どこか不思議でやさしくて力強くゾンビを倒す彼女に出会ったのはちょうど二十歳になった年の冬だった。



朝二時。ふと目が覚めてしまって妙に目が冴えてしまい寝付くこと出来ず散歩を始めたのが一時半だったからかれこれ三十分も歩き続けていることになる。
空は真っ暗で月光に僅かばかり照らされた住宅街をゾンビが歩きまわっている。
コートに身を隠して冷たい空気から身を守りながらぼんやりと歩いていく。
どこに行く訳でもなくただ足が進むままに静かな、夜の住人が目覚め始めてそろそろ回りだそうとする町を歩く。
自分以外には誰もいないような静けさの中、今は一人しか住民のいなくなった自分のアパートを思う。
前方に踏切が見えた。歩道しかない小さい踏切。
—カンカンカンカン—
そういう音を想像したが、音がしないまま踏切が降りる。踏切の前で立ち止まる。
群がったゾンビが戯れで遮断桿を取り外してチャンバラをしているだけだった。
深呼吸をしてみる。鼻を切除したいくらい腐臭の漂う夜。
別に明確な意志があったわけではない。ただ何となく、そう何となくだった。
踏切に一歩近づく。ゾンビが振り向く。こっちに気づいたようだ。コートのポケットから護身用ナイフを取り出そうとしたその時—
「やめた方がいいよ。」
女の声。
ビックリしてポケットの中でナイフを放す。
振り返ると赤いジャージ姿の女がいた。年は同じくらいだろうか。真っ赤に燃える赤い髪が肩に少しかかっている。
更に少し離れて後には、青、緑、黄色、ピンクのそれぞれの色のジャージを着た男女がいた。ピンク色のジャージのは禿げかかった五十くらいのおっさんだったが、黄色は十歳くらいの男の子だったし、青はサングラスにマスクと何歳かもわからない女で、緑は緑で皮膚まで緑でその上頭から触覚のようなものが飛び出ていて人かどうかすらも怪しかった。緑以外はそれぞれ手に薙刀だったり鎖鎌だったりと思い思いの武器を持っている。
「ちょっと待て。」
おもわず言ってしまった。
しかし、赤は俺の方をちらりとも見ずに、叫んだ。
「みんな! 死の五芒星よ!」
赤以外は即座に展開した。ピンクと青は赤の左右に広がり、黄色と緑は大きくジャンプして線路の向こう側に着地する。
正五角形の頂点にそれぞれが立つと、中心に向かって歩を進め始めた。それぞれゾンビを斬り伏せ、踏みつけ、まるでゾンビなんていないかのような調子で淡々と踏切に近づいていく。とりわけ緑は目を引いた。武器を持っていないと思ったら、あんぐりと開けた口から光線を出して焼き払っている。
俺はあまりに唐突な眼の前の光景を黙って見ていることしか出来なかった。
我に返ると、五人は互いに手を伸ばせば届くくらいに近づいていて、ゾンビは一体残らず動かぬ肉塊に戻っていた。
そのまま五人は帰ろうとしていたので、俺は口を開いた。
「ちょっと待て。」
赤いのだけが足を止めて振り向く。
「なんで止めたんだ?」
そう言う自分に戸惑いながらたずねる。強い意志があってしようとした訳ではないくせに。
「目の前で人がゾンビにやられて死ぬなんて面倒だから。気分悪いし。あんた最後は血を残らず啜られ、脳味噌まで食い散らかされた上に、自分もゾンビになって人に同じ事するようになるんだよ。迷惑だね」
さも当然という風に彼女が言うので俺はなんだか怒るのが馬鹿馬鹿しくなってくる。
そして彼女は続けてこう言った。
「気分を害したなら謝るわ。時間ある? コーヒーごちそうしてあげる。」
もう他の四人はどっか行ってしまっていた。

これがアキとのホント、奇跡みたいな出会いだった。

彼女に連れられて着いた喫茶店は二階建てで'Break Time'と書いてある看板がついていた。
