夜はあんまり好きじゃなかった。暗く、自分以外の気配を感じない部屋で、ひっそりと息をする。そんな、闇に融け込んでいく瞬間に孤独を素直に受け入れさせてくれるようで心地よかったが、どうしても好きになれなかった。反対に、朝は好きだった。まだ、うす暗い内に目を覚まし、カーテンを開ける。ベッドの上に座りながらひたすら窓の外を眺め続ける。空がだんだんと白んでいき、灰色からオレンジ、紫から青色へと変わっていく。静寂を保ったままで少しずつ、だけど着実に進む世界。触れることの許されないような、昨日と明日が繋がるあいまいな時間。すべてが混ざり合って境界の無くなるような感覚が私を落ち着かせてくれた。
昼食を終え、いつものように屋上に向かう途中で、外は雪が降ってるんだったと思い出して引き返す。今日はクリスマスイヴ。サンタもびっくりの最高のホワイトクリスマスだ。この街に雪が降ること自体珍しく、クリスマスに雪が降ったのは何十年振りらしい。ひらひらと舞う雪が少しも途切れる気配無く、上空から降り注いでいる。部屋にギターを置くと、することが無くなった私は、せっかく着替えたんだからと病院を出た。
病室から見た時と違って、外を歩き始めるとすぐに雪はうっとうしさ以外の意味をなくしてしまった。足跡だらけで所々アスファルトが雪の間から顔をのぞかせている道をゆっくり歩く。最近、病気が進行してきたからなのか、体力が落ち、気怠さが取れなくなってきている。何も考えずに足を動かしていると、いつの間にか大通りに辿り着いていた。
コートのポケットに手を突っ込み身を縮まらせながら、人の波に逆らわないように歩く。どこからか聞こえてくる安っぽいクリスマスソング。ちかちかと決まったパターンだけを繰り返すイルミネーション。それらの全てが何か特別なもののように感じられるらしく、すれ違う人は皆幸せそうな顔をしていた。
一週間前、翔太が死んだ。私はちょうどその時病院に来ていた稜とそれに立ち会った。必死に涙を堪えて翔太の両親とは対照的に泣きじゃくる私を翔太はそっと撫でてくれた。そして稜に向かって
「唯名をよろしくね、稜にぃ」
と言うと部屋を見回し、最後に手を握る私に笑いかけ
「これだけで良かったんだ」
と呟き、満足そうに目を閉じた。
大通りの中心にある大きな十字路の真ん中にある大きなクリスマスツリーを円状に取り囲む背もたれのないベンチに腰掛けた。落ち着いて考えるとかなりの距離を歩いていることに気が付き、急に足が重くなったのでちょっと休憩。吐いた息の白さを確かめる。
種の明かされた手品で人々を騙すように煌めく街。暗くなり始めた空には転々と星が浮かび始めていた。ぼんやりと眺める雑踏の中には不幸そうな人間はいないらしかった。
そんなものなのだろう。幸せも優しさも雰囲気だけで満足できるのだ。生きるということもまた然り。そこに何かからっぽな印象を受けるのは、私の我儘に過ぎないのだ。でも、それでも、あの時流した涙は本物だ。だと信じたかった。
「風邪ひくぞ」
びっくりして声がする方向を向くと稜がいた。そのまま隣に座る彼を私は見つめ続ける。病院には何も言わずに出て行った上に、携帯も忘れてきてしまったので、誰も私の居場所を知らないはずなのだが。
「どうして分かったの?」
「何となく」
ポケットから懐炉を取り出し、私に渡しながら稜は言った。冷え切った手に広がる熱が少し擽ったい。
「稜」
「何だ?」
「私が死んだらさ、ギター貰ってよ。アコースティックギター」
「エレキの方は?」
「セントブルースは高かったからだめ。あれと私作のエフェクターは軽音部のものにする」
「なんでだよ。呪われそうで誰も使えないぞ」
本当はよく分かってる。アコギの方は紡がれてきたもので、エレキの方は私が紡いできたものだからだって。私の時間を稜に押し付けるのは悪い気がするからだって。それでも、何かを彼に残してあげたいという身勝手な思いを叶えたいだけだからだって。
「唯名」
「何?」
「・・・何でも無い」
「何よそれ」
