「龍、起きんねー!」
 母の声で目が覚める。窓から差す光の眩しさに気づく。
 時刻は7時半。今日も目覚ましは役に立たなかったと見える。
「龍、ごはーん!」
「はーい!今行くー!」
 俺は眼鏡をひっつかみ、ベッドから起き上がった。


 階段を降りてダイニングに出る。食卓にはすでに母と妹が居た。母はせっせと味噌汁を用意している。妹の美虎はつまらなさそうに新聞をめくっている。
「おはよう、龍」
「うはよ」
 母が味噌汁を置くついでに声をかけてくる。気のない返事を返す。
「ゆうべ眠れた?」
「眠れたけど、なんで?」
 母の質問に答えつつ、美虎の新聞を奪い取る。たいした記事はないみたいだ。
「お父さんうるさくなかった?」
「あー…まあいつもの事だし、馴れたよ」
「ホントかよ。あんなの馴れるとかいう問題じゃないでしょ」
 美虎が口を挟む。
「こっちはほとほと参ってんのよ。あたしが何言っても聞かねんだから」
「母さんも困ってんの?」
「まあ困ってるというほどじゃないけど…でも美虎は来年受験生だしね」
「とにかくアニキの口からも一言言っといてくれよ」
「いいけど。お前口に物入れて喋るのやめんか」
 父は毎年、夏になると荒れる。毎日夜遅くに帰ってきて、一晩中酔っ払って騒いでは、朝早くにドタバタと家を出ていく。
「まあ会社も忙しい時期なんだし、しょうがないんじゃないの」
「それがあたしらの生活リズムを乱す言い訳にはなんねーっつーの」
 反論が突き刺さる。確かに、少しは歩み寄りを求めてもいい。
「わかった。今夜父さんと話をするが」
「サンキューサンキュー。しかし考えてみりゃいつ寝てんだろ、あのオヤジさんは」
「電車の中とかかね」
「それも心配だよねぇ」
 飲み干した味噌汁のおかわりを母が注ぐ。そこへごはんを投入して、一気に掻き込む。
「アニキこそ行儀の悪い食い方してんじゃねーよ」
「何を言うか!うまいんだぞ、これは」
「理解できましぇーん。じゃ、ごっそーさん」
 言うと美虎は階段を駆け上がり、部屋へ戻っていった。
「あれ?そういやあいつ、学校は?」
「今日から夏休み」
「ああそうか…いい身分だわ」
「普段はあんたのほうがサボっとるがね」


「三島くんって、ごはん食べるときもいつも一人だよね」
 面倒なのにつかまった。昼前の講義が終わり、食堂へ向かおうと立ち上がった矢先だ。
「まあね」
「みんなと仲良くしようとは思わないんだ?」
「まあね」
「高校のときはそんな感じじゃなかったのに」
 水沢は高校時代からの同級生だ。当時から何が楽しいんだが、世話好きな言動が目立つ奴だった。それがウケて、昔も今も友達は多いように見える。
「つまんなくない?」
「まあね」
「どっちよ」
「好きな方でいい」
「話聞く気あるの?」
「食堂行っていいかね?」
「…いいよ」
 拗ねたように低いトーンで言うと水沢は自分からその場を離れていく。俺はまっすぐ食堂に向かった。


