—それは遠い記憶。
 彼女はいつもポップなクマの顔が並んだワイシャツ型のパジャマを着ていた。そのパジャマと簡単に結われた髪が健康的な肌の色によく映える元気な女の子だった。
 唐突に彼女は四人部屋で一人寂しく入院生活を送っていた幼少時代の自分の隣のベッドにやってきた。いつでも明るかった彼女は太陽みたいに見えた。
 最初こそ緊張してお互いにおとなしかったが、さすがは純真無垢な子供達で、すぐに二人は仲良くなった。
 彼女によって退屈な日々が楽しくなったのは言うまでもない。
 検査や病院食が終われば幼い二人は共に病院内を探検して回っていったものだった。自分は薄緑色のいかにもな病院服を着て、彼女は例のクマ柄のパジャマシャツを着て、二人には十分広い院内を遊び回っていた。自分の手を引いて前を歩いて行く明るく温かい彼女の事が幼心ながらも好きになっていたのかもしれない。
 しかし、短いようで長かったような気もする彼女との楽しい生活は彼女との出会いよりも突然に終わった。
 ある朝起きたら隣のベッドはもぬけの殻だった。看護婦さんに聞いても退院したの一点張りで、当時の自分には何の別れの言葉も言わずに行った彼女が不思議でならなかったが、今思えば彼女は退院したのではなく逝ってしまったのではなかろうかと思う。
 今となっては知る由も無い。

 途切れ途切れの記憶。

 医療機材の並ぶ不気味な部屋を探検しようとしたとき、
「ねえ!あっちにいってみようよ!」
「えぇーこわいよぉ」
「わたしがいるんだから、だいじょぶだって!」
「も、もうー」

 夏の盛りのある日、
「みてみて!」
「なに?」
「ほらっ、せみのぬけがら!」
「うわーきれい!どこでみつけたの」
「おくじょー!」
「おー」

 そして彼女がいなくなるほんの少し前、
「おーかはさーたのしい?」
「え?うん」
「えへへーそっか、これからもずっとあそぼーね」
「あたりまえだろー」
「やくそくだよ」
「はいはい」
「…また…遊んでよ」
「うん?なんかいった?」
「ううん、やくそくまもってよ!」
「わかったってばー」


 重いまぶたを開くとくすんだ木張りの天井が見えた。
「…懐かしいな」
 夢の世界から現実に引き戻された桜花はぼそりと呟いた。今見た記憶はもう十数年前のことだ。
 あれから無事に退院してさっぱりとしない人生を送ってきた桜花は高校を卒業して、不本意ではあったが止むを得ず町の小さな工場に勤めている。先日二十歳を迎えたばかりだ。
 いい年した男が子供の頃の初恋とも言えないような淡い感情を抱いていた女の子のことを夢にみるとはなんとも悲しい話ではある。自分の中ではそれなりに大事な記憶だということなのだろうけど。
 昨日帰りに寄ったスーパーでたまたま見かけたクマのキッズ服が原因かなと冷静に分析してみるが、一度思い出してしまうと気になってしまうのはどうしようもない。
「俺は約束を果たせたのかな…」
 もし彼女が本当に死んでいたのなら、その前日まで一緒に遊んでたような気がするから一応約束は守れたことになると思う。思いたい。
 今じゃ名前も思い出せない彼女の夢で見た笑顔が妙に頭から離れない。もやもやとしたままでいるのは嫌だ。
「よし、行ってみるか」
 あの病院に行ってみれば何か思い出すかもしれない。別に思い出せなくてもどうせ今日は仕事も休みだしちょうどいい。桜花はなんだかわくわくしながら急いで準備に取りかかった。

