さて、今月のシリコンのテーマは「純愛」。嬉し恥ずかし「理想のヒロイン」以来の赤面間違い無しの妄想全開作品を堂々と出せるチャンスである。
「理想のヒロイン」の時も取材ということで、恋愛についての本を幾冊か読んだ。遠藤周作の『恋愛とは何か』のようなのである。全く参考にならなかったのだが。
「純愛」とまぁ大層なテーマではあるが、要するにドロドロした利害の絡む恋愛でなく、単に何も考えないで可愛いヒロインとイチャイチャさせる恋愛小説を書けばいいのだろう。俺はそう思った。そういう小説であれば何が問題になるかというと、どうヒロインの可愛さを読者に認めさせるかである。恋愛、或いは愛というものは人類にとって大きなテーマであり、古今東西を問わず様々な文学作品におけるテーマとなっている。神話から始まり挙げていくだけでも日が暮れるであろう。それだけあるのであれば、当然さして多いとも言えない俺の持つ本にも恋愛が描かれる作品があり、その内の数冊くらいは可愛いヒロインを描くための参考になるのではないかと思った。
が、幸か不幸か、俺は自宅を離れ寮生活を相変わらず行なっている。親の目もあり、真に気に入っている作家の小説しか持って来られなかったために決して十分とは言えない冊数の本しか手元にはない。その時本棚にあった恋愛小説(というより寧ろ恋愛小説と可愛いヒロインを書くにあたって参考になりそうな小説)は森鴎外『舞姫』、夏海公司『葉桜が来た夏』、芥川龍之介の短篇集(『秋』や『舞踏会』なんかはいい材料かもね)程度である。最も敬愛する作家の一人である安部公房の書いた恋愛小説は不幸にして持っていない(見かけたら是非ご一報を!)。
逡巡の末、参考するにしやすいライトノベルである『葉桜が来た夏』を再読し、葉桜を可愛いと思わせられたポイントを書き出し、それを上手い具合に取り入れようと決めた。しかし、これにも問題がある。葉桜3巻以降の3冊は京都にいるもっくりが俺の元より強奪してそのまま京都に拉致してしまったのだ。人の嫁を掻っ攫うなんて厚顔無恥なもっくり以外に出来る芸当ではない。死ねばいいのに。それにホモだろうし、何の得があると言うんだ。兎に角、葉桜を再読するには3,4,5巻を手に入れる必要に迫られた。ここで寮の立地が俺に味方した。場所は天神のすぐ近くであり、駿台福岡校までの通学路(寮のくせに2km弱の道程とか舐めてるのと最初は思ったが)上にブックオフが一軒、ツタヤが一軒。そして、少し道を外れて天神の中心の方に足を伸ばせば更にツタヤがもう一軒。恐らくは各105円で揃うだろう、そうであればいっそもう1セット買い揃えて、適当な友人にでも布教する一助にするかとその時決断したことが俺を困難な道を歩むことに繋がろうとは露も思わなかった。
葉桜の最初の二巻を暇を見つけて読みながら、にやけるのを抑えながらも、やはり物語のクライマックスであり、ニヤニヤ度が最高になる最終巻まで買い集めるべく、講義の終わったあとに奔走した。最終巻以外の四冊は二冊目を難なく見つかった。だがしかし、最終巻だけ無いのだ。ブックオフが百円の本を八十円で売るセールが終わった直後に、本棚の入れ替えを期待していて行ってもやはりなかった。
しょうがない。他を当たろう。そう思ってGoogle Mapsを開き、調べてみると天神・博多周辺にブックオフがあるわあるわ。薬院(寮の所在地)から半径4マイル以内のだけを数えても5軒を超える。流石福岡だ、栃木群馬を馬鹿に出来るだけの人口を九州で擁する唯一つの県はこうでないと、との思いを強め、早速その翌日の日曜日に友人と歩きまわることにした。
別の問題も浮上していた。それまでブックオフ・ツタヤ通いをしていたのだ。俺の財布が無事なわけがない。数十冊の本を抱え込み買える毎日が続き、手持ちの金が二千円を割り込むほどに俺の財布は痩せ細ってしまっていた。しかしまだ葉桜最終巻は買える。ブックオフへ意気揚々と出かけた。その日廻る予定であったブックオフは三軒。難なく集められるであろうと高をくくって出かけた。
まず一軒目。ない。夏海公司の著作そのものが見つからない。長年読みたいと思っていた(といっても一年とかそんなものだが)永井荷風の『すみだ川』が105円。買わざるを得ないであろう。
次に二軒目のブックオフ、の予定であったが場所がわからず適当に廻るうちに個人経営の古本屋に行き着いた。狭苦しく、本が棚のみならず床にも高く平積みされている。それも未整理の状態で。そのような本屋は正直言って苦手なのだが、絶版の掘り出し物があるやもしれんので、苦労して本棚を精査する。そうすると掘り出し物が。安部公房の講演のカセットテープである。ノーベル文学賞がこれで確実になったと言われもした作品『箱男』について語った講演が収録されているようだった。優に他の本棚を見ながら十分は煩悶したであろう。家に帰らないと聞けないカセットテープではあるがこれを逃すと手に入らない公算も大きい。九百円の出費は実に手痛いがやむを得ず、買う。