 深夜。父が帰ってきたらしい音を聞きつけ、俺は父の部屋の扉をたたく。
「父さん、話がある。入るよ」
「お、龍一か。入れ入れ」
 短い会話の後に扉を開く。父はソファに座り、焼酎を手にしている。テーブルを挟んで向かいのソファに腰掛ける。
「久しぶりだなあ、お前の顔見んのも」
 言うと父はニカッと笑う。
「最近は父さんがほとんど家にいないからね」
「まあそれはいい。話ってな何だ?」
「父さん、夜中うるさいってよ。美虎が文句言ってたよ」
「ああ?なんだあの野郎、文句あんなら自分で言いに来いっつーの」
 眉をひそめつつ、焼酎を飲み下す。
「言ったけど聞かなかったって言っとったぞ」
「え?覚えてねーな」
「それと父さんいつ寝とんの?」
「ほとんど寝てねーんだわ。家でも少しは寝るがあとは移動中だな」
 父は眉をゆがめて無造作に生えた髭を指でこする。
「うちでもちゃんと寝たほうがいいって…クマ酷いよ」
「まあ善処するわ」
 言うと父はヒヒヒと声を上げて笑う。
「寝てれば美虎からも文句言われないんだし」
「つっても呑まずにはやってらんねーんだよ」
「呑むなとは言わないけど、歯止めを利かせんとさ。仕事の調子が悪いの?」
「ウン、いまいちなんだよなーこれが…まあ、なんとか仕上げっけどよ」
「まあ、あんまり無理はせんほうがいいと思う。もう50なんだから」
「何を言うか。生涯現役だこっちゃあ」
 父はまた笑って、グラスの焼酎を一気に飲み干す。
「龍はどうだ、学校楽しいか?」
「まあそれなりかね。講義はぜんぜん面白くないけど、セミナーは楽しい」
「友達いんの?」
「おらん」
「彼女は?」
「いるわけがない」
「ハハハハ!それでこそオレの息子だ。まあ、今のうちに楽しくやっておけ」
「そうするわ。じゃあ、おやすみ」
「おう」


 部屋を出る。人影に気づく。
「この様子じゃあダメだなこりゃ」
 美虎は唇を歪めて舌打ちをする。
「盗み聞きはよくないぞ」
「うっせ。まあサンキューなアニキ」
「いいけどよ。お前寝ないの」
「夏休みの初日に徹夜しないほうが基地外だろ」
「それは極論では…」
 不意にギターの音が鳴り響く。
「日本酒を飲んでいる〜♪弱音吐いてゲロ吐いて〜♪」
 やがて歌声が重なる。
「やっぱりな…ったく焼酎だろうがよ、てめえが飲んでんのは」
 そう吐き捨てるとスリッパの音を立てて美虎が歩き出す。
「お前、猫背直したほうがいいよ」
「うっせ」


「何がしたいのよ?」
 ハヤシライスが載った盆をテーブルに置いて尋ねる。
「私の勝手でしょ。迷惑?」
「いや、いいけど」
 言うと水沢は正面の席にうどんを置いて座る。その間も、目は俺を捉えている。
「ほんとどうしたんよ」
「別に、ちょっと興味が湧いてね」
「は?」
「三島くんって一人でいるのが好きなんでしょ」
「そういうわけじゃない」
「というより、型にはまらないのが好きって感じだよね。ちょっとおもしろいかもって思ったんだ」
「卑屈なだけだよ」
「どういう意味?」
「俺が受け容れられるわけがないってことはわかってんでよ」
 水沢はわずかに眉を動かす。
「誰だってそうでしょ」
「そうか?」
「簡単に信用関係なんて築けるわけない。それはみんなわかってて、距離を見極めながら人付き合いしてんだよ」
「茶番だわな」
「そうとも言うけど」
 言うと水沢は薄笑いを浮かべる。
「なんね、気持ちわりい」
「我が強いなぁと思ってね」
「まあここまで浮いちまったから、もう意地よ」
「バカみたい」
「バカでいいわ」
「思ってたより、喋れるもんだ」
 水沢はまた笑うと、空になったうどんの器の前で手を合わせる。俺も平らげた皿の上に匙を置き、盆を持って立ち上がる。


