ぶうぅぅぅぉぉぉぉっ、たったっ、たったっ、と高速で回転するその機械は周囲の空気を震わせていた。
ぶうぅぉぉーというのは機械自体が床を振動させながら奏でる低い音で、たったっというのはその機械の中で暴れる“中身”がフタに当たって跳ねる音だ。リズミカルなんだか不規則なんだか分からないが、聞いていると不思議と心が躍り出してくる。
大きさは小さな子供一人分くらいしかない。白いプラスチックの立方型ボディと薄緑色の丸いフタをしたその機械は軽快に一人で踊っていた。跳ねるそのフタの隙間から時折“中身”が覗く。
飽きることもなく僕はそれを見続けていた。新しい機種みたいにデジタル液晶はついてない、だからこそ逆にいつ終わるか分からない作業の終わりにワクワクするのだと思う。
狭いリビングルームに新聞紙を敷き詰め、家族用の低く少し大きい四角テーブルの上にも新聞紙を敷いて、僕は今か今かとその時を待っていた。
リビングの中心でふんぞり返って唸っているその機械はまだウォンウォン言っていて僕を焦らす。
だけど僕は長年の経験で、だんだんとフタの跳ねる勢いが弱くなったり、振動が小さくなってきたことから終わりが近いことを感じ取っていた。
ジリリリリリリリリリ!
急に黒電話のような甲高い音が響いた。“中身”が出来たことのお知らせ音だ。
機械は作業が完了しても回り続ける。回り続けなければ“中身”が大変なことになってしまうからだ。
音を聞きつけて隣のソファーでテレビを見ていた親父が顔をこちらに向けた。
「もういいぞーそっちに出して」
親父が顎でテーブルの上に置かれた1m×60cmくらいの浅い木箱をさした。ただの枠と底だけのその木箱には白い片栗粉が敷き詰められている。“中身”が引っ付かないためだ。
エプロンを着けた母がキッチンから腕まくりをしてリビングにやってきた。さっきまで携帯ゲーム機をいじっていた弟も一緒だ。
彼らは僕が木箱に“中身”を移すのを待っている。
僕は回り続ける機械のフタを開けた。少し熱い水蒸気がもわーと立ち昇る。香ばしい匂いがリビングを満たす。
白い機械の中の灰色の回転釜の中で機械よりもずっと純白の“中身”はぷよんぷよんと回っていた。
ほんの少しのぶつぶつを除けば表面は美しく滑らかだ。
アミロペクチン100%のその物体を人は“おもち”と呼ぶ。
餅つき機MtM-04の中で出来たての餅は激しく回転していた。その重さはゆうに1Kgを超える。しかも滅茶苦茶熱い。
二の腕まで袖を捲り上げて僕は餅つき機の横のアルミボウルの中の冷水に手を浸した。
母が木箱の縁を寄せる。
僕は暴れる餅をさっと掴んだ。そのまま持ち続けていたら確実に火傷するであろう熱さだ。慣れと水のおかげで火傷をする前に木箱に移す。
ちなみに素人はこの熱さと重さに耐えかねて普通にそのまま木箱へ餅を放り込むんでしまうのだが、ベテランたる僕は空中で餅を回転させて木箱に着地させる。その行為の目的はスクリューの早期回収だ。そもそもこれが出来ないと餅を移す役割などやるべきではない。
簡潔に言うと餅つき機は米釜の底にある手の平くらいのスクリュー一つでもち米を餅に変えるのだが、そのスクリューは連続使用による故障を避けるために容易に外れるようになっている。そしてそれが取り出した餅に付いてくるのだが、それを下にしたまま木箱に置いてしまうと後で回収するのが面倒だし、幾らか引っ付いた餅が勿体無くなるのだ。
取り出したばかりの熱々の餅からさっとスクリューを外すと第二の戦いが始まる。もう一度手を軽く水につける。
木箱に落とされた餅は重力と粘性の間で変形していく巨大な塊となる。餅つき機から取り出した餅が可変性を失うまで約五分。
