朋美がゆっくりと扉を開けると、店内には所狭しと商品が並んでいた。散歩中に偶然見つけた店で、「思い出雑貨」という綺麗な字の看板に惹かれて思わず中に入ってしまったのだが、店の雰囲気はなかなか朋美の好みであった。
 店の奥にはカウンターがあり、二つ席が設けられてあった。一方には誰も座っていなかったが、もう片方には色白で背の高い男が座っていて、朋美の方を少し驚いたように眺めていた。男はやがて口元に笑みを浮かべ、朋美に一礼した。
 「いらっしゃいませ。店長の黒野です。何かお求めですか?」
 朋美は慌てて手を横に振った。
 「い、いえ。ぶらっと寄っただけです」
 「そうですか。品物は少ないですが、ごゆっくりどうぞ」
 言い終わると、男はカウンターの下から分厚い本を取り出して読み始めた。店内に再び沈黙が訪れる。朋美は店の中をゆっくり見回した。
 見れば見るほど良い店だった。窓は大きく、傾き始めた太陽の光が部屋全体を照らしいた。窓の外の桜の木は、蕾でいっぱいでもうじき咲きそうだった。店内の品物が放つアンティークな香りは朋美の鼻を幾度と無くくすぐった。
 めったに来ない場所だから、恐らく二度と来ることはないだろう。そう思った朋美は、品々を目に焼き付けるようにして見ていった。店内を歩きまわると、様々なものが置いてあった。小物入れに、本棚、ペン入れのような小さなものから、タンスや鏡台といった大きなものまである。古いものが大半だったが、中にはよく分からない金属でできた近未来的なものもあった。
 そして部屋の中央まで来ると、朋美は不思議なものを見つけた。それは真っ黒の時計だった。他の商品とは違い、その商品は小さいテーブルの上にぽつんと置いてあるのだが、一番不思議なのはその時計には長針も、秒針もついていないことだった。ただ短針だけが、指で回せと言わんばかりに時計の中央から文字盤に向かって伸びていた。針の先は小さな円の形をしていて、恐らく最初はあったであろう長針や秒針も同じ物がついていたのだろうと朋美は思った。
 持ち上げてひっくり返すと、後ろはガラス張りだった。時計の中では、目眩がするほど膨大な量の歯車が一生懸命回っている。もう一回ひっくり返し、時計の表面を見ると、真っ黒の面が広がっていた。時計の針も同じような色だが、縁が白で塗られているので、どこを指しているかはっきりと分かる。こちらの面には何も覆うものがなく、触ろうと思えば針を触ることができるように思われた。
 「その商品は」
 店長の黒野がぼそりと言った。朋美が思わず顔をあげると、黒野はいつの間にか本を閉じて朋美を見ていた。
 「特殊な物なので、触る時は気をつけてください」
 「どんな風に特殊なんですか?」
 朋美が尋ねると、黒野は何事もないかのようにしゃべった。
 「時を、動かすことができます」
 「時?」
 「はい。その針を動かせば、すぐに4月がやって来て、桜は満開になります。更に回せば雨ばかりになり、そして入道雲が立ち上り、やがて紅葉の季節になって、その後雪が積もります」
 それを聞くと、朋美は目を輝かせた。
 「それが本当だったら、本当に素敵ですね!」
 「どうしてでしょうか」
 「だって、待たないと来ない季節のイベントを、すぐに楽しむことが出来るんでしょう?」
 朋美は再び時計を眺めた。丸い形で、真っ黒で、針は一本だけ。そんな不思議な時計は本当に時を進めてくれそうな、そんなオーラを放っていた。朋美はこのユニークな時計が欲しくなった。
 そしてよく眺めてみると、この時計にだけ値札が付いていないことに朋美は気がついた。他の商品には全て白い紙の値札がくっついているのだが、この時計にはそれが見当たらない。
 「この時計、いくらするんですか?」
 「決まってません」
 黒野は淡々と言った。
 「決まってない、ですか……?」
 「はい。半分は私が作った作品なので、お客さんに好きなように買ってもらおうと思いまして。だからいくら支払ってもらっても結構です。付け値で売る、ということですね。ただし、返金はできませんが」
 朋美は財布を取り出し、小銭入れを覗きこんだ。中は見事にすっからかんで、一円たりとも入っていなかった。もちろんお札もない。買うのを諦めようと思ったが、しかしこの時計は魅力的で、いますぐにでも手に入れたかった。朋美は溜息をついた。
 「ただでも構いませんよ」
 「え、それは……」
 朋美は遠慮するように両手を振ったが、黒野は静かに、そして力強く言った。
 「どうしても欲しい物があって、そしてそれを手に入れられる状況にあるのなら、ぜひそうするべきです」
 朋美はしばらく黙っていたが、やがて申し訳なさそうに頭を下げた。
 「すみませんけど、この時計、頂きます」
 黒野は微笑みながら返事をした。
 「全然問題無いですよ」
 朋美は胸をなでおろした。
 「ただ」
 黒野はまた強い口調なった。
 「ただ、この商品を使うなら、この言葉を覚えていてください」
 朋美はぎょっとして聞き返した。
 「……何をでしょうか?」
 「『秒速30キロメートル』」
 朋美は目を数回瞬いた。
 「秒速、30キロメートル?」
 「はい。覚えておいてください」
 つい昨日テレビで宇宙船の話をやっていたので、朋美はおぼろげながらも宇宙速度について覚えていた。
 物体を人工衛星のように円運動させるための速度、第一宇宙速度が秒速8キロメートル。
 物体を地球の引力圏外に脱出させるための速度、第二宇宙速度が秒速11キロメートル。
 物体を太陽の引力圏外に脱出させるための速度、第三宇宙速度が秒速17キロメートル。
 では、秒速30キロメートルとは?
 太陽系の遥か彼方にでも行くつもりなのだろうか。
 そのような疑問が頭の中に浮かんだが、次の瞬間にはもう朋美は時計の魅力に取り憑かれていた。時計を手に入れられたという興奮で、先の疑問のことなど忘れてしまっていた。
 朋美はおもむろに時計を左手で持ち上げた。それは中身が入っていないんじゃないかと思えるほど軽かった。朋美は時計を抱えながら扉まで歩くと振り返ってぺこりと一礼した。
 「では、あの、ありがとうございました」
 それから扉を開けて、朋美は店を出た。黒野は何も言わなかった。