準備中という札が下がっているドアノブに彼女が鍵をさしてひねる。
木製のドアがキィっと音をたてて開く。ベルが鳴る。
「ようこそ私の店へ。」
彼女の後に続き店の中に入る。腐臭漂う店が、直後、香ばしいコーヒーのにおいで満たされた。大きく息を吸い込んでみる。どんな人でも幸せにしてしまうような魔法のにおいだ。突如、死人がゾンビとなる現象が起こり始めて、この国中は腐臭に塗れるようになってしまった。最初はあちらこちらで皆がその臭いに耐えかねて嘔吐していたが、その臭いが街中に浸透するに従って他人の吐瀉物を見かけることは減った。その臭いを忘れさせてくれる位強い、そしていいにおいというものが鼻腔に入ったのはいつぶりだろうか。
促されるままカウンター席に座ると
「ちょっと待っててね。」
そう言って彼女は奥へと入っていった。
周りを見回してみる。そんなに大きくはない店だ。カウンター席が五席、テーブル席が三席といった具合。カウンターやらテーブルやらイスやら全部木で出来ていて温かい雰囲気だ。よく見るとどれもがゾンビの襲撃を長い間耐えてきたようで所々血痕があって生々しい。
この店は確かに人が生きようとしているという気力を感じさせた。俺のアパートにはもう無いモノ。
彼女が帰ってきた。おそらく店の制服であろうフリルの付いたエプロン付きの黒のワンピースに着替え、その上やっぱり白いフリル付きのカチューシャもつけている。カウンターにつくと
「コーヒー詳しかったりする? 希望があればそれを淹れるけど?」
と格好に似合わない口調で聞いてくる。俺が首を振りながら「コーヒー飲めないんだ」というと、
「じゃあ、ハワイコナ・エクストラファンシーでいっか。」
それは何なのかと問う前に彼女はごたごたと機械なんかが並んでいる奥の方へ消えた。今自分がいるところからはうまい具合にコーヒーの粉砕機らしきものに隠れて見えない。何かを探すように幾回も戸棚を開け閉めする音が聞こえたあと、機械が唸りはじめた。自分のためにわざわざ普段は用意しないものを用意してくれているのかと思うと申し訳無くなってきた。
「そういえば自己紹介まだだったね。小林 秋、二十歳。副業でゾンビハンターやりながらこの店のマスターやってる。」
思い出したように彼女が顔だけひょっこり出して言った。
お互いまだ名前も知らなかったことに自分でも驚きながら
「西山 順、同じく二十歳。大学生。」
と返す。騒動のお陰で大学での講義なんて長らく行われていないが。
アキはそうか、同い年かぁなんて呟きながら丁寧になれた手つきでコーヒーを淹れていた。
部屋の隅においてある、年代モノの日本刀を見つけてどんな手入れをしているんだろうとぼんやりと考えていると。
「完成。ハイどうぞ。私のがハワイコナ・エクストラファンシーだよ。」
と水を出してきた。グラスには氷も入ってない。自分の前には立派なコーヒーカップを置いているというのに。
一口飲んでみる。おいしい。が、水は水だ。
アキは俺が複雑な表情をしているのを見て悪戯っぽく笑っていた。
自分の分のワイハーなんたらとか言うのを飲みながらアキが言った。
「さてと、見たところハンターでもなんでもなさそうなのに、どうしてあんなことしようとしたの?」
気が引けるようなことをさらっと聞いてくる。いつもの俺なら適当に答えて流すところだが、アキの作り出す、すこし近すぎるけど不快感は感じさせない不思議な距離感から真剣に答えてしまった。
「一緒に住んでた親父がゾンビにやられた。たった一人の家族だった。」
アキは深紅の瞳で見つめてくる。