 借りているボロアパートから原付きで飛ばすこと約一時間。隣の隣の町の外れからゆるい坂道の林道を抜けて町の一部が見渡せる小丘の上にあったと記憶しているその病院へと向かう。
 風の便りでとっくに経営破綻だかで潰れたと聞いていたが建物自体は錆びれながらもしっかりと残っていた。初夏の心が洗われるような青空の下にぽかんと佇むツタまみれの三階建ての廃墟は意外と神秘的な雰囲気を醸し出していた。
 少し迷って玄関前にバイクを停めると桜花は手動で自動ドアを開けて中に入った。自動ドアの鍵もしてないぐらいだから不法侵入云々にはならないと信じたい。
 記憶を揺さぶるように懐かしいエントランスホールが目の前に広がる。
「うっわー懐かしいなあ」
 埃をかぶったカウンターを抜けて桜花は記憶をなぞるように進んでいく。
 エレベーターの前に行くとパネルにオレンジ色で3Fと出ていた。
「電気まだ生きてんじゃん」
 なら自動ドアも動かしとけよと心の中でツッコミながら▲ボタンを押す。
 桜花が入院していた三階まで階段を使ってもいいのだが無駄に段数が多いあの階段を登るのは面倒なのでここは素直に甘える事にした。
 乗ってしまってから点検されてないエレベーターってヤバいんじゃないかと気づいたが無事に三階まで辿りついてホッと一息つく。
 ういーんと扉が開くと視界の端の廊下の先で何かが動いた気がしたが、まさか人がいるはずもない。ネズミかなんかだろう。今さらちょっと怖くなってきた桜花だが、ここで引いては男が廃ると病室のあった三階の奥へと向かう。いくらなんでもこんな真っ昼間から幽霊が出たりすることもないだろう。
 見慣れた無機質な廊下を進んで突き当たりの左の病室。ネームプレートには恐らく潰れる直前に入院していた人の名前が入ったままだった。スーッとスライドドアを開くと日の差し込む大窓が見える。ありきたりの病室ではあったが自分にとっては思い出の場所だ。窓に近寄って下を見ると綺麗だった中庭はもちろん雑草が伸びたい放題で軽い繁みと化していた。
 少しの間窓から見える街並みを見ていたが、それにも飽きたので帰ることにした。特に大したことを思い出すこともなかった。所詮はそんなものなのかと悲しくなる。

 その時だった。ガラララとカートを引く音がした。一瞬恐怖に襲われるが落ち着けと自分に言って廊下の方へと向かう。
 スライドドアから顔を出すとナース服を着た看護婦が廊下の先からワゴンを押して来るのが目に入った。なんだ、物品の整理にでも来たのかとどうもー、と手を挙げて声をかけると俯いて手車を押していた看護婦が顔を上げる。
(ん?なんでわざわざナース服着てるんだ?)
 そう気付いたときには遅かった。
「っ!!?」
 看護婦の顔は半分が腐っていた。顎がだらんと下がって口が裂けるように開かれた。虚ろな眼が桜花を捉えると獲物を見つけた獣のように看護婦の姿をした何かがものすごいスピードで迫って来る。
「キシャアァァァッ!」
 看護婦だったとは思えない化け物じみた叫びだった。
 死んだな、と思った。こんな化け物に襲われて死ぬのか。恐怖で身動き一つ出来なかった。
 後一メートルぐらいのところまで看護婦もどきが口からよだれを垂らして走り寄ってくる。
 その時、化け物の後ろに階段から登ってきた男の姿が見えた。同時に男が叫ぶ。
「伏せろ!」
 その男はハンドガンを手に持っていた。瞬時に男の言葉の意味を理解する。間一髪で襲いかかる化け物の腕を避けて桜花はしゃがみ込む。
 バンと銃声が響いて自分の真上に空振りしていた化け物がぎゃうっとか言って倒れ込むが桜花にぶつかる前に蹴り飛ばされて突き当たりの壁の方にぐしゃりと嫌な音を立ててぶつかった。
「怪我はねぇか?」
 うずくまる桜花に男が手を差し伸べた。掴んで立ち上がると壁でピクピクと震える化け物が目に入る。
 さらに男が容赦なく頭を撃ち抜くと動かなくなった。
「はあ…はあ…っ」
 早鐘を打つ心臓が破裂しそうなぐらい桜花は緊張していた。
「おいおい、大丈夫か?」
「は、はい、なんとか…ありがとうございます。なな何なんですかあれ?」
「知らねえってことはやっぱり一般人だったか。まあ見たまんま化け物だよ」
 一般人、と彼は言った。バクバクいっている心臓が静まるまで待って桜花は尋ねた。
「…あなたは一体?」
 白い塩弾を補充する彼はどうみても只者ではなさそうだ。
「言っても信じないやつが多いんだけどな、今回は先に現物を見てる分、分かりやすいか」
「どういうことです?」
「ハンターだよ。この手の化け物の類を狩って回ってる」
「へ、へぇ…」
 そんな馬鹿げた話、誰が信じるかと言いたくなるが、確かに今本物を見てしまった分信じるしかない。
「お前はどうしてここに?」
「えーっと昔ここに入院していたんですよ」
「は?ここに?」
「はい。それで昨日夢にみたんで久しぶりに訪ねてみたくなって」
 女の子のことまで言うのは恥ずかしかったのでとりあえずそう説明した。
「じゃあ、噂とかは全然知らないで来たってことか」
「噂?」
「そう。そのせいで俺はこんな病院まで仕事回されてよーめんどくさいったらありゃしないぜ」
「どんな噂ですか?」
「よくあるやつだよ、幽霊が出たとか化け物みたいな声がするとか突然ナースコールが一斉に鳴ってうるさいとかな…」
 男がそう言い終わるか終わらないかの内に一斉にナースコールが鳴り出した。二人は顔を見合わせる。男が腕につけていた小さなモニターつきの時計のような何かがウォーンウォーンと警告音のような音を出し始めた。
「やっべ」
 男が走り出して先ほどの階段へ向かう。慌てて桜花もついて行く。
男は階段を降りるわけでもなく非常用防火ドアを閉め始めた。
「そっちも閉めてくれ」
「あっはい」
 留め金もすると完全に階段を使うことは出来なくなった。
「閉めたら、出れなくなるんじゃないですか?」
「どうせ階段はもう使えないさ。時間稼ぎだ」
「?」
 男は閉めたドアの下に肩掛けバックから取り出した塩で線を引く。
 段々と男の腕に付いた機器から出る警告音が大きくなってきた。
「来るぜ」
 男が言った。
 直後、ドアの向こうでたくさんの何かが動く音が聞こえてきてドン、ドンとドアに激突しているような音が響く。頑丈な防火壁というだけあって一時は破られなさそうだ。
「…なんなんですか一体…」
「さっきの化け物みたいなやつらの群れだろうな」
「…え…」
「さて、どうしたもんか」
「は、早く逃げましょうよ」
「無理だ」
 男は言い切った。
「は?なんでですか?」
「飲まれたからな」
「?」
 何か考えている様子の男はこの状況にさほど動じていないように見えた。二人はさっきの看護婦の化け物の死体の元に戻る。