 それから朋美は近くの公園へ向かった。町から離れた所にある公園で、朋美の他には誰も来ることのない寂れた公園だった。
 その公園の中央に、朋美のお気に入りの場所があった。丸い池の周りに花壇があり、様々な花が植えられている場所、つまりは花時計だ。その花時計の周りにも、桜やもみじなど、季節がよく分かる木が植えられてあった。
 朋美は花を踏まないようにそっと花時計の中に入り、池の縁に座った。それからさっき買ったばっかりの時計を目の前に持ってきた。
 針が一本しかない時計は何も語らない。この時計が何の為に存在するのか、朋美には分からない。
 『時を、動かすことができます』
 雑貨屋の男の声が思い出された。朋美は小さく笑う。
 「本当にそうだったらいいわね」
 そうして朋美はゆっくり右手を針に近づけ、そっとそれを回した。
 その途端、世界が回った。
 太陽が瞬時に西に沈み、それから何度も空を駆け巡って、朋美の目をチカチカさせた。
 花は一瞬で枯れ、木々の葉は刹那の間に散り、気がつくと新しい花が咲いていて、木は再び葉を生やしていた。
 そして朋美の周りでは、満開の桜が咲き誇っていた。
 最初何が起こったのか理解できなかったが、状況を認識すると朋美は跳び上がって喜んだ。
 「本当に、本当だったのね!」
 強い風が吹き、桜の花びらが雪のように舞った。朋美はその中で恍惚の表情をしていた。花時計には春の花が咲いていて、良い匂いが辺りに漂った。
 ひとしきり辺りを駆けまわって花見を満喫すると、朋美はまた池の縁に戻ってきた。そして再び時計を持ち上げた。
 「今度は夏!」
 朋美が針を回すと、太陽は何度も空を廻り、世界が回った。回し終えると、入道雲がもくもくと空を侵食しており、蝉の鳴き声が聞こえた。途端にむわっとした熱気が朋美を襲い、彼女の服が汗ばんだ。
 朋美は手で日を避けながら、上を見上げた。空はどこまでも青く、どこまでも高かった。木々は青々と生い茂り、夏が自由の季節であることを感じさせた。
 「暑いけど、気持ちいいわね」
 朋美は額の汗を吹きながら、にっこり微笑んだ。朋美がちょんと時計の針を押すと、周りは一瞬で暗くなった。夜になっても蒸し暑かったが、どこからか夏祭りの喧騒が聞こえてきた。やがて闇の中を一筋の光が駆け上がり、爆発して美しい花火になった。音が遅れてやってくる。
 夏の空気を吸った後、朋美はまた時計を持ち上げた。
 「次は秋!」
 針を回すと、世界は再び点滅した。夏の残り香が消え、木々は色づく。回し終えると、見渡す限りの紅葉が広がっていた。明るい色のもみじやイチョウの絨毯が一面にしかれ、どこまでも続いている。
 暑さはすでに無く、少し寒いくらいだった。日が西の方に沈みかかっていて、暖かい陽の光が長い影を作る。木枯らしが吹き、朋美は体を震わせた。
 朋美は今度もまた針をちょんと押し、一気に夜にする。見上げると、大きな満月が夜空に浮かんでいた。中秋の名月である。町から遠いため星空も綺麗だった。
 しばらく秋の夜を楽しんだ後、朋美は針を進める。
 「それから冬ね」
 時間が進み、地球は進む。綺麗な落ち葉の上には絹のように白い雪が溜まっていく。針が止まった時、そこは一面の銀世界だった。
 周りは薄暗く、遠くを見ると町の明るさが見えた。色とりどりのネオンサインが、今日がクリスマスということを教えてくれる。音もなく雪は降り、夜の帳が下りていく。
 息を吐くとそれは白くにごり、薄れながら天へと昇っていった。春の格好のままの朋美は体を震わせた。
 「寒いわね」
 身を刺すような寒さを少し感じだ後、朋美は時計の針を動かした。