僕と母と弟の戦いは始まった。
まず右手で手頃なサイズ分だけ引っ張る。次に伸び始めた餅を右手とは逆の方に左手で引っ張る。そこでさらに右手で回転を加えるとぷつんと右手の餅と本体の餅の塊とが分離される。
切り離した餅を軽く手でこねて紡錘形にすると、しわを一点に寄せていく。餅の表面にあるしわや亀裂を餅の内側に入れていくような感じだ。最後にそのしわを入れ込んだ一点を撫でるようにして引っ付け、そこを下向きにして木箱の端に並べる。
これを手に取った餅が固くならない間にしなければならない。手に取った餅は意外とすぐ固くなってしわが直せなくなるから結構素早くやらないと残念な餅が出来上がってしまう。
最初の切り離しで失敗することも意外と多く、解決策として母と弟は、母が切り離し役で弟がこねる役でやっているようだ。僕は一連の動作を一人で淡々とこなしていく。
塊の方の餅も減れば減るだけ冷めていくので後半は綺麗な餅を作るのが大変になるのがもどかしい。
一回のこの作業で塊一つから小さな丸餅は三十個くらい出来る。
木箱に並んだ丸餅を見て僕らは満足げに微笑んだ。これで二箱目。
ついでに塊の最後で綺麗にならず余った餅をテーブルに置かれた小皿の醤油に付けて食べるとこれがまたとんでもなく旨い。固くなったといっても食べる分で言えばつき立ての餅なのだから、これが餅なのかというぐらいやわらかくてふんわりとしているのだ。もち米の甘さとピリッと効いた醤油の辛さが口の中で絶妙なハーモニーを奏でた。
「やっぱ×××の作った餅は綺麗やんなあ」
木箱に並んだ餅を見ながら親父が言った。親父から見て前列、つまり僕と親父側に並んだ丸餅が僕の丸めた餅だ。テーブルの向こう側に並んだ餅が母と弟の丸めた分。そんなに言うほど差は無いのだが、少しだけ嬉しくなる。
「ばあちゃんの弟子だからね」
僕はそう言うと、親父は朗らかに笑った。
「じゃっどじゃっど、ばあさんもそげん感じやった」
僕は誇らしげに手についた片栗粉をパンパンとはたいて落とした。
「でしょー」
はははとリビングに笑い声が響きあう。のどかな正午前だ。
「はいはい。次もう持ってくるから準備しといてね」
優しく微笑む母が次のもち米を持ってくるため席を立った。
弟は余りでもらった餅をくるくる丸めながら伸ばして細長い餅にしていた。消しゴムのかすを丸める感じだ。
「兄ちゃん兄ちゃん」
「ん?何?」
弟は手の平にその細長い餅をとぐろを巻くように重ねて見せてきた。
「うんこー」
「おっ、また白いうんこか」
ちなみにそのネタは毎年僕か弟のどちらかあるいはどちらもやるネタだ。ちなみどのネタ餅もレンジで加熱すると普通に膨らんで他の餅と遜色ない見た目になるので食べる時には何も問題ない。
「いしてかっ。やめんかもう、たべもんで遊ばんと」
と言ってる親父もたまに変な形を作るのだから何の注意にもならない。そもそも子供時代にネタを仕込んだのは親父だ。
うんこ型の餅を木箱の隅に置くと弟は手を洗いに出て行った。
僕はスクリューを冷水で丁寧に洗うと、餅つき機の底にはめ直した。
キッチンでは大きな鍋で母が何合ものもち米を蒸しているはずだ。
甘い湿り気を含んだ芳醇な香りが漂ってきてリビングを満たす。
手持ち無沙汰にテレビを見ると親父の見ているのは特別編成のお笑いバラエティ番組だった。この時期はスペシャルとかが多くなる。
そう、もうすぐ年末。毎年毎年、年末年始はやってくるのに人はそれをお祭り騒ぎで、あるいは厳かに家族と過ごす。いや毎年来るからこそ人は一年を振り返り、新しく始めるために年末年始を祝うのかもしれない。