 が、しかし死体は消えていた。飛び散った血のような液体もワゴンも全部無くなっていたというか最初から存在しなかったように消えていた。
「やっぱりか」
「何がやっぱりなんですか?」
「さっきのキモいナースがトリガーだった」
「トリガー…?」
「完全に敵の策にハマったってことだよ」
「え…」
「ここはさっきまでの病院であり、そうじゃない」
「?…意味不明なんですが」
「ベースをこの病院にして誰かが手を加えて固有空間に変えてやがるんだよ。だから出られない」
「いや全然わかんないですけど」
「要するにあの化け物どもの親玉をぶち殺さなきゃ生きて帰れないってことだ」
「なら早くその親玉を倒して下さいよ」
「そいつが分かればこんな苦労しねえよ」
 二人ははあ、とため息をついた。
「にしてもおかしいんだよな」
「何がですか?」
「ギルドの情報じゃグール系だから大したことねえって話だったんだが、ああグールってのは死人食ったり死人操るザコな」
「はあ」
「で、そいつらにはこんな大それた空間制御なんか出来っこないはずなんだよ」
「なるほど。なのにこうしてピンチになっていると」
「まあな。で、お前はなんか心当たりないの?」
「あるわけないじゃないですか」
「だよなあ」
 男は病室に入ろうとする。さっき桜花が入っていた懐かしい部屋だ。今の気分ではもはや懐かしむこともできないが。
 部屋に入ろうとする時に桜花はさっきとは違うことに気がついた。
「何で…」
「ん?どうした」
 スライドドアを開けようとする男がこっちを見る。桜花はネームプレートを指差した。
「それがどうかしたのか?」
「俺の名前です」
「はあっ?!」
 確かについさっきまでは違う人の名前が入っていたネームプレートには自分の名前が書かれている。そしてその隣には…
“水瀬 夏実”
と書かれていた。止まっていた記憶が動き始める。
「お前が入院してたのっていつ?」
「十何年前です」
「そんな前か…」
 桜花はなんとなくだが病室の中に彼女が今いるのではないのかという気がしていた。
 先に入ろうとしていた男を遮って桜花がスライドドアを引いて中に入ると左手奥のベッドに腰掛ける女の子の姿が見えた。
 ここは偽りの空間。それはわかってるんだけど。
 懐かしいクマ柄のパジャマが可愛らしく似合っている。女の子はこっちを見て向日葵のような笑みを浮かべた。