 春へ。
 夏へ。
 秋へ。
 冬へ。

 「季節の移り変わりが目に見えるって素敵ね」

 そして春。
 次に夏。
 それから秋。
 今度は冬。

 「これならいつまでも楽しめるわ」

 春。
 夏。
 秋。
 冬。
 春。
 夏。
 秋。
 冬。

 ・・・

 何回針を回したのか分からなくなった後、朋美は池の縁に座る。
 「流石に飽きたわね」
 時計を隣に置き、朋美は深く溜息をつく。
 「疲れた……」
 そのままじっとしていると、朋美はあることに気付いた。
 (あれ、服がきつい……)
 いつの間に服が縮んだのかと、朋美は下を向いた。
 (胸も大きくなってる?)
 それから彼女は何気なく池を覗きこんだ。
 「え……。なんで……?」
 水面に映っていたのは朋美が知る自分ではなかった。そこにあったのは大人の顔で、少し皺も入っていた。その時初めて朋美は今の状況に気がついた。
 (針を勧めた分だけ、私の体も時間が経ったんだ)
 そして朋美は背筋が凍るのを感じた。咄嗟に時計の針を逆に回そうとしたが、針はびくともしなかった。
 (どうしよう……)
 朋美はしばらく震えていたが、、やがて時計を持ってその場から走りだした。

 町の様子はかなり変わっていた。知らない道路、知らない店、知らない施設。しかし例の雑貨屋だけは変わっていなかった。看板も昔のままである。
 扉を開けて中に飛び込むと、黒野がカウンターに座っていた。町も朋美自身も大きく変わったのに、黒野の姿は前見た時そのままだった。
 「お久しぶりですね」
 黒野は笑って会釈した。朋美は何も言わず、ずかずかとカウンターまで来て時計をそこに置いた。
 「私を、元に戻してください」
 「戻して、ですか」
 「そうです。元の姿に」
 黒野は首を横に振った。
 「駄目ですね」
 「何でですか!」
 「返金は受け付けられないって言ったではないですか」
 黒野は当たり前の事を話すように言った。
 「え……。返金って、この時計はただでしたけど」
 「ただでも良いと言っただけです」
 「どういうことですか?」
 朋美の問いに、黒野はゆっくりと答えた。
 「この時計の代金は、あなたの時間です」
 「時間……」
 「はい。ただでも良かったんです。あなたが針を回さなければ、ただでした。しかしあなたは回してしまった。今回支払った代金は、1.26恒河沙プランク時間……およそ20年といった所でしょうか」
 「……」
 「返金は受け付けないといったのはそういうことなのです。時計の針は逆に回ることはありません」
 その言葉で朋美は全てを理解した。彼女はその場で黙って立っていたが、やがて俯き、しゃくり声を上げ始めた。
 黒野はじっと朋美を見つめていたが、やがて口を開いた。
 「まあ、でも元に戻る裏道がない訳ではありません」
 朋美は顔を上げた。
 「裏道?」
 「返金はできませんが……」
 時計を持ち上げると、黒野それを眺めた。
 「ここで働いてその分を稼ぐというなら、私は止めません」
 「……」
 「その間、あなたを流れる時間は私が止めておいてあげましょう。そうすれば、ここで働いた時間はそのままあなたの物です。どうですか?」
 朋美はすぐに返事をした。
 「やります!」
 それを聞くと、黒野は嬉しそうで、それでいて申し訳なさそうな顔をしながら、時計の針を取り外した。そして時計をひっくり返すと、留め具を外し、文字盤を取り外す。それから文字盤を裏返しにし、また時計に取り付けた。ついでに針も付け直す。
 「これが裏道です。針は逆に回らないなら、文字盤をひっくり返せばよいのです。私にしか使えない方法ですけどね」
 そう言って、黒野は朋美の手をとり、針を回した————

