ボートを渚に泊め、エンジンを切ると、静寂が闇を満たした。計器類をチェックし、煙草に火をつけていると、甲板を駆ける小さな足音が近づいてきた。運転室のドアが勢いよく開き、真っ白なワンピースを着た少女が、僕に飛びついた。
 「クレイ、ご飯!!」
 「そうだね、僕もお腹がぺこぺこだ。晩御飯にしよう、リリィ」
 湯沸し機能付のガスランプと、二人分のインスタントラーメンと、貴重な銀のフォークを持って、僕とリリィは裸足のままで船を降りた。足首辺りまで冷たい海水に浸かったが、構わず岸の方へ移動する。波で湿っていないところまで歩くと、僕たちは月明かりで砂塵の煌く砂浜に腰掛けた。上空には少しばかりの雲と無数の星とやや右上の欠けた大きな月が、目の前にはやむことのない漣の旋律を奏で続ける海が、後ろには地平線まで続く広大な砂漠があった。
 ”disaster”。天変地異や、高度に発達しすぎたが故の文明の崩壊で、砂漠と海とで覆われたこの星はそう呼ばれていた。しかし、かつて競いあうようにして高層ビルやタワーが乱立していた都市の数々は海に沈み、少なくはなかった緑も砂漠と化しても、全ての生き物がいなくなったわけではなかった。数少ない食料や資源を、時には奪い合って、この星にいる人間や動物達はしぶとく生きながらえていた。
 「あと一分」
 インスタント麺を入れ、お湯を注いでフタをしっかり閉めた円柱状の容器を見つめながらリリィが言った。僕は短くなった二本目の煙草を放り投げた。風に流されて飛んでいった煙草が、砂浜に赤い光を散らす。海水で濡れた素足はいつの間にか乾いていた。
 「まだあと三十秒残ってるよ。クレイはせっかちだな」
 一足先に自分の容器のフタを開けた僕を見て、リリィが不思議そうな顔をして言った。
 「ちょっと固めがいいの」
 「ふーん。よし、三十秒」
 リリィが嬉しそうにフタを開けた。僕は一生懸命に熱々の麺を頬張るリリィを横目に、周りを見回した。この辺は特に何かサルベージや回収出来るものも無いために、海賊が出ることもないだろうが、これまでこの星で生きてきて染み付いた、どんな時でも辺りを警戒するクセが僕をそうさせた。安全を確認し、再びラーメンをすすり始めた僕に、リリィが言った。
 「明日は雨だって。すごい大雨」
 リリィは俗に預言者と呼ばれている一族の末裔だった。言葉を預かる者。物や自然の声を聞き取ることが出来る人間。
 「また風から聞いたの?」
 「ううん、あの星から」
 リリィが夜空を指差した。その先にある赤く輝く星を、僕は返事を求めるように見つめた。当然のことながら何も返ってこない。
 「明日はどうするの?」
 「そうだなぁ、色々食料とか足りなくなってきたし、燃料補給がてらデラール港に向けて移動しよう」
 「やったぁ、港だぁ。どれくらいかかる?」
 「ニ三日もあれば着くよ」
 「ふふふ、リリィは楽しみだ」
 そう言ってにっこりと笑う少女に、僕は微笑み返した。無垢な心。僕に足りない、でも必ずしも必要ではない物の温かさを確かめるように。
 「さてと、ご飯食べ終わったし、船に戻って寝ようか。今日はちょっと疲れたんだ」
 「うん」
 大きな返事をして砂浜を駆けるリリィを追いかけるように、カップラーメンの容器を残して船に戻った。防弾仕様でシンプルな形の小さな船体に対しすこし馬力のありすぎるエンジンを積んだ、甲板とボックス型の運転席、寝室とトイレと洗い場と収納スペースのある船室から成るこの船は、僕よりずっと長い年月を生きてきたにもかかわらず、多少の不具合はあるもののまだまだ引退するには早いというくらいに元気だった。運転席から狭い船室に入り、一つだけあるダブルベットに二人で寝転がる。
 「おやすみなさい」
 「おやすみ、リリィ」
 灯りを消すとすぐにすやすやと眠り始めたリリィにタオルケットをかけて、その寝顔を見つめながら僕は眠りに落ちた。
 
 翌朝はリリィの言った通り土砂降りだった。どんよりと重苦しい灰色の雲から降り注ぐ、酸の強い滝のような雨の中を、僕は船を進めた。幸い風はさほど強くなく、大波にあおられる心配は無かったが、現在通過中の、海に沈みきらなかった都市の建物や機械の残骸などが海面から所々突き出している海域は、万一船が何かに乗り上げたりすると大変で、視界の悪い今の状況はそれなりに危険だった。ほんのささいなことでも見落とさないように、窓の外に目をこらしながら注意深く舵をきる僕にリリィが言った。
 「クレイ、ひま!何かすることない?」
 運転席の後ろの方に座るリリィの方に振り向かずに、僕は答えた。
 「うーん・・・それじゃ、いつも通り消耗品の数をチェックしてくれる?チェックが終わったら、結果を見て港で買わなきゃいけないものもリストアップしといて」
 「記録用紙は?」
 「倉庫の棚に入ってる。ちゃんと前回の隣に書くんだよ?日付も忘れないで」
 「うん、分かった!!」
 元気よく返事をして船室へと降りていく後姿をちらりと見て、すぐに僕は正面に視線を戻した。一人だけとなった運転室に、エンジンの駆動音すら忘れさせる程の激しい雨音が響き渡る。前方約十メートル先に金属の太いパイプ群を見た僕は、船を右に旋回させた。海図と自分の位置を表示しているモニターをこまめに確認しながら、速度を抑えて障害物の間を縫うようにひたすら船を進めていると、リリィと出会った時のことがふと頭をよぎった。
 
 ”お兄ちゃんは誰?リリィをさらいに来たの?”