私が不機嫌そうな声を出すと、稜はきまりが悪そうに笑った。私は気付いていた。私と稜が他の皆のように一緒に遊びに行かなかったのは、お互いを知るあまり相手への思いが自分のためのように感じられるからだと。そしてこの一年、そんな隘路を飛び越えて稜は私に優しくしてくれていると。時間だけが余り有る私が、下らない水掛け論を自分の中で繰り返して出した答えを、彼は持っていた。けれども、そんな純粋な思いを逆に稜に返す術を私は持っていない。何もできない歯痒さと、残された時間への焦りだけが募る。たまらなく自分が嫌になりそうだった。
「稜」
「今度は何だ?」
「・・・何でもない」
黙り込む私の手をそっと稜が握る。私はその手を固く握り返し、言葉のない会話にただ耳を傾けていた。

 朝食を済ませ、窓を開けると心地良い風が入ってきた。三月が終わろうとしており、街には気の早い春が訪れ始めていた。優しく髪を揺らす風の中目を閉じると、この前あった卒業式の光景が浮かんできた。
 熱っぽさを伴った身体で出席した卒業式は正直しんどかったが、なんだかとても大事なものをはっきりと形にするみたいで嬉しかった。これまでとここからを線引きする。私にはこれまでしか無いけれど、皆と共にそんな瞬間を分かち合えたのは幸せだった。軽音部の皆との最後の演奏中、泣く人も少なくない中、一人だけ終始笑い続けているのに自分でも気づかなかったのは恥ずかしかったが。
 ノックもなしにドアが開いた。
 「稜じゃない。どうしたの?」
 稜はベッドに座る私のもとへ歩いてくるとこう言った。
 「出かけるぞ」
 「はぁ?」
 「ほら、早く仕度しろって。外出届はもう出してあるから。ロビーで待ってる」
 部屋を出ていく稜を見送った後、しばらく唖然としていた私は、とりあえず言われた通りにすることにした。寒くならないように薄めのカーディガンを着て、財布等をポケットに突っ込み、ロビーに向かう。私と合流すると稜は病棟を出て少し歩き、一台の車の前で止まった。良子さんの車だ。
 「どうぞ」
 助手席のドアが開き、稜が言った。
「はい?」
 「いいから、いいから」
 わけが分からないまま車に乗り込むと、稜はドアを優しく閉め、自分は運転席の方へと回った。何食わぬ顔でシートベルトを締め、エンジンをかける稜に私は言った。
 「ちょっと。いいかげん説明してほしいんだけど」
 「免許取った。夏休み中に。大学に合格するって条件付きで校長から許可取ってな。まぁ合格したから関係ないんだけど。行きたがってたんだろ?旅行」
 そう言って恐る恐るアクセルを踏む稜に、私は何も言えなかった。開いた口が塞がらないとはまさにこれかと、混乱する頭がいい加減なことを考えているのが分かる。のろのろと動き出した車は国道に出た。私はシートベルトをしてないことに気付き、慌てて締める。
 「どこ行くの?」
 ウィンカーを出すのが早かったり、直線でフラフラしたりする稜のぎこちない運転にも慣れ、落ち着きを取り戻すと、今度は旅への期待が膨らんできた私は訊いた。
 「隣の県のS町。そこでまず昼飯に鰻食って、温泉入って、喫茶店でゆっくりして帰る予定」
 「最高だね」
 車内を見回すとCDケースを見つけた。中を見ると色々なジャンルのたくさんのCDが入っていた。どのCDも良子さんらしさがうかがえる。
 「CDかけていい?」
 「お好きにどうぞ」
 お気に入りのジャズバンドを見つけて、早速かけてみる。高域から低域までバランスのとれた、品の良い音が流れてきた。心地良い空間的広がりを持った音の世界が出来上がる。おそらくつけかえてあるであろうスピーカーの値段が少し気になっていると、車は高速道路に入った。
 「そういえば、初心者マーク貼ってた?」
 「・・・」
 やっぱり忘れていたか。乗るときに見なかったなとは思っていたのだが。詰めの甘い奴め。
 「事故ったりしたらどうすんのよ?」
 「警察より先に良子さんに殺られるから良いんだよ」
 「はいはい」
 外に目をやると、市街地が広がっているのが見えた。不揃いな高さのビル群。所々緑が残っているのが、私の暮らす町が少々田舎であることを物語っていた。よく知っているはずの街の、知らない景色が遠ざかっていく。
 「トイレとか行かなくて大丈夫か?」
 休憩所の標識を見た稜が言った。
 「確か次の休憩所まで長かったよね。寄ろう」
 「了解」