「殺られたのは二週間前。別に復讐してやろうとずっと考えてたわけじゃない。新しく住むところ探したり、自警団の仕事したりちゃんと生活してたんだ。ただ夜の静けさの中歩いていたらふいにもう親父は帰ってこないんだって当たり前のことが意識されてきて。ここいらきってのゾンビハンターだって自分でも言ってたのに。」
「なるほどね。あの西山さんか……。」
そう言ってアキは少し考え込む。その瞳の奥にどこかもの悲しさが感じられたのは気のせいだろうか。
黙って二人でコーヒーを飲み続ける。ゆったりとした時間が流れる。今は何時くらいだろう。
時計を探そうと部屋を見回す。部屋全体からこの店が歩んできた辛い歳月が感じられる。過去から今へと繋いできたモノ。それもいつまで繋いでいけるか分からない。
するとコーヒーを飲み終わったアキが口を開いた。
「住むとこ探してるんだって?」
「ああ。」
「じゃあこの店に住んでいいよ。」
「はぁ?」
「いやぁ、最近バイト雇おうとしてたんだけどだけど行方不明になっちゃって。それで君にバイトしてもらうかわりにここに住んでもいいっていうのはどう? もちろんバイト代はしっかり出すし、ゾンビが来ても私が守ってあげる。新しく住むとこ決まったら出てってかまわないよ。」
アキの顔を見る。どうやら適当に考えて言っているわけではなさそうだ。
「こう見えて私は腕は立つし、別に死ぬことは無いと思うよ。」
アキが笑って言う。優しい目。
赤の他人にとんでもないことを言うもんだと呆れながらも、俺は確かにこの店に惹かれている自分を抑えられずつい
「お世話になります。」
と言ってしまった。
こうしてアキと俺の二人ぼっちの生活が始まった。



家賃を滞納していたので自分の部屋からすぐに出て行った。俺をやさしくゾンビから守ってくれた大家さんに感謝する。
親父が殺されてから時間が止まってしまっていた部屋を出るとき、何か寂しさを感じた。戻らないモノと残されたモノ。
部屋からは必要最低限のものだけを店に持ち込んだ。
店の二階は居住スペースとなっていた。リビングとキッチンと武器庫で一室、アキの部屋が一室、おそらくアキの両親のものであろう部屋が一室(今は俺が使わせてもらっている)。あとはトイレなどに加えて、道路を挟んで反対側に道場もある。
アキに両親のことを軽く質問したがあいまいな答えが返ってきたのでそれ以上追求することはやめた。俺はアキのようには他人に踏み込めない。
二階の窓は大きく日の光がリビングいっぱいに溢れていた。ほのかなコーヒーのにおいが漂う。壁の染みや床のキズなんかがちらほらあってもなんだか俺は安心してしまった。居るだけでじんわりと温かい気分になってくる。
店での生活は妙にすんなりとうまくいった。人の家だというのにそうでないような気にさせる何かがこの家にはあったからかもしれない。他人のものを使うときのぎこちなさがあまりに感じられないので少し混乱したほどだ。
アキは店の準備で起きるのが早く、いつも俺はアキに起こされる形になった。朝ごはんはアキが作り、昼と夜は俺が作る。勿論学校がある日は昼は別々に、とアキはいったが、その約束は全く機能していない。俺は基本的に店で働いた。働くといってもオーダーをとったり皿を洗ったりとただアキの手伝いをするだけだが。デザート作りは何とか手伝えそうだがコーヒーはさすがに無理だ。飲まないし。
この店に来る客は皆なじみの客といった感じだった。疲労が張り付いた顔を、店に入ると笑うように歪めて
「おはよう、アキちゃん。」
なんて言ってくる。年齢、性別はさまざまで色んな人がこの店を愛していた。なんだか誇らしい。
