1

 またここへ来てしまった。
 眩しい日差しに目を細めながら、何だか楽しい気持ちになる。
 郊外にある、ひと気のない区域。ひび割れたアスファルトに、錆びついたフェンス。そして所々に落ちている何かの部品。そんな『荒廃』という言葉が似合うこの場所に、その廃ビルはそびえ立っていた。
 いつものように裏口に回り、開けっ放しの扉に入った。建物の中に入った途端、周りの空気が一変する。熱く乾いていた風が急に冷たくなり、頭の横を流れ、長い髪を揺らした。鼻で息を吸うと、微かに絵の具の匂いがする。入り口近くにある階段まで行くと、音を立てないように、一段ずつ、ゆっくりと上った。前に進むほど絵の具の匂いが強くなってくる。やっとのことで三階まで辿り着くと、目の前に少しだけ開いたドアがあった。忍び足でそれに近寄り、こっそりと部屋の中を覗きこんだ。
 そこはまるで異世界のようだった。小さな体育館ほどの広さの部屋に、息を呑むようなデザインの絵がいくつも飾ってある。床には飛び散った絵の具の軌跡が縦横無尽に走り回っていて、大きな魔法陣に見えた。それらが発する妖しい気配に心惹かれる。そしてその作品群が取り囲む中心に、その人はいた。
 それは男の人だった。年はよく分からない。大きなキャンバスの前で胡座をかいていて、ピクリとも動かずにそれを見つめていた。そして暫く経つと、おもむろに筆を持ち上げて線を足していく。彼はいつも筆を持っていて、四六時中絵を描いていた。そして常にくたびれたパジャマを着ていた。
 初めてここに来た事を思い出す。一ヶ月前、日常につまらなさを感じて、思わず家を飛び出した。何か刺激を求めて街を彷徨っていると、引き寄せられるようにここ郊外に来た。危ないから近づくな、と言われていた区域。ここなら何かがある、と本能で悟ったのかもしれない。
 あてもなく歩き回っていた時、一人の男の人を見かけた。その人は今と同様パジャマを着、キャンバスを持って、のそのそと道端を歩いていた。立ち止まって眺めていると、その人はそのまま廃ビルの中に消えていった。直後に、得体の知れない者への興味が沸々と湧き上がり、気づいた時にはビルに向かって歩いていた。彼の後を追って建物の中に入り、階段を登り、部屋を覗き。そしてそこに異世界を見たのだ。
 それ以来放課後になると、欠かさずここに通うようになっていた。その人はいつもこちらに背を向けていて、自分に気づいた様子はなかった。こちらから声をかけることもせず、こっそり部屋を覗きこむ日々が続いている。それでも、この世界をこうしてな眺めていられるだけで幸せだった。ずっとこうしていたいな、と心から思った。


2

 いつものように、僕は床に腰掛けて絵の具をかき混ぜながら、目の前の線画と向かい合った。
 ここは廃屋の一室。僕はとても気に入っている。窓から差す光は程よく、街の喧騒は遠い。なにより、匂いがいい。床も壁も、汚れと黴の匂いが染みこんで、過ごしてきた年月を、歴史を語っているような気がした。仕事にはいい環境だ。
 僕は画家。そしてここは、僕のアトリエだ。
 二年ほどまえにふらりと立ち寄って、この居心地の良さに魅了されて以来、僕はここに住み込んで、毎日毎日絵を描いて暮らしている。僕の絵は、古い友人がやっている雑貨屋で安く売られている。少しは人気があるらしく、僕も貧しいなりに生き延びている。
 ここには誰もいない。キャンバスと、それを取り囲む無数の風景があるだけだ。管理している人もいないらしい。それは僕が許可もなく居座っていられることが証明している。故に僕は、前述の友人に絵を売る時と、食糧を買いにコンビニに赴く時を除けば、誰に会うこともない。髭も髪も、随分伸びた。僕の言葉は絵であり、僕に語りかけてくるのは、いつだって風景だった。
 僕は水色をつけた筆を走らせる。今日の空は、少し穏やかな色だ。西のほうにはうっすら雲がかかっている。僕はそのひとつひとつの印象に応えるように、囁くように、丁寧に丁寧に塗りこんでいった。
 随分時間が経って、空がひと通り仕上がった。張り詰めていた気を緩め、冷めたコーヒーに手を伸ばす。少し前にコンビニで淹れてもらったインスタントだ。部屋の隅には電源があるが、ポットも電気ケトルも買う金はなかった。
 幸い味でも音楽でも、僕は違いのわからない男だ。冷めきった安いインスタントコーヒーでも、喉を潤しリラックスするには十分だった。
 紙コップを片手に、手の甲で疲れた目を擦っていると、ふと『異物感』に気づく。
 なんだ、今日も来たのか。


3

 男の人は紙コップを床に置き、筆を持った。そして腕を動かし始めた。彼が筆先を動かすだけで、白いキャンバスに見事な青空が描かれていく。その筆には一切の迷いもない。まるでスクラッチのようだった。あらかじめ描いてあった絵を、筆で削りだすだけ。その風景は見ていて全く飽きなかった。
 不意に足音が聞こえた。驚いて振り向いたが、誰もいない。耳をそばだてると、部屋の反対側から階段を上る音が聞こえてくる。柱が邪魔で見えないが、どうやら向こうの方にも階段があるらしい。
 足音が大きくなり、向こうの柱の陰から一人の男が現れた。若い人で、紺色の薄いジャケットを着ていた。彼はつかつかと男の人に歩み寄り、キャンバスの後ろに立った。
 「買いに来たぞ」
 「分かってる。飾ってあるの全部持って行って」
 そんな会話を交わし、ジャケットの人は腕まくりをした。見たところ、ジャケットの人は男の人の友人のようだ。そのジャケットの人がこっちの方に歩いてきたので、とっさにドアの後ろに隠れる。扉を挟んだ先で靴音がする。それから木が軋む音が響いた。
 「二ヶ月の間に結構描いたな」
 ジャケットの人は呟く。足音が遠のいたので、また部屋を覗きこむ。
 「絵を描く以外なにもしないからね」
 「でも三日で一枚描いてる計算だぜ。大したもんだ」
 ジャケットの人は、男の人と他愛のない話をしながらどんどん絵を回収していく。その途中で彼は急に足を止めた。その顔は部屋の隅のほうを向いていた。
 「これ、まだ手つけてないんだな」
 ジャケットの人の見た方を見てみると、そこにはキャンバスのように真っ白な、何の模様もないパジャマが飾られてあった。
 「……ああ。こんなに絵を描いてるのに、全然イメージが湧かないんだ」
 「出来上がりそうか?」
 「全然、だね」
 男の人はそっと筆を置いた。彼は少し口をつぐんでいたが、やがて別の話を始めた。
 「ところで、今回はいくらになりそうかい」
 ジャケットの人は振り返って、何も乗っていない机に腰掛けた。
 「そうだな」彼は指を折り始める。「十万ちょい。お前の絵が目当ての客もちらほら出始めたから、もちっと上げてもいいな」
 「好きにしていい。付け値で売るよ」
 それを聞いて、ジャケットの人は首をすくめた。
 「そこらの画廊に持っていきゃあ俺の何倍もの値を付けてくれるだろうに。もったいねえなあ」
 「僕はあんまり人と関わりたくないんだよ」
 男の人は、窓の外に広がる空をじっと眺めた。ジャケットの人は、「ああ、なるほど」と言った。
 「だからあの珍妙な娘を放ったらかしにしてんのか」
 珍妙な娘、という言葉にピンと来なかった。誰か他に来ているのだろうか。そんな事を考えていると、はっと気づき、心臓が跳びはねた。まずい、バレている。
 「一ヶ月前から毎日来てるんだよ」
 「珍しい奴もいるもんだな」
 頭が真っ白になる。思わずその場から逃げ出し、階段を駆け下りた。そして建物から出る。その時、ビルの正面に軽トラックが停めてあるのに気がついた。ボロボロのトラックで、小さく『田中雑貨店』と書いてあった。
 それに背を向けて、家の方へ走った。


