押入れの奥にしまってあったそれを見て、芳樹は掃除の手を止めた。
7・8歳が着るような、小さなパジャマだ。それを手に取り、彼は立ち竦む。
手にとったソレは、おそらく彼の後悔そのものだったから。

いえにとまりであそびにきたトモダチがいた。たのしかった。つぎのひ、パジャマをわすれてかえった。とりにかえろうとあわてたらしい。
こうつうじこにあったって、そのつぎのひにしった。

・・・気がつけば、空を仰いでいた。
ぼんやりとする頭を、徐々に覚醒させながら辺りを見回す。
・・・公園のようだ。正確に言えば、公園のベンチの上に彼はいた。何故だか分からないが、今座っているのは公園のベンチらしい。
「分からないことは、考えても仕方ないか・・・」
誰に対してということも無く呟きながら、立ち上がる。頭はまだはっきりしないが、よく見ればこの公園には見覚えがあるような気がしてきた。
然程広くは無いこの公園の中には、芳樹以外誰もいなかった。
また空を見上げる。雲が多い。雲の隙間から青空が覗いていて、それがまた夏の曇りの蒸し暑さを増幅させてくるようだった。
決して不快指数は低く無い。
・・・そして、空は今日も低かった。

「こんにちは。いい天気だね。」
不意に近くから声が聞こえた。芳樹は驚きながら声のありかを探す。
見れば、芳樹の隣には小さな女の子が座っていた。先刻まで確かに公園内に人気は無く、突然現れたとしか思えなかった。
それでも、何故、という言葉は彼の中からすぐに消えることになるのだが。
「分からないことは、考えても仕方ないからな」
「ん?何か言った?」
「いや、独り言だ」
「挨拶したんだから返事が欲しいんだけど?」
「・・・こんにちわ」

「ねえ、独り言が多いと変な目で見られるよ。そういう所から直さなきゃ」
「元から直す気も無いさ。変な目で見られるのにはもう、慣れた」
「それが芳樹の悪いところだね。昔はもっと素直だったのに」
「昔からこうだったさ。周りが変わっただけで」
「普通、周りと一緒に変わっていくんだよ?」
「人に合わせて変わっていくのも疲れるからな」
「人は変わっていくものだよ。望む望まないに関わらず」

「・・・それが、我慢ならないんだろうな」
「ふぅん」
少女は不満げに返事をした。それを見て苦笑しながらも芳樹は、
「変わるってのは、失うこととほぼ同義だ。俺は変わりたくないし、変わっちゃならないんだ」
「・・・それは、どうして?」
「・・・」
芳樹は無言のまま少女へと視線を向ける。

「芳樹。毎日楽しい?」
「さあね。楽しいという感覚すら、忘れたような気もする」
「それは、寂しいことだね」
「ほんとうに、寂しいことだよ」
「・・・別に、好きでやってるんだ。構わないさ」
芳樹は、一度そこで言葉を区切った。

「さて、どうしてここにお前がいる?」
「お前って呼び方はないんじゃないかなぁ。もっと尊敬をこめた呼び方をして欲しいね」
「ごまかすなよ」
「・・・別に、特別なことじゃないよ。何も変わったことじゃない。・・・それに、もう変われないさ」
「・・・」
「答えになってないかな?」
「・・・まあ、いいさ。別にそれが聞きたいわけじゃない」
それに、その答えなら芳樹には見当がつくような気がしていた。

「空は今日も高いねぇ」
不意に少女はそんなことを言い出す。さっきから一貫して脈絡がない。
「・・・そうでも、ないだろ」
「へぇ。やっぱり変わったね芳樹。空が変わったわけじゃないだろうし」
「・・・そうだな。空は変わらない」
小さな声で、『お前が変わらないのと同じように』と彼が呟いたのを少女は聞き漏らさなかった。
「そういうことだよ。世の中には変わるものと、変わらないものがあるんだ。そして、生きてる限りは変わらないことは出来ないんだよ。時間は流れてるから。」
「川の水のように?」
「うん。あるいは、生き物はベルトコンベアーに乗っているようなものさ。立ち止まったって周りの景色は変わってしまうんだ。」
「変わらないためには逆走しなきゃならない、ということか」
「うん。しかしソレは無駄なんだよ。大いなる無駄だ。周りの生き物は全て先へ進んでいってしまうんだから、君だけが止まったって意味はないんだ。」
「でも俺は、なくしたくないんだ」
「・・・」
「なくしたく、ないんだよ・・・」
二人の間に沈黙が流れる。芳樹は所在無く。少女はもどかしげに。




「なくしたんじゃないよ」
不意に少女が口を開く。
「本当は、何もなくなってないんだ。経験とか、時間とかが上から積もっていくだけで。君の奥底にはきっとなくしたと思ってるものは埋まってて、今見えなくなっちゃってるだけなんだよ。」

「変わるってのは、本当は・・・本当は、素晴らしいんだ。成長する、前を向くって事なんだから。後ろを向いていたって、時間は積もってくるんだから。なくしてないことに気付いていれば、いつだって取り戻せるはずなんだよ。」
「でも、コンベアから降りた奴はもう取り戻せないじゃないか!」
「・・・大丈夫。時間が流れなくなったっていうのは、変わらなくなったって事だよ。変わらない。現に、君はまだパジャマを取っててくれてるじゃない」
「でも、もう遊ぶことも出来ないじゃないか・・・」
「それでも、こうしてまだ覚えていてくれる。それって、まだ私たちが友達だって事でしょう?」
「10年たって始めての再会だろ?」
「遅いよ、本当に」
芳樹はこのとき、笑っていたのか泣いていたのか覚えていない。
そのときにわからないことが、後になって分かるはずもないのだから。

気がつけば机に突っ伏していた。パジャマを見つけた後、眠ってしまったらしい。机に座った覚えはなかったが。
「・・・分からないことは、考えても仕方ないよな」
窓を開けて空を見る。雲はなくなっていて、清々しいほど晴れていた。
見上げた空は、今日は少しだけ高かった。


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