アキは客全員の好きなものを暗記してるらしく、客が入ってくるとすぐにコーヒーとデザートを準備しながら持ち前の不思議な距離感で客と話す。その内容は世間話からやや込み入ったものまでたくさんあったが店を出るとき幸せそうな顔で出て行くのはみんな一緒だった。

店で働き始めて二週間ほどが経ち、客の顔も大体覚え、店に馴染んできた頃、ある日、開店して五分も経たないうちに勢いよく一人の客が入ってきた。
「おはようアキ。久しぶり。元気にしてた?」
金色の髪が肩の少し上まで伸びている。ジーパン、白のシャツに黒のジャンパーを着た少し年上の女だった。
「久しぶり、リョーコさん。そっちこそ元気?また無茶なことしてないよね?」
アキがどこか不良チックなその女に話しかける。知り合いか。
「してないしてない。」
笑いながら女が答える。そして俺の方を向いて、犬みたいな目を細めて
「ナルホド、この子が噂のバイト君かぁ。久し振り」
と言った。一瞬その目に刃物のような鋭さを見た。いつどこで会ったかがぱっと思い出せないながらも俺は小さく会釈をする。おやじの葬式に来ていたのかもしれない。驚くほど多くの人がきたし、それをじっくり眺める余裕はその時の俺にはなかった。
「紹介するね。この人は幼馴染の吉永 良子さん。色々面倒見てもらったり世話になったりしてる。あの時青ジャージ着てたの。」
アキの最後の一言に、呆気に取られている俺にリョーコさんがよろしくーといいながら手を振る。
「んで、こっちが西山 順くん。」
反射的にペコりと頭を下げる。少し緊張。
「じゃあ、いつものお願い。それとガトーショコラも頼む。」
リョーコさんはそう言うと手元にあった新聞を読み始めた。
アキがコーヒーを作る間、俺はガトーショコラを準備する。ケーキ自体は作ってあるので生クリームを作って皿に盛り付ける。最初の頃と比べると大分手際が良くなってきた気がする。
完成。あとはアキを待つだけだ。手持ち無沙汰にしているとリョーコさんが話しかけてきた。新聞はもう読み終わったようだ。
「どう? この店面白いでしょ。」
「雰囲気が好きです。」
「生活の方は? うまくいってるの?」
その後もこんな返答が続いたあと、アキがコーヒーとケーキを持ってきてからはアキとリョーコさんの会話になった。邪魔するのも悪いので俺は今日はどの曲をかけようかと考える。いつも店でアキがかけているのは何故かテクノで、はじめは自分の好みが分からなかったが最近では自分で曲を選ぶようになってきていた。
「そろそろ帰るわ。」
リョーコさんがそう言ったので俺は入り口にあるレジの元に行く。ぱぱっと打ち込みを終わらせ、リョーコさんにレシートを渡す。するとリョーコさんはレシートに何か書いてすっと俺のエプロンのポケットに入れた。何だろう?と俺が不思議そうな顔をしていると
「後で見といて。」
と小さい声で言ってリョーコさんは出て行った。

その日は朝から夜まで人が多くて忙しかった。後片付けと掃除を始める。アキは珍しく疲れた様子で
「早く寝たい。」
なんてぼやいている。そういえば定休日もないのにいつ休むんだろう?とか考えていると、ふっとリョーコさんが渡したレシートを思い出し、あわててポケットを探る。綺麗な整った字でこう書いてあった。
"店が終わったらよもぎ公園まで来て"
すっぽかさないで済んだのでほっとする。
作業を終えるとアキは着替えるとそのままベッドで寝てしまった。よほど疲れていたんだろう。そっと毛布をかけて俺もすぐによもぎ公園に向かった。
よもぎ公園は店から歩いて五分もしないところにある、小さな公園だ。買い物帰りに何回か寄ったことがある。鉄棒と滑り台とジャングルジムとブランコが全部そろっているのがちょっとうらやましかった。俺が住んでたアパートの近所の公園はゾンビにやられてしまってジャングルジムしか残っていなかったのに。
