正午のL高校。
そもそもごみ箱とは何だろう。
「ごみ箱」というキーワードを与えられて、皆が共通して最初に思い浮かべる様な「ごみ箱」像というようなものは存在するだろうか?
否。
ある人は円筒状の「ごみ箱」を思い浮かべるだろうし、ある人は教室に設置されている「ごみ箱」を思い浮かべるだろう。
もしかすると駅に設置されている「ごみ箱」を思い浮かべる人もいるかもしれない。

また、仮に皆が共通して「ごみ箱」として認識するような像が存在すると仮定したとしよう。
その時、その「ごみ箱」は常に「ごみ箱」として存在することが出来るだろうか?
否。
例えば教室の「ごみ箱」にゴミ袋がかけられていなかったとしたらどうだろう?
更に紙屑一つその「ごみ箱」の中に入っていなかったとしたら?
そのような教室の「ごみ箱」は本当に真の意味での「ごみ箱」と呼べるのだろうか?
それはただの「箱」あるいはただのポリバケツなのではないだろうか?

更に言えば、何を以って「ごみ箱」に「ごみ」がたまったとするのかも曖昧である。
紙屑一つを「ごみ」と扱う人もいるだろうが、人によっては、神経質な人ならば、空気中の塵が付着しただけでそれを「ごみがたまった」とすることもあるだろう。
これは蛇足だったか…
本題に戻ろう。

逆に、ただの「箱」が「ごみ箱」として機能することもあるだろう。
この場合の「箱」は入れ物を指している。
例えばバケツに塵がたまっていれば、そのバケツは「ごみ箱」として存在していると言えるはずだ。

要するに、何が「ごみ箱」と見なされるかは、主観に依存するのだ。

このことを最も身近に感じさせてくれるのがバラエティー番組である。
時々、ゴミにまみれた家屋を「ごみ屋敷」として取り上げ、近隣住民の苦情をまとめ、最終的に「ごみ屋敷」を掃除して一件落着、といった流れの番組が放送されることがある。最近見なくなった気もするが。
まあそれはどうでも良いことではある。
視聴者はそのような番組を見て、「汚いわ」「いやねえ」といった感想を各々述べる。また、視聴者にそう思わせることが番組の製作者側の目的でもある。

だがそのごみ屋敷の主人にとっての「家」が「ごみ箱」なのだ、としたらどうだろう。
主人は「ごみ箱」にゴミを捨てただけである。我々の日常の行動と変わらず正常である。
これはごみ箱の定義が個人の主観に依存することの例としてあげられるだろう。













そして今、この学校はまさしく私にとっての「ごみ箱」だ…「ごみ箱」の理想の形といっても過言ではなかろう…















そう言って男はそれまで美味しそうに飲んでいたコーラの空き缶を私の足元に放って私の前から去ってゆきました。
男が何のことをひとりごちていたのかよくわかりませんでしたが、眩しく照りつける太陽の下、私は立っているだけでも体力を消耗していましたので、そのまま家に帰ることにしました。

未だにその男のことを、近隣住民の方々から苦情が来るたび思い出します。


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