 港からやや離れた、沈没をまのがれた都市の瓦礫群の中で何か使えるものがないか探索している途中に、偶然出会った少女が言った最初の言葉はそれだった。ボロボロの服。傷だらけの身体。明るい茶色の長い髪。強い意思を秘めた碧の瞳。僕は思わず銃を向けるのを忘れてしまった。
 ”いいや、探し物をしてるんだ。君は何故ここにいるの?”
 ”こっそり逃げ出してきたの。リリィを奪い合っている間に”
 リリィの言っていることの意味がよく分からず、首をひねる僕を気にすることなく、リリィは続けた。
 ”お兄ちゃん、クレイって言うんだね”
 僕は驚いてリリィに問いかけた。
 ”なっなんで分かったの?”
 ”その子が教えてくれたの”
 リリィが指差したのは、僕が腰に提げていた拳銃だった。拳銃とリリィを交互に見て、ようやく思考が繋がりだした僕は言った。
 ”そうか、君は預言者なんだね”
 ”うん、皆そう言ってる”
 ぎこちない笑顔を浮かべてリリィは答えた。その笑顔にどことなく諦めに似た苦しさを見た僕は、さらに思考を重ねた。預言者、さらう、奪い合っている間に・・・。預言者は貴重な存在な上に、利用価値は高い。この少女はどうやら相当大変な人生を送って来たらしい。
 ”ねぇ、リリィが探し物を手伝ってあげようか?”
 僕から危険な匂いを感じ取れなかったからか、リリィは僕に人懐っこい様子で言った。無邪気な笑顔。
 ”じゃあ、お言葉に甘えて手伝ってもらおうかな”
 都市の残骸の中をほとんど知り尽くしていたリリィに案内してもらいながら、僕はまだ綺麗なままで残っている食器や貴金属、修理すれば動きそうな機械類を集めた。海に沈みきらなかった瓦礫の上で隠れて過ごしてきたリリィは、歳のわりにしっかりしていて、生き延びるために何が必要なのか無意識の内に理解しているようだった。使ったり売ったり出来そうな物を一通り船へと運び終わり、いざ出発しようというところになって、意外な訪問者を見送ろうとするリリィに僕は言った。
 ”君も来る?”
 大きく目を見開いた後、リリィは満面の笑みを浮かべて
 ”うん!!”