4

 「ようし、これで全部搬入したかな」
 階段を何度も登り降りしたのち、男はすっかりがらんどうになった部屋を見渡す。
 彼は僕の唯一の友人であり、商売相手でもある。名前を田中という。店に出した僕の絵がだいたい捌けると、このアトリエにやってきて新しく描いた絵を買い取っていくのだ。絵がなくなると、アトリエは随分とすっきりする。その上、生活出来るだけのお金までくれるのだから、ありがたい話だ。
 「じゃ、また来るよ。死ぬなよ」
 「ああ」
 田中は小さく手を挙げると、扉の方へ去っていく。扉の閉まる音と、階段を降りる靴音と、トラックのエンジン音とが、順番に聞こえてくる。
 手に握った現金を確認する。十一万二千円。うん。しばらくは食うに困らない。
 すっかり日も傾いた。今日の作業は、もうやめにしよう。
 そう決めると、僕は部屋をブラブラと歩き、窓のそばに立った。西日が眩しい。微かな風が、空き地の木の枝を揺らしている。
 今は何月なのだろう?残暑は過ぎて、ここのところ過ごしやすい気温の日が続いている。秋はいい。植物も虫もよく動き、移ろう。
 空のぼやけた茜色が、やがて紫に変わる。すこし肌寒くなってきた。
 僕は窓を閉めて、部屋に向き直す。
 床にだらりと広がっているタオルケットの上から、ガーリックトーストの袋を拾い上げ、引っ張って開ける。
 歯に力を入れて齧ると、少しの歯ごたえの後、じわりと味が舌に広がる。
 そのままトースト1枚分を平らげると、満腹になっていた。ここで生活しているうちに、随分胃が小さくなってしまったものだ。腕も体もすっかり痩せこけてしまった。
 そんなことを考えながら、トーストの袋を丸め、ポケットに突っ込んだ。
 顔を上げて、壁にかかったパジャマを見つめる。
 壁のパジャマは、今僕が着ているパジャマと違って白い。
 窓の外の風景は、絶え間なく変わっていく。僕も変わった。でも、このパジャマだけはいつでも変わらず、白い。
 歩み寄って生地に触れてみても、何の印象も伝わってこない。
 不思議だ。

 今と同じように水彩画ばかり書いていた僕に、デザインの仕事の依頼が舞い込んできたのは、もう1年以上前になるだろう。
 子供服を中心に九州で市場を展開しているという、少し大きな衣料品店がある。その立ち上げの際に、デザイナーを探していた商品開発部の人にツテがあった田中が、僕のことを紹介したのだ。
 実際に描いてみるのがいいだろうと、デザイン用の無地のパジャマがこのアトリエに持ち込まれた。
 田中にしてみれば、こんな町外れにくすぶっていた僕を立身出世させてやろうという目論見であっただろう。
 だが、その当ては見事に外れた。
 その白いパジャマを前に、僕は絵を描くどころか、イメージの一欠片をつかむことさえできなかったのだ。
 もたもたしているうちに、担当の人がしびれを切らし、デザイナーの話は消えてなくなった。
 白いパジャマは用無しになり、田中は持ち去ろうとしたが、僕がそれを止めた。その時、既にこの物言わぬパジャマに、僕は心惹かれてしまっていたのだ。田中は黙って頷いた。
 それ以来、毎日そのパジャマに向かい合っているが、未だに何も感じ取れずにいる。
 同じようにしてキャンバスに向かい合ったときは、何を描くべきかがはっきりと目に浮かぶ。それだけに不思議だ。どうしてこのパジャマだけが、僕を沈黙させるのだろう。

 結局、今日も何も得られないまま日が暮れてしまった。
 ここには電気が通っていない。それ故、活動できるのは太陽が上がっている時間帯に限られる。僕は薄闇の中でのそりのそりと床を歩きまわって、タオルケットを探す。
 あった。
 両手でタオルケットを掴むと、持ち上げて広げ、くるまって横になる。
 まだ眠気はあまりない。
 僕は昼間の慌ただしい足音を思い出していた。
 あの子は、もう来られないかもしれないな。
 欠伸がひとつ、口の中を通り抜けていった。