「アニキ、覇気がねーぞ」
 夕方の時間を食いつぶすように部屋のベッドに寝転がっていると、美虎が仁王立ちで見下ろしてくる。
「いつもないがね」
「いやなんというかヌルいんだよなー…」
「ヌルい?」
「こう、すべてを撥ねつけるような気概がない!所謂ボッチオーラがない!どうしたんだ友達ができたのか!?」
 美虎の目が見開かれ、声のトーンが上がる。
「いつになくテンション高いなあ」
「いやまぁ、気まぐれだよ」
 言うと美虎は頭を掻く。
「ときどきバカみてーになんねーとやってられなくてよ」
「いきなり我に返られても困るわ…」
「でもまあ違和感を感じたのはホントよ?なんかあっただろ」
「…ないわけじゃないな」
 実際、水沢とまともに話せたのは想定外の事だ。つまらない奴と一蹴されるつもりだった。少し見方が変わった。
「いけないなー、アニキにはおろかものの異端者であってもらわなきゃ」
「無茶苦茶なこといいよる」
「日和ってるアニキなんて、硬派じゃねーよ」
「…それのなんが悪いのよ」
 不意に窓の外から、哭ぶような声が聞こえてくる。続いて、リズミカルな太鼓の音。俺も美虎も、ぼんやり耳を傾ける。
「そうか、もう夏祭りの季節か」
「大詰めってわけだ。アニキは祭り行くの?」
「まあ時間はあるしな。行くと思う」
「そりゃそうか」
 美虎は少し黙ると、俺の作業机の椅子に座り、脚を組んでこちらを向く。
「アニキってオヤジさんの跡継ごうとか思わなかったの?」
「父さんは勤め人だがね」
「そーだけどよ、昔は付いていって仕事の手伝いもしてたじゃん」
「手伝いは手伝い。あれはあれで面白かったけど、仕事にするかどうかは別だろ」
「似合うと思うけどね」
 歯を見せて笑う美虎。苦笑が漏れる。
「まあ今は俺のやりたいようにやってやるわ」
「ヒヒヒ誤魔化しやがった」
 夕空が紫に染まり、蝉の声と太鼓の音とが混じる。美虎が気だるそうに息を漏らす。俺は欠伸をひとつした。


 夜はすっかり更け、眠りにさしかかった刹那、父の大声がそれを妨げた。
「龍!りゅういち!」
 しかも俺を呼んでいるということに気づく。行くしかないと悟る。
 父の部屋に入ると、埃をかぶったNI●TENDO64が部屋のテレビに繋がれている。父がそのコントローラを差し出してくる。
「ダブルスしようダブルス!」
「は」
「ダブルス!」
「え、今から?」
「うん。いいだろ親の気分転換に付き合えよ〜」
 笑う父に背中をばんばん叩かれる。これは断ったら機嫌を損ねるな。
「わかったよ」
 コントローラを握り、電源を入れる。
『マー●オォーテニーィス!スィークスティーフォオオ!!』
「いやぁー、久しぶりだな。お前何使いだっけ?」
「デ●ジー」
「あーそうそう、女だった!オカマ野郎!」
「バランスが良くて使いやすいのよ」


「ちょ、違う!まだラインに居ってって」
「あああすまーん!今んなオレのせいだ!すまん!」
「まあ次だ次。ブレイクしよう」
「うっしゃあ来い!」
「父さん、声でかいが」
「あ、すまん…っとレシーブオレからか!ほい来た!」
「ナイスリターン」
「よし交替交替!」
「へいへい。前出んの好きね」


「いやぁーいつやっても楽しいもんだな。色褪せねーわ」
 コントローラの紐を巻きながら父は無邪気に笑う。時刻は4時半。小鳥の声が聴こえる。空は薄ら明るい。
「疲れたか?」
「疲れたわ」
「ハッハハハ、若いもんがオレより先にへばるなんてな!まだまだオレのほうが体力があるじゃねえか」
 ソファに寝転がる俺の反対側で、父もまた横になる。あんたの世話でまた疲れてんのよ、とは言わずにおく。
「龍、そろそろ寝らんで大丈夫か?」
「父さんにその心配をされるとはな。まあ明日は午後出勤だし、十分寝れるが」
「いいご身分だこった」
「今のうちに自由を謳歌せんとね」
 とはいったものの、現状は生きる目的も見つからないまま、時間を食いつぶしているに過ぎない。俺はちゃんと、生きれているんだろうか?
「なあ、父さん」
 返事がない。振り向くと、腹を上下させながら寝息を立てている。
「なんだかんだ言って自分も疲れとるやれえよ。やっぱりしんどいんだろうな」
 自分も眠気に襲われる。父にタオルケットを掛け、電灯を消して部屋を出た。


