それは直樹にとっては、ほんの一瞬の出来事だった。
 いつものように、直樹はスーパーのレジ袋を両手に下げながら、商店街を歩いていた。商店街と言えどもシャッター街で、平日というのもあって人通りはまばらだった。意識すれば遠くの人の顔だって見えるぐらいである。だが直樹は面倒な買い出しの帰りだったので、無論そんなことをする余裕はなかった。
 だから遠くから「彼女」が歩いて来ても、直樹はまったく気が付かなかった。
 「彼女」がもっと近くに来ても、気づかなかった。
 「彼女」がさらに近くに来ても、同じだった。
 そして、手を伸ばせば届くというところまで「彼女」が来た時に、直樹は何気なく顔を上げた。
 そして一瞬だけ目が合った。
 「…!」
 彼女の顔を見て、それが誰だったか分かった時には、すでにすれ違った後だった。
 直樹は振り返りたい衝動に駆られたが、彼はすぐにそれを抑えた。
 同じ理由で、直樹は立ち止まりもしなかったし、声をかけもしなかった。
 突然怖くなったのだ。
 幼馴染が、自分を忘れているかもしれないということが。
 立ち止まり、振り返り、声をかけ。
 そうやってもまだぽかんとしている「彼女」。
 その「彼女」がしばらく間をおいて、やっと、「あ」と言う。
 その口の形が、直樹には耐えようもなく怖かったのだ。

 「彼女」…橘彩花は数年前はこの町に住んでいた。彼女の家と直樹の家は近く、学校が終わったらよく2人で遊んでいた。これからもずっといっしょにいるのだと直樹は信じていた。しかし急に彩花が引越すことになった。
 引っ越すが決まった時、周りが心配するぐらい直樹は泣き喚いた。しかし泣いても彼女の引越しが中止になることなど無く、それから一週間と経たないうちに彩花はこの町を出ていった。彼女のいない町を一週間過ごして、直樹はようやく彼女のことが好きだったのだと気付いたのだ。
 だからこそ、直樹は彩花に会いたくなかった。
 遠くの街で何年も暮した彩花は、おそらく沢山の友達を作り、そして彼氏もいるのかもしれない。何にせよ、彼女は直樹抜きで生活してきた。当然直樹のことなど、すっかり頭から抜け落ちているだろう。そう直樹は思った。
 好きだった人に忘れられている。
 その事を知るのが怖かったから、直樹は振り返らなかったのだ。

 直樹は陰鬱な気分で家に帰りつき、台所にレジ袋をおいた。それからゆっくりと居間に入った。そこでは妹の鈴がごろ寝しながら直樹の漫画を読んでいた。直樹が部屋に入ってくるのを見ると、鈴はその漫画を彼に放り投げてきた。
 「お兄ちゃん、それ続きないの?」
 「まだ買ってない。それから人の部屋から勝手に漫画持ち出すな」
 直樹が飛んできた漫画をキャッチしてポケットに仕舞う。鈴は「いいじゃんいいじゃん」と言いながら畳の上を転がり始めた。そんな妹を見ながら、直樹は幼馴染のことを思った。
 「なあ、鈴」
 「んー、どうしたの?」
 「彩花のこと覚えてるか?」
 聞きなれない名前に、鈴は転がるの止めた。
 「アヤカ…あやかねえ…あっアヤ姉ちゃん!」
 ようやく彩花のことを思い出し、鈴はまた転がり出した。嬉しそうな鈴とは逆に、直樹の表情は少し曇った。鈴は転がりながら過去を懐かしんだ。
 「懐かしいなあ。よく遊んだよねー。それで、アヤ姉ちゃんがどうかしたの?」
 「買い物帰りに見かけた」
 すると鈴は驚いた声を出した。
 「へー。引越してきたのかな」
 「分からん」直樹は妹から目を逸らした。「何かのついでに帰ってきただけかもしれん」
 「声かけなかったの?」
 痛い所を突かれた直樹は少しどもった。
 「あ、いやー、驚いてたから忘れてた」
 「ふーん」
 鈴はしばらく転がっていたが、やがて仰向けで止まって、直樹に手を突き出した。
 「どうした?」
 直樹が尋ねると、妹は、何を言ってるんだ、という顔をした。
 「他の漫画、ないの?」
 「何で俺が持ってこなきゃならんの」
 「だってさっき『部屋に勝手に入んな』っていったじゃん」
 「面倒だから取りに来い」
 「おっけー」
 鈴がのそのそと起き上がっているうちに直樹は部屋を出た。久々の知り合いより漫画に心が行く妹に、直樹は少し失望した。
 (彩花も同じなんだろうか)
 せめて彼女だけは、漫画よりも幼馴染のことを思ってくれる人であってくれと、直樹は願った。

 次の朝、直樹は起きなかった。というのも夜通しずっと起きてたから、起きるという動作が存在し得なかったのだ。あれから12時間。直樹は何度もテレビを見たり、漫画を読んだり、机に向かったりしたが、すぐに諦めてベットに転がった。幼馴染の姿がちっとも頭から離れていかないのだ。
 数年ぶりにみた彼女は昔よりずっと大人びていた。昔はただ「可愛い」だけだったが、今では寧ろ「綺麗」という言葉が似合うなと直樹は思った。
