僕は極度のあがり症だ。
 それはもう極度なのだ。
 どれくらい極度かというと、人前で話をしようとすると体が石のように硬直して、声も出なくなるくらいだ。
 そんな僕が誰かに恋をしたら、どうなるか。
 わかりきったことだ。
 その子の前に立っただけで、体が石化する。
 何もしゃべれない。
 特に二人きりになったときなど、きわめて悲惨だ。
 ただでさえ僕の頭は真っ白なのに、指一つ動かせないものだからますますパニックだ。
 相手はいつも僕にあきれた目を向けて去っていく。
 それは仕方のないことだ。石の置物と並んで座っていたって、何が楽しいものか。
 僕はこのままではいけないと思い、この癖を矯正してやろうと、あらゆる方法を何度も試みた。
 でもだめだった。シミュレーションがいかに完璧でも、ひとたび緊張するとすべてが弾け飛び、また僕は石になっていた。
 周囲の人たちはもう慣れていた。僕はそういう奴だ、と悟っていた。幸いにもそれによって悪意が向けられることはなかったが、僕は着実に敬遠されていった。
 そんな中、彼女に出会った。

 沢田は僕と同じ、はぐれ者だった。
 よくわからないことが多い存在だった。わかることは、いつも白黒ボーダーのシャツを着ていたことくらいだ。
 ただ僕とは違って、一人でも平気だからとあえて誰ともつきあいを深めようとしていなかったフシがある。
 それゆえか、講義の時は余った机に居合わせることが多かったが、はじめのうちはそんなことは少しも気にしていなかった。消しゴムかして、と声をかけられても、ん、といって渡せる程度には平気だった。

 ある日、5限の講義が終わると、僕はいつものようにみんなが講義室からでるのを待っていた。人波の中にいては、石化したときにみんなの迷惑だからだ。
「ねえ」
 予想していなかった事態だ。僕に沢田が声をかけていた。消しゴムの時とは違う。ほかならぬ、僕を相手にだ。
 僕は、むろん石化した。
「このあと、時間あるよね。ちょっとつき合ってくれる?」
 沢田が前髪をかきあげる。
 僕は固まったまま、口を力なくあんぐりと開ける。魚のようだったに違いない。
「いいよね」
 沢田は返事を待たず、僕の手を引いて歩きだした。
 抵抗するすべもなく、僕は引きずられるようにして歩いていった。
 着いたのは部活動の部室が並んだ建物の片隅だった。
 部屋には一台のピアノが置かれ、そのほかにはなにもない。ぼろぼろに風化しかけた壁には、無数の落書き。
「ここは少し前まで、Insanityっていうバンドが活動に使ってたんだけど」
 沢田はピアノ椅子に腰を下ろす。
「解散しちゃって、今は空き部屋なんだって。このピアノはその名残。もう古くなってるし、持って行くのが面倒だったんだろうね。まあ、座ってよ」
 緊張がすっかりほぐれていた僕は、言われるがままに地べたに腰を下ろした。しかし気になっていた。沢田はなぜ僕をこんなところへ連れてきたのだろう?
「なんで俺を誘ったのかって顔してるね」
 心中を言い当てられ、僕はまたドキリと硬直した。沢田はニヤリと笑う。
「つれてこられて迷惑だった?」
 僕はかろうじて首を横に振る。
「ならよかった。ちょっと話し相手がほしくてさ。だからといって、人の群れに入っていくのは気が引けてね。つるむならキミみたいな奴がいいなって思ったんだ」
 それからしばらく、僕たちは夕陽の差し込む中、黙って座っていた。話し相手とは言ったが、聞かせたい話があるわけではないらしい。
 沢田は時々こちらをじっと見た。僕が目をそらすこともできず石化するのを見ると、いたずらっぽく笑った。
 その日、僕は終始緊張しっぱなしで、でもなんだか嫌じゃなかった。

 それから沢田は、たまに僕を空き部屋に連れ込んだ。そして他愛のない話を聞かされた。
 気を利かせてお菓子を持ち込むと喜ばれた。
 周囲は関係を怪しんでいるようだったが、付き合ってんの?と訊かれることはない。僕は石化するし、沢田はそれとなく無視するとわかっているからだ。
 僕自身は、付き合っているなどと考えたことはなかった。
 ただ不思議と居心地がいいから一緒にいるだけで、その関係をなんと呼ぶかなんてわからなかった。沢田はどう思っていたのだろう?わからない。それでも僕は着実に沢田に惹かれていった。

 ある日空き部屋に行くと、なんだか様子が違っていた。
 床に転がる褐色の壜、斜めに照らす夕陽、すべてがどこかわけもなくノスタルジックで、立体的で、時間が止まっているように思えた。
 その真ん中に、椅子に座って体育座りをしている沢田がいた。
 僕が部屋に入ると顔を上げて、柔らかい目線で僕を見る。
 瞬間、その潤みを湛えた唇から吐息が漏れる。
 僕は、唾を飲んだ。
 動悸が上がる。
 でも、不思議と石化は起こらない。
「さ…わだ…」
 不意に言葉が溢れる。
 沢田は立ち上がり、僕の前に立った。
「沢田…俺…」
 顔が熱くなる。
 沢田は、僕の唇に指を当てた。
「そこから先は、言っちゃダメ」
「え…」
「私のことを女として好きになったのなら、それは間違い」
 言葉の意味が理解できなかった。
 僕は石化した。
 いったい僕は、何を言おうとしていた?
「キミとは気楽な関係でいたい。キミならずとも、誰とてもそれは同じ事」
 そうか。僕は、関係を変えようとしていた。男と女になりたかったのだ。
「私はいつも独りで生きてきた。だからかな。私の心は、誰かを受け入れる余裕なんてない。自重でいっぱいなの」
 沢田は顔を少し傾ける。その目は少し潤んでいた。
「だからお互い、これからもいいパートナーってことじゃ、ダメかな?」
 僕は言葉を返すことが出来ず、ただ泣き崩れた。

 それからも僕たちは何も変わらなかった。
 学校を卒業するまで空き部屋の集いは続いた。そのうちに、僕の石化癖は少しずつ治まっていった。
 今僕はあの頃知らなかった女性と恋に落ち、家庭を築いている。
 沢田は相変わらず、誰ともつるむことなく研究室に籠っているらしい。
 僕の初恋の相手は、今は一番の親友として付き合いを続けている。
 きっと、これで正しかったんだと思う。
 ひとはそれぞれの形で寄り添い、ともに人生を歩んでいく。これが、僕と沢田のあるべき生き方なんだろう。
 でも、あの日の恋心を、見ていた夢を、僕はこれからも忘れることができないだろう。


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