 豪快な欠伸が漏れる。
「寝てないの?」
 うどんを息で冷ましながら水沢が言う。そのまま器用に音も立てず啜る。返事はどうでもいいらしい。
「4時間半は寝たから、まあ問題はないが」
 結局起きたのは9時半ごろだった。すでに父は家を出ていた。珍しく母も急な外出があるということで、書き置きとともに軽い朝食が残されていた。それから3時間ほどだから、実のところあまり腹は減っていない。
「何かしてたの?」
 またうどんに息を吹きかけながら尋ねる。今度はこちらを見たままだ。
「ゲーム」
「ゲームするんだ。なんてやつ?」
「マリ●テニス。ロ●ヨンの」
「また懐かしいのをしてるんだねぇ」
「あんたもゲームすんの?」
 水沢は一瞬目を瞠り、動きを停止する。
「まあね。ほとんどRPGだけど」
「おい待った、なんね今の反応は」
「だって三島くんが私のことを聞くの、初めてだから」
「あー、あー、そうだな、なんでだろう」
「基本的にゲームはヘタクソなんでね。やり方がわかってしまえば誰でもできるのが合ってるんだ。ギャルゲーもやるよ」
「え、ギャルゲー…?」
「やってみると楽しいもんだよ」
 水沢はあらかた麺を食べ尽くして、汁を飲む作業に入った。
「ま、三島くんに興味を持ってもらえることは嬉しい限りだよ」
「へ」
「さっきの質問もそうだけど、いつもなら午前の授業がないからって、昼は食べてからくるじゃない」
「な、なんで知っとっとか!」
 驚いた拍子に、口の中のオムライスが飛び出しそうになる。
「なのにわざわざ食堂に来たってことは、ちょっと楽しんでくれてるんだなーと」
「偶然よ、んなもん」
 俺はオムライスをさっさと平らげ、盆を持ってその場をあとにした。水沢はそれを、ニヤニヤしながら見ていた。


 夕陽の中、小さく揺れながら電車は街を進んでいく。
 俺はその片隅に腰掛け、立ち並ぶビルやら朱色の川面やらを、ぼうっと眺める。
 水沢の言うとおりかも知れない。少し大学に来るのが面倒ではなくなってきているのだ。多少は水沢との昼食を楽しみに思っているのかも知れない。
 あいつなら俺の理解者になってくれるかも、なんて思わないこともない。
 と言うより、大概の相手となら、一対一で話せば通じるものだ。気を使って適当な相槌を打たれることも多いが、少なくとも歩み寄ればそうそう突き放されはしない。
 俺は自分から殻を作っている。誰かと仲良くなると、自分がくだらないとするようなことにも付き合う必要が出てくる。それを嫌がっている。一方的で傲慢なことだ。
 それでも誰にも迷惑はかけていないから、このスタンスを崩すつもりなんてないが…。
 考えに耽っていると、隣に帽子を被った女の子が座った。俺は少し距離を取る。
「何たそがれてんだよ」
 言われて気づく。美虎だ。
「お前、なんでこんなところに」
「ヒッヒッヒ、ヒトカラ行って帰るとこだ」
 美虎は細い脚を組む。
「お前友達おらんのけ?」
「いないことはねーけどな。邪魔になる時もあんだよ。アニキだって同じ考えだろ」
「いや、俺はおらん」
「作んねーだけだろ。人と付き合えるとこまで降りていくのを面倒臭がってんだ」
「降りるっちいうのはまた傲慢だろ」
「いや、降りるんだよ。人は基本的に、孤立してるときの自己が一番高い。でもそんな柱の上ではだれとも付き合えないから、平地に降りるんだ」
「17のガキが偉そうなこと言うもんじゃねえが」
「たしかにガキの詭弁かも知れねー。これから塗り変わっていくもんなんだろう。でもあたしの紛れねー実感だ。誰にも否定させやしねーよ」
 帽子の下から、鋭い眼差しが覗く。
「それでいいと思う、アニキもあたしも。っていうかいいかどーかなんて、生きてみなきゃ分かんねーよ」
「まあ、そうね」
「これからどーなんだろーなー、あたし…ま、やりたい放題やってやんだけサ」
 言うと美虎は、帽子を目深にかぶり直し、手を膝の上に組む。そのまま、どこでもないところをじっと睨む。
「ククク、誰にも邪魔あさせねえ」


