悠介がその絵本に出会ったのは、彼が5歳の時だった。
元々彼は絵本が好きであった。絵本が嫌いな子供などいないであろうが、彼は他の子よりもずっと「絵本」というものの魅力に取り憑かれていた。読み聞かせがあったら他の子も彼同様絵本に集中するだろう。しかしその読み聞かせが終わった後、他の子らが外へ出て絵本のことなどすっかり忘れて遊び回っている間に、彼は本棚に仕舞われたその絵本をそっと取り出し、誰もいない部屋で一人その本の世界に飛び込むのだった。
そんな子供であったから、悠介は月に一回母と町に出かけるのを楽しみにしていた。なぜなら母は、一緒に出かけると時たま新しい絵本を買ってくれるのである。
その日も悠介は母と一緒に町に出かけた。母が運転する車の後部座席で、彼は目を輝かせながら流れる外の風景を見ていた。しかし彼が見ていたのは、何となく寂れた町よりも、まだ見ぬ絵本の中に広がる童話の世界だったのだろう。その証拠に彼は車を降りてからも、まるで今日が誕生日かのようにニコニコと笑っていたのである。
母と手を繋ぎながら店を周り、遠くに本屋の看板が見えてくると、悠介の心は今まで以上に踊り始めた。彼はその看板をじーっと見つめて母にアピールをした。勿論そのアピールは伝わっており、母は苦笑しながら「まあ落ち着きなさい」と言った。
本屋に向かう途中で、母は途中の店に寄った。そして店の前のベンチに悠介を座らせ、絶対ここを動いてはならないよと念押ししてそのまま店の横のトイレに入っていった。当然絵本を楽しみにする彼が動くはずがない。彼はトイレの入口を見ながらピクリとも動かずに母を待った。
しばらくして、悠介の隣に高校生のカップルらしき男女が座った。二人とも制服で、女の子の方は黄色い髪留めをしていた。女の子は悠介を見るとにっこり笑って、彼の頭を撫でた。そして男の子の方を向き、二人で他愛のない話を始めた。悠介はぼんやりとその話を聞いていた。
「そういえばさ」男の子が言った。「今日はあの日から丁度一年なんだよね」
それを聞いて女の子はきょとんとした顔になったが、やがて、「あ」と小さく声を出した。
「あのチャットをやった日ね。『リア君』って言い始めたのはあの日からだったよね」
「そうそう、例の『理想のヒロイン問答』をやったのが丁度一年前なんだ」
何の話か悠介にはよく分からなかった。ただ彼は、「『りそう』って何だろう?」といった疑問を頭に浮かべた。
「……懐かしいわね」女の子は目を細めて言った。「じゃ、また何かやる?」
「うーん」
男の子は唸り始めたが、やがてぼそっと呟いた。
「『理想の悪役』ってのはどうかな?」
「あ、それ何だか面白そう」
それから彼らは『理想の悪役』とやらについての問答を始めた。その内に母が戻ってきて、悠介をベンチから立たせた。母は高校生達と会釈をしあって、そのまま悠介を引いていった。
しばらく母と歩いていると、悠介は突然母に尋ねた。
「お母さん」
「なあに?」
「『りそうのあくやく』ってなーに?」
突然の意図不明な質問に母は一瞬戸惑ったが、すぐに返事をした。
「そうねえ。『悠くんが一番素敵だなって思う悪い人の役』のことだと思うけど。それがどうかしたの?」
「さっきのお兄さん達が話してた」
「あら、そうなの」
「悪い人が素敵って、そんなことあるの?」
母は悩むような顔をした後、悠介に言った。
「お母さんは、ないと思う。悪いことをしているんだったら、素敵ってことはない。悪いことをしたら、後でかわいそうな目にあうのよ。だから悠くんは悪いことをしたらだめよ」
「はーい」
悠介は母の言葉を話半分に聞いていた。いや、話半分にしか聞けなかったというべきだろう。なぜなら、もうすぐそこに、あんなに楽しみしていた本屋があるのだから。
