口から言ってやろう」
 狼狽える高智に、貝原が低い声で言い放つ。
「SPは俺を捕らえるためにここにいる。事実、俺が逃げることはもう叶わんだろう。だが、お前の味方をする者は、もう誰もいない」
「えっ…?」
「お前に人望などない。権力を振りかざして周囲を押さえつけていただけだ。だが今日のお前の暴挙と醜態を見て、奴らもお前を見限ったんだよ。俺を殺す前に、お前が俺に殺されるのを待ってるんだよ」
「ハハ…そんなデタラメ…」
 高智がキョロキョロと首を振ると、SPは揃って俯き、その目を見ようとしない。
「わかったか?」
 高智の思考が一瞬停止した。

 見限った…?俺を?
 こいつらは、俺を少しも信用していなかった…?
 こいつらだけじゃねェ…
 俺が死体になって帰った時、オヤジは何て言う?
 息子の死を嘆くか?
 高次はどうだ?使用人どもは?
 
 ダレモオレヲヒツヨウトシテイナイ…?

「ク…ククク…ハーッハハッハッハハハッハッハハハ!!!!」
 狂った嗤いが夜の闇に響く。ひとしきり嗤うと、高智は地面に仰向けに倒れた。
「なんだァ…結局俺あ、なんでもなかったってことかよ!ったく、どこのどいつも、俺を見下してやがったんだな!」
「覚悟はできたか?」
 貝原は木刀の破片を握る。
「あァ…いつでも殺ってくれよ。だが忘れるな、てめえら全員、呪い殺してやるからな…!俺を見くびったことを、後悔させてやるよ!ハーハハハ、ハッハッハッハハー!」
 
 ドス。
 木刀の先端が、高智の喉笛をあっけなく貫いた。
「ギ…ぐふっ!」
 高智は絶命した。それは、香と藤崎が森に向かって駆け出すのと同時であった。
「っ!仲間がいたのか!」
「どこへ行った!?」
「そう簡単に遠くは行けないはずだ!探せえ!」
「待ちな」
 慌てるSPを、低い声が制する。
「あんたらが打ち倒すべき敵は、この俺だ」
 SPたちの顔が引き締まる。貝原の重い殺意を浴びて、この男を全力で潰さなくては、死ぬのは自分たちだと直感したのである。
「さあ、かかってきやがれ!」



 香と藤崎は森伝いに島を縦断していた。
「ねえちゃん、気にしすぎるなよ。もともとお互いヤバイ時は見捨て合うって話だったんだ」
「でも貝原は私を売らなかった」
 たまに藤崎が話しかけても、香は生返事をするか押し黙っていた。それを見かねた藤崎が、河原で休憩を申し出た。
「貝原は自分の義を通しただけだ。それに、せっかく逃がしてくれたんだから、お前さんだけでも逃げ切るべきだ」
「ああ。私とて何があっても捕まるつもりはないよ」
「まーここまでくりゃあ、船着場は割と近くだろう。あと少しの辛抱だ」
「もう迷っている暇はないな」
「そうそう」
 どちらともなく出発にむけて準備運動をはじめる。
 そしてお互い頷き合うと、同時に下流へと走りだした。

「おい見ろねえちゃん、明かりだ」
「あれが船着場…やっと着いたのか」
 空が白んできている。
 二人は、何度も迷い、捕まりかけた末、ようやく船着場の目の前までやってきた。
 茂みからあたりを見渡すが、特に警備が敷かれているようには見えない。
「計画がバレていたからにはここも手が回っていると思ったが、大丈夫なようだな」
「ああ。ラッキーだっ…」
 返答が終わるよりも先に、香の肋に拳が刺さる。香は後方に飛ばされ、木の幹にぶつかった。
「今のでアバラが数本折れたな。しばらくは動けないだろう」
「な、何を…」
「悪いなねえちゃん。『行く』のは俺一人で十分だ」
 言うなり藤崎は茂みの外へと駈け出した。