 5年経った。朋美が店の扉を開けると、店先に梅が咲いていた。
 「黒野さん、梅ですよ、梅」
 黒野は窓から顔を出して庭を眺めた。
 「おお、綺麗ですねえ。春を感じます」
 それから朋美の所に歩いて来た。
 「誰かと季節の話をできるというのは、素敵なことですねえ」
 黒野はしみじみとした顔で言った。
 「朋美さん、4分の1経ちましたが、どうですか」
 朋美は微笑んだ。
 「もうとっくの昔に慣れましたよ」
 そうして店の中を見ると、例の時計が置いてあった。朋美は気になって黒野に尋ねた。
 「どうして、黒野さんはあの時計を作ったんですか?」
 すると黒野は少し顔を曇らせた。
 「いつかお話しましょう」
 そのまま黒野は店の奥に歩いて行った。

 また5年経った。朋美が窓を開けると、喧騒が飛び込んできた。
 「夏祭り、ですね」
 カウンターに座っていた黒野が言った。
 「いいですよね、夏祭り。黒野さんも一緒に行きませんか?」
 「……では後で行きましょうかね」
 「そうしましょう!」
 朋美は笑って、店の掃除を始めた。その時、ちらっと例の時計が手に入った。
 「黒野さん」
 「はい、何でしょうか」
 朋美は時計を指さした。
 「あの時計で私が払った時間は、何に使ってるんですか?」
 黒野はしばらくの間何も言わなかった。まずいこと聞いたかな、と朋美が思い始めた時、黒野が口を開いた。
 「朋美さんの時間を止めておくのに使っています」
 朋美は少し驚いた。
 「それじゃあ、私が今稼いでる時間は……」
 「朋美さんを元の姿に戻すために使います」
 「それだったら、黒野さんの所には何にも残らないじゃないですか」
 「残りますよ」
 黒野は静かに呟いた。
 「だからあなたはここにいるんです」

 さらに5年経った。もう夜になり、店は閉まっている。開け放たれた窓のそばに団子が置いてあった。
 「お月見ですね」
 朋美が呟くと、黒野は頷いた。
 「はい。今日は中秋の名月です。綺麗ですねえ」
 それから二人は黙って夜空を見上げた。明るい月が天で輝いている。
 「黒野さんも、どんどん見た目の年齢に近づいてますね」
 15年前と変わらない姿の朋美を見て、黒野が言った。
 「あと5年したら、終わりなんですね……」
 「はい。あと5年です」
 黒野は深く息を吐くと、朋美に語りかけた。
 「5年後、私はあの時計を作った理由を話します。その時、あなたは私を蔑むでしょう」
 朋美は驚いたように顔を上げた。
 「黒野さんを蔑むなんて、そんな……」
 「そうしたら、もうお別れです。二度とあなたは私に会わないでしょう。どうかそれまで、一緒に過ごしてくれますか?」
 そう話す黒野の顔はとても寂しそうに、朋美には思えた。