「ただいまー」
「おかえりー。あらあんたら一緒ね?」
「帰りの電車で合流した」
 家に着くと母の声と味噌汁の匂いが俺達を迎えた。
「…!?母さん、どうした!?」
 見ると母の額に血の滲んだガーゼが張り付いている。
「ああ、ふたりとも朝は会ってないから知らないっけ。今朝ちょっと、酔ってるお父さんと揉めちゃって、お父さんに押されたはずみにぶつけて」
「…あのクソオヤジ!!」
 美虎の顔が見る見る吊り上がっていく。
「大丈夫だったの?」
「まあ、大した怪我にはならなかったから…お父さんが会社休んで、大慌てで病院に連れてってくれて」
「じゃ、今部屋にいんだな」
 返事も待たず美虎は駆け出した。思わず追いかける。
「おい、待てっ!」


 父の部屋の扉を叩きあけて飛び込む美虎。続いて俺が部屋に入る頃には、強烈な打撃音が響いた。
 美虎が父の胸倉を掴んで、顔を思い切り殴ったのだ。
「何やってんだよ、あんたはよおお!!!」
 美虎が叫ぶ。父は抵抗もせず、ただ項垂れた。
「やっていいこととそうでないことがあんだろうがよ…!」
「美虎、やめろ」
「アニキは許せるのかよこんなことが!!」
 俺が止めに入っても、美虎の怒りは少しも止む気配がない。それどころか更に目が吊り上がっていく。
「なんとか言えよ、クソオヤジ!!」
 父はさめざめと泣いていた。父の涙を見るのは、これまで生きてきて初めてだった。
「泣きゃあ許されると思ってんのかあ!!そんなに強くは…いや本気で殴ったけども!」
「落ち着け、美虎」
「悪かった。悪かった。俺は自分が恥ずかしい…不甲斐ないんだ」
「あたりまえだ!一番傷つけちゃいけねー人を傷つけたんだよ!」
「甘えすぎたんだ…すまんかった、本当にすまんかった!殴りたいだけ殴ってくれ」
 それを聞くと美虎はさらに二発、三発と、拳を顔面に叩きこむ。
「おい、美虎!」
「なんだよ!こんなことで許されるもんじゃねーぞ!」
「でも殴ったところで解決するわけじゃないが!」
「アニキは悔しくねーのか!!!」
「悔しいけど…取り返しのつかないことにはなってないんだ。父さんも反省しとる。お前は暴走し過ぎ。ちょっと頭冷やさんね」
「…チッ!」
 美虎は父を乱暴に離すと、足音を立てて部屋を出ていく。
「龍…」
「俺も別に父さんを許したわけじゃない。少しは懲りただろ。俺達のことを考えてくれ。美虎だって父さんのことを嫌ってるわけじゃないんだから。じゃ」
 言いたいことを言って俺も部屋の外へと歩み出る。
「それと、母さんはあんまり気にしてないそぶりだったが、ちゃんと謝ったのよね?」
「もちろん…何度も何度もな…」
 俺は黙って頷き、部屋の扉を閉める。
「ったく甘すぎるぜ、アニキはよ」
 廊下に坐り込んでいる美虎に声をかけられる。
「ま、アニキはそれでいい。しっかし、かーちゃんもホントはすげー落ち込んでんだろうな」
「父さんも母さんも、このこと引き摺らないか心配だわ」


 数日が経った。
 父はまだ元気がないが仕事に復帰し、この夏最後の仕上げに掛かっているという。母の怪我も少しずつ癒えてきている。
 美虎は相変わらず遊び回っている。父への怒りもようやく治まってきたようで、元通りに笑うことが多くなった。
 俺は夏の試験が始まり忙しい日々だ。これを乗り越えたら夏休み。そう思うと心も弾むと言いたいが、普段から授業をすっぽかすので恩恵が薄い。