公園に着いた。枯れ葉が一面に散らばっていて踏むと、パリパリッと歯切れのよい音をたてる。上を見上げると満天の星空で思わず息を呑んでしまった。暗い夜空のなかで命を燃やすようにまたたく星の光。かすれた雲。
リョーコさんはブランコに座っていた。こっちを見つけると手招きをする。隣のブランコに座る。錆びた茶色いチェーンがギシっと鳴った。
「ごめんね、遅くに呼び出しちゃって。これはちょっとしたお詫び。」
そう言ってコンビニで買ってきたであろうおでんを渡してきた。中身を確認する。大根、卵、ファミチキ、牛筋、巾着、どれも好きな具だ。
「お酒飲みたいんだったらチューハイも買ってきてるからどうぞ。ハッシュド文明とスパイシーマンセーはなかった。」
遠慮なくお酒も受け取る。お酒は強い方じゃないが一缶ぐらいなら別に問題はないだろう。二人で
「いただきます。」
とちゃんと言ってから食べた。おでんの温かさが体にしみる。うまい。
おでんを平らげるとリョーコさんは真剣な顔になった。瞳に鋭さが宿る。
「アキの両親のことは聞いた?」
ある程度予想はしていた質問だ。
「一回聞いてみたことはあるんですけどあまり話したくない様子だったので詳しいことは聞いてません。」
あの時のアキが一瞬見せた困惑した顔は忘れていない。
「やっぱりね。単刀直入に言うけどあの子の両親、一ヶ月くらい前に殺られたんだよ。」
驚きだった。俺が親父を亡くした同じぐらいの時にアキも両親を亡くしていたなんて。アキの両親はもっと昔に亡くなっていたと思っていた。
「別にだからどうこうしろってわけじゃないんだけど、君には知っておいてほしいことだからアキには黙って教えた。」
そう言ってリョーコさんは空を見上げた。
「あの子ね、自分で両親の首を切ったんだよ。目に涙を溜めながら首から下を666ずつに分割するのも一人でね。私も含めて皆代わりにやろうといったんだけど、これが自分の使命だからって言って。その少し後からだね、"フランケンシュタイン"を探すって言い始めたのは。」
"フランケンシュタイン"、思わずその言葉を聞いて身震いした。
ゾンビ・パウダーを作り出したことを発表し、そのまま姿をくらました一人の天才科学者。最初は誰も気に留めなかったものの、ゾンビが急速に広まり、世紀末の様相を呈し始めた頃になってようやく、その科学者をあらゆる人々、組織がその行方を探し始めた。定期的にゾンビを使って悪意のこもった声明を出しているにも関わらず、未だに誰も見つけきれてない。誰が呼び始めたのかは知らないが、気が付くと彼は『フランケンシュタイン、或いは現代のプロメテウス』の科学者フランケンシュタインの名で呼ばれるようになっていた。
リョーコさんはぼそっと独り言のように
"知っているっていうのは大事なんだよ。いつか選択を迫られたときにちゃんと答えを選ぶためにね"
と呟いた。この人はどんな人生を歩んできたんだろう?っとふいに考えてしまった。
その後は酒を交えつつ色んなことを話し合った。話すうちにリョーコさんがとても大人びているのに気づいた。責任、礼儀、道理、そういったものをしっかりと理解してゾンビを倒す、立派なヒーロー。将来子供の頃ああなりたいと憧れたような大人。
店に帰る。着替えてベッドに直行する。さっきのリョーコさんの言葉がよみがえる。アキはぐっすり眠っているのだろうか。酒が回りほろ酔い気分で気持ちよく眠りについた。



翌朝。
起きるとすでに九時だった。いつもはアキが七時に起こしてくれるはずだが…不安になってアキの部屋に向かう。どうしたのだろう、何かあったのでは?