 直樹がふと窓を見ると、立派な蜘蛛の巣が張ってある。昨日の朝からせっせと作っていたが、ようやく完成したようだ。蜘蛛が巣をかける動作を『蜘蛛の振る舞い』といって、親しい人の来訪の前兆とすることを、直樹は本で読んで知っていた。しかしまさか本当に幼馴染と出会えるとは、彼は夢にも思ってなかった。
 だるさを振りきって部屋を出て台所に行くと、すでに朝食を食べていた鈴に心配された。
 「お兄ちゃん目赤いよ? 大丈夫?」
 直樹は何度も大丈夫と頷くが、あまり生気がなかった。
 「そーいえばお兄ちゃん今日部活の送別会だったよね」
 「そうだな」
 3学期も終わって卒業式も済ませたが、部活の3年には送別会なるものがあるらしく、直樹はまた学校に行かなければならなかった。
 (多分俺送別会で寝るな)
 サンドイッチを頬張りながら直樹はそう思った。
 朝食を済ませ、服を着替えてから、直樹は家を出た。普通の学生なら卒業することをしみじみするものだが、直樹はそこまで感傷的ではなかった。卒業したメンバーはおそらく殆ど近くの高校に行くし、同じ部活に入ることが予想されたからだ。そしてその高校は公立の癖に進学校なので、直樹は部活の後輩のことより高校で授業に追いつけるかどうかが心配だった。
 その心配も、今の直樹からは跡形もなく消え失せていた。直樹にとって目下の問題は彩花のことだったからだ。10歩歩けば後ろを振り向き、さらに10歩歩けば道行く車の中を眺める。もしかしてどこかに彩花が居るかもしれない。そんな思いが直樹を挙動不審にさせた。必死な顔で、振り返ったり、周りを見回したりと、まるで死神にでも追われているかの行動に、道行く人は皆彼を訝しがった。
 そんな目で見られているのは直樹も承知していた。しかし彼はそんなものを気にしてはいられなかった。もし昨日のすれ違いが、幼馴染との最後の出会いだったら、悔やむに悔やみきれない。
 昨日ちゃんと声をかけておくべきだった、と後悔し始めた時だった。直樹は後ろから声をかけられた。
 「ちょっとそこの君、何かあったのかい」
 振り返ると、すぐ後ろで長身の若い男が立っていた。蜘蛛のマークがプリントされたよれよれのTシャツを着ていて、小脇にはダンボールを抱えていた。
 (ホームレスか…)
 直樹のただならぬ行動を見て心配してくれたのだろうが、直樹はあんまりこういうのには関わりたくなかった。別にホームレスだからということではない。町中で見ず知らずの人に軽々しく話しかけるような人は、九分九厘面倒くさい奴だと思っていたからだ。だから直樹はさっさとこの場から離れようと思った。
 「あ、別に大丈夫なんで…」
 「でも君の行動は全然大丈夫そうじゃあなかったよ?」
 男の声は、はきはきとしていて、それがさらに直樹の嫌な予感を増長させた。こいつ絶対踏み込んでくる、という予感である。
 少年の嫌そうな目を見て、男は自分の体を見た。そして慌てて言った。
 「言っておくけど、僕はホームレスじゃあないよ。ちゃんと自分の家あるし」
 「そうだったんですか。じゃあ俺はこれで」
 そう言って直樹は逃げようとしたが、男に肩をがっちり掴まれた。
 「まあいいじゃあないか遠慮しなくても。ちょっとベンチで話そうよ」
 直樹は逃れようとしたが、男の力は強かった。みるみるうちに近くの公園まで引きづられて、ベンチに座らされた。男は一仕事終えたように息をついていた。
 「あの、本当急いでるんで、出来れば離してもらえると」
 「何か用でもあるのかい?」
 「部活の送別会がこれから」
 「いいじゃあないかサボっちゃえよ」
 「それは、ちょっと…」
 その時、男は直樹の方を向いた
 「君には探し物があるんだろう。いや、探し『人』と言ったほうがいいかな」
 直樹は驚いて男の顔を見た。男は出会った時と変わらず涼しい微笑を浮かべている。
 「さっきはああ言ったが、僕は人生相談をするために君を引きずり込んだわけじゃあない。僕も探し物をしていてね、それを君に手伝ってもらいたかったんだ」
 「それと彩…俺の探し人は関係あるんですか?」
 「君が誰を探しているかは僕は知らない。だが探している君には関係が大アリなんだ。詳しくは言えないけどね」
 「いまいち信じれないんですけど」
 「それは仕方ない。それを承知でこうやって頭を下げてるじゃあないか」
 そう言って男は今日初めて直樹に頭を下げた。
 「手伝ってくれたら、何か一つ僕の出来る範囲で願いを叶えてあげよう」
 「願いってそんな…」
 その時直樹の頭に、幼馴染の姿が横切った。もしもの時はこの男に彩花を探してもらうのも良いかもしれないと直樹は思った。
 「よし、分かりました。手伝いましょう」
 「そうか、良かった良かった。判断が早くて助かるよ」
 「それで、えーと…何と呼べばいいでしょうか」
 直樹が男に聞くと、男はうっかりしてたという顔をした。
 「僕かい? 僕は雲上というんだ、坂下君」