そしてその年末が近づくと我が家ではこうして餅をつくのである。それが我が家の季節のイベントだ。大したことでもなければ何か特別な日に決まってやるわけでもなく、ただ年末が近づいて、家族全員がやるかという気分になったらやるだけの行事。
それでもこの餅つきは僕の生まれるずっと前から父は毎年必ずやっていたと言う。祖父母も、曽祖父母も、ずっとずっと途切れることも無く、途切れるような大仰なことでもないから、続いてきた。
その年その年で適当な量を作って、朝ごはんにしたり、年明けには鏡餅に変わる。
祖母が生きていた頃は父の実家の方の大きな家の縁側で一杯作っていた。自然と人とが調和して生きる田舎の一角で作られた餅はご近所にも配られていたりもした。
今はうちと親戚で食べる分だけを作る。量こそ減ったかもしれないが脈々とその季節行事は今でもこんな近代的な街の中で暮らす僕らの家に受け継がれているのだ。
僕は昼下がりのまどろみの中で夢を、古い懐かしい記憶を、見た。
しわが増えてほとんど皮と骨だけになった晩年でも祖母は真冬になると田舎に僕達を呼んで餅を一緒に作った。
縁側にいくつも木箱をならべて、祖母は大きな鍋でもち米を蒸し、餅を作る一連の作業を仕切りこなしていた。
僕は初孫ということもあってか特に可愛がられていた。まだ幼稚園か小学生低学年かの頃、毎年僕は祖母の隣で餅を一緒に作った。
「ほら、ここんとこをきゅって取って、くるんってするんよ」
手品のように高速でする作業を僕に説明する時だけはゆっくりと丁寧に見せてくれた。
「ばあちゃんばあちゃん、こう?」
「そーそうそうそう。××ちゃんはうんまかねえ」
ばあちゃんは僕をちゃんづけで呼んでいた。子供心に一生懸命、楽しく餅を作っていた僕は着実に祖母の技術を習得していた。技術と言うほど大げさでもない。ただ乾いた後にひび割れないように餅を丸めるコツだとかそんなこと。
一番難しかったと記憶しているのはあんこ入り餅を作る時だった。
ボウルには粒が少し残ったあんこの山が入っていて、それをつきたての餅と上手くドッキングさせるのだ。餅をいったん平べったくピザ生地のようにしてからあんこが漏れないように丸めなおすのだから綺麗に作るのは結構難しい。
一方が薄かったりすると丸めてる途中であんこがこぼれてぐちゃぐちゃになってしまう。そうなればその場で食べるしかなくなる。それはそれでおいしいのだが。
ボウルの中のあんこは温いと悲惨なことになるため冷蔵庫で冷やしたものを使う。だからボウルから一掴み取り出すときは手がひんやりとする。その一方で餅は熱々だからそのギャップが手の感覚を狂わせるのも障害の一つだった。
祖母の編み出した方法はいたってシンプルだった。餅をへこます、あんこを乗せる、包む、と言う作業を高速に済ませるだけという力技。といっても正確にはその作業一つ一つに小さなコツがあり、繊細さと大胆さの両方が必要となるのだが余りにも感覚的なので言い表せないほどだ。
とにかく数年もやっていると僕は自然とそれを身につけた。祖母が亡くなる前だったから小学校三年生の年の瀬だっただろうか。
それなりに美しいあんこ餅を作れたのは祖母と僕だけだった。
「XXちゃんはあんころ餅も綺麗に作れるようになったねえ」
「うん!」
僕が楽しくやっているのを邪魔しないためか単に作業に飽きたのか、その時も親父は祖父とコタツでテレビを見ていた気がする。母は祖母からもち米の蒸し方を学びその実践をしていたと思う。弟は叔父とどっか遊びに行っていた。
僕と祖母だけで餅を作っていたのだ。冬枯れの庭木を見ながら縁側に並んで座って。
「こいならXXちゃん一人でも作れっどなあ」
「ほんとっ?」
「ほんとよほんと、安心して任せられるっとよ」