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 それは聞くも喧しい警報であった。
 見る間にそこかしこから傭兵が現れて、一瞬にして藤崎を取り押さえてしまった。
 香は茫然とした。
「この脱走野郎、警備が回ってないとでも思ってやがったのか。疑いもせず飛び出してきやがった」
「まあそれだけ我々特殊部隊の隠伏が完璧だったということだろう」
「まったくだ!」
 傭兵たちは口々に言う。その集まりに、軽鎧の人物が割り込んでいった。どうやらリーダー格のようだ。
「隊長!御覧ください、奴隷を見事捕らえました」
「うん、お疲れ様」
 香は目を疑った。
 傭兵隊長と思しき人物は女性であった。
 それも、服装は違ったが、彼女のよく知る、尾上家の使用人の星川であったのである。
「もう戦意はないようだから、離してやって」
「し、しかし…」
「こうなってしまえば、私一人でも十分だから」
「えー、それじゃ俺達の手柄が…」
「上にはいい報告をしておいてあげるから」
「まあそれなら…」
 傭兵たちは渋々藤崎から手を離し、引き下がる。
「みんな先に屋敷に帰っておいて。この男と話があるから」
「ハイ!」
 言うと星川の副官らしき傭兵は星川に敬礼する。他の傭兵たちも、それぞれの形で挨拶をして去っていった。
「貴方、バカですね。むざむざ捕まるような真似をして」
 ひとり残った星川は、藤崎に近づいて言い放つ。
「ハッ、あんたにいったい何が…」
「わかりますよ」
「えっ?」
「私もその、バカのひとりですから」
「そりゃあ一体、どういう」
「さて、ここからは独り言です」
 星川は少し息を吸い込むと、よく通る大きな声で言葉を紡ぎ始めた。
「船着場には『あの人』が待ってます。会ってあげてください。私とはここでお別れです。さようなら。幸運を」
 藤崎は一瞬目を丸くして、合点がいったように笑った。
「じゃあ、行きましょうか」
「ああ」
 星川は一度も振り返ることなく、藤崎を連れて薄靄の中へ消えていった。



 香はひとり蹲っていた。
 肋の痛みは、引くどころかますます強くなるばかりだ。
(しかし、ここでこうしていてもどうしようもない)
 思い立って立ち上がろうとするが、足取りが覚束ない。
 それは疲弊のせいでもあったが、心の動揺も少なからずあった。

 生まれてからずっと、自分は独りだった。
 奴隷に人権なし。
 奴隷は迫害されて当たり前。
 そんな考え方がまかり通っている限り、自分には味方がいないものだと思ってきた。
 独りでも平気だと、暗示をかけて生きてきた。
 それがここへ来て、少しだけ変わったように思えた。



「カオリ!」
 船着場に着くと、高次が慌てて香を出迎えた。既に日は高い。
「怪我をしてるじゃないか!管理棟に医者を呼んであるから、見てもらうぞ」
 反応をする暇もなく、高次は香を担ぐ。そのまま、木造の小屋に運び込んだ。
「本当に悪かった」
「あんたが謝ることじゃない。それにあの時はあれでよかった。それで今日こうしてこの島を出られる」
「カオリ、おまえ、本気で…」
「当たり前だ」
「はいはい話はあと。今は診察しますから、高次様はどいてください」
「ああ、すまない…」
 医師は中年の女性で、二人の間に割って入ると、てきぱきと傷の消毒を行なっていった。
「折れた肋が少し心配だけど、まあ大人しくしてれば大丈夫でしょ。外に行ったらまた診てもらいなさい」
 言いながら、香の全身に器用に包帯を巻いていく。処置を終えると、医師は箪笥から適当な服を取り出し、香に着せた。
「はい、できました」
「ありがとう」
「カオリが、お礼を…!」
「よーし、これで準備万端だね。今日は夕方から天気がアレだから、さっさと出発するぞ」
 高次の驚愕をよそに、小屋の隅に坐っていたバンダナの男が立ち上がった。
「ああ、彼が船の操縦士さん。海の上にいるときは彼を頼ってね」
「何から何まで、悪いね」
「いいよ。贖罪だと思ってくれ」
「それにはちょーっと足りないかな」
 香はあどけなく笑う。高次の心臓が、少し高鳴った。
「まあ、あんたにもいろいろ世話になったね。今までありがとう。じゃあ、さよなら」
 そっけなくそう言うと、香は小屋を出ようとする。
「待ってくれ、カオリ!」
 いつになく強い高次の声に、香は立ち止まり振り返った。
「今、僕が一緒に行くことはできない。でも、決めたんだ」
 高次は顔を上げて言う。
「いつか僕がこの島を変えてみせる。奴隷制も廃止して、本当に平和な島にしてみせる。それができたら、その時に会いに行くから」
 香は目を丸くする。
「ど、どうしたんだ」
「いや、一瞬あんたがカッコよく見えてね」
「それってどういう…」
「ククク。それじゃ、『またな』」
 言うと香は高次に背中を向け、操縦士の後ろについて歩いて行く。
「あ、ああ!またいつか!」
 香は振り返らず、小さく左手を上げて応じた。