「やっほー、おーか」

 あの時と何も変わらない声で夏実が言った。
「なっちゃん…」
 思い出した呼び名を呼ぶ。偽りとは思いたくないまでにあの時と変わらない彼女だった。
「げんきしてた?」
「うん」
「そっか。ならよかったー」
 なっちゃんは?とは聞けなかった。聞いてはいけない気がする。後ろの壁を透かせる彼女の姿がそう物語っている。
「かってにいなくなってごめんね」
 死んだ日のことを言っているのだとすぐに分かった。
「ううん。気にしてないから」
「おーかはあいかわらずやさしーなー」
「そうかなあ」
「そうだよー」
 ドアに寄りかかる男は何も言わず見守ってくれているようだ。
「でね、きょーはおねがいがあるからよんだの」
「呼んだ?」
「うん。ゆめでおーかがきてくれますよーにっておねがいしたの」
「そっか。なっちゃんがあの夢を…」
「やくそくおぼえてる?」
「うん。ずっと遊ぼうって約束でしょ」
「うん!だからきょーもいっしょにあそんでほしいの」
 桜花はちらっと男を見ると、男は頷いた。
「いいよ。なにするの」
「ひーろーごっこ!」
「ヒーローごっこ?」
 そんな遊びしたことあったっけなと思う。
「おーかがせーぎのみかたでなつみがおひめさま…」
 夏実は語尾を落として言った。様子がおかしい。
「へえー正義の味方ね」
 夏実はゆっくりと立ち上がって桜花に方に歩いてきた。警戒して動き出そうとした男にアイコンタクトで動かないでくれと合図した。桜花には彼女が襲ってくるようには思えなかった。
 夏実が桜花に飛び付くように抱きついた。歳が離れてしまった彼女の頭の高さは桜花の腹のところぐらいまでしかなかった。
 腕を桜花の腰に回したまま夏実が顔をあげた。その目には涙が溢れていた。
「おーか、たすけて」
 それを見て、あの時のあの日の彼女は一人で戦ったんだ、と思った。
 優しくその頭を撫でてやる。
「任せて、悪者はやっつけてくるから」
 ぱあっと夏実の顔が笑顔になった。やっぱりこの子は太陽みたいだなと思った。
「やくそくだよ」
「うん」
 夏実は光の粒子となって消えていった。光の残滓が少しの間、宙を漂っていたがそれもすぐに霧散していく。
 しばし茫然とする。

 ここは偽りの世界だ。どっかの誰かがあの頃の記憶の欠片を使って幻を見せているんだ。それが分かっていても、あまりに悲しかった。

「十何年もこの世に居続けた霊が腐らずにあそこまで綺麗な心のままでいたのを見るのは初めてだぜ」
 一度は疑った男がそう言った。
「当たり前ですよ。彼女は太陽なんですから」
「太陽ねえ…」
 男は特に笑いもしなかった。
「行くぞ、正義の味方」
「敵の目星はついたんですか?」
「いや全然。今の女の子はただの地縛霊だったみたいだしな」
 二人は再び廊下に出ると反対側へ向かって行く。まだ防火壁の向こうでドンドンやっているが、まだ突破されていないようで助かる。
 その前も通りすぎてエレベーターの前までやってきた。
「あの化け物達はエレベーターは使わないんですね」
「脳みそ腐った死体は賢くないからな」
「エレベーターで一階まで行って逃げれないんですか」
「無理無理。多分今頃一階はうじゃうじゃだぜ。どうせ出ようとしても空間ごと切り取られてるし」
「ギルドとかいうところの人の助けは?」
「今日はエクソどもも出払ってんだよ。ここら辺のハンターは元々俺しかいないから一時は来ねえな。
下手したら時間の流れも制御されてるってのもあり得る」
「…」
 男はエレベーターを見ているとふと何かに気がついた。
「そういやお前が電気通したの?」
「まさか。来た時から動いてましたよ」
「エレベーターに乗る前は何階にあった?」
「え?」
 すぐには質問の意味が分からなかったが、桜花も気付いた。
「3階からです!」
 グールや死体はアホだからエレベーターは使えない。それなのに、わざわざ錆びれたこの病院に電気が通してあった。ということは…
「黒幕は人間ですか」
「そうなるな。しかも死体を操って空間制御もできるってことは、高レベルの死霊使い…ネクロマンサーか」
「どうするんですか?」
「決まってるさ、エクソの野郎どもと違ってハンターは止むを得ずなら人を殺していいんだからな」
 あくどい笑みを浮かべる男はこの状況を楽しんでいるんじゃないかという気さえする。
「悪役みたいですよそれじゃあ…」
「ふん。こっちは殺されかけてんのにただで済ませるかっつーの」
「それは同感ですけど」
 男はナースステーションの方に向かって行くので桜花はついて行こうとした。

「そこで待っとけ」

 男が言った。
「ネクロマンサーが相手じゃ、素人一人増えたところで邪魔なだけだ」
 そう言われても桜花に引く気はなかった。夏実の救いを求める泣き顔が頭を離れなかった。