部屋の扉をノックする。返事はない。思い切って扉を開けた。アキはベッドですやすやと寝ていた。寝坊か。
「起きろ。もう九時だぞ。」
うーんと言いながら半分目を開ける。そしてとんでもないことを言った。
「今日は気分が乗らないから店は休みにする。もう少し寝かせてください。」
すぐにまた目を閉じる。定休日がないのはこういうことだったのか。それにしてもオーナーの気分で閉まる喫茶店って。
アキの部屋を出てリビングへ向かう。久しぶりに自分で作った朝ごはんを食べる。バターをつけたトーストがいい感じに焼けて気分がいい。テレビをつけるとニュースで星座占いをやっていた。四位とうれしいんだうれしくないんだか中途半端な順位だ。そのままテレビを見ながらぼーっとしているとアキが起きてきた。時計の針は十時をさしていた。
「おはよう。朝飯作ろうか?」
とたずねると
「お願いっ。」
と眠そうに目をこすりながら答えた
ちょっと手が込んだものが作りたくなって市販のフランスパンを使ってフレンチトーストを作ることにした。親父が時々作ってくれた、卵をいっぱい吸ったふわふわなヤツだ。こんがり狐色に焼けて満足する。甘いにおいがただよう。
「いただきます。」
アキはそう言うとすぐにパクついた。みるみるうちにフレンチトーストが無くなっていく。
「おいしい。これ毎日作ってよ。」
目を輝かせて笑いながら言う。ちょっとうれしくなる。
その後いつもは夜にやる洗濯や掃除を二人で済ませると正午になった。アキがラーメン食べようと言うので近所のラーメン屋に行った。こってりとしたとんこつラーメンを食った。チャーシューが多くてうまかった。
午後は一階で過ごした。俺はアキが淹れたコーヒーを飲みながら昼飯帰りに寄り道して本屋で買った小説を読む。アキはというとギターを弾いていた。
水色のエレキギターだ。アンプから歪んだ、重苦しい音がする。
ゆったりとした時間が流れていた。一緒に何かするわけではないけれどもお互いの存在を確認できるようなそんな相手がいることが俺を満たしてくれた。恋人より近くて家族よりも遠いアキとの間に流れる透明な、でも寂しさを感じさせない空気。生きているという実感。

夕日が傾き始めた。アキは古いスピーカーでM.D.K.を聴いていた。すると急に立ち上がってテーブルを端の方に寄せ始めた。
「何するんだ?」
そう訊ねつつ手伝う。
「ちょっとね。」
といたずらっぽく笑う。何をする気だ?
アキは曲を変えた。一転してシンセが鳴り響くダンスミュージックだった。そして踊り始めた。ロボットダンスというのだろうか。リズミカルとは言い難いステップを刻んでゆく。背筋をピンと伸ばし、カクカクと手を動かす。切れのよいターンを決めたと思ったらピタっと止まる。歌がアキに寄り添っているのかアキが歌に寄り添っているのか分からない。窓から入る沈みかけた夕日の光の中で生物らしからぬ動きをするアキに俺は見とれていた。
「両親がね、社交ダンスやってたんだ。」
踊り終わったアキが言う。遠くを見るような目。
「七八年くらい前はそれがすごくかっこ悪く見えてね。こういうの始めたんだ。やってみたら面白くて結局今も続いてる」
「気持ち悪かった。」
そう言って俺はアキを見て小さく笑った。笑わなくちゃいけないと思った。
「ありがとう。」
アキがほほえんだ。オレンジの中で。



この店に来てから一ヶ月が経った。
今は朝の十一時。客が多くなり始める時間帯だ。カランカランとドアに下げられたベルが音を立てる。
「いらっしゃいませ。」
と言いながら客を見ると見知った顔だ。大学の護身術サークルで知り合った親友のテツだ。リョーコさんと妙に気が合うこいつがこの店に来るのはもう五回目か。
「お、しっかり働いてるじゃない。」
テツが笑いながら言う。
「来るなら一言言ってくれよ。」
席に案内しながら言う。
「まぁ別にここにくる必要はなかったんだけどコイツを渡すついでに行ってみようかなって思って。」
そう言ってファイルをカバンから取り出して俺に渡してきた。大方その中身の察しはついていた。俺は
「じゃあエスプレッソを頼む。」