 そして5年経った。朋美がこの店で働き始めてから丁度20年経った。黒野はカウンターに朋美を呼んで、二つある椅子の片方に座らせた。
 「今日で朋美さんのお勤めは最後です。今までありがとうございました」
 「こちらこそお世話になりました」
 「そして……」黒野は言いづらそうに言った。「あなたには、全てをお話しなければなりません」
 黒野は店の中央の時計を眺めた。
 「私は、ずっと一人でした。私は特殊な存在ですので、時間の影響を受けません。そのせいで、友達といえる存在がありませんでした。そこである時、こう思ったんです。自分と同じような存在を一時的にでも作り出せばいいのではないか、と」
 そして黒野は朋美を見た。
 「季節のイベントというのは、他の誰かがいてようやく楽しめるものだと思っています。私は一人でしたので、季節の移り変わりというものが楽しめませんでした。そこで、あの時計を作りだしたのです。あの時計を誰かに回させて時間を奪い、その時間を人質にこの店に居てくれるように、そう仕向けたんです」
 黒野は続けた。
「『どうしても欲しい物があって、そしてそれを手に入れられる状況にあるのなら、ぜひそうするべきです』という言葉は、私自身への言葉でもあったんです。あの時、自分は少し怖気付いてましたからね。このような、私のエゴによって、あなたは無駄に20年もここで過ごさなくてはならなかったのです。本当に、申し訳ありませんでした」
 「……」
 朋美は黙っていた。
 「15年前、朋美さんは私に尋ねましたね。朋美さんの時間維持に奪った時間を使い、朋美さんが稼いだ時間を元に戻すのに使用するなら、私の元に何も残らないと。実は残るんです。あなたと過ごした時間が。そして、あなたとの思い出が」
 黒野は自嘲するように笑った。
 「朋美さんは私を恨むでしょう。あなたを元の姿に戻した時、あなたの大部分の記憶は無くなります。それでも、断片的な情報や私への感情は幾らか残るはずです。即ち、私への恨みが」
 朋美は俯いて何も言わなかった。
 「朋美さん、どうも済みませんでした。そして、思い出をありがとうございます。あなたとの20年は、今までで一番楽しかったですよ」
 そして黒野は一礼した。
 「それでは、さようなら」
 その時、店の扉が開く音がした。

 ・・・

 朋美がゆっくりと扉を開けると、店内には所狭しと商品が並んでいた。散歩中に偶然見つけた店で、「思い出雑貨」という綺麗な字の看板に惹かれて思わず中に入ってしまったのだが、店の雰囲気はなかなか朋美の好みであった。
 店の奥にはカウンターがあり、二つ席が設けられてあった。一方には30代の女性が座り、もう片方には色白で背の高い男が座っていて、朋美の方を眺めていた。男はやがて寂しそうに口元に笑みを浮かべ、朋美に一礼した。
 「いらっしゃいませ。店長の黒野です。何かお求めですか?」
 朋美は慌てて手を横に振った。
 「い、いえ。ぶらっと寄っただけです」
 「そうですか。品物は少ないですが、ごゆっくりどうぞ」
 言い終わると、女性の方が立ち上がり、店の中央に向かって歩き始めた。朋美は会釈して、店の中をゆっくり見回した。
 見れば見るほど良い店だった。窓は大きく、傾き始めた太陽の光が部屋全体を照らしいた。窓の外の桜の木は、蕾でいっぱいでもうじき咲きそうだった。店内の品物が放つアンティークな香りは朋美の鼻を幾度と無くくすぐった。
 めったに来ない場所だから、恐らく二度と来ることはないだろう。そう思った朋美は、品々を目に焼き付けるようにして見ていった。店内を歩きまわると、様々なものが置いてあった。小物入れに、本棚、ペン入れのような小さなものから、タンスや鏡台といった大きなものまである。古いものが大半だったが、中にはよく分からない金属でできた近未来的なものもあった。
 そして部屋の中央まで来ると、朋美は不思議なものを見つけた。それは真っ黒の時計だった。他の商品とは違い、その商品は小さいテーブルの上にぽつんと置いてあるのだが、一番不思議なのはその時計には長針も、秒針もついていないことだった。ただ短針だけが、指で回せと言わんばかりに時計の中央から文字盤に向かって伸びていた。針の先は小さな円の形をしていて、恐らく最初はあったであろう長針や秒針も同じ物がついていたのだろうと朋美は思った。
 持ち上げてひっくり返すと、後ろはガラス張りだった。時計の中では、目眩がするほど膨大な量の歯車が一生懸命回っている。もう一回ひっくり返し、時計の表面を見ると、真っ黒の面が広がっていた。時計の針も同じような色だが、縁が白で塗られているので、どこを指しているかはっきりと分かる。こちらの面には何も覆うものがなく、触ろうと思えば針を触ることができるように思われた。
 「その商品は」
 店長の黒野がぼそりと言った。朋美が思わず顔をあげると、黒野はいつの間にか朋美を見つめていた。
 「特殊な物なので、触る時は気をつけてください」
 「どんな風に特殊なんですか?」
 朋美が尋ねると、黒野は何事もないかのようにしゃべった。
 「時を、動かすことができます」
 「時?」
 「はい。その針を動かせば、すぐに4月がやって来て、桜は満開になります。更に回せば雨ばかりになり、そして入道雲が立ち上り、やがて紅葉の季節になって、その後雪が積もります」
 それを聞くと、朋美は目を輝かせた。
 「それが本当だったら、本当に素敵ですね!」
 「どうしてでしょうか」
 「だって、待たないと来ない季節のイベントを、すぐに楽しむことが出来るんでしょう?」
 朋美は再び時計を眺めた。丸い形で、真っ黒で、針は一本だけ。そんな不思議な時計は本当に時を進めてくれそうな、そんなオーラを放っていた。朋美はこのユニークな時計が欲しくなった。
 