「調子どう?」
 食堂でチーズハンバーグを食べていると、やはり水沢がうどんをもって正面に坐る。
「またうどんか」
「うどんはロマンだよ。で、調子はどう?」
「悪くはない」
「そりゃよかった」
 言うと水沢はいつものように、上手にうどんを啜っていく。
「試験が終わったら、夏休みだね」
「ああ」
「最終日と同じ日に夏祭りがあるんだよ」
「知っとるわ」
「一緒に行く?」
「そんなん、噂されるぞ」
「もうされてるよ」
 ギョッとして周りを見回すと、遠巻きに生暖かい視線を感じる。よく見るとクラスの連中がちらほらと居る。
「面白がりやがって」
「というか二人とは言ってないじゃん。期待してくれた?」
「なんだ、他にあてがいるのね」
「でもそうなると三島くん喋らなくなるから、二人で行きたいな」
「…」
「意外と素直なんだねえ。もっと平然とするものだと思ってた。三島くんも所詮は男かあ」
「悪いかよ」
「じゃ、一緒に行こうか」
「でも家族も行くし、どうなるかわからん。気が向いたら、くらいに思っとってくれ」
「往生際が悪いね。ま、とりあえずは試験を乗り切ろうか。一応これ、連絡先。気が向いたら、連絡頂戴」
 水沢はサラサラと紙にメールアドレスを書いて寄越す。そしてうどんの汁を飲み干すと、立ち上がる。
「じゃ、また」
「おう」


「アニキは夏祭りどうすんだ?一緒に行くやついんの」
 帰宅早々、美虎にタイムリーなネタを振られる。
「お前はどうよ」
「あたしはかーちゃんと行くぜ。アニキも一緒?」
 新聞をめくりながら美虎が答える。
「どうするかな」
「まーどっちでもいいっちゃいーんだけどよ。聞いてみただけだ」
 美虎は新聞をたたんでソファから立ち上がる。
「とりあえず、行く相手がいるってことはわかったぜ。女か?」
 目を開き、歯を見せて笑う美虎。
「…そうだよ」
「ヒッヒッヒ、アニキのくせにやるねェ…そーか、そりゃー迷うわな」
 それから夕食後まで、美虎のニヤニヤは止まることがなかった。


 そして試験最終日、夏祭りの日がやってきた。
 父はやはり早く出かけていて、食卓に3人分の朝食が並べられる。
「龍は直接お祭りに行くの?一旦家に帰る?」
「あーアニキな、大学の女と一緒に行くらしいから、今年は別行動」
「えーっ!」
「オイっ!何を勝手なことを言っとっとか!」
「違うのか?」
「いいよいいよ、行って来なさい。へえ、龍がねえ」
「ムッツリしてるやつほど裏ではヤリ手なんですのよ奥様」
 母娘の執拗なイジメに耐え、黙々と朝食を済ませると鞄を持って立ち上がる。
「もう行くの?」
「きっと大学で待ち合わせしてんだよアノ子と。ヒヒヒ」
「はっはあなるほど」
「もうやだこいつらー!!!」
 俺は脱兎のごとく駆け出した。


 午前中の試験が終了し、3限を残すのみとなった。
 ハヤシライスの盆を置き、食堂で水沢を待つ。
「今日で最後だね」
 いつものように水沢が現れた。手にはうどん。
「水沢、一緒に夏祭りに行こう」
「いきなりだね。あてが潰れたの?」
「まあ、そんなところだね」
「いいよ。行こう。ほんとは即決してもらいたかったけど」
「え?」
「まあいいよ。じゃあ今日の4時半、またここで会おう」
「ああ」
「じゃあ、いただきます」
 言うと水沢はうどんにむしゃぶりつく。
「そっちはハヤシライスか。最初に一緒に食べた時もハヤシライスだったね」
「そうけ?」
「そうだよ。あの時、自分が受け容れられるはずがないって、三島くん言ってた」
「覚えとらんな」
「今の私でも三島くんを受け容れることはできない?まだ茶番?」
「何が言いたい」
「噂される、とか言ってたけど…ほんとに付き合ってみない?」
「いいよ」
「ふふ、今度は即決だ」
「物は試しだからな」
「そういうデリカシーのないとこ、結構好き。デリカシーのなさを隠さないとこっていうか」
「お前やっぱ、変わっとるわ」
 俺も浮かれているのか、ハヤシライスは少し甘く感じた。


「じゃ、行こうか」
 試験が終わり、再集合した俺と水沢はふたり電車に乗り込んだ。
 並んで坐り、流れ行く景色を眺める。
「手とか繋がないの?」
「別に繋いでもしょうがないと思うのよ」
「私も同じ考え」
「なんじゃそら…」
 夕陽が暖かく刺さる。俺も、たぶん水沢も、黙って外を見つめる。静かだった。お互いの心臓の音が聴こえるような気がした。