5

 やっぱり、またここに来てしまった。
 今日は開校記念日なので学校がない。だから朝早くに来た。
 廃ビルの正面に立ち、今日も建物を見上げる。軽トラックはもうなかった。周りに人がいないのを確認して、裏口から建物に入る。
 昨日の会話を聞くに、あの人は最初から自分に気がついていたようだ。昨日は驚いて逃げてしまったけれど、よく考えればもう隠れる必要はないのだ。今日は堂々と部屋に入ってしまおう。そう決心した。
 階段を上り、三階に来る。そしてドアの前に立つ。大きく深呼吸をして、力いっぱいドアを開けた。
 「あれ……」
 不思議なことに、中には誰もいなかった。あれだけ沢山あった絵は全部無くなっていて、描きかけのキャンバスと、真っ白のパジャマが飾ってあるだけだった。
 一歩前に踏み出す。今までただ眺めるだけだった空間に、初めて足を踏み入れた。その瞬間、微かな拒否感を感じた。いや、『拒否感』よりも『不自然』に近いかもしれない。その不思議な圧力に戸惑ったが、振りきって部屋の中央へと歩き始めた。
 コツ、コツ、という靴音が広い部屋に反響する。それによって、誰もいない、という状況がより強く意識される。そのまま一直線にキャンバスの前に来ると、あの人がいつもやってるようにそっと床の上に座った。服が汚れるが、仕方ない。
 キャンバスには空が描かれてあった。写実的な絵ではないが、これはまさしく昨日の空だと分かった。イメージが直接心に訴えかけてくる。きっとあの人の心のなかには、このイメージがそのまま映っていたのだろう。キャンバスの中のもう一つの空が、ゆっくりと動いているような気さえした。
 キャンバスの前は日当たりが良い。窓から暖かい陽射しが差しこんでくる。体がポカポカして気持ちが良かった。絵を眺めながらじっと座っていると、少しずつまぶたが落ちてきた。そしていつの間にか、意識が飛んでいってしまった。

 何かがこすれるような音がして、意識が戻ってきた。はっ、と目を開けると、そこにはあの人の背中があった。彼はキャンバスに向かって、静かに筆を動かしていた。
 「きゃっ」
 気が動転して、つい悲鳴をあげる。急いで起き上がると、キャンバスの方を向いたまま彼は声をかけてきた。
 「目が覚めたかい」
 驚きでまだ心臓がバクバクと音を立てている。
 「はい……」
 戸惑いながら返事をする。彼は筆を持ったまま肩をすくめた。
 「勝手に入ってくるとは頂けないな。僕も人のことは言えないけどさ」
 彼は筆を置くと、紙コップにコーヒーを注ぎ始めた。見ると、彼の横にコンビニの袋が置いてある。
 「あ、あの……」
 彼に恐る恐る声をかける。「何」と彼が言ったので、そのまま自分の名前を言った。
 「私、本城といいます。あの、あなたの名前は……」
 「日比谷」
 彼の名前は日比谷というらしい。珍しい苗字だな、と思った。
 「その、日比谷さんが絵を描いてるとこ、見てていいですか?」
 これだけはちゃんと聞いておかないといけないと思った。彼はコーヒーを飲み干すと、ぶっきらぼうに答えた。
 「好きにしたら」
 彼は再び筆を持って、キャンバスの上を滑らせ始めた。
 しばらくその光景をじっと見ていたが、彼の筆の動きはどんどん遅くなっていき、やがて描くのを止めてしまった。そして彼は溜息をつき、口を開いた。
 「やっぱり、こんな近くに関係ないのが居ると落ち着かないな」
 彼は少しイライラしているように見えた。彼はチラとこっちを向いた。
 「そこは駄目だ。どうしてもここに居たいというなら」
 そして入り口の方を指さした。
 「あっちにいろ」
 そこは私が隠れ続けたところだった。せっかくこんな近くに来れたのに、またあそこに戻らなければならないのは、少し残念だった。
 立ち上がって、服に付いた汚れを払っていると、彼は別の方を指さした。
 「……それか、こっちに座れ」
 その指は、彼の二メートル先の椅子だった。何故そこならいいのか、よく分からなかった。じっと考えていると、彼は痺れを切らしたように言った。
 「部屋の外に出るか、モデルになるか、どっちか選んでくれ、と言ったんだ。早く移動してくれないか」
 モデルになれ、という予想外の言葉に驚く。慌てて彼の前方にある椅子の方に行き、そこに腰を下ろした。
 彼は描きかけの絵を部屋の隅に持って行くと、代わりに真っ白のキャンバスを持ってきて、台に据えた。そしてこっちに視線を移した。その途端、部屋に入ってから感じ続けていた『不自然』感がすっと消えた。
 ようやく、何が起こったのかを理解した。今まで自分は異物だったのだ。彼の構築した世界を侵す侵入者でしかなかった。それが彼のモデルになることによって、ようやくこの世界の一員になれたのだ。
 自分と彼を中心に展開される床の魔法陣が、自分を祝福してくれてるように思える。
 自然と口元が緩むのを感じた。


6

 本城と名乗った少女は、僕が鉛筆を動かす間、手を膝に置いておとなしく坐っている。
 白のシャツに薄紅色のブラウスを着て、足元は七分丈のデニムと革紐のサンダル、という涼しげな恰好だ。
 真っ直ぐに整った黒髪は、肩にかかりそうなくらいの長さで、光があたって少し茶色がかって見える。
 僕はこれまで、人間を描いたことがほとんどなかった。美術科の高校に通っていた時分にいくらか描かされたくらいだ。それだけに、我ながら変な提案をしたものだと思う。
 しかし、なかなかどうして、本城はこの部屋に溶け込み、画になっている。ここ一ヶ月間、彼女がずっと放っていた『異物感』も、すっかり消えた。
 部屋の外から観察されていた時にはわからなかった彼女の呼吸が、瞳の動きが、生き生きとした印象をもたらす。
 気づけば僕は、いつもの調子をすっかり取り戻していた。とは言え、実際に線を引くとやはり勝手は違う。僕は慎重に、イメージに意識を、そして鉛筆を重ねた。
 不意に、本城の唇が嬉しそうに歪む。
 「なんだ、ニヤニヤして」
 「あ」
 指摘すると、彼女は恥ずかしそうに鼻の頭を指の腹で擦り、歯を見せて笑った。
 「ごめんなさい、つい」
 「いや、ヘンに堅くなられるよりはいい」
 そこからしばらく会話はなかった。僕は鉛筆を動かすことに没頭する。本城はそんな僕を見つめて、また時々笑みを浮かべる。
 そうこうしているうちに、線画が完成した。
 「休憩しよう」
 立ち上がって声をかけると、彼女は黙って頷き、肩にかかっていた力を抜いた。背中が丸みを帯びる。
 紙コップに手を伸ばし、ぬるいコーヒーを呷る。すると、本城が僕になにやら視線を向けていることに気がついた。見返すと、彼女はおずおずと口を開いた。
 「あの、絵見せてもらっていいですか?」
 「書きかけのそれ?いいけど」
 「ありがとうございます」
 礼を言うと、本城は床にぺたんと坐り、さっきまで僕が手を着けていた、彼女自身の絵をまじまじと眺めだした。興味ありげに鼻でふうんと息をしては、上半身を左に伸ばしたり右に伸ばしたりして、様々な方向から眺め回す。ひとしきり見続けてから、彼女は満足したようにニッと笑った。
 「いいなぁ」
 「いいかい」
 「嬉しいです。日比谷さんの絵をちゃんと見たの初めてだし、描かれてるのは私なんですから」
 「そういうものかね」
 「そういうものです」
 本城はまた絵を一頻り眺めると、こちらに向き直り、矢継ぎ早に質問を浴びせてきた。
 「ずっとここで絵を描いてるんですか?」
 「ああ」
 「いつから?」
 「二年くらい前からだね」
 「ご飯とかお風呂は、どうしてるんですか?」
 「飯はコンビニ調達。風呂は入らない」
 「えっ」
 「タオルを近くの水場で濡らして、それで拭いてるんだ」
 「清潔にはしてるんですね」
 「垢を部屋に落としたくないからね。どうしたんだ、いきなり」
 「え?」
 本城は面食らったような顔になる。
 「いきなりそんなことを聞いてきてさ。そんなに僕が面白い?」
 本城はああ、と合点したように言うと、少し首を傾げ、上唇に人差し指を当てる。そして言葉を続けた。
 「面白いっていうか、興味自体は前からありましたよ。だから覗いてたんだし。でもこうして話せるのは今日が初めてですから」
 「君は不思議な子だね」
 体力はだいぶ回復した。気を取り直して本城からキャンバスを取り上げ、床に置いたパレットと絵の具箱を拾う。
 「さ、椅子に座れ。再開するぞ」
 「はい」
 彼女はまた嬉しそうに笑うと、いそいそと椅子に腰掛け、背筋を伸ばして姿勢を作った。