 と言って船に飛び乗った。

 あれから一年近くが経ったことになるが、僕は未だに何故自分がリリィを拾ったのか分からずにいる。預言者は確かに利用価値が高いかもしれないが、僕にとっては宝の持ち腐れでしか無い。しかも、預言者を利用しようとする者達から追われるリスクだけはしっかり背負わされている。そんな厄介者でしかないリリィを売り飛ばすわけでもなく、面倒を見続けているのは何故なのか。救済?同情?自分に似合わない理由を挙げながら薄暗い雨の中を進んでいく。一時間程度そうしてぼんやり考え事をしながら運転していると、急にリリィが船室から駆け上がってきた。手には真っ赤な傘が握られている。
 「どうしたの?リリィ?」
 「ちょっと」
 僕の方を見向きもせずに、リリィはそのまま運転室から土砂降りの外へと飛び出した。この星の雨は肌に触れるのを避けたほうが良い位に酸が強く、リリィが心配になった僕は船を停め傘を持って運転室を出た。甲板で傘をくるくる回しながら空を見上げるリリィに訊ねる。
 「いったいどうしたんだい?濡れたりすると大変だよ。中に入ろう、リリィ」
 「大丈夫」
 「そう言ったって・・・」
 「いいからクレイも見てて」
 興奮した様子のリリィを見て説得するのを諦めた僕は、リリィと並んで空を見上げた。赤と紺色の傘がモノクロの世界にぽつんぽつんとその存在を控え目に主張していた。数分もしないうちに急に雨がぱたりとやんだ。
 「あっ!」
 上空を覆っていた灰色の雲に大きく亀裂が入り、燦然と輝く太陽が顔を出した時、僕は思わず声を上げてしまった。紺碧の空に、綺麗にグラデーションのかかった虹の輪が現れたのだ。虹は見たことあっても、虹の輪を見たのは初めてだった。
 「すごい・・・」
 そう呟き、七色の円のはっきりとした輪郭を心に刻もうとする僕に、リリィが得意げに言った。
 「太陽が教えてくれたの。いいものが見れるって」
 「こんなの始めて見た。すごいな・・・これもリリィのおかげかな」
 「リリィは役に立った?」
 「うん、とってもね」
 「良かった」
 笑いながら自分を見上げるリリィの頭を撫でながら、僕はその笑顔に答えを見つけたような気がした。

 明るい日差しの下を引き続き僕達は移動し続けた。雨上がり特有の匂い。水滴が乱反射して輝く廃墟。もうそろそろ昼ご飯にしようかと思っていた時、甲板の縁に腰掛け水飛沫を見ながら下手な口笛を吹いていたリリィが突然顔を上げ、運転席の僕に向かってエンジン音に負けないよう大きな声で叫んだ。
 「クレイ!誰かがリリィを呼んでる!」
 「僕はどうすればいいの?」
 「右に曲がって!右に!」
 その後もリリィの指示通りに船を進めると、生活感のある小さな建物に辿り着いた。水没しなかった高層ビルの最上階の一室を人が住めるように手を加えたらしいその建物の入り口の前に船を停め、すぐに船を降りようとするリリィを一人で行かないよう引きとめ、ちゃんと動作するか確かめた拳銃を腰のベルトにしっかりと提げてから、僕はリリィの手を引いて船を降りた。ガラス戸を横に引いて、事務所風の建物の中に入ると、奥のカウンターに座る男が声をかけてきた。
 「いらっしゃい」
 五メートル四方位の小さな部屋の壁に隙間なく掛けられた鍵の数々を見て、僕はこの男が鍵屋だと認識した。
 「買いに来たのか?それとも売りに?」
 男が続けて訊いてきた。鍵屋は文字通り鍵を売る人間のことだ。数少ない人が住める場所を鍵とともに売る。正確には情報を、だが。僕達のような船持ちではなく、どこかに定住しなければいけない人間にとって、住み良い環境を探し出すのは簡単な事ではなく、そんな人々に鍵屋は廃墟の一室などを売ったり、逆に情報を買ったりして生計を立てていた。また、鍵屋から鍵を買って生活する人々を鍵っ子と言い、この惑星の住民の四分の一程度が鍵っ子と推定されていた。
 「すいません、別に特に用事があって来たわけじゃ無いんです。デラールまで移動している途中に偶然見つけて」
 「そうか。ま、せっかくだから少し見て行ってくれよ。近頃訪ねてくる奴がいなくて寂しかったんだ」
 待ちきれないという様に繋いだ手を引っ張り僕を見上げるリリィ。僕は逡巡したが、三十代後半だと思われる男の表情から他意はないと判断し、繋いだ手を離した。熱心に壁の鍵の一つ一つを観察するリリィを横目に、僕は男とニ三歩距離を置きつつ世間話をした。十分ほど経って、そろそろ店を出よう思い始めた頃、リリィが自分の身長より高いカウンターに飛びついて言った。
 「おじさん!あの鍵を見せて!」
 「ん?どれだ?お嬢ちゃん」
 「あれ」
 リリィの指の先にある数本の鍵を見て首をかしげる男。
 「リリィ・・・」