「えへへー」
白い粉のつくか細い手で祖母は僕の頭を撫でた。
「ほんとうまくなったねえー」
しきりに祖母は感心していた。その目はひたすらに優しく、嬉しそうだった。
僕もなんだか嬉しかった。
横目で見ていた両親や祖父も微笑ましげに僕と祖母を見ていた。
温かい白い餅に包まれた冷たいあんこは餅の中ではすぐに温かくなっていく。
あんこ餅が特に大好きだった。
祖母の作った最後の餅を正月に食べた年、祖母は亡くなった。
泣いた。とっても泣いた。
子供心でも泣いた。
祖母が亡くなってすぐに祖父も優れなくなり、実質実家には誰も住まなくなった。住んでいたのは居ついた野良猫とか虫とか。
広い縁側での体験は思い出に変わっていった。
あの家で紡がれていたありとあらゆる季節のイベントが祖母の死後断絶していった。
瓦屋根の上高くに鯉のぼりを上げなくなり、手間のかかるちまきはおすそわけされるものに留まり、夏のお泊りも無くなり、川遊びも無くなり、田植えも稲刈りも無くなり、田舎での日常が僕の日常から消えていった。
その年の十二月下旬。親父が、親を亡くし一番辛かったであろう親父が、言った。
餅を作ろう、と。
僕は真っ先にうん、と言った。母も弟ももちろん頷いた。
一つだけ季節のイベントが残った時だった。
餅つき機を実家から持ってきて家のリビングで餅をついた。
「僕がやる」
餅を形作る時、気がつけば僕はそう言っていた。
「そうか、任せたぞ」
あの時は親父は祖母と同じ目で微笑んでいた。
親父は僕にやったことの無かった餅つき機からの餅の取り出し方なども教えて任せてくれるようになった。
丸餅を作るのも、あんこ餅を作るのも僕が一番綺麗だった。師匠が優秀だったんだから。
毎年作った。誰かがわざわざ作ろうと言い出すことはなく、いつ作る?だった。作るのは当たり前だったから。
あんこはいつでも餅に包むと温かくなる。噛んだ時の甘い幸せ感はあんこ餅が一番だ。
だからあんこ餅は僕しか上手く作れなくても毎年お願いして作らせてもらった。日持ちがしないからそんなには作れないけど、どうしても作りたかった。
時は流れて僕が高校生になっても我が家は餅を作り続けた。
わっはっはっはと親父の笑い声がリビングに響いた。漫才がウケたのだろう。
僕はその大声に目を覚ます。昔の夢を見ていた。思い返すと少し切なくなるけど幸せな思い出。今につながる大事な記憶。
どたどたと足音がした。
蒸し風呂敷に蒸したてのもち米を抱えて母が走ってくる。あれはあれで火傷も怖いし大変な作業なのだ。数時間にも及ぶ下準備が必要なもちを蒸すという作業を母は毎年文句も言わず一人でやっている。それは僕が餅を握る理由と同じ理由からかもしれない。
僕がフタを開けて、母はもち米を機械に入れた。
「あとよろしく」
「はいはい」
僕はタイマーをセットして餅つき機を回し始めた。
親父も次はやる気のようで腰を上げた。弟もまたリビングにやってきて準備を始める。
さあ袖をまくって次の準備をしよう。
…次はあんこ餅だからいっそう張り切るんだ。
僕にはどんなに冷え切っても温かくしてくれる餅がある。
どこまでも温かい“おもち”が。
そして逆にあんこは餅を甘く幸せなものにしていくのだ。
来年も、そのまた来年も、餅をつこう。
僕が家族を持つようなことがあればそこでも餅をつこう。
その時は僕が“おもち”になる番だろう。
この季節のイベントはいつまでも続いていくんだ。つながっていくんだ。
ジリリリリリリリリリ!
“家族”が一つになる音がした。
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