「俺も行きます」

 男は桜花の眼を見ていたがその奥にある強い意志を感じ取った。何を言っても聞かない眼だ。
「好きにしろ。邪魔はすんなよ」
「はい」
 男は廊下の壁についていた手すりを蹴り飛ばして1メートルくらいを折り取って桜花に投げて寄越した。
「ないよりはマシだろ」
 彼は意外と優しい人なのかもしれない。
 ナースステーション前まで来ると男はフロアマップを凝視し始めた。
「どこに隠れてやがる」
 男は指で目ぼしい部屋がないかとなぞって探していく。
「会議室が結構広いな」
 他にあてもない二人は会議室へと向かった。今いた病棟とはナースステーションを挟んで反対側が事務処理系の部屋が並ぶ棟になっている。男は廊下にはすぐに飛び出さずちらっと壁から顔を覗かせて向こうの様子を確かめる。あちらにも階段があったはずだ。
「会議室の前に三匹いる。俺が殺ってる間にお前は下の奴らが回って来ないように階段のドアを閉めろ」
 男が小声で指示した。桜花は無言で頷いた。恐怖が大きくなるが、夏実が震えを止めてくれているような気がした。
「俺が出て五秒したらついて来い。いいな?」
 もう一度頷くと男は角から飛び出していった。シャアアァッと化け物が叫ぶ声がしたかと思うと続けざまに銃声が響く。
 1、2、3、4、5。
 桜花も走り出す。廊下に出ると黄ばみまくった白衣に腐った肉片をこびり付かせた死体が二つ転がる先で男が残る一体にナイフを突き刺しているところだった。化け物三体をたった五秒で制圧。全くどっちが化け物なんだか。
 桜花は手際よく防火壁を閉めた。男はナイフを殺した死体の白衣で拭くと腰に吊るして塩をまた撒き始めた。
「意味あるんですかそれ?」
「念のためだよ」
 桜花は周りを見渡す。転がる死体三体の奥に両開きの扉があってその向こうが会議室だ。この向こうに何かがいるのか…。
 塩を撒き終わった男は立ち上がった。
「うっし。行くか」
 男が会議室へと歩き出そうとした時だった。
右の小部屋から腐った死体その5が出てきた。男は無造作に右手に持った銃をそいつの頭に突きつけて塩弾をぶち込む。全くもって鮮やかな手際だった。
 しかし、さすがの彼も背後の天井の通気口からもう一体出てくるとは予想外だったらしい。
「クシャアァァッ!!」
 逆さまに落ちて来た死体その6は男の首に掴みかかる。
「くそっ!」
 俺だ。俺が助けなくちゃ。
 桜花は襲われた男を助けるために金属管を強く握りしめた。流れるように左足を前に出し、さらにその勢いに乗せて右足で踏み込むと同時に全ての力を一点集中の突きに込めて死体その6の頭にぶつける。ずぶりと腐敗した頭部に金属管が突き刺さる。両手を男から放してこちらを向いた死体はまだ動けるようで掴みかかろうとしてきたが桜花は次の動作に入っていた。すぐに引き抜いた金属管を左下へと回転させるまま新たな勢いに乗せて左から真一文字に切り返す。男はとっくに後ろに逃げてきていた。真横から薙ぎ払うように金属管を叩きつけられた死体その6はその5の元へと吹っ飛んでいった。ぐちゃぐちゃに肉塊と化した二体はどちらも動かなくなる。
「助かったぜ」
「うまくいってよかったです」
「剣道でもやってたのか?」
「剣道であんな動きしたら怒られますよ。俺のは親父に叩き込まれた実戦剣術です」
「実戦剣術?」
「明治時代に仕事を無くした野武士があちこちで子供達に木刀で教えてたやつの名残らしいです」
「へえーすげえじゃん」
「病弱だった自分に体力つけさせるためにやらされてたのにまさか本当に人に使う日が来るとは思いませんでしたよ」
「死体だから気にすんなって」
 人ではなかったものの人体に突き刺した感触が今も手に残っている。嫌な感触だった。
「分かってますよ」
 桜花は気丈に返事をした。
「さて今度こそ本番だ」
 これだけ待ち伏せされたのだからこの先に後ろで手を引いているやつがいるのは間違いないのだろう。
 二人は扉の前に立った。
「派手に行くぜ」
 そういいながら男は手に持っていた手榴弾のピンを抜いた。そんなものまで持ってるのか。
 男は片側の扉を少し開けて投げ込んだ。パッと見えただけでも死体が並んでいるのが見えた。男はさらに二つそれぞれ違う方向に投げ込んだ。ようやく二人に気付いた腐れ野郎どもが雄叫びを上げるが、男は扉を閉めた。二人は扉から距離を取る。