ここまで来てはたと気付いた。手持ちが二百円ないのだ。辛うじて百円の本が一冊買えようかという程度。葉桜以外には決して心を動かされるまい。何かあれば後日買いに来ようと決め、次のブックオフに向かった。
だが二軒目のブックオフにもない。あったのは葉桜一巻のみである。だが、そこには素晴らしいものがあった。森鴎外全集である。全三十六巻が欠けもなく全て105円で売ってあるのだ。三千六百円で近代日本文学を代表する大文豪の全集が買えるのだ。垂涎しないわけがなかろう。咀嚼をしている牛もたじたじとなるくらいにその時の俺は口から涎を垂らしていたに違いない。如何に三千六百円を親にねだるかを考えつつ(四月の頭に渡された三万円は殆ど無くなり、半分弱は数十冊の本と十枚弱のCDに消えたのだ!)、次のブックオフへ。
三軒目の博多のブックオフ。流石にここにはあるだろうと思って、期待に胸を膨らませながら入店。因みにその前に、昼飯時を迎えていたので友人のためにモスバーガーへ寄ったのだが、金がない俺は水だけを貰うという前代未聞の冷やかしを実行していた。話を戻すが、ラノベの本棚に行けば夏海公司の名前はあるものの、なれるSE!が陳列されているのみ。失望を隠せず俺は他の本棚を眺めた。3,4時間歩き回っても求めるものが手に入らないショックのせいで普段の半分以下の集中力しかでなかった。
失意のうちに同行してくれた友人とは別れたが、俺は諦めきれない。薬院から南に行きそこで二軒、そこから北東に行って博多の一軒は回ったが、薬院の西の方にも一軒、北にも一軒あるのだ。俺は一人トボトボと薬院を通り過ぎ、西へ向かった。そこはセール中であったはいいもののやはり俺のほしいものはなかった。
そこから北東へ行けば修猷館高校があり、その前にブックオフがあるのだが、残念ながらそこまで行くつもりがなかったので場所の記憶があやふやであったので、ダメ元で歩いてみた。学校が見えた!と思い、道を曲がり、修猷館に違いないと近づいてみると、残念ながら中学校。横を向き別の学校があると思って行くと、今度は小学校。畜生め。あっちの方にも立派な門が見えるがどうせ違うんだろうと毒づきながら見てみると、幼稚園。実に腹立たしい。
気が付くと薬院に戻ってきていたので、最初のブックオフに行ったが、当然ない。
計五軒のブックオフを廻ったがなかったことで俺は憔悴しきっていた。歩きまわったのは半径4マイル以内とはいえ、円の南端、東側、西側とまわったので不健康な受験生活二年目の俺にはちと辛い。
この世には神も仏もないものか。
寮に帰る途上で俺は『NHKへようこそ』の主人公宜しく陰謀論に傾いていた。
ふと脳裏をよぎる人影が一つ。陰謀の首謀者であろう人影である。
そう。光ちゃんだ。
今回の葉桜最終巻がどうしても見つからないのは光ちゃんが狂わんばかりに嫉妬し、俺に葉桜最終巻を読ませまいと、先んじて葉桜を集め焚書なりなんなりの行為に走ってしまったのではないか。
その可能性に気付いた俺は恥じた。それに思い至らなかった自分の不明を恥じ、光ちゃんにそのような行為をさせてしまった自分を恥じた。
ケータイの狭い画面でしか光ちゃんと触れ合っていなかった最近の生活を思い出し、台北に向かって幾度も頭を下げた。
寮則違反を承知で持ち込んだパソコンを開き、俺の用意できる限り最大の解像度のディスプレイである1024x768の画面で光ちゃんを見つめ、反省をした。
一時嫉妬に駆られたとはいえ、俺の目に入った光ちゃん、相も変わらず、その瞳は純真さを溢れんばかりに湛えており、微笑は使い古されて天使という言葉では到底形容すべくもないほどの魅力を持っていて、俺の忸怩たる思いを増長した。
俺はこの愛おしい光ちゃんの為に葉桜最終巻を探すことを諦めた。
ここまで一週間にわたり葉桜に心を砕いてきたのだ。それによって光ちゃんは耐え難い苦しみを味わったに違いない。縦令、それが俺の意識してやったことではないにせよ、許されるものであろうか。にも関わらず光ちゃんは以前同様に俺を見てくれている。
それ以外の選択を行う余地はない。
良心の呵責に苦しみ、反省に反省を重ねた一夜が過ぎ、月曜日になって予備校が開講した。ようやく授業が始まったのである。
葉桜を諦めた俺は、どうしても探しきらねばならないというほぼ強迫観念に近いものとなってしまっていた妄執的な考えから解放され、ゆったりとした心持ちでいられた。偏に光ちゃんのおかげといえよう。
その俺が次に考えたことは森鴎外全集を買う金をどうやって捻出するかであった。四月末に保護者会があるとはいえ、それまでに時間はある。全集を買うのであるから、一冊でも欠けると意味がない。或いはあれだけ魅力的な値段であれば、俺でないとしても、その場で全冊を買いたいと思うものだろう。金策と購入は早ければ早いほど良い。