 高速の横から坂を下って、駐車場に車を停めると、稜を車に残したまま私はトイレを済ませた。車に戻る前に出店でペットボトルのお茶とプラスチックの容器に入ったできたての大学芋を買った。
 「お待たせ。はい、お茶」
 「サンキュー」
 お茶を一口飲んでから稜は車を発進させた。しばらくして私は大学芋のふたを開けた。甘い匂いが広がる。
 「何買ってきたんだ?」
 稜がこちらを見ずに訊いてきた。私はアツアツの芋に苦戦しながら答えた。
 「大学芋。稜も食べる?」
 「食べる食べる」
 ハンドルを握っていない左手に、大学芋を刺したつまようじを渡す。予想通り稜はまるごと一個口に放り込んだ。
 「熱っ!」
 「ははは」
 「先に言っとけよ!」
 私は笑いを堪えながらつまようじを受け取り、代わりにお茶を渡してあげた。
 「それにしても、旨いな、これ」
 「うん」
 お茶で口を冷やした後、稜が言った。景色は変わり、左右には山が広がっている。空孔行きの大きなバスを追い越していく。
 「私さぁ、稜と付き合い始めた頃、大変だったんだよ」
 「何で?」
 「稜は顔もそこそこいいし、人当たりも良いし、ちょっと細過ぎるけどスタイルも良いから結構女子の中で人気だったんだよ。だから何であんたが篠崎くんとってすっごいいじられた」
 「嬉しいのか嬉しくないのか良くわかんねえなぁ」
 稜は笑いながら続けて言った。
 「俺も大変だったんだぞ?唯名も男子の中で人気だったからな。お前が何で我らが歌姫春山さんとって他の男子に殺されかけた」
 「それ本当?」
 「本当、本当」
 何ににも追われず、責任も伴わない空気のような自由な時間。隣には好きな人が居て、別に会話は無くたっていい。誰のためでもない自分。生きてるってこういうことなのかなとか、次々に横を通り過ぎていく山々を見ながら、私は大袈裟に考えていた。途方も無く大きな世界の中で、私が生きる範囲はほんの僅かで、こうして遠出することは出来ても、全てを知ることは到底叶わない。でも、その小さな自分しか生きれなくともそれで十分なのだ。飽きたら自分を広げればいいし、いつでも戻って来れる。そんな旅を繰り返して、出会った誰かや何かと自分を繋ぎ、切り離していく。
 「ちょっと地図見といて。後ろのバックに入ってる」
 「道知らないの?」
 「高速降りた先はまったく。道案内よろしくな」
 稜の適当さに呆れながらも、カーナビなんかよりずっといいなと思いつつ、私は地図を開き大きく印のつけてある所を見た。街を出て二時間程で、高速のインターチェンジが現れた。地図を何回も引っ繰り返しながらする私の指示で、辿り着いた最初の目的地は木と瓦で出来た縦に長い大きな鰻屋だった。まるで店が江戸時代からそのままタイムスリップして来た様だった。黒ずんだ木の壁が誇らしげに日の光を受けている。
 春休みだからなのだろう、中は客で一杯になっていた。せわしなく動き回る店員の一人について行き、迷路のような店内を進むと、小さな囲炉裏に着いた。稜と囲炉裏を挟んで向かい合うような形で座る。
 「すごい店だね」
 外見同様、建物内も歴史がひしひしと伝わるような様子だった。太い木の柱、やや黄色を帯びた障子、所々破れた畳。それら全てがこの店が過ごしてきた歳月を物語っている。
 「開いてはいたけど、想像以上でびっくりした」
 稜が囲炉裏の灰をいじりながら言った。しばらくするとお茶となんやら魚の骨を揚げたものが出てきた。
 「何これ?」
 「骨せんって奴らしい。鰻の骨を揚げたものだって」
 「ふーん」
 少々抵抗を感じながらも一本手に取ってかじってみた。思っていたよりも柔らかく、少々魚特有のあの苦い味がしたが、塩が軽くまぶしてあるので、割とあっさりした後味だった。
 「おいしい」
 「おいしいな。この塩が何とも」
 稜も気に入ったらしく、既に二本目に手を出していた。一本目を食べきったところで私はあることに気が付いた。
 「そういえば、メニューとかないの?」
 「この骨せんとお茶とうな重しか出ないんだってさ。それとお酒」
 「何かそういうのいいね」
 二人で競い合う様に骨せんを食べ終わると、お待ちかねのうな重が出てきた。稜とせーので蓋を開けると、香ばしい匂いが広がった。さっと目を合わせ
 「いただきます」