「ぼーん」男はふざけるように言った。
 ドン、ドン、ドンと連続で三回爆発音が建物を揺らしたかと思うと扉が吹き飛んで立ち込める煙の先に死体だったものの山が見えた。焼けたゴムのような異臭が鼻を刺す。
「うっ」
 思わず吐きそうになったが桜花はなんとか持ちこたえた。男は顔色一つ変えず会議室の奥を凝視している。
「そう簡単にはくたばってくれねえか」
 男が言った。桜花も男の視線の先に目を凝らすと煙の中に透明な壁で守られたかのような無傷の空間が見えた。その中で深々と椅子に腰掛けていたのは頭蓋骨で作られたと思われる悪趣味な仮面をかぶってボロボロの灰色ずんだ白衣を着た老人だった。老人と分かるのは一部見えている四肢が枯れ枝のように細くシワだらけだったからだ。
「救いようのねえジジイだな」
 男はそういいながら引き金を引いて老人へと発砲する。塩弾は見えない壁に遮られて老人に辿り着く前に床に落ちた。
「カカカカカカカ」
 老人が仮面ごと歯を鳴らして笑う。余裕しゃくしゃくといった態度で椅子の上から動こうともしない。
 男は次の弾薬を装填し、躊躇いもなく発砲した。
「銀」
 銀でできた銃弾が遮られて床に落ちる。それをみるとすぐ次の弾を打つ。
「神木」
 高強度かつ退魔力もある神木製の弾丸も遮られて床に落ちる。
「狼牙」
 オオカミの牙で出来た弾丸もまた遮られて落ちた。
「あーあ。もったいねーな。なんか他に死人操る系に有効なやつあったっけな」
 男は落ち着き払っていた。いつ老人が攻撃してくるかと桜花は冷や冷やさせられる。
「大丈夫だって。あのジジイは結界守るので必死だから動けやしねーよ」
 挑発的な男の言葉を聞いて老人の眼が仮面の下で光った。老人は右腕を上げて空中でなんらかのジェスチャーを行う。直後後ろの廊下で激しく何かが壊れる音がした。とっさに振り向くと防火壁が破れて大量の死体どもがなだれ込むようにして現れた。念のための塩を除去されたらしい。
「ちっめんどくせーことを」
「余計なこと言うからですよ…」
 背中合わせになった男は老人から目を離していないようだ。
「挟まれたな…」
「どうすんですか」
「罠だらけに会議室に突撃するか、死体どもを先に片付けるか。どっちがいい?」
「分かるわけないでしょう!早く決めてくださいって」
 ジリジリと死体どもは束になって近づいてくる。
「じゃあそっちは任せたぜ」
「は?」
 男は走り出して会議室に入って行った。廊下に残された桜花は一人で死体どもと対峙させられた。
「ええええぇぇぇっっ!!??」
「ジジイを倒すまで持ちこたえてろ!」
 少し離れた後ろから男の声がした。
「…」
 わずか3m先まで迫った化け物どもを睨んで桜花は覚悟を決めた。知識がない桜花はあの老人に対しては何も出来ないただの足手まといだ。
 だけど突っ込んでくる無能なゾンビになら自分にも出来ることがあるはずだ。さっきそれを男に示したからこそ、背中を預けてくれたのだ、そういうことなのだろう。ならば期待に沿わなくてはなるまい。
 金属管の先端を右手下に床につける。桜花が小さい時から親父に教えられてきた剣術。
「野太刀・氷華一刀流」
 この剣術には大それた技など皆無だ。ただ生きるために、を信念とする剣術とも呼べない代物。だが、こういう場合には役立つのだ。
 まずは先頭にいた小太りの的の顎を切り上げる要領で真上に弾く。左に倒れこんだそいつを押しのけて予想通り右から突進してきた二体目の眉間に素早く突きを繰り出して蹴りを入れる。
 一旦そいつが壁になったところで左から攻めてきた三体目に右回転しながらさっきと同じ真一文字 の要領で打撃を加える。
 今の動作で綺麗に廊下の幅に渡って三体に肉壁が出来上がった。後ろの奴らが無理矢理突破して来ようとするが後はもう適度に壁役のゾンビを蹴り飛ばしながら後ろの奴らの顔面に刺突をいれていくだけだ。
 危なくなったら一旦間を開けて後ろに下がり一から同じ動作を繰り返すだけだった。それが何回か続いて後ろがもう会議室という時に、突如死体どもが仮初めの命を失ってパタリと動作をやめて崩れ落ちた。
 桜花はハッとして振り返った。
 結界も消えて老人のこめかみに銃口を突きつける男の姿が見えた。もう銃口から硝煙が上がった後だった。ダラリと老人の腕が落ちる。