本屋に入ると、悠介はすぐに母を引っ張って絵本コーナーに行き、沢山ある絵本の中から面白そなものを探した。その内、彼は不思議なタイトルの本を見つけたので、それを買ってもらうことにした。彼は母にその本を渡し、レジで精算してもらった。そして彼はいい匂いのする紙袋を抱きしめながら、母と共に本屋を後にした。
その絵本は、『泣いた赤鬼』というものだった。
鬼というものは恐ろしいものだ、というイメージを持っていた悠介にとって、鬼が泣くというタイトルに凄まじい違和感を持った。だからこそ彼はこの本を手に取ったのであるが、その本の中身もまた、彼の形成途上にある自我に大きな衝撃を与えるものであった。
『泣いた赤鬼』の話の流れは、以下のようなものである。人間と仲良くしたがっていた赤鬼が、『心の優しい鬼です。どなたでもおいでください』との立て札を家の前に立てたが、人間は皆疑って来ようとしない。赤鬼が悲しんでいると、友達の青鬼がやって来て彼の相談に乗り、ある計画を立てる。それは青鬼が人間の村で大暴れをし、それを赤鬼が止めれば人間たちも赤鬼を信用するだろうというものだった。それではすまない、と渋る赤鬼を、青鬼は無理やり村まで引っ張って計画を実行する。果たして、赤鬼は人間たちの信頼を手に入れることが出来、連日村人たちがやって来るようになった。しかし、青鬼はあの日以来赤鬼の所に来ることはなかった。気になった赤鬼は青鬼の家に行ってみたが、誰も居らず、代わりに張り紙がしてあった。それには、このまま赤鬼と付き合っていると、人間たちがまた赤鬼を悪い鬼だと思うかもしれないので、二度と会うことはないとの内容が書かれていた。そしてその後に、いつまでも君の友達、と記されてあった。それを何度も読んだ赤鬼は、いつまでも泣き続けた————
いい鬼もいるんだ、という発見が、まず悠介を驚かせた。桃太郎に一寸法師と、いつも鬼は悪者として描かれていたからだ。そしてそれ以上に、悪いことをしたはずの青鬼をとてもかっこいいな、と感じたことに、彼は衝撃を受けたのだった。常々母親から『悪いことをしてはいけない』と耳にたこができるくらい言われていた悠介にとって、その事実は彼の価値観にを変えうるものであった。
物語の余韻に浸った後に悠介は、はっ、という顔をした。この青鬼の姿に、母の言った『悠くんが一番素敵だなって思う悪い人の役』という言葉がしっくり来たのだ。そして彼は、青鬼こそが『りそうのあくやく』だと確信した。そして最後に、『ある思い』が彼を支配した。
悠介は勢い良く本を閉じると、母に見つからないように、こっそりと家を抜けだした。彼が目指すのは町の南の方にある裏山である。
悠介は青鬼を可哀想だな、とも思っていた。確かに友達を失った赤鬼も可哀想だと感じたが、友達の為に自らを犠牲にして一人ぼっちになった青鬼は、かっこいいはずなのに何故こんな目にあうのだろうという疑問も相まって、物語の中で一番可哀想な存在に思えた。
だからこそ自分が青鬼を見つけ出してやろう。挿絵によると鬼は山にいるそうだから、きっと青鬼は今も山にいるに違いない。悠介はそんなことを思いながら一歩ずつ歩いて行った。子供らしい単純な発想である。彼にとって『山』はこの町の裏山以外にないものだから、青鬼は裏山にいるに違いないと思ったのであろう。そしてもっと子供らしいことに、彼の小さな足を突き動かすのは、可哀想、という感情以上の『ある思い』によるものであるのだ。
危ないから行っては行けないと母に言われて来た山がすぐ近くにくると、彼の喜びは本屋に行くときと同等のものになった。子供が愛してやまない『冒険』がもうすぐできるのである。彼は走りだし、草の生い茂る土地へと入っていった。