 男—雲上が直樹の名前を言ったので、直樹は驚いて顔を上げた。
 「どうして俺の名前知ってるんですか?」
 「どうしてだろうね。でもとりあえず、こうして君を捕まえているのは偶然ではなく必然であると言っておこう」
 直樹は雲上が何者か気になったが、多分聞いても答えてくれないだろうと思ったので、話を進めた。
 「それで、クモガミさんの探し物ってなんですか?」
 「そうそうその話だったね。実はペットなんだ」
 「犬か猫ですか? それぐらいなら何とか…」
 「それが、ネズミなんだ」
 「ネズミ?」
 「しかも20匹」
 直樹はネズミを図鑑でしか見たことがなかったが、小さくてすばしっこいということは知っている。
 「ちょっとそれは無理じゃないですか」
 「別に君に素手で捕まえて欲しいと言うわけじゃあない。君にやってもらいたいのは囮だ」
 「ネズミにオトリ?」
 「そう。ただのネズミじゃないんだ。『ミソカネズミ』という一般人がまず見ることのないネズミなんだ」
 雲上はにやっと笑うと、写真を取り出した。どきどきしながらそれを見ると、直樹は吹き出した。
 「ちょっと、それ、どうみても『ぐりとぐら』じゃないですか!」
 その写真には、二本足で立つネズミが青や赤などカラフルな服と帽子を着ているものだった。カメラで撮られたものだったが、そのネズミを見て一番に思い浮かぶのは『ぐりとぐら』という野ねずみだった。
 「確かにこのネズミたちは『ぐりとぐら』をイメージして作られたものだから仕方がない」
 「『作られた』ってどういうことですか?」
 「あ、今の言葉は忘れてくれ。とにかく、こいつらは普通のネズミとは違う」
 「二本足で立ってますもんね」
 「それもあるが、こいつらの特徴は、何と行っても食べ物にあるんだ」
 「何食べるんですが」
 「一言で言えば、人間だな」
 直樹は思わず身を引いた。
 「え、じゃあ俺を囮にするっていうのは…」
 そう直樹がいうと、雲上は首をぶんぶん横に振った。
 「すまない言い方がまずかった。ミソカネズミは人肉を食べるわけじゃあない。そうじゃなくて、人間をにんげんたらしめているモノというか…。まあ言っても信じないだろうか言わないことにするよ。とりあえず君の体が被害を受けることはまずないから心配しないでくれ」
 「よく分からないですけど、食われないなら別にいいです。それで、俺は何すればいいんですか」
 「君にはこれを装備してもらいたい」
 雲上はポケットから真紅の布を取り出した。よくマジシャンが使うような感じのものだった。
 「これがリンゴになるとかいうマジックですか?」
 「いや違う。これはスカーフだ。首に巻いとけばいい」
 そう言って雲上は直樹の後ろに回って首に布を巻きつけた。
 「何かカウボーイっぽいですね」
 「これぐらいしっかり結べば大丈夫だろう」
 ようやく雲上は直樹の首から手を離した。そして手を一回叩いた。
 「よし、じゃあそのまま生活してもらえたらいい。今日はこれにて解散」
 「これだけで囮になるんですか」
 「それは『おいしいですよ』っていう布だからね」
 「本当に俺大丈夫なんですよね?」
 「そこは安心していい。じゃあ、頼んだよ。ネズミがこの町から出ていったらどうしようもないから、捕らえるなら今しかないんだ」
 「そういえば」直樹は思い出したように言った。「何でそのネズミを探しているんですか」
 「昨日逃げられたんだよ。さっさと捉えないと『人間』を食っちゃう」
 「もう一回聞きますけど、本当に俺…」
 「大丈夫だって。理論上食われても気づかないんだから」
 「えっ?」
 「だって、忘れたことを忘れたら、思い出しようが無いでしょう?」

 気になる発言をした後、雲上はどこかへ行ってしまったので、直樹は訳の分からぬまま公園を出た。
 当初直樹は雲上の言うことの半分も信じていなかった。ミソカネズミなんて名前を聞いたことがなかったし、そもそもネズミが二足歩行するなんてありえない。
 しかし、直樹は雲上の言動にただものならぬ気配を感じた。すべてを見透かされているような、そんな不気味な感じがしたのだ。
 それでも、それだけだったら直樹も気のせいで済ませただろう。しかし、首にあるものが直樹には気になった。雲上が巻いた赤いスカーフである。このスカーフ、直樹がさっきから頑張って引っ張っているのだが、ちっとも首から離れないのだった。しかも剥がそうとすればするほど首に絡み付いていく感触がした。まるで蜘蛛の巣にかかった蝶のような気分だった。
 変なことがありすぎて送別会に行く気になれなかった直樹は、しばらく町を歩くことにした。もちろん目的は彩花である。また歩いていたら見つかるかもしれない、と信じて、直樹はまず商店街に向かった。
 商店街には相変わらず人がいなかった。こんなに人がいないのに、何故自分はすれ違うまで彩花に気が付かなかったのだ、と直樹は自分の不注意さを嘆いた。