7

 日比谷さんはこちらをじっと見ると、パレットに絵の具をつけ始めた。これから色を塗るのだろう。
 ついさっきの会話を思い出す。彼はあまり人と話さないタイプだと思っていたけれど、尋ねてみると意外に自分のことを喋ってくれた。ただの思い違いだったのだろうか。それとも私が特別なのだろうか。その『特別』という言葉が胸をくすぐる。特別だったらいいな、と絵を描く彼の姿を見て思った。
 彼は筆を流れるように動かしている。きっとキャンバスの中の私をせっせと掘り出しているのだろう。
 今までは隠れながら眺めていたから、彼の描いた絵を間近で見たことがない。今描いている絵が初めてになる。これまでの絵はおそらく田中雑貨店という所で売ってあるのだろう。いつか行ってみたい。
 そこまで考えて、今彼が描いてくれている絵が完成したらどうするのか、全然考えていなかったことに気付いた。自分がモデルになった絵だ。貰えるなら貰いたい。けれどもタダで貰うというのはあまりに図々しい、と貧乏さが漂う部屋を見て思う。幾らかは払うべきだろう。ただ、絵の相場はあまり知らないけども、結構高いに違いない。果たしてお小遣いで足りるだろうか。
 そんな事で悶々と悩んでいると、日比谷さんの後ろの方に真っ白のパジャマが飾ってあるのに気がついた。彼が今着ているものと同じ大きさだった。飾ってある方はキャンバスのように白い。多分、絵を描くためのものだろう。逆に彼が着ているのは絵の具で汚れている。けれど、これも最初は真っ白だったのに違いないと思った。
 興味が湧いてきたので、彼が手を止め、コーヒーをすするのを見計らって尋ねてみた。
 「日比谷さん、一つ聞いていいですか」
 「なに?」
 「あのパジャマは何に使うんですか? 日比谷さんの着ているのと同じ物だと思うんですけど」
 彼は紙コップを床に置くと、ゆっくり振り返ってパジャマを見た。一拍置いて彼は話してくれた。
 「あれはデザイン用のパジャマだ。自分らしいデザインをしようとずっと考えているんだけど……」
 彼は頬を掻いて言った。
 「さっぱりアイデアが浮かばない」
 彼の言葉は意外だった。あれだけ沢山の絵を描いているのだから、アイデアなんて無尽蔵にあるんじゃないかと無意識に考えていた。だけど、彼にも描けないものがあるらしい。何だか面白いな、と思った。今まで自分らしい絵を描いてきたのと同じように描けばいい、という風にはいかないようだ。
 その時、彼の着るパジャマを見て閃くものがあった。それは疑問に近い閃きだった。そして、それを彼にぶつけてみたいと思った。コーヒーを飲み干したのを見て、彼に話しかけてみた。
 「日比谷さんが着ているパジャマも、もとは無地だったんですよね」
 彼は小さく頷いた。
 「これは予備として貰ったものだ。今では作業着になってるけど」
 「だったら」そう切って、彼の着るパジャマを指さす。「今着ているパジャマは、『日比谷さん模様』じゃないんですか? 今までそれを着て描いてきたのなら、そのパジャマには日比谷さんの生活とか個性とか、いろいろ詰まってると思うんですけど」
 彼はきょとんとした。そして下を向いて、自分の服をまじまじと見つめる。赤や青や黄、その他幾色もの絵の具の跡——すなわち彼が絵を描いてきたという証がそこには刻まれていた。
 しばらく彼は黙っていたが、突然肩を小さく揺らし始めた。手で口をそっと押さえ、くすくす笑っている。それが収まると、彼は愉快そうに口を開いた。
 「君は面白いことを言うね」
 彼は穏やかな顔つきになった。
 「けれど残念なことに、製品化の為のデザインなんだ。こんな汚れたパジャマを提出するわけにはいかないよ」
 「そうなんですか……」
 彼が笑うところを初めて見て、ちょっと驚いていた。彼は筆に絵の具をつけ始める。
 「締切はとうに過ぎてしまったから、もうデザインする必要はないんだけどね」
 そして彼の顔つきが変わった。いつも絵を描く時のものだった。その真剣な眼差しに体が強張る。
 彼は絵描きとなり、私はモデルとなる。
 部屋に響くのは筆の音だけになった。