 と同時に言うと、がっつく様にうな重を平らげた。二人とも炭火で焼かれた鰻の芳しさと柔らかさ、そしてたれの絶妙な甘さに夢中になってた。一言も発することなく、あっという間に食べ終わり、
 「ごちそうさま」
 を済ませると私は思わず笑い出してしまった。
 「いやー、無言だったね」
 「無我夢中だったもんな」
 そうして満足げに私達は店を後にした。レジの所で売られていた骨せんを忘れずに買って。
 「さて、案内よろしく」
 「任せといて」
 鰻屋から目的の旅館まではそんなに時間がかからなかった。下町の狭く入り組んだ路地を抜けたところにそれはあった。鰻屋と同じく、こちらも何か時代を感じさせる風情だった。砂利が敷き詰められた駐車場には、私達以外の車は見当たらない。
 「えらく空いてるね」
 「良子さん曰く、知る人ぞ知る秘湯らしい。まぁ人が多いよりいいよ」
 「それもそうか」
 「ほら、唯名の分のタオルとか色々」
 稜からバッグを受け取り中へ入ると、大きな玄関の中央は男湯と女湯と書かれた暖簾のかかった二つの入り口がすぐに目に入った。私はその、旅館の入り口が風呂の入り口みたいな雰囲気がなんだかとても懐かしく感じられた。さっそく受付を済ませ、中に入る。
 暖簾をくぐると大きな二十段ほどの階段があって一番下が浴場につながっていた。階段の真ん中あたりに踊り場があって、木の棚と籠があるだけの脱衣所となっている。部屋の四方を囲む壁以外は仕切り等は無く、踊り場から浴場が見渡せた。
 「すげー」
 隣のほうから声が聞こえた。
 「聞こえてるよ、稜」
 誰も居ないことをいいことに壁越しに話す。
 「何というか、開放的だな」
 「だよね」
 体を洗い、たった一つしかない大きな湯船に浸かった。自然と息が吐き出される。体を伸ばし高い天井を見つめる。
 「ふぅ」
 どうやらお隣さんも入ったらしい。タイル張りじゃなくて、岩を敷き詰めただけの床。少し凸凹になっている木の壁。色褪せた桶。体がじわじわ温まってくる。この旅館が紡いできた時間。私がその中の一つになれたのが何となく嬉しかった。
 「稜、怒らないでね」
 「何だ?」
 「なんでそんなに優しいの?」
 つかの間の沈黙の後、稜が言った。
 「今言うべきじゃないな」
 「何それ」
 そうだった。こういう大事なことは直接顔を合わさないと言わない人だった。その後は二人とも言葉を交わさずに、身に覚えの無い懐かしさを満喫していた。
 「さて、お次はと」
 瓶の珈琲牛乳を飲んでゆっくりした後、私達は車に乗り込んだ。まだほんのりと温かい体に、フロントガラス越しに春の陽気な陽の光が降り注ぐ。
 「喫茶店だったな」
 「この店って有名なの?」
 地図についてある丸印を指差しながら聞くと稜は車を発進させながら言った。
 「良子さんの幼馴染がやってる店だって」
 「ふーん。あ、そこ右ね」
 大通りをちょっと横に逸れた所に”Breaktime”という看板を掲げるその店はあった。木で出来たドアは開けるとぎぃっと軋むような音を立て、吊り下げられた鈴がそれを誤魔化すように鳴った。中はテーブル席とカウンター席がいくつかという具合。コーヒーの薫りが身体を包み込んだ。
 「いらっしゃい」
 カウンターの奥から声がした。この店の主人と思われる女の人が立っている。真っ赤な髪に真紅の瞳。
 「おじゃまします」
 口をついてそんな言葉が出た。この店の中に漂う、過去と未来がちょうどいい割合で混ざり合う様な空気を感じたからかもしれない。
 「良子さんから話は聞いてる。好きな席に座っていいよ。今日は誰も来ないようにしてあるから。終わりに向かって歩き続けるしかない二人の旅の終点に相応しいようにね」
  終わりを定められた二人。その言い方は普通だったらむっと来るのだが、何故かそのフレーズが素敵なように感じられた。何となくロマンチックで儚いイメージ。
 いつも通り、二人でカウンター席に並んで座る。きょろきょろと店内を見回す稜を横目に、私は主人に訊ねた。
 「あの、お名前は」
 慣れた手つきで珈琲を淹れながら主人が答えた。
 「小林秋。君は唯名ちゃんで隣の彼は稜君でしょ?」
 「えっ、何で知って・・・」
 「何となくって言ったら、信じる?」