 あちらこちらを見ながら商店街の端から端まで歩き、また引き返して反対方向の端まで歩く。彩花には多分会えないだろうと分かっていながら、直樹はこの無駄な行動を止めることができなかった。
 直樹が商店街を4往復したころ、遠くからよく見知った人物が現れた。彼女は直樹を見つけると、一目散に駆けてきた。
 「お兄ちゃん! 送別会は?」
 その人物は鈴であった。直樹はだるそうな顔で「サボった」と答えた。
 「やっぱり。朝ヤバそうだったもんね」
 「それもある」
 「それはそうとさ。お兄ちゃん、アヤ姉ちゃんがどこから歩いてきたか分かる?」
 直樹は質問の意図が分からなかったが、普通に答えた。
 「あっち」
 そう行って南の方を指さした。
 「でもすれ違う直前に彩花だって気付いたから、確証は持てない」
 「分かった。あと、どこですれ違ったの?」
 「ちょうどこのあたりだ」
 「そうかー」
 鈴は悩むようなポーズをすると、「よしっ」と言って直樹の方を向いた。
 「もしアヤ姉ちゃんがこの町に引っ越してきたんだったら、家の場所が分かるかもしれない」
 「引っ越すなんて、まさかそんなことないだろ」
 直樹は諦めたような口調で言ったが、そんな兄を鈴はジッと睨んだ。
 「分かんないよー。もしかしたらってことがあるじゃん」
 「でもそんな簡単に見つかるのかよ」
 「簡単じゃないけど」鈴は南のほうを指さす。「あっちの方って町の中心だし、もしあっちに住んでいたんだったら、夕方にこんなとこ来ないよ」
 そう言われて直樹は北の方を見た。その方向には直樹がいつも利用するスーパーがあり、その向こうには狭い住宅地があった。
 「もし町の真ん中に家があったらだよ、こんな北の端っこにあるスーパーに来ることはない。だから南から歩いてきたんだったら、あの住宅地に住んでいると考えるのがいいと思うんだけど」
 直樹は北の方を見つめた。家がおそらく50棟、そしてアパートが3棟。もし、彩花がここに住んでいたら、探せばまた会えるかもしれない。
 そう思うと、期待がむくむくと直樹の中で大きくなったが、同時に昨日の恐れも蘇ってきた。
 もし彩花に会って、彼女が自分のことをすっかり忘れていたとしたら。多分彼女は少し時間をおいて直樹の事を思い出すだろう。しかし、その時にはもう昔のような関係から、ただの知り合いに成り下がってしまうと直樹は思った。
 (それぐらいだったら、知らない方がいい)
 忘れているか、忘れていないかは、会わないと分からない。しかし、会いさえしなければどちらかは分からないし、どちらでもない。こんな逃げの姿勢が直樹の心を覆った。
 「悪いけど、一人で探してくれ」
 「なんで?」
 「どうせいないだろうからな。無駄なことはしたくない」
 「そーですか」
 じゃあなんで今ここいんの、という顔で鈴は直樹を見た。直樹は、ほっとけ、という顔で返した。
 「とにかく俺は帰る」
 そう言って、直樹はその場を離れた。
 後には、少し残念そうな顔の妹だけが残った。

 家に帰る途中、雲上に引きずられた公園の前を通った。中に入ってみると、雲上が沢山の段ボール箱を見ながらうんうん唸っていた。しばらく立っていると、雲上は直樹の存在に気付いた。
 「おお、良い所に来たねえ」
 そう言って雲上は手招きをした。直樹は雲上の横に歩いていった。
 「家作ってんですか」
 直樹が聞くと、雲上は手でバッテンを作った。
 「だから僕はホームレスじゃないってば」そう言うと雲上は段ボール箱の山を指さした。「どれに入ってるのかなって思って」
 よく見ると、色々な大きさの段ボール箱がガムテープで密封されている。
 「どれに入ってるって、一体何が?」
 「ネコが入ってる」
 直樹は少し驚いたが、よく考えるとおかしいことに気がつく。
 「何の気配もしないんですけど」
 「まあこの中のどれか一つにしか入ってないからね」
 「何でまたネコなんですか?」
 「そりゃあ君、ネズミを捕まえるならネコだろう」
 そう言って、雲上は一番近くにあった箱をカッターで開けた。しかし中は空だった。
 「何も入ってないですね」
 「どうやらハズレのようだ」
 そしてもう一箱開ける。しかしそれも空だった。
 「何もないじゃないですか」
 「ハズレだからね。仕方ない」
 そんな風に次々と雲上は段ボール箱を開けてゆく。しかしどの箱にもネコは入っていなかった。
 「本当にネコなんて入ってるんですか?」
 「いるっているって」
 そう言いながら雲上はまた一つ段ボール箱を開けたが、やはり空だった。50個近くあった段ボール箱が解体され、気がつくと残り1箱になっていた。
 「さて」雲上はカッターをポケットに仕舞った。「この最後の段ボール、ネコが入っていると思う?」
 「そんな訳ないじゃないですか」直樹は即答した。「鳴き声すら聞こえませんよ」