8

 「終わったよ」
 そう僕が告げると、本城は緊張を解く。話しながらとは言え、作業再開から半日ほどが経過していた。さすがに疲れた様子で首を垂れて、本城は大きく息を吐いた。
 「見てもいいですか?」
 首をしばらく捻ってから、本城がこちらに向き直って言う。
 「っていうか、欲しいならあげるけど」
 「いやいや!そんな恥ずかしい!見させてもらうだけでいいです」
 「じゃ、好きなだけ見て」
 彼女にキャンバスの前のスペースを明け渡すと、さっきに増して感動したような声をあげていた。僕は朝方に買ってきたメロンパンの袋を開けて、それに齧りついた。
 「すごいですね、これ」
 「人物画は慣れていないんだけどね。少し調子が良かったかな」
 我ながら、よく描けたものだと思う。彼女のもつ軽快で涼しげなイメージを、うまく色で表現できた。
 「これなら、ホントにもらってもいいかな」
 「だからあげるって」
 「うーん…やっぱり遠慮しときます。両親に見られたら変に思われるし、そしたらここに来られなくなっちゃうかも」
 親に黙って抜けだして来ているのか、と気づく。まあ考えてみれば「知らない画家のところに通っている」などと告げるはずもない。
 「家、仲悪いの?」
 「仲は悪くないですよ。ただ、刺激が少ないかな」
 「刺激?」
 「家でも学校でも毎日同じ事の繰り返しで、バカらしくなっちゃって。それでふらふら出歩いてたら、この建物が目に止まったから入ってみたんです。それが覗きの最初。それからは、一体どんなものを描いてるんだろうってワクワクしながら見てました」
 「じゃあ、僕の絵を知っちゃった以上は、ここにも飽きるのかな」
 「それは…どうですかね?」
 気づくと、本城を相手に抵抗もなく話ができていた。それどころか、自分の方から率先して口を動かしている。田中を除けば、こんな人間はいない。いや、その田中を含めても、人は僕にとっては『異物』であったというのに、彼女は何かが違っていた。
 しばらく話していると、日が暮れかけてきた。メロンパンの袋は、もう空になっている。
 「暗くなってきたし、今日はそろそろ帰ったほうがいいんじゃない」
 「あ、そうですね。あの、『今日は』ってことは、明日も…」
 「もちろん、来てもいいよ。部屋に入れるかどうかは、僕の気分次第だろうけどね」
 「そんなー…」
 「まあ、このぶんだとたぶん大丈夫だろうさ」
 少ししょげる本城だが、すぐに元気を取り戻す。
 「とにかくこれからよろしくお願いします!それじゃ!」
 「ああ」
 また騒がしい足音を響かせて本城は駆けていく。僕はタオルケットに腰を下ろし、そのまま横たわった。
 「何が違うんだろうな…パジャマも、あの子も…」
 かすかな呟きは、虚しく中空に消えた。