「すまん、この船沈むかもしれねえ」
「そんな気はしてたよ」
 立ち込める暗雲の中、操縦士が告げる。
 曰く、本来は天気の悪くなる夕方までに港につくはずであったが、昼間風が凪いだせいで思うように進まず、大時化に遭う可能性が高いのだということ。
「いやあ、十数年船乗りをやってるが、ここまでの凪も時化も、初めてだよ」
「運がなかったんだろう。まあ船がダメになったら、泳ぐかな」
「無茶を言うなあ」
「まあ死んだら死んだ時だ。最後まであきらめないけどね」
「さあ、来るぞ」
 雨が一滴、二滴と落ちだす。その雫はみるみる増えていき、あっという間に土砂降りとなった。
 狙いすませたかのように同時に風が激しくなる。波は途端にうねり始めた。
 船体が大きく揺れる。それだけで感覚がおかしくなる。
「落ちるなよ!」
「分かってるさ!」
 二人は叫ぶ。
「死ぬなよ!」
「死ぬものかああああああ!」
 せっかく勝ち取った自由をこんなところで失って堪るか。
 香は、力の限り哭んだ。
 その声は、鳴り響く雷鳴と共鳴しているかのように轟いた。
「うおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」








 日の本本土の南の端に、小さな隠れ里がある。
 そこに暮らす者は皆、戦闘と諜報の技術を叩きこまれた隠密のエキスパート、所謂『忍者』である。
 『篝火』と呼ばれる少女もそのひとり。彼女は、里でも有数と噂される腕利きだった。
(今日は雷が強いな)
 その夜、篝火は自分の部屋から外の様子を眺めていた。外は豪雨が降り、雷鳴が止まない。
(ん?なんだろ、あれ)
 砂浜の近くに、なにやら大きなものが浮いているように見える。
 それは木製の船のようだった。
 大したものではないが、一応報告はしておこうと立ち上がった時、船の近くにもうひとつ、何かが倒れているのが見えた。
「人だ!」
 篝火は全速力で部屋を飛び出した。
「ん?篝火何騒いでるんだろ…緊急出動?エリートは大変だのー」

 雨の中に倒れていたのは、茶髪の少女だった。
 抱え上げて顔を見たところ、篝火よりも2つか3つ年下くらいであろうことが推測された。
「生きてるよね」
 篝火は少女を抱え、宿舎に向かって歩き出した。
「う…ん…」
 少女が動いた。眉を顰め、目を擦る。
「気がついたか」
「こ…こは?」
 少女は目を開けた。
「ここは忍者の里。日の本の南の方だよ。どこから来たんだ?」
「えーと…」
 少女はしばらく頭をひねった。
「わからない…」
「え?名前は?」
「思い…出せない…」
「まいったな、記憶喪失か。嵐の中で、なにかショックを負ったかな」
「痛っ!」
「おっと、怪我してるのか」
 見ると、肋のあたりから血が滲んでいる。その跡から、怪我が拳によるものだとすぐに分かった。
「どーも訳ありみたいだなぁ。しばらくここで、預かってもらおうか」
「はあ…」
「そーなると、今日から家族だな」
「家族」
「忍者名を考えようか。本名は忘れてるようだしね」
 篝火は立ち止まり、周囲を見渡した。
 空は変わらずどんよりと曇り、絶えず雨と雷が降り注いでいる。
「天鼓とともに現れた少女…『雷槌』とかどう?」
「…?」
「あんたの名前だよ。『雷槌』。言ってみ」
「イカヅチ」
「よし、今日からあんたはあたしの後輩、忍者の『雷槌』だ。いいな?」
 少女は訳もわからず頷く。
「あたしは『篝火』。これからよろしくな、雷槌」
 二人の少女は、堅く手を握った。

 これが後に忍者界を揺るがす最強の戦忍、『黒爪の死神』こと雷槌の誕生であった。
 そのことはまだ、誰も知らない。



 小林香が戦いの果てに『ゴミ箱』を脱して生まれ変わるお話は、これでおしまい。
 しかし、自由を愛する少女の破天荒な生涯は、まだ始まったばかりだ。




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