 この人ならあり得るかもしれないとか馬鹿げたことを考えながら私が黙っていると、彼女は悪戯っぽく笑って
 「冗談だよ。良子さんから聞いてたの」
 と言った。不思議な人だ、と素直に思った。自然と人を引き込んでしまうような。
 「はい、当店自慢の珈琲とガトーショコラになります。おかわりは自由だから、ゆっくりしていってね」
 私たちに皿を渡すと彼女はカウンターを離れ、部屋の隅においてある小さなピアノを弾き始めた。耳に届くまでに消えてしまいそうな、でも決して弱々しくない音。その音色に耳を傾けながら珈琲を飲む。
 「おいしい」
 稜と目が合った。彼も同じ気持らしい。慌ててケーキに手を付ける。うん、おいしい。
 「はー、幸せ」
 「袖にチョコついてんぞ」
 「うっ、ホントだ」
 顔を赤らめる私を見て笑う稜。何でもなくて何にも代えられない、待たなくても急がなくても良い時間。珈琲を二杯おかわりした後、意を決して私は訊ねた。
 「あの、そこのギター弾いてもいいですか?」
 私が指差している、部屋の角にあるギターとアンプを見て、秋さんは答えた。
 「いいよ。アコギもあるから稜君の方はそっちでいいかな?」
 二人でテーブルを動かしてスペースを作った。秋さんからアコギを受け取る稜を横目に私はアンプをセッティングした。小さめでかわいらしいジャズコーラスにギブソンのフルアコ。力強いが主張しすぎない老成した音。準備は万端だ。
 音で、声で二人だけの世界を作った。言葉に似た、不確かな何かで会話する。空白すらも世界の一部になった。
 愛、優しさ。自分の知らないうちに人のためになれること。理由もなく誰かに何かをしてあげること。思ったよりも難しくないみたいだ。
 音に飲み込まれてく。考えるよりも先に身体が動く。思考の仕方を忘れる。二人を繋ぐ何かだけを頼りに進み続ける。
 私に自分しかないなら、相手を自分にしてしまえばいい。稜という軌道と私という軌道を重ねる。その間にある距離を泳がなくても済むように。そうすることで稜は私に優しさをくれていた。
 寄り道をしながら少しずつ、着実に二人が近づいていてゆくのが分かる。音に溶け込んだ心が互いを引きあう力に従って。
 綺麗事。そんなこと分かってる。でも、触れればたちまち砕け散ってしまうガラス玉のような、形は無くとも輪郭はかろうじて感じることのできる、透明で温かい光のようなこの純粋な思いは確かに存在するのだ。そう信じたいだけなのかもしれないけど。そして、そんな優しさを逆に返してあげたいという私の思いは実は必要無かったのかもしれない。私だって稜と重なっていたいのだから。
 あともう少し。もう互いにどちらの音なのか分からなくなってきていた。そうして、待ち焦がれたその瞬間訪れた時、私は言った。
 「ストップ」
 稜の手がピタッと止まった。何となく分かっていたという様な顔。
 「おつかれさま」
 そう言う秋さんがテーブルを戻すのを手伝って私達は店を出た。
 帰りの高速道路の途中、私が骨せんをぼりぼりろ食っていると稜が言った。
 「唯名」
 「何?」
 「愛してる」
 「知ってる」
 知ってるし、これからも忘れることは無いだろう。私の最初で最後の恋人が、私を愛してくれていたことを。好きとかそういう次元を越えて。
 「稜」
 「何だ?」
 「愛してる」
 「知ってるよ」
 そう言う彼は照れ臭そうに笑っていた。茜色に燃えた夕焼けの中で。


 体が熱い。汗が止まらない。飛び飛びになる意識の中で、痛みだけが途切れることなく伝わってくる。矢口先生や私を取り囲む見知った顔の看護師が何やら叫んでいる。私は残された力を使って首を動かし、焦点の合わない瞳で部屋を見回した。父さん。母さん。そして・・・
 「稜」
 蚊の鳴くような声で呼ぶと、彼は私の顔を覗き込んだ。
 「何だ?」
 震えた声。強がっちゃって。
 「ありがとう」
 ありがとう。私は幸せでした。本当にそう思う。
 「知ってる」
 彼の顔を一筋の涙が流れるのを見た後、私は二度と開くことのないであろう重い目蓋を閉じた。もう満足だ。光が近付いてくる。温かく優しい光が・・・


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