9

 結局、絵は買わなかった。
 お金だとか、親だとか、自分に言い訳をし続けたけれど、本当は『終わり』にしたくなかったからだ。日比谷さんが私の絵を描き、それを私が貰ったら、何かが終わってしまう気がした。それは店の人がお客に物を売って会計を済ませたら、それで両者の関係が無くなるのに近い。あの絵は彼との唯一のつながりだ。あの絵を廃ビルに置いておくことで、そのつながりを保っておきたかったのだ。
 今日は天気がよく、休日だから時間がまだある。いつもとは違う場所に行ってみようと思い、郊外から帰る時に交差点を右に曲がった。この道は家とは反対方向なので、まだ通ったことがない。何が刺激のあるものに出会えないかな、と心が踊り始める。
 誰もいない道を歩いてると、突然後ろから車の来る音がした。慌てて道の端に寄ると、その車は私の横を通り過ぎていく。それは軽トラックだった。
 「あっ」
 トラックの車体に見覚えのある文字列を発見して、思わず声を上げた。
 「田中雑貨店……」
 それは昨日廃ビルの横に止まっていたトラックだった。トラックはそのまま直進していき、百メートル先の角を左に曲がった。我に返り、急いで後を追いかける。トラックが曲がった角に着き、左に曲がると、軽トラックは道の突き当りで停車していた。そこには古ぼけた店があり、『田中雑貨店』の看板が出ていた。どうやらそこが日比谷さんの友人の店らしかった。
 店の前まで歩き、そろそろと引き戸を開ける。古い家特有の香りがした。中に入ると、空気がひんやりして気持ちよかった。
 幾つも並ぶ棚には細々した商品が並んでいて、値段もバラバラだった。それらをじっくり見ながら奥に進むと、はっと目を引くものがあった。
 それは紛れもなく日比谷さんの絵だった。昨日回収したのであろう絵が壁に飾られてあり、妖しい雰囲気を纏っている。
 それらの絵を見ていると、後ろから声がかかった。
 「いらっしゃい」
 振り向くと、昨日のジャケットの人——田中さんがいた。田中さんは私を見ると目をまんまるにした。
 「あ、お前は確か、昨日のストーカーっ娘」
 「ストーカーまではしてないです」
 「ふうん。で、今日は日比谷の絵を見に来たわけか」
 「そんなところです」
 田中さんも日比谷さんの絵を眺めた。一緒に見ていると、下の方に値札がついているのに気付いた。
 「五千円……」
 地味に高かった。それでも、絵としては安いほうなんだろうと思った。
 「安いだろ。本当はゼロがもう一個つくぐらいの価値はあると思うがね」
 「じゃあ、何で五千円で売ってるんですか?」
 そう尋ねると、田中さんは困ったような顔をした。
 「こんなちっぽけな雑貨屋に来る奴が、財布に五万十万持ってると思うか?」
 「なるほど……」
 私は絵を眺めながら呟いた。そんな私を見て、田中さんはにやっと笑った。
 「どうだ、買ってかねえか。今ならちょっとまけとくぜ」
 そう言われ、財布を取り出して中を見てみる。千円札が三枚しか入っていなかった。田中さんは残念そうに笑った。
 「それじゃちょっと無理だな」
 「ですよね……」
 先週使いすぎたのが痛かった。仕方なく財布を閉めてポケットに直した。
 その時、店の外で車が停まる音がした。お客かな、と思っていると、田中さんが小さく舌打ちをした。その後に私をちらっと見た。
 「好きなだけ見ていきな。俺は奥にいるからよ」
 そして彼はカウンターの奥に消えていった。それと同時に引き戸が開かれ、スーツの男が入ってきた。その人は硬い表情のままつかつかと歩いてくる。ペコリとお辞儀をすると、彼も軽く会釈をし、そのままカウンターの奥に入っていった。ガチャ、と扉が閉まる音がした。
 気になって私もカウンターの中に入り、ドアに耳をくっつける。すると、中から田中さんとスーツの人の会話が聞こえてきた。
 「まだ用意できないのですか? 本当に購入するつもりはあるのでしょうか」
 スーツの人の声だろう。問い詰めるような口調だった。
 「申し訳ありません。なかなか金が集まらないもんで……」
 田中さんの苦しげな声も聞こえてきた。
 「あなたが例のビルを購入するというので今まで待っていましたが、本社はあなたに購入の意思はないとみなしました。郊外一帯の土地所有者との取引を明日行います。購入するつもりがあるのでしたら、それまでに用意してください」
 「……」
 田中さんは黙っていた。
 「それが出来ないのでしたら、もう我が社が土地所有者です。ただちに、日比谷氏に立ち退いて頂きます」
 急に日比谷さんの名前が出てきて驚く。その後彼らは会話を続け、やがてスーツの人が立ち上がった。足音が近づいてきたので、急いで店の中に戻る。直後にスーツの人がドアを開けて出てきた。そして真っ直ぐ店の外へと出ていった。
 しばらくして、今度は田中さんが部屋から出てきた。その顔は苦渋に満ちていた。彼は溜息をついて私を見た。
 「どうせ聞いてたんだろ」
 私が恐る恐る頷くと、彼はカウンターの椅子に座って、息を大きく吐いた。
 まだ何の話かはよく分かっていなかったので、田中さんに尋ねた。
 「さっきの人は誰なんですか?」
 田中さんは低い声で答えた。
 「クロユニの社員だよ」
 「え、クロユニって、あのクロユニですか?」
 田中さんは静かに首を縦に振った。クロスユニバース社——通称クロユニは九州に本社がある衣料品店だ。最近はこの地方にも進出していると聞いている。
 「それで、クロユニの人がなんでここに?」
 「……ここに工場を建てるんだとよ」
 「え」
 「だから、郊外を全部買い取って、工場にするんだって」
 話が理解できなかった。いや、理解したくなかったのかもしれない。
 「じゃあ、あのビルは……」
 「分かりきってること聞くなよ」田中さんはカウンターを強く叩いた。「取り壊すに決まってるだろ」
 「……」
 「アトリエの事は任せろって俺が言ったのに、情けねえ話だ」
 「……それはどういうことですか?」
 そう尋ねると、田中さんは静かに話し始めた。
 「昔、日比谷があのビルに偶然立ち寄ってえらく気に入ってな。そこに住み始めたんだ。流石にそのままじゃまずいから、俺が所有者に掛けあって、好きに使っていいことになったんだ。で、一年半ぐらい前だったか、クロユニがあの土地を買いたいっていう知らせが来てな。それでビルが取り壊される予定になった。だから俺はクロユニに無理言って日比谷をデザイナーにしてやれないかって頼んだんだよ。あそこはデザイナーの待遇が半端ないからな」
 確か、前にテレビでそんなことを言っていた気がする。いいデザイナーの為ならなんでもする、という社風で、デザイナーの中にはクロユニ志望が多いらしい。
 「もしデザイナーになれたら、あのビル位は残してくれるかもしれねえ。そう思って日比谷に無地パジャマを持ってったんだ」
 「あのパジャマは、その時のなんですね」
 田中さんは頷いた。
 「そうだ。あれの出来が良ければクロユニと契約ができたかもしれん。だけど日比谷は全く手を付けなかった。多分、気乗りしなかったんだろ。俺も、プレッシャーになったらマズイと思って何も言わなかったしな。それで、期限切れでデザイナーの道は無くなったから、俺があのビルを買うことにしたんだ」
 その言葉を聞いて、周りを見回す。沢山の商品が埃をかぶっていた。
 「そんなお金あるんですか?」
 「ねえよ」田中さんは即答した。「金を用意するからもうちょい待ってくれ、と言い続けて一年半。取り壊しを先延ばしにしただけだ。その取り壊しも明日決定する。もう俺に出来ることはねえ」
 田中さんと日比谷さんの間に何があったのかは分からない。けれど、田中さんは日比谷さんのためにこれまで手を尽くしてきたことは理解できた。おそらく日比谷さんに心配をかけないように、彼には何も言わずにいたのだろう。そんな田中さんにかけれる言葉はなかった。
 「そういうわけでな。明後日には日比谷はあのビルを出て、この町からも居なくなる。やりたいことがあったらそれまでにやんな」
 話が終わり、店の中に沈黙が訪れた。私は田中さんの話を信じたくなかった。折角できた繋がりが、もう切れてしまうことが恐ろしかった。どうすればいいのか、分からなかった。
 しばらく黙ったあと、田中さんに声をかけた。
 「もし、日比谷さんの人物画を仕入れたら、売らずに取っておいてくれませんか?」
 田中さんは不思議そうな顔をした。
 「人物画? 今まで日比谷が人を描いたの見たことねえぞ」
 「それでも、あったら取っておいてください」
 そう言い残して、カウンターから離れて店を出た。
 もう誰にも会いたくなかった。
 明日はあの場所に行けないかもな、と思った。