 「ところがどっこい、まだ分からない」
 そう言って、雲上は直樹の目を覗きこんだ。
 「開けてみなけりゃ分からないんだ。ネコが入ってるかどうかなんて」
 雲上の見透かすような目を見て、直樹は震え上がった。
 「君は知ってると思うんだけど。このロジック」
 雲上はくすっと笑うと、最後の段ボール箱を見つめた。
 「でもね、ネコはこの中に確かに入ってると、僕は思うよ」
 そう言い残し、雲上は段ボール箱を持ってどこかへ歩いていった。直樹はしばらくその場で固まっていたが、やがて逃げるように公園を出た。

 その夜、夕食も風呂も済ませると、直樹は身支度をした。誰にもバレないように部屋を出、玄関の扉を開けた。そして周りに誰もいないことを確認すると、直樹は夜の町へと飛び出した。
 3時間前のこと。直樹が家に帰ってくると、鈴がいつものように寝転んでいたので、直樹は鈴に訊いた。
 「一応聞くけど、彩花の家は見つかったのか?」
 すると鈴はすぐに答えた。
 「見つからなかったよ」
 それを聞いて直樹ががっかりしていると、鈴はにっこり笑って言った。
 「でも、お兄ちゃんが探したら見つかるかも」
 直樹は元々夜に探しに行くつもりだったが、妹の言葉を聞いて俄然やる気がでた。鈴は彩花の家なんて探さなかったに違いないと、直樹は確信していた。鈴は目的のために時々えらく遠回りする癖がある。だからさっきの言葉は、彩花は直樹が探すべきだと遠まわしに言ったのだろうと、直樹は思った。
 そんな妹の言葉に元気づけられ、直樹は北の住宅地に向かった。昼は彩花にばったり出くわすこともあるかもしれないが、夜ならそんな心配もない。
 商店街を通り、細い道を進み、家が立ち並ぶ場所に来た。
 そこから先は根気だった。1軒1軒表札を確かめていく。次から次へ。しかし全く見当たらない。どんどん探していくが、『橘』の表札は一枚もなかった。そのまま30分経ち、1時間経ち、2時間経った。しかしどこにも見つからなかった。まるで雲上の段ボール箱のようだと直樹は思った。
 『この中のどれか一つにネコが入っている』
 そうしてどんどん開けていってもネコはいなかったのだ。
 とうとう直樹は最後のアパートの前に来た。他の家やアパートには『橘』の文字はなかった。あるとしたらこのアパートである。
 『さて、この最後の段ボール、ネコが入っていると思う?』
 直樹はアパートの玄関口を見つめた。もしかしら、そこのポストのどれかに『橘』の文字があるかもしれない。
 「……」
 そうして直樹は5分近く玄関口を見つめていたが、やがてゆっくりと背を向けた。
 「そんな訳ないじゃないですか」
 そして、直樹はそのまま歩き出した。直樹は自分が情けなくてたまらなくなった。自らの情けなさに体を震わせながら、直樹は寒い道を歩いた。
 「本当に、俺は彩花を探してるのか?」
 もちろん誰も答えてはくれなかった。
 ただ、後ろの方でネズミが鳴いたような気がしただけだった。

 次の日起きると、もう昼前だった。のそのそベットから這い出て台所に行くと、自分の朝食がラップで包まれていた。そしてその横にもう昼食が置いてあった。どうしようか迷っていると、元気よく鈴が外から帰ってきた。
 「たっだいまー!」
 「おう。どこ行ってた?」
 「えーっと、どこだったっけ?」
 鈴は腕を組んで考える仕草をした。
 「おい、自分が行った場所くらい覚えとけよ」
 そう直樹が突っ込むと、鈴は小さく笑った。
 「てへへ。多分散歩だよ」
 そしてそのまま居間の方に駆けていった。
 「何がしたかったんだアイツ」
 そう呟いた時、直樹の頭に今日はじめて彩花の記憶が浮かんだ。それから直樹はその事実にひどく動揺した。昨日あそこまで悩み苦しんだのに、なぜ自分は忘れていたのか、と。
 しばらく直樹は呆然としていたが、やがて何かに気付いたように溜息をついた。
 (そうか、日常になりかけてるのか…)
 昨日までは直樹にとって彩花は特別な存在だった。だが心が慣れてきたのだろう。彼女に関することの優先順位が徐々に下がっているのだと直樹は思った。
 (やっぱり俺、彩花を本気で探してなかったんだ)
 どれだけキョロキョロしようが、夜の町を走り回ろうが、もう自分にとって彩花はいてもいなくてもどうでもいい存在になったのかもしれない、と直樹は思った。
 そう思い始めるとすべてが虚しくなって、直樹は食欲を無くしてしまった。直樹は台所を出ると、鈴が放置したのであろう開けっ放しの玄関の扉を閉め、自分の部屋に戻り、ベットに横たわった。そしてそのまま眠りに落ちてしまった。
 直樹はしばらく眠っていたが、急に揺り起こされた。目を開けると、鈴が馬乗りになって自分を揺らしていた。
 「お兄ちゃん、ご飯いらないの?」
 「…いらん」
 直樹がそういうと、鈴はさらに直樹の体を揺らした。