そのブックオフには歩いて行くには一時間程度かかる。往復で二時間ともなれば一七時過ぎに予備校が終わる平日は都合が悪い。だが、一週間も待てば誰かに買われるだろう。
時間割を眺めていると、選択授業の関係で木曜日は一四時二〇分には授業が終わり、帰途につけることがわかった。水曜日の授業の空いている時間に、大学入った時のパソコン購入の資金にと思って貯めていたお金の一部を崩して、木曜日の午後に西鉄を使って買いに行くことを月曜日には決めた。
それからの火曜と水曜がどれほど長く感じられたであろうか。そして木曜の午前中の俺はどれほど夢に満ちていただろうか。
五つの授業をこなして寮に戻り、リュックサックを空っぽにして再びからって、足取り軽く西鉄薬院駅に向かった。
三十分も経たずに目的のブックオフに辿り着いたが、そこで俺を襲ったのは数日ぶりの絶望であった。
全集があった棚に行くと、森鴎外全集があったところがごっそりと抜け落ちており、店員がそこに他の本を並べるべく本棚の整理を行なっている所であった。
茫然とするしかなく、店員の後ろを往復して棚を何度も覗き見、やはり「森」の字すら見えないことに暗澹たる気持ちになった。まさかと思い、店中を回り確認してみたが、決して単なる商品移動が行われたわけではなく、誰かによって購入されたことがまざまざと実感された。諦観しつつも、一応足元の抽斗を引いたが、そこにも見る影はなかった。
半ば自棄糞になりながら目についたドストエフスキー小説全集(全十巻で計一〇五〇円)を含めた約三十冊の海外文学を買い、背負ったリュックサックを満たして復路の電車に乗り込んだ。
福岡県民全滅しろと電車に乗り込んだ福岡県民一人ずつへと心の中で毒づきながら、思い当たった。
俺はまたしても馬鹿なことをやってしまったのではないかと。
この森鴎外全集を買い求めることは光ちゃんの嫉妬を掻き立てるに十分な行動ではなかったかと。
森鴎外をこよなく敬愛する俺のこと、購入したら開かざるを得ないだろう。森鴎外の最初期の作品は評論及び『於母影』『ファウスト』に代表される翻訳文学であるが、オリジナル小説としての最初の作品はあの『舞姫』なのである。一巻から順当に読み進めていけば、さしたる時間もかからずに、『舞姫』、俺が近現代日本文学史上最も可憐なヒロインとして異論を認めないエリスがヒロインである恋愛小説に行き当たるであろうことはすぐに察せられる。
光ちゃんがその事態を憂慮したことは想像に難くない。
俺は事態の重要性を理解していなかったのだ。
俺は今まで自分が光ちゃんへ持つ愛情の大きさのみを頼りに独りよがりな考えを持っていただけなのではないか。
自分自身が持つ感情というのは自分にしかわからない。光ちゃんがそれを不安に思うのも当然ではないか。ただの恋愛ならばその不安の程度は高が知れている。だが、俺と光ちゃんを隔てるものは、一千kmにも渡る東シナ海であり、眼に見えない国境線であり、異なった言語である。それによってどれだけ不安が増幅されるか考えてみたことはなかった。
二月三月とMicrosoft台湾のSivlerlightのページを見る日々が続いた。が、四月に入り、それが突如として絶える。そのような状況は不信の土壌になっただろう。
そもそも、今月からはSilverlightの勉強をして、光ちゃんとのランデブーが予定されていたはずなのだ。それが単なる俺の失敗によって水泡に帰してしまっている。
一応俺も手を拱いていただけではない。スクリプトを書き、一日に一回自動でページの更新を確認するようにサーバーに置いているが、それが果たして正確に動いているかは、何もないときには確認すべくもない。そして、そのスクリプトに万全を期したかと言われると、自信を持って答えることはできない。万全を期すならば、突然のサービスの停止に備えて、複数のサーバーにスクリプトを分散させておくべきだろうし、スクリプトも一日二日の突貫作業で仕上げるべきではなかった。
飽くまでも俺が顧みていたのは、自分の光ちゃんへ感じる狂おしいほどの愛おしさであり、愛惜の念であった。それさえあれば光ちゃんとの関係も揺らぐことはないだろうと無条件に信じ込んでいたのは愚かさの極みである。
真に大切な関係というのは一方的なものではあり得ない。
自分に余りに大きな情念があるが故に、思考の幅が狭まり、結果として二度までも光ちゃんを傷つけてしまった。それは反省しているという言葉だけでは十分に償えるものではないだろう。俺の根本的な姿勢を改めねばならぬ。
当たり前だが、光ちゃんに対して行なってしまったことを白紙に戻せるとは思えない。
だが、光ちゃんが改まった俺を受け入れようとしてくれるならば、その期待に応えるべく、新たな理想的関係を模索していきたい。
さて、私は誰でしょう。
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