 桜花達の勝利だった。

 一瞬視界が歪んだかと思うと、死体の山が消えて戦いの跡方も無く、錆びれた病院の風景に戻った。壊れた扉もいつの間にか戻っていた。空間制御とやらが消えて元の病院に帰ってきたということなのだろう。
 桜花は急いで会議室の中に入った。
「おっす。お疲れ様」
 椅子の向こうでロープで老人を縛っていた男が片手を挙げて迎え入れる。老人は気絶しているだけのようだ。
「殺してなかったんですね」
「殺すとは一言も言ってねえよ。こいつからは色々聞かなきゃいけないことがあるからな」
「なるほど…」
 あの時撃っていたのは麻酔弾か何かだったのかもしれない。
「お前、素人と思えないぐらいい仕事してたな」
「そうですか?俺は俺のやれることをやっただけですよ」
「囮のつもりだったんだがな、正直驚いた」
「ん?囮?」
「いや、何でもねえ」
「ちょっまさか見殺しにする気だったとかじゃないですよね?!」
「そ、そんなことしねぇよ。危なくなったらちゃんと助けるつもりだったさ」
「はあ…本当ですかー?」
 桜花は今生きていることに感謝した。

 不意に桜花の後ろの扉がバンと開いて、誰かが勢いよく入ってきた。
「天正さん!無事ですか!あっ!生きてますね。良かった良かった」
 スーツ姿の女性だった。普通のOLみたいに見えるが不自然なのはサブマシンガンを手にしていることだ。
「おせーよ馬鹿」
 天正という名前だったらしい男は悪態をつく。
「こっちも必死だったんですよ!急に発信機からの信号が途絶えるし病院全体が空間制御されるしでギルドは慌てまくりですからね」
「もう片付けちまったよ。このジジイが犯人だ。連れていけ」
「まったくー…了解です」
 ギルドの人間らしい女は軽々と片手で老人を受け取ると出て行こうとして初めて桜花に気づいた。
「この方は?」
「一般人だ。そいつのおかげで死なずに済んだ。剣術の腕は相当だぜ」
「へえー…剣術が…うーん、どっかで見たことあるような…」
「え?」
「んなわけねーだろ」
 女はじーっと桜花の顔を見ていると、あっ!と言った。
「失礼ですが、お父様はご存命でしょうか?」
「いえ、二年前に交通事故で…」
 親父が始めた氷華一刀流の道場を継ごうと思っていたのに、継いでなかったまま突然死なれて桜花は急いで今の工場に就職したのだった。
「やっぱり…お父様は春待 氷華様ですね」
「?何で知ってるんですか?」
 突然出てきた親父の名前に桜花は戸惑う。
「おいおいマジかよ。だったら強かったのも納得だぜ」
 天正という男も親父を知っているらしかった。
「どういうことですか一体」
「ここら辺じゃ最強のエクソだった男だよ氷華大先生は…」
「え?エクソ?」
「エクソシストのことな。一概には言えねーけど自分から狩りに行って稼ぐのがハンターなら、エクソシストはお祓いとか他人のためにこの世界に関わる奴らのことだよ。神社とか寺のやつが多い」
「それを親父が?」
 天正と女は頷いた。
「危険だからご家族にも教えないのが普通なんですよ」
「しっかし驚いたな、あの人の息子だったのか…」
「そんな有名だったんですか…」
「最低でもコンビで活動すんのが定石なのに、いつも一人で難しい仕事を片付けてたからな。あの人は今でもハンターの俺が尊敬するエクソの一人だぜ」
 豪快だった親父ならあり得そうな話だ、と思った。
「尊敬するのはいいですけど、天正さん、真似してホイホイ一人で突入するのやめて下さいよ。今日もこの方がいらっしゃらなかったらどうなってたことやら」
 女の言葉からするに天正は無鉄砲なところがあるようだ。
「そう簡単には死なねえよ」
「そう言って死んだ人が何人いると思ってるんですか」
 話題が親父から逸れていく。もう少し聞きたいのに。
「ったくうっせーよ。ほら早く帰って報告書まとめとけ」
「もー」
 女が色々まだ言いたいことがあるようだが老人を担いだままなので、しぶしぶ部屋から出て行こうとした。出る直前にまた、あっ!と言って振り返る。
「そういえば、」
「なんだよ」
「ここが空間制御される直前に強めの霊反応があったんですけどなんかありました?病院ですからもし霊が住みついていればエクソ呼ばないといけないですから」
 桜花は息が詰まりかけた。多分夏実のことだ。天正が次に何を言うか、桜花は息を飲んだ。
「あ?霊反応?ネクロマンサーに反応したセンサーの誤作動だろ。こんな古い病院に今さら霊が出るかっての」
 女はそう言った天正を少しの間見つめていたが、
「それもそうですね、では」
 と言って出ていった。
 桜花は天正の方を見る。
「言わなくて良かったんですか」
「別に悪霊じゃないしな。そこんところあいつも察してくれたんだろ」
「察してくれた?」
「今のやり取りだよ。ネクロマンサーに霊探知が誤作動するわけねえし、霊も古い病院の方が出やすいのに、あいつは俺の無茶苦茶な説明に納得したふりをしたんだよ」
「なんでわざわざ納得したふりを?」
「形式上確認するのはギルドの義務だからな。つってもあいつもそれなりのハンターだし、気付いてたんだろうよ」
「気付いてたって何に…」
 桜花を少しじっと見ていたかと思うと、何も言わず天正は一歩横にずれた。