 「お兄ちゃん朝から元気ないよ。どうしたの?」
 「体の調子が悪いだけだ」
 「嘘だ。絶対何か悩んでる。言ってくれればいいのに」
 そう言うと鈴はベットから降りて、今度は直樹の腕を引っ張った。直樹は鈴に背を向けた。
 「ほっといてくれよ…」
 「やだ」
 直樹が頼んでも鈴は引っ張るのを止めなかった。とうとう直樹は我慢し切れなくなって、怒鳴ってしまった。
 「ほっとけって言ってんだろ!」
 急な大声で驚いた鈴は手を離してしまい、そのまま背中から転んだ。しばらく動かなかったが、急に立ち上がり、何も言わずに部屋を出ていった。その方向からスリッパが飛んできて頭に当たり、床に落ちた。結局鈴はそのまま戻って来なかった。
 「悪い…」
 ただでさえ重たかった心が、さらに重くなったように感じた。今にも自らを溶かしそうな公開と、体を突き破りそうな自責が直樹の中を渦巻いた。
 眠気も吹き飛んで、何もすることがない。直樹は自然と上着を取って、そのまま家の外に出た。
 しばらく歩くと、例の公園の前に来た。中に入ると、雲上がベンチで寝転がっていた。そしてその横には昨日の段ボール箱が一つだけポツンと置いてあった。他の段ボールは捨てられたようで、公園のどこにもなかった。
 「やあ」直樹を見ると雲上は声をかけた。「世の中の全ての罪を背負ってしまったような顔をしているぞ。キリストもこんな顔だったのかなあ」
 そう言って雲上はケタケタ笑った。直樹は雲上の足元に座った。
 「それで、ネズミは捕まりそうですか?」
 直樹が聞くと、雲上は背伸びをした。
 「分からん。こればっかりは時間に身を委ねるしか無い」
 「ひょっとして、俺が囮ってバレたんじゃないんですか」
 直樹は適当にそう言ったが、雲上は、何を当たり前のことを、という顔をした。
 「え、最初からバレてるよそんなの」
 その意外な言葉に、直樹はつい「えっ」と声を出した。
 「それもう囮の意味が無いですよ」
 「いや、重要な意味があるから大丈夫だ」
 「もし、重要な意味があったとして、どうやって捕まえるんですか」
 「そりゃあ、20匹集まった所を、こうカポッと、一網打尽に」
 雲上は箱を被せるような仕草をした。直樹はその様子に呆れ、同時にやり場のない怒り気持ちが怒りとなって沸き上がってきた。
 「本当はネズミなんていないんでしょう? 俺をからかってるんですよね?」
 「いるよ。いるいる。ネズミもネコも」
 「何でそう言えるんですか。俺は見たこと無いのに」
 「だって、僕が作ったんだもの」
 「は?」
 直樹は、雲上が言っている意味が分からなかった。雲上は何で分からないんだというように言った。
 「だってほら、僕神様だもの」
 それを聞いた途端、直樹の怒りが沸騰した。直樹は立ち上がって雲上に背を向けた。
 「もういいです! 話を聞いた僕がバカでした!」
 そう言って直樹が公園から出ていこうとすると、いつの間にか直樹の前に雲上が立っていた。そして何かをつまみ上げるように彼の右手を直樹の目の前に持ってきた。その人差し指と親指で挟んだ間から、一本の細い糸が垂れ下がっていた。
 「手放すのか? かつて何百、何千万もの人々が群がったこの糸を」
 雲上の射抜くような視線と脅すような声に、直樹はたじろいだ。
 「僕は昔、神様になる前は『雲上』の名の通り雲の上に住んでいた。お釈迦様もいらっしゃるあの天国にだ」
 そして雲上は続けた。
 「信じてもらえないと思うが言っておこう。今君はこの糸を握っている。天国へと通じる糸だ。君が正しい行いをしたのだったら、君は天国に辿り着ける。だが」
 そこで一息つくと、雲上が静かに言った。
 「もし君が正しくない行いをすると、糸はちぎれ、君は全てを失うだろう。大切な人もチャンスも何もかも」
 雲上の気迫に直樹は息を呑んだ。動かない直樹を見た雲上は、ゆっくり後ろに下がった。
 「逃げるな。なぜ正しいことから逃げる必要があるんだ。自分が正しいと思ったことを貫けばいい」
 そして雲上は直樹に背を向けた。
 「それでもし、何が正しいのか分からなくなったら、耳を澄ますんだ。いいかい?」
 直樹は何だか分からないまま頷くと、雲上はそれを見てさえいないのに「OK」と呟いた。
 「それじゃあ、グッドラックだ」
 そう言って、雲上は公園の外へ歩いていった。

 直樹はしばらくその場に立っていたが、やがて今言われたことを頭の中で繰り返した。何度も何度も繰り返した後、直樹は突然走りだした。
 交差点を通った。
 一軒家の前を通った。
 スーパーの前を通った。
 公園の前を通った。
 会社の前を通った。
 橋の上を通った。
 坂道を通った。
 学校の前を通った。
 バス停の横を通った。
 役所の前を通った。
 そして、商店街に来た。
 そこは一昨日、彩花とすれ違った地点だった。気がつくと夕方になっていて、周りが薄暗い。しかし直樹は帰ろうとしなかった。