 「ちょっと失礼」
 そう言って男がリリィを抱き上げ、カウンターの内側へと抱っこした。
 「ほら、どれがいいんだ?」
 「これ!」
 男の腕の中で壁に掛けてある鍵を手に取るリリィ。僕はその時、男の腰に提げられた拳銃にはっとしたが遅かった。
 「そうか、じゃ、暴れるなよ」
 男が拳銃を抜き、リリィの頭に突きつけた。慌てて拳銃に手をかけようとする僕に男が言った。
 「妙な真似するとコイツの頭が吹き飛ぶぞ」
 「無駄だよ、おじさん。クレイはリリィと関係ないもん」
 「向こうはそう思っていないみたいだけどな」
 拳銃から手を離し、固まったままの僕を不思議そうな目でリリィは見た。僕は自分の行動を理解しきれずにいる自分を忌々しく思いながら、男を睨みつけた。”関係ない”・・・その言葉に痛みを感じたことを誤魔化すように。
 「クレイ、どうしたの?」
 「・・・」
 僕を見てリリィは少しの間黙り込んだ後、何かを納得したような顔をした。動けないままの僕に男が口を開いた。
 「さぁ、銃をこっちによこせ」
 言われるままに銃を男に投げようとしたその時、リリィが言った。
 「リリィは死なないよ。だってこの子、弾が入ってないもん」
 「は?」
 驚く男と僕。一足先に我に返った僕は、銃を抜いて男に向けた。
 「おい、ちょっと待て!待ってくれ!」
 「その子を離せ」
 「分かった。分かったから撃つのは待ってくれ」
 男が腕を解き、リリィが自分のもとへ駆け寄ってくるのを僕は待った。
 「邪魔したな」
 そう言って踵を返して店を出ようとする僕とリリィを男が呼び止めた。
 「おっおい!何もしないのか。何か奪っていったりとか」
 「何も無いからこんな真似したんだろ?空っぽの銃で。そんな相手に何を要求するんだ?」
 「・・・」
 黙る男。その様子をちらりと見てから僕は店を出た。船のエンジンをかけ出発しようとした時、店から男が飛び出してきた。
 「おい!」
 「まだ何か・・・」
 言い終わらない内に男が何か放り投げてきた。慌ててキャッチすると一つの鍵だった。羽根の形をした金色の小さな鍵。先ほどリリィが興味を示していたものだ。
 「貰ってくれ。お詫びだ」
 「何の鍵?」
 「分からない」
 「は?」
 「ずっと前、偶然見つけたんだ。何の鍵かさっぱり見当つかないが、何故か捨てられなくてな」
 「お詫びねぇ・・・ま、ありがたく貰っとくよ」
 店を離れてしばらくすると、リリィが運転席にやってきた。
 「クレイ!さっきの見せて!」
 言われるままに鍵を渡すと、リリィはその表面を優しく撫でた。
 「この子がリリィを呼んでたの」
 「その鍵が?そうだ、リリィ、それが何の鍵か分からないかい?」
 「ちょっと待って」
 そう言ってリリィは熱心に鍵を見つめた。僕が煙草に火をつけ終わると、リリィは口を開いた。
 「秘密だって」
 「なんだそりゃ」
 僕が笑うのに合わせてリリィも笑ったが、すぐにリリィが俯いたので、僕は不思議そうに訊ねた。
 「どうしたの?」
 「ごめんなさい。リリィはさっきクレイにひどいことを言った」
 僕は思わず目を見開いてしまった。
 「驚いた。リリィは人の心の声も聞けるのかい?」
 「違う」
 リリィは首を振り、僕の目をしっかりと碧の瞳で見据えながら言った。
 「クレイだから」
 僕はその時、何かが満たされたような、でも申し訳ないような、変な寂しさを覚えた。
 「そうか。ありがとう、謝ってくれて」
 頭を撫でると、リリィは嬉しそうに微笑んだ。
 「じゃ、リリィに一つ質問」
 「何?」
 「リリィは死のうと思ったことは無いの?これまで大変だっただろう?どうして生きようと思ってこれたの?」
 僕の問いに少しも迷うことなく少女は答えた。
 「いつでも死ねるから。クレイは?」
 「僕は・・・」



 「おい、柿下。次の文読んでみろ」
 黒板の前に立つ木本先生の言葉で、僕は目を覚ました。今はニ限目の英語の時間。授業が始まってから約十五分が経っていた。
 「すいません、寝てました」
 「分かってる。次から気をつけろよ」
 「はい」
 そう言って僕は手元に視線を落とした。今日の英文のテーマは環境問題だ。開かれたままの電子辞書には、”disaster 幸運の星を離れてが原義・・・”と本文七行目の単語が引かれていた。ため息をついて顔を上げると、右斜め前の席の山本紗枝が、こちらを見て笑いながら指を三本立てていた。どうやら三分間ぐっすりだったらしい。山本に苦笑いで返事をし、僕は窓の外の真っ青な空を眺めた。何かを探すように。


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