 彼の背後には……

「なっちゃん…」

 クマ柄のパジャマが似合う女の子が天正の後ろにいた。
 天正は何も言わずに扉を閉めて部屋から出ていった。
 天正がネクロマンサーを退治した時からか、ギルドのメンバーが来るのを予想してその背中に夏実を隠していたのだろう。気づかれれば祓われてしまうに違いないから。そして女も気付きはしたが天正の意思を汲み取りスルーしてくれたということか。
 夏実は椅子の向こうから歩いてきた。
「ずっとここにいたの?」
 桜花は尋ねた。
「うん…」
「十何年も待っててくれたのか」
「だってずっとあそんでくれるっていったから」
 桜花の眼から温かいものが流れた。
「ごめん…一人にさせちゃって」
「ううん。おーかはわるくない。わたしがしんじゃったのがいけなかったんだから」
「そんな…なっちゃんは何も悪くないよ」
 少しの静寂が一人と一霊の間に流れる。
「…さびしかった」
「っ!」
 死んだ時から一人でここに地縛霊として残り続けた夏実の言葉は辛く重く心に響いた。のうのうと退院していった過去の自分にやるせなくなる。
「でもね、ちゃんとまたあえてよかった」
 そう言う夏実は今度こそ消えようとしていた。夏実の身体が少しずつ光の粒に変わり始めている。
「ちゃんとたすけてくれた。またあそんでくれた」
「…」
 一つ一つ紡がれる夏実の言葉を桜花は何も言えずに聞いていた。しっかりと脳に刻むように。
「だから、ありがと」
「俺はなにも…」
 膝をついた桜花の頭を、夏実が優しく腕で包み込む。流れる涙を夏実の小さな指が拭う。耳元で夏実は囁いた。
「ばいばい。げんきでね、おーか」
 ハッと顔を上げた桜花の頬に夏実が柔らかい口づけをした。
「ありがとう…」
 桜花が声を絞り出すと夏実は優しく微笑んで太陽の光の中に消えていった。
 桜花の腕の中にクマのパジャマだけが残っていた。霊だったのになぜ…?
 ふんわりとした日差しのようなぬくもりを残したそれは何も応えてくれない。

 桜花は立ち上がって会議室から出る。少し先の廊下で壁にもたれながら煙草を吸っている天正の姿が見えた。こちらに気づくと口を開く。
「今度こそ逝ったか」
「はい」
 天正は桜花の手に握られたパジャマに目を向ける。
「それは?」
「なっちゃんが消えた後に残ってました。おかしくないですか」
「霊遺物だな」
「れいいぶつ?」
「力のある霊がその力をそのまま物質に変えて実体化させる現象だよ。多いのは悪霊の鬼火とか血だが、そいつは形見にしとけってことかもな」
「へえー…」
 桜花は胸にそのパジャマを抱きしめた。お日様の匂いがした。
「じゃあな」
 天正は無事夏実の霊が消えたことで満足したのか歩いていった。
 慌てて桜花も追っていく。

 病院を出ると午後三時くらいで、澄み渡る青空から太陽が温かな陽射しを落としていた。
 桜花は目の前を行く天正を眺めた。
 夏実にここへと誘われて、天正に助けられ、親父のもう一つの顔を知った。全てが関係のないことだとは思えなかった。何かしらの縁があるはずだ。
 ここで何もしなかったら後悔する。
「天正さん」
 天正は振り返った。
「なんだ?」
「ありがとうございました」
「礼を言われるほどたいしたことしてねーよ。俺も助けてもらったしな。気にすんな」
 また歩みを戻して天正は林道へと行ってしまおうとする。
「待って下さい」
 もう一度呼び止めた。
「なんだよ」
 桜花の背を太陽が押してくれた。
「俺に、ハンターのやり方を教えてくれませんか」
「はあっ?!」
 天正が驚いて声を上げる。
「天正さんを見てたら俺もなりたくなったんです」
 それが桜花の出した結論だった。親父のいた世界を見てみたいというのもあった。そして夏実のように彷徨える霊を導いてやりたいという気持ちも。
 そんな覚悟で桜花は天正の目を見た。さっきゾンビと戦おうとした時と同じ、いやそれ以上の決意を込めた眼だった。

 長い沈黙の後、天正は歩き出した。
 背を向けたまま声を後ろに投げかける。
「ついて来い、今日から特訓だ」
 桜花の顔が笑顔に変わる。
 季節はずれの桜が咲いていた。実をつけたヒマワリも一緒に咲き誇っていた。全てを包み込む青空と太陽の下に。
 桜花は新しい未来へと歩きだす。
 その腕に抱えられたパジャマの中のクマが微笑んだような気がした—。


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