 (何か足りない)
 直樹はそう思った。彩花を見つけるための何かが足りない。いや、そもそも彩花がいるのかどうかすら分からない。何もかも分からない。よく見知った町なのに、今の直樹には霧が立ち込め、何も見えない気がした。頭の中で雑音がなっている。うるさいと思っても止まらない。直樹は何だかぼんやりしてきた。
 直樹は今日何も食べていない。空腹と疲労で限界になった直樹は、近くの電灯に寄りかかった。
 (寒いな…)
 いつの間にか日は完全に沈み、夜になっていた。薄い上着しか着てない直樹には、ひどく寒さがこたえた。
 (俺はこのまま死んでしまうんだろうか)
 直樹は薄れゆく意識の中でそう思った。
 時間とともに意識は薄れてゆく。
 どんどん薄れてゆく。
 そしてとうとう意識が途切れると思った時、何か温かいものが直樹の体を包んだ。
 目を開けて見たが、直樹の周りには何もなかった。
 しかしそれは本当に温かく、直樹を幸せな気分にさせた。
 直樹の冷えかけた心と体に熱が戻ってきた。
 直樹は微笑を浮かべた。今日初めて笑ったかもしれないと思った。
 頑張れる、と思った。
 直樹が歩き出すと、その温かみはすっと消えた。しかし直樹の体の芯には、その温かみが今も残っていた。

 直樹は北の住宅地に向かった。件のアパートの前に来たが、直樹は躊躇いなく中に入った。そしてポストの前に立ち、101号室からプレートを見ていった。1つずつ1つずつ、なぞるように読んでいった。そして304号室まで来た時に、直樹の指は止まった。
 『304 橘』
 直樹は階段を登った。1段、また1段。そして3階に来ると、4番目の部屋を探しながら廊下を歩いた。
 『301 遠藤』
 『302 川上』
 『303 杉本』
 そして、
 『304 橘』
 直樹は一瞬だけ迷った後、インターホンを押した。扉の向こうで鳴るのが分かった。しかしいくら待っても、誰も出て来なかった。もう1回、また1回。何度押しても反応がない。
 「まだ、足りないのかよ…」
 また頭の中で雑音が鳴った。その雑音はまるで人の声のように、叫んだり、嘆いたりした。直樹は耳を塞いだ。もう限界だった。
 直樹はそこを離れて、耳をふさぎながら家に帰った。
 夜の街は綺麗である。しかし一番綺麗なのは、太陽が上る直前である。その時町は目覚め、時計は動き出す。しかし、まだだ、と直樹は思った。朝日が直樹を照らしても、直樹は納得しなかった。
 時間が立つのは早く、直樹にとっては1時間に満たないのに、すでに一夜が終わろうとしている。急がないといけないと思いつつも、体が限界のせいで上手く歩けなかった。
 やっとの思いで家にたどり着く。直樹は食べるものを求めて台所に行った。台所に行くと、鈴が眠そうに目をさすっていた。鈴は直樹に気がつくと、直樹に近づき、抱きついた。
 「お兄ちゃん、遅いよ」
 「悪かった」
 「わたしずっと起きてたんだから」
 「すまんかった」
 「しかも怒鳴るし」
 「ごめん…」
 「それで」鈴は直樹の方を向いた「どこいってたの?」
 「彩花のアパートに」
 直樹が答えると、鈴は首を傾げた。
 「アヤカって何だっけ?」
 「……!」
 直樹が驚いていると、鈴が頷いた。
 「うん、なんかね、最近わたし何か肝心なことを忘れている気がするの。何か心にぽっかり穴が開いたような…」
 それから鈴は言った。
 「それで、多分お兄ちゃんが今日元気ないのって、そのわたしが忘れたもののせいなんだよね?」
 彩花。彼女の名前が直樹の頭の中で浮かび上がった。直樹は頷いた。それを見て鈴が笑う。
 「わたしはそれについて、何か、結構、お兄ちゃんのためにお膳立てしたような気がするの、よく覚えてないけど」
 鈴はそこで言葉を切り、直樹の目を見つめた。
 「やっぱりお兄ちゃんが見つけないとダメ。わたしじゃ忘れちゃうから。だからお兄ちゃんが聞いてあげて、『アヤカ』の声…」
 そこまで言うと、鈴は寝息をたてはじめた。そしてそれと同時に、また雑音が鳴った。今までのよりも大きく、直樹の頭の中に何回も響き渡った。直樹はそれをじっくり聞いた後、鈴の顔を見た。
 「ありがとう、鈴」
 直樹は鈴を彼女の部屋に運び、ベットに寝かせた。そして自分の部屋でもっと厚い上着を着て、台所に戻る。そこでおにぎりを一つ食べると、朝の町に飛び出した。
 「急がないと」
 直樹は昨日と同じルートを行った。
 交差点を通った。
 一軒家の前を通った。
 スーパーの前を通った。
 公園の前を通った。
 会社の前を通った。
 橋の上を通った。
 坂道を通った。
 学校の前を通った。
 バス停の横を通った。
 役所の前を通った。
 そして、商店街に来た。
 商店街の端に立つと、人がいなければ反対側まで見通せる。今はまだどこの店も空いておらず、人一人いない。いや、本当に誰もいないのだろうか?