 足音がした。朋美が振り向くと、いつの間にか後ろに女性が立っていた。驚くことに、その人は20年ぐらい若返っていた。しかも朋美とまったく変わらない姿をしていたのだ。朋美が声をだす前に、その人は朋美に手を伸ばした。
 その手が朋美に触れた途端、その人は煙のように消えた。朋美はしばらくその場でじっとしていたが、やがて今の出来事を忘れてしまったかのように、再び時計を見た。
 「あれ?」
 急に朋美が声を出したので、黒野は尋ねた。
 「どうしました?」
 「いえ、急にある言葉が気になったんですけど……」
 朋美は黒野の方を向き、不思議そうに言った。
 「秒速30キロメートルって、何ですか?」
 黒野は呆気にとられたような顔をした。それから彼は少し笑い、こう言った。
 「秒速30キロメートル。季節が移り変わるスピードです」
 「季節が移り変わる……?」
 「はい」
 黒野が時計を指差す。朋美が釣られて時計を見ると、時計は大きく様変わりしていた。
 時計の黒い面のあちらこちらが白く輝き、まるで星のように見えた。それを見て朋美は、黒い面は宇宙を指していたのだと悟った。そして時計の中央は赤く大きく輝き、太陽のように見えた。それから短針の先の丸い部分は、さながら地球のように青く美しく光っていた。1から12の文字盤の下には、それぞれJanuary,February……と月の名前が光を発していた。
 「秒速30キロメートル。それは季節が移り変わるスピード。つまり地球の公転速度です。この速度は常に一定でなくてはなりません。一定だからこそ季節を楽しむことが出来るのです。時間の流れを外れた者は、一人寂しく生きるのがオチですよ」
 黒野が静かに言った。朋美はその時計をじっと眺めていた。やがて彼女はそれを机に戻した。
 「これ買おうかな、と思いましたけど、買わないことにします」
 「それがいいでしょう」
 黒野は寂しそうに言った。朋美が扉の方を向いた。
 「じゃあそろそろ、帰ります」
 「そうですか。それでは、お気をつけて」
 朋美は出口まで歩き、扉を開いた。そのまま外へ出ていきかけたが、急にピタっと体を止めて、黒野の方を振り返った。
 「あの……」
 「なんでしょうか」
 黒野が不思議そうに尋ねると、朋美は少し笑った。
 「また、ここに来てもいいですか?」
 「……!」
 黒野は驚くような顔をした。
 そして目を何度か瞬いたあと、彼は心底嬉しそうに笑った。
 「……ええ。もちろんですよ」
 そしてこう付け加えた。
 「いつでも、いつまでも、お待ちしております」
 朋美は一礼して、扉を閉めた。店内に静寂が戻ってきた。しかし、黒野にはそれが心地よかった。
 彼は店の中央まで歩き、時計を持ち上げた。そして彼はふと窓から外を見た。
 「おや」
 いつの間にか、庭の桜が一輪咲いていた。それを見て、黒野は小さく笑った。
 「花見の準備でもしますかね」
 そう呟いた時にはもう、手の中の時計は跡形も無くなっていた。


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