 すでに通りは活気に満ちていた。露店が立ち並び、さまざまな恰好をした人たちが行き交っている。
「祭りって感じだねえ」
「祭りだからね」
「何か欲しい物ある?」
 水沢がこちらを振り向いて尋ねる。
「ないし、お前に買ってもらうようなことはせんよ。うん」
「そんなつもりじゃなかったんだけどな。っていうか、名前で呼んでよ」
「そういうの気にするのな」
「いや、言ってみたかっただけ」
「…下の名前、なにけ?」
「藍子」
 水沢は呆れたように笑う。
「わかった。まあぶらぶら行こうか、藍子」
「うん、龍一くん」


 しばらく露店を回った。時々綿あめやホットドッグを見かけては買い、食べながら歩く。
 輪投げも金魚すくいも、ふたりともあまりにも下手すぎて散々な結果だった。
 そうこうしている間にすっかり日は落ち、花火の時間が近づいた。
 だんだんと人ごみも密度を増し、はぐれないよう互いの手を握って歩くようになった。
「花火、どこで見ようか?いい場所、知ってる?」
「知っとるよ。最高の場所だ」
 水沢の手を引き、ゆっくりと、しかし一直線に歩いて行く。
「ちゃんとついてこいよ」
「うん」
 花火がいよいよ打ち上がろうとするとき、ようやくその場所に着いた。
「ここって…」
「そう。打ち上げるところ」
「でもこんなところ入れるの?」
「だいじょうぶ」
 俺は近くに立っている花火師の一人に声をかけた。
「おぉ〜カズの倅か!でっかくなったなぁ〜もう大学生だってな!彼女連れてきたのか!うわぁ〜ショックだ!」
「父はどちらに?」
「あすこで打ち上げの準備してるよ。最近やけに仕事熱心でなぁ〜何かあったの?」
 花火師が指さした先に、筒を弄る父の姿があった。近くに母と美虎も居る。
「たぶん、母のご機嫌取りじゃないですかね」
「ハハハそうか!まあ楽しんでいってちょうだい!」
「はい。藍子、行こう」
 また水沢の手を握り、家族の元へ駆け寄った。


「アニキ、その人が彼女か!可愛いじゃんどうやってやり込めたんだオイ」
「水沢ですー。よろしくお願いします」
「妹の美虎です!いつもは愚兄がお世話になっております〜」
「母の文子です。いつもは愚息がお世話になっております」
「いえいえーとっても楽しい息子さんで」
「大学ではどうなのあの子?」
 女どもは早速意気投合している。
 父の背中を見つめる。仕事をする男の背中だ。今日は特に気合が入っているのか、やけに力強く見える。
「よーし、一発目準備OKー!」
「3、2、1、点火ー!!」
 点火すると、父は一歩退いた。こちらをちらりと見て、笑って手を振る。
 全員で耳を塞ぎ、打ち上がるのを待つ。導火線が短くなっていき、とうとう火が筒の根本に到達した。


 刹那、劈くような轟音とともに、眩い光が駆け上がり、花開いた。


「たーまやーーっ!!」


 何発も、何発も。


「かーぎやーーっ!!」


「すごい、花火ってこんなに大きいんだ!」
「ったくクソオヤジめ、作る火だきゃあキレイなんだからよ」
「お父さん、これに命をかけてるんだからね」
「これだけのものを作るのは、相当の手間ですね」
「ま、そこだけは認めてやらんでもないな」
「何を偉そうに言うか!」
「あ、今のすごくキレイ!」
 声はもうほとんど聞こえない。俺達は騒ぎながら、花火に見入った。


 ふと見ると、父はどんどん点火作業を消化していく。今年の集大成なわけだから、感慨は一入だろう。
 花火の光に照らされて、父の満面の笑みが見えた。これ以上なく生き生きした笑顔だ。
 俺の視線に気づいた父は、何か騒ぎ立てながら上を指さす。花火をちゃんと見ろ、と言っているのだろう。
 俺はそれに黙って従った。花火は止む気配もなく、強烈な光と派手な音を撒き散らし続ける。
 父が全身全霊で咲かせたその花は、この上なく綺麗で、その一途な生き様を反映しているように思えた。


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