山には様々な発見があった。今まで図鑑でしか見たことのない植物や虫が至る所にあり、当初の目的を忘れそうになるほどであった。悠介は山の中をどんどん進んでいき、やがて開けた場所に出た。そこでは町中が見渡せ、海まで見ることが出来た。最初彼は目を輝かせながら町を見渡していたが、やがてある建物を見つけると、嫌な記憶を思い出して苦々しい顔をした。
それは悠介の通う幼稚園だった。保育園からあの幼稚園に編入して以来、どうにも悠介は幼稚園の他の子と仲良く出来ないのだった。別に悠介が悪いとか、別の子が悪いとかではなく、単に相性が悪いのである。彼が極度の人見知りなのもあって、彼はずっと幼稚園の子と話せないのであった。
だから悠介は、青鬼だったら自分を他の子と仲良くさせてくれるかもしれない、と思ったのだ。それこそが、彼が青鬼を探す一番の理由の『ある思い』である。何だかんだ思っても、結局の所悠介は自分のことしか考えていないのだった。子供らしいといえば子供らしい。しかしそれは子供に限ったことなのだろうか。大人であろうが子供であろうが、人間である限り、皆自分のことしか考えていないのではないだろうか? 理想の彼女を想像する時に、その理想の彼女にとって自分が理想の彼氏であるにはどうすればいいか、などと考える人はいない。自分がどんなダメ人間でも付き合ってくれる、そんな自分に都合のいい彼女こそが『理想の彼女』なのだ。だから悠介にとって、自分さえ助けてくれればそれで『理想の悪役』なのである。自分を助けてくれる都合のいい存在としての青鬼と、自分を助けてくれるヒーローとしての青鬼を同じ『理想の悪役』として混同してる部分が、彼の子供なところである。
悠介は踵を返すと、山の中に戻った。こうなっては是が非でも青鬼を探しださなくてはならない。そう決心したとき、彼は腕に冷たいものを感じた。空を見上げると、いつの間にか雨雲が広がっていた。一瞬帰ろうかと彼は思ったが、山の中に行っていたなどと知られたら、もう二度と母は彼から目を離さないかもしれない。そしたら青鬼を探すことができなくなる。そう考えた彼は急いで走りだした。
草原を駆け上り、岩によじ登って周りを見渡す。しかし雨雲のせいで辺りは暗く、悠介は遠くを見ることが出来なかった。雨は次第に強くなり、彼の髪はびしょ濡れになって額に張り付いた。彼は山を駆け上がり、駆け下り、茂みの中を通り、小川を渡った。それでも彼は何も見つけられなかった。そしてとうとう彼は木の根っこに足を引っ掛けて転び、膝を擦り剥いた。染みるような痛さと、青鬼が見つからない悔しさに、彼はやがて泣き出した。『悪い子としたら、後でかわいそうな目にあう』という母の言葉が、延々と彼の頭の中で響いた。そして自分は何か悪いことをしただろうか、と自問自答した。誰かと友達になりたい。そんな事を考えるのは悪いことなのだろうか。もちろんそんなはずはない。そう考えると彼はさらに悔しくなって、何が何でも見つけてやろうと、降りしきる雨の中をじっと見つめた。それでも勿論見つけられるはずがない。青鬼は二度と戻ってこない。分かってはいても彼はどうしても諦めることが出来なかった。だから彼は見つめ続けた。やがて母が集めた保護者の捜索隊がびしょ濡れの彼を見つけ、彼を無理やり家まで引きずって行く時も、彼は決して雨の向こうの闇から目を逸らさなかった————
それから何年も立ち、悠介は大学生になった。もう幼稚園の時の記憶など殆ど残っていない。だが一人寂しく町を歩いている時に、あの日雨の中、何かをじっと見つめていたことを、白昼夢のようにありありと思い出すことがある。その後に彼は、何気なく町の遠くの方を見やり、青鬼を無意識に見つけようとするのである。そうして彼は、一人ぼっちの彼は、もう二度と帰ってくることのない理想の悪役を、今でも探し続けている・・・・・・
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