 「開けてみるまで分からないって、あの人は言うだろうな」
 そして『あの人』はこうも言ったのだ。
 『ネコはこの中に確かに入ってると、僕は思うよ』
 「俺も思います。ここにいるって」
 そう直樹は呟いて、目を閉じた。
 耳を、澄ませた。
 すると、『それ』が聴こえた。
 最初は小さな雑音だった。
 それがどんどん大きくなっていく。
 直樹の頭の中に直接送り込まれているように感じられた。
 今まで、直樹はただの雑音だと思って拒否していた。
 しかし、耳を澄ませば分かる。
 それは人の声だと。
 その雑音を受け入れた直樹には確かに聞こえた。

 「直樹くん、助けて!」

 助けを求められたら、助ける。それが正しいことだ。それが直樹の常識だ。
 だから直樹は誰もいない商店街を見つめた。
 いるのかいないのか分からない、なんて思わなかった。
 なぜなら彼女は確かにそこに『居る』から。
 思うとか考えるとか、そういうあやふやなものでなく、彼女が『居る』と感じたその途端、光が像を結び。

 直樹は彩花を認識した。

 彩花は3日前にすれ違ったちょうどその場所に立っていた。気がつけば直樹は走っていた。いつの間にか幼馴染の名前を叫んでいた。
 その声に彩花が振り返り、信じられないといった顔で直樹を見つめた。
 直樹が彩花の前で止り、肩で息をする。
 「直樹、くん…?」
 直樹は首を縦に振った。
 「私が、見えるの…?」
 今度は大きく首を振った。
 そして、直樹が彩花の手を握った。
 その瞬間、直樹の首のスカーフが溶けた。
 スカーフはうねり、広がり、握った手を通して彩花にも伝わった。それと同時に、二人のここ3日間の記憶が、伝わり合った。直樹はなぜ彩花が消えたのかを理解し、彩花はなぜ直樹が自分を見えたのかを理解した。
 そして、二人が手を離すと、お互いを見つめ合った。
 それから、それぞれが何かを言おうとした途端。横から邪魔が入った。
 「はい、お取り込み中の所申し訳ない」
 それは雲上だった。雲上は段ボール箱をカッターで瞬時に開けて地面にかぶせた。あまりにも早すぎて直樹には中を見ることができなかった。
 「よし、捕まえた」
 そう言って雲上はしばらくじっとしていたが、やがてその段ボール箱を持ち上げた。直樹が恐る恐る中を覗くと、ネズミもネコも入っていなかった。
 「ちょっと、捕まえたっていいましたけど、何も入ってないじゃないですか」
 直樹がそう雲上に言うと、雲上は頷いた。
 「確かに入ってないな。ということは『最初からいなかった』のかもしれない」
 「そんなのありですか」
 「ありです」
 雲上がケラケラ笑うと、彩花が直樹の方を見て、首元を指さした。
 「直樹くん、スカーフつけてなかったっけ?」
 言われて直樹が首元を触ると、あれだけくっついて離れなかったスカーフが跡形もなくなくなっていた。
 「溶けたんだよ」
 驚いている二人を見て、雲上が言った。
 「溶けたって、どういうことですか」
 「願いを一つ叶えてやると言ったからね。君が望むであろう願いを叶えた結果だ」
 「確かにスカーフを外してくれと願ったかもしれませんけど…」
 直樹は何だか騙されたような顔をした。雲上は首を横に振った。
 「別にそういうつもりだったわけじゃあない。こんな話を聞いたことが無いかい? 『蜘蛛の糸を1cm束ねて巣を作ったら、ジェット機でも捉えられる』ってやつ」
 雲上は段ボール箱をペシャンコにしながら言った。
 「僕はその昔天国に住む蜘蛛だった。その時カンダタとかいう超絶有名人の運命を少し弄って以来、僕は『運命を司る神様』になったんだ。その僕が特製の糸で編んだスカーフが君にやったものだ」
 「特製の糸?」
 「人はそれを『運命の赤い糸』という」
 そう言って雲上は直樹と彩花の小指を握った。
 「もとから通っていた細い細い赤い糸、僕がスカーフで直径1cmに補強してやった。ジェット機が突っ込んでもちぎれないであろう関係、大事にしなさい」
 その瞬間、強い風が商店街を吹き抜けた。1分ぐらい吹き続き、止んだ時には、雲上はもういなかった。ただ耳元に、「グッドラック」という声が残った気がした。
 直樹と彩花は狐につままれたような顔で見つめ合った。そして突然笑いあった。
 その朗らかな笑い声は、ようやく人が来始めた朝の商店街に、いつまでも響いていた。


トップに戻る