10

 西日が差し込んでくる。窓の外に目をやると、夕陽が沈もうとしている。
 今日は本城は来なかった。昨日の口ぶりからしてまた来るものだと思っていたが、親とのいざこざがあったのか、あるいは単に気が変わっただけか。
 僕はいつものように筆を走らせながら、昨日を思い出す。
 彼女はもはや異物ではなく、この部屋を構成する一部になっていた。それはたぶん、僕に、いや僕が絵を描くという行為に、心を開いたからだろう。自然と受け入れたからこそ、人間特有の自意識が邪魔をしなくなったのだ。
 不意に足音がする。それは耳に新しい彼女の足音ではなく、落ち着いた足取りの、聞き慣れた音だった。足音は、南側の扉の前で止まった。
 「入るぞ」
 「ああ」
 扉が開き、田中が入ってくる。オレンジ色の光を浴びて、少しまぶしそうにしている。
 「どうした、こんな時間に」
 そう尋ねると、田中が咳払いをする。
 「あー、そのな」
 田中は言いにくそうに視線を動かすと、部屋に置かれた数枚の絵を見て目を丸くした。
 「これは…あの子か」
 「ああ」
 「なるほどな…あの時言ってたのはそういうことか」
 「へ?」
 「いや、なんでもない。しかしお前、人物画なんかまったく描けなかったじゃないか」
 「そうだったんだけど…僕も不思議でね。描いているうちに、人を描こうとする時の嫌悪感が、少しもしなくなったんだ」
 「つまり、人も描けるようになったと?」
 「そうじゃない。たとえば今君を描くことは体が拒絶している。たぶん、描けるのはあの子だけだね」
 「そりゃ残念だ」
 「まるで彼女、僕に描かれるために在るみたいだ」
 田中は瞼を閉じると、鼻を鳴らして笑う。
 「昔からお前の口癖だったよな。僕は絵を描くために在る、キャンバスは描かれるために、ってな」
 「だから僕はキャンバスに向かうんだ。彼女も同じだ」
 「お前が他人にそんなに関心を持つとはな」
 田中は嬉しそうに目を細めてククッと笑うが、ふと思い出したように俯く。
 「で、なんだが…」
 「うん?」
 「ここのビルだが…っていうかここら一帯全部なんだが、クロユニの方針で、取り壊しが決定した。お前も俺も、明日には立ち退きだ」
 「…そうか」
 「あんまり驚いてないみたいだな」
 「ああ」
 いつかはこんな日が来ると、なんとなく覚悟していた。たとえクロユニが目をつけなくとも、誰かの手によって僕はこの地を追われることになっただろう。無断で使わせてもらっていた以上、何も文句は言えない。
 ここを離れたら、またどこかでいい住処を見つける。それだけだ。
 「だがいいのか、あの子は」
 「いいも何も、どうしようもないことだろう。あの子はこの街を離れることはできない」
 田中が眉を顰める。その瞳はどこか曇ったように見えた。
 「ただ、ひとつ悔いがあるとしたら…」
 そこまで言った瞬間、北側の扉が音を立てて勢いよく開いた。
 「お前は…いつの間にそこに?」
 「最初っから、居ました」
 そこにはしかめっ面の本城が立っていた。
 「日比谷さん。私に黙って出ていくつもりだったんですか?」
 「それはそれで仕方ないと思うが、そのつもりはなかった。そもそも僕は君に気づいてたよ」
 「じゃあなんで指摘しなかったんだ?最初から三人で話せばよかったのに」
 「入ってくるとわかっていたからね。じゃあ本城さん、そこのパジャマ、着てくれる?」
 「そのつもりでここに来たんです」
 本城はニッと笑うと、壁にかかった白いパジャマをひったくって部屋を出た。扉がまた音を立て、閉まる。
 「お、おい。どういうことだ?」
 田中は訳が分からず、狼狽えている。僕は水の入ったバケツを手繰り寄せ、筆の毛を調えた。
 「彼女には最初からわかってたんだよ」
 「は?」
 「画家は絵を描くために在る。キャンバスは描かれるために。ならばパジャマは、着られるためにあるんだ」


11

 扉を閉めて、物陰に隠れる。そして持ってきたパジャマを見た。
 どこまでも真っ白なパジャマ。きっと全ての色が内包されているのだろう。ここからそれぞれの色を見出すのは日比谷さんの仕事。私はただのモデルだ。
 本当は、今日ここに来るつもりはなかった。
 一日中うじうじし続けた後、ベッドに転がって天井を見た。そして自分はこの一ヶ月、何のために廃ビルに通い続けたのか自問自答した。
 何のためか?
 決まっている。
 それは、刺激を得るため。そして絵を見るため。それから、日比谷さんに会うため。
 よく考えたら、日比谷さんにいろんな物を貰っている。
 この一ヶ月、退屈もせず楽しく過ごせて、刺激いっぱいの日常にしてくれたのは、間違いなく日比谷さん。彼は真っ白な私の時間に、素敵な彩りを加えてくれた。そんな彼に何も返さずに、このまま別れてしまっていいはずがない。たとえその日常が今日で終わってしまうとしても。
 私が日比谷さんに抱くこの感情は何なのか、自分でも分からない。
 尊敬の念なのか。興味の対象なのか。親近感なのか。憧れなのか。……それとも恋慕なのか。いや、もしかしたら全部かもしれない。
 それでも、一つだけ分かっていることがある。
 私が日比谷さんにどんな感情を抱いていようとも、日比谷さんが私をどう思っていようとも、私はモデルであり、日比谷さんは画家なのだ。
 画家がモデルを見て筆を動かし、絵が完成する。
 そんなモデルと画家とを結ぶ繋がりは、いつまでも『絵』として残り続ける。
 なら、もう恐れるものは何もない。
 その繋がりを残すために、私は最後に、彼の為のモデルとなろう。
 ——そう決心して、私はこのビルに来たのだ。

 パジャマに着替え終わり、最初着ていた服を丁寧にたたんで木材の上に置いた。
 そして一息つくと、扉を見つめる。
 覚悟を決めると、純白のキャンバスに身を包みながら、ゆっくりと扉を開けた。


12

 扉が開き、本城が入ってくる。少し緊張しているのか、口を堅く引き結んで、目の動きさえ神妙だ。
 「じゃ、昨日と同じように座ってくれるかな」
 本城は黙って頷き、椅子に腰掛けた。
 「そんなに気張ることじゃないよ。昨日と同じでいいんだ」
 言いながら、笑いが漏れる。本城が不思議そうな顔になった。
 「どうしたんですか?」
 「何も心配することはない」
 「えっ?」
 「もう、見えてるんだ」
 これまで何のイメージも発しなかったその白いパジャマは、本城に纏われた途端、様相を一変させた。
 まるで待ちわびていたかのように、鮮やかなインスピレーションが次々と溢れ出す。
 簡単なことだったのだ。黙っていたのは、僕の方だった。パジャマはずっと、着てくれる人を待っていたのだ。
 こらえきれない衝動に、腕が動き出す。気づけば僕は、キャンバスの上に鉛筆を猛スピードで走らせていた。
 「本城さん」
 「は、はい!」
 「君は以前言ったね。僕の着ているこのパジャマは、僕という存在が染み込んだ『日比谷模様』のパジャマだと」
 「はい」
 「だったら僕は今日、君という存在を織り込んだ『本城模様』のパジャマを作ってみせよう」
 本城はきょとんとしている。僕はすでに鉛筆を投げ出し、筆を取ってはキャンバスに色を付けていた。
 「君が来るようになって、僕は変わった。見えていなかったことにも気づけた。君もまた、僕にとって刺激となっていたんだ」
 言葉を巡らせながら、少しずつ少しずつ、彼女を囲む彩りを完成させていく。
 「君が僕にもたらしたすべてを、そして僕からの感謝を、この作品にぶつけてやるよ」
 僕はニッと笑う。それを見て、本城も弾けるような笑顔で応えた。
 「はいっ!」