というテツのオーダーを聞き、カウンターに戻る。とうとう来たか。
帰り際にテツが
「自分が分からないやつに他人は分からない。」
と意味深に言った。俺がきょとんとしていると
「ちょっとしたアドバイスだよ。」
手をひらひら振りながら歩いていった。
店が終わり自室に戻ってファイルの中身を拝見する。予想通りそれは格安アパートの資料だった。学校や駅に近い等々俺の希望に沿った部屋を探してくれたテツに感謝する。あとはバイト先を見つけるだけだ。
アキにそのことを伝えると
「よかったね。詳しいことが決まったら教えてね。」
と素っ気なく答えた。アキらしい。

それから色々準備するのに一週間かかった。その間、リョーコさんとテツ、アキの四人で道場で組手をやったりした。楽しかった。
この店での最後の夜、店の片付けをしていると、アキがドアの外をちらりと見て、
「ゾンビが来たわ。ここにいて」
と言ってきた。うなずきつつも
「俺、何も出来ないぞ。」
と言う。此処に来てからアキにより高度な護身術を教えてもらったり、道場で一人訓練したりもしてるが、まだまだ自分の身を護るので精一杯だ。アキは、
「大丈夫、大丈夫。」
なんて言いながら音楽をかけて、ダガーを持ってない手でドアを開け放す。
アキはゾンビが来るに任せていた。ロボットであるかのように曲にそって動く。離れる、近づく。震えて、静止する。ステップ、ターン。ゾンビがアキを取り囲む。言葉がでない。そこに生き物はいなかった。何も考えずただプログラムされたままにダガーをゾンビに刺し、抜く。振り向きざまに別のゾンビの腕を切り落とす。俺との距離を確かめながら。月明かりの下で。
「ふぅ。」
と息をつく。既にアキ以外に動くものはなかった。踊りを見守るのがこんなに疲れるとは。
「楽しかった。」
満足そうにアキが笑う。
「ありがとう。ダンス見てくれて。ほんとに会えてよかった。」
「こちらこそ。」
そうして夜が終わった。



次の日。
昼頃に店を出た。住宅街を歩く。見覚えのある小さな踏切にさしかかった。遮断桿は無いままだ。
俺にはそばにいてくれる誰かが必要だったのかもしれない。親父を失くして世界とのつながりを疑いそうになったときにそばにいてくれる誰かが。アキはそれを知っていたのだろう。そして何も言わず手をさしのべてくれた。生きる自信をとりもどすまでそばにいてくれた。
—カンカンカン—
下りるべき遮断桿がないのを見て何故か心が疼く。温かい日の光。頬をなでる風。
"やめたほうがいいよ。"
アキの言葉がよみがえる。やめたほうがいいよ?
この言い方は何か引っかかる。まるで何か知っているような言い方だ。アキの深紅の瞳に潜む物悲しさ。
今までアキは俺なんかよりたくましく生きていると思っていた。両親のこともちゃんと割り切って。
でも本当は違う。俺と同じで両親を亡くしたばっかりだったのだ。ただ俺を助けようという優しさで補っていただけだ。アキも俺を必要としていた?
見えない遮断桿は今まさに上がろうとしている。選択の時だ。
俺は踏み切りを渡らなかった。
猛ダッシュで店へと向かう。途中何回か人とぶつかりそうになったがはやる気持ちを抑えられない。
バタンっと店のドアを開けた。転がり込むように中へ入る。
アキは驚いて目を見開いていた。不思議そうな顔。
「二人でいよう。」
口をついてそんな言葉が出た。どんな言葉をかけようかいろいろ考えていたがアキをみるなり吹き飛んでしまった。
アキが黙っているのに耐えられなくなって、無駄に言葉を継いでしまう。
「あの、アパートは廃墟になってた。ゾンビにやられて。」
しばしの沈黙の後
「うん。」
アキはその瞳を涙で輝かせ、笑いながらはっきりとそう答えた。
ずっと二人寄り添って生きていこう。不幸のどん底の中、あの朝に出会った奇跡を大切にして。
アキがくれた幸せを今度は俺が返す番だ。アキがプロメテウスを探しに行くというなら何処へだって付いて行こう。
俺にはコーヒーの染み付いた何処へでもいける切手があるのだから。


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