 絵が完成した。
 それと同時に、部屋の隅に置かれた机に向かう。
 「日比谷さん?」
 「ちょっと待っててくれ」
 机に散乱するゴミの中から、埋もれている数枚の紙と、続けてコピックを引っ張りだす。
 「なんですか、それ?」
 「デザインの仕事を請けた時の書類だな」
 本城が尋ねると、田中が補足する。
 「ああ。デザイン用のシートが同封されていた。今からこれに模様を描いていく」
 シートというのは、白いパジャマの柄がプリントされたA3の図面だ。これに模様を描けということらしい。僕は地べたに図面を広げると、36色のコピックを駆使してそれに色を付けていった。
 「すごい、あっという間に埋まっていく」
 「そうでもしないと、せっかくのイメージが損なわれるんだろう」
 自分でも驚くほどに短い時間で、僕の頭を悩ませていたパジャマのデザインは完成してしまった。

 「かーっ、これだけのデザインができりゃあ、クロユニだって黙っていなかったろうに」
 出来上がった図面を見ながら、田中が頭を掻いて惜しむように言う。本城は後ろから眺めて、感心したようにふんふんと頷いている。
 「仕方ないよ」
 「いや、まだ遅くねえ。今から連中に掛けあってくる!そうすりゃ、お前だって」
 「いいんだよ、田中」
 「だって、お前!」
 「僕はやっぱり、組織の中で生きるより、一人で画家をやるほうが性に合ってる」
 田中は、何かを言いたそうに口を開いたが、言葉がなかったのか、不満そうに唸る。
 「それに、そのパジャマのデザイン、問題があるんだ」
 「あ?なんだよそれは」
 「彼女を見てしまったら、もう他の誰にも似合う気がしないだろ」


     ・
     ・
     ・

13

 「そうやって、このパジャマは生まれたんです」
 筆を動かしながら、私は話を締めくくった。
 「そんな事があったんですか……」
 マネージャーの如月さんは、私の着るパジャマを見ながら感心しているようだった。
 筆を止めて周りを見渡すと、アトリエの広さが改めて実感できる。クロユニが私のためだけに、あの場所に建ててくれたビル。部屋の構造もあの部屋とまったく同じにしてもらった。こうやって昔話をすると、言いようもない懐旧の情に満たされる。
 あれから何年経っただろう。その間に色々なものが変わった。郊外も変わったし、私も変わった。如月さんの顔も、最初に田中雑貨店で会った時よりも、刺々しさが無くなったように思える。
 「しかし、そんな大切なパジャマを作業着にしてしまっていいんですか?」
 彼がそんな質問をしてきたので、つい溜息が出た。
 「如月さん、ちゃんと話聞いてました?」
 如月さんがきょとんとしたので、パジャマをつまんで彼に見せつけた。
 「このパジャマの元の柄は、日比谷さんがデザインしてくれた『本城模様』。その上に私も『本城模様』を付けていって、何か問題あるんですか? むしろ私と日比谷さんの合作と見るべきです」
 「なるほど……」
 如月さんが納得したのを見て、また筆を取る。
 如月さんにはああ言ってしまったが、本当に日比谷さんが残してくれた物は、こんな目に見えるものじゃない。それは私の心の中に確かに塗られた、日比谷さんの存在という色なのだ。私がこのパジャマを来ている理由は、パジャマが着られるためにあるからだ。
 そんな事を思いながら、キャンバスを見つめた。
 今の私なら見える。キャンバスの中に埋まったあの人が。あとは私が、それを筆で掘り出すだけだ。きっと日比谷さんも、今の私と同じ景色をあの時見ていたのだろう。部屋に飾ってある日比谷さんの描いた絵をちらっと見て、ふとそんな事を思った。
 「それにしても、田中部長の店に行った時の女の子が本城さんだとは、夢にも思いませんでしたよ」
 如月さんの言葉が耳に引っかかったので、つい聞き返す。
 「あれ、田中さんいつの間に昇進したんですか?」
 「先週です。洋服店と雑貨屋の融合という耳を疑うような企画が社長にうけたみたいですよ」
 「田中さんもすっかり変わっちゃいましたね。絶対あの古びた雑貨屋で暮らしていくと思ったんですけど」
 そこまで言って、私は顔を上げる。
 「ねえ。日比谷さん」
 そうして、もう一人の『語り手』に声をかけた。
 私の前方二メートル先にある椅子。そこに、パジャマで無精髭の、昔と全く変わらない男の人が座っていた。
 「ねえ、じゃなくてね」日比谷さんは不満そうに呟いた。「人を呼び出したと思ったら、いきなりモデルになれ、て言ってさ。あまつさえ僕にも昔の話を話させるとは、ちょっと人使いが荒すぎやしないかい」
 「だって、丁度いい所に如月さんが居たものだから、つい懐かしくなっちゃって」
 「だからって、僕を巻き込まなくてもいいだろう」
 日比谷さん模様のパジャマを揺らしながら、彼はつっけんどんに言った。そんな日比谷さんに負けじと言い返す。
 「それに私が呼んだのも、元はといえば日比谷さんがアポ取ったからですよね」
 「……そうだったっけ」
 「そうですよ」
 日比谷さんは大きく息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。
 「そうだったね」
 彼はそのまま黙ったかと思うと、やがて顔を上げ、如月さんをじっと睨んだ。
 「と、いうわけで、話は終わりだ。そろそろ異ぶ……部外者は出ていってくれないかな」
 彼の照れ隠しのような言葉に、如月さんは小さく笑った。そしておもむろに椅子から立ち上がった。
 「では、これ以上お二人の時間を邪魔するのは止めておきましょうかね」
 そして如月さんは私を見た。
 「本城さん。絵も良いですが、服のデザインもちゃんとしてくださいよ?」
 「分かってます」
 はっきり答えると、如月さんは満足そうに部屋を出ていった。
 そして二人きりになった。
 自然と顔つきが変わる。それはいつも絵を描く時のものだ。私と日比谷さんに共通の緊張が走る。見えない魔法陣が床の上にどんどん広がっていった。
 私はパレットの上に絵の具を出し、筆で混ぜていく。絵の具は、あの時の出会いのように混ざり合い、独特の色になっていく。そしてそれをキャンバスにつけた。
 私は日比谷さんに目で尋ねた。

 ——あなたの中にも、私の色はありますか?——

 日比谷さんは心なしか、微笑んだように見えた。
 私も笑い返して、キャンバスに『私達色』の色を塗った。
 ああ。
 私は絵描きとなり、彼はモデルとなる。
 繋がりは、保たれたのだ。
 筆の音だけが響く部屋の中で、心地よく、そして懐かしい異世界が現れるのを、私は確かに感じた。


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