「家族皆で正月を過ごしている夢を見ました。母親が作ってくれた雑煮が美味しかったのを覚えています」
 「なるほど。それから?」
 「あとは父と日の出を見に行ったり、従兄弟と一緒に雪遊びをしたりしました」
 「ふむふむ」
 医者風の白衣を来た男が頷きながら「夢診断」と書かれたカルテに記入していく。俺はといえば背もたれのない椅子の上でじっとその男を眺めている。書き終わると、男は俺ににこっと笑いかけた。
 「とてもいい夢でしたね」
 「はい」
 嘘。
 本当はもっと怖い夢。
 ただ何もない真っ暗な虚空の中を、ずっとずっと歩いて行く夢。
 本当のことを言ったら、おそらくこの男は、実験材料を見つけたかのような笑みを浮かべるのだろう。俺にはそれが嫌なのだ。そうだ、それが理由なのだ。他に理由などあるものか。

 「妹がひな祭りを楽しんでいる夢を見ました。飾ってある人形をにこにこ微笑みながら見ている妹がとても可愛らしかったのを覚えています」
 「うんうん」
 「それから、家族皆でデパートに行きました。久々の外食が美味しかったです。そんな夢です」
 「なるほどね」
 男は夢を記録していく。俺が見た夢を。いや、俺が見たと申告している夢を。
 「とてもいい夢でしたね」
 「はい」
 嘘。
 本当はもっと虚しい夢。
 何故歩いているのか分からないのに、ただ闇の中をいつまでも歩いて行く夢。
 そんな夢なんて見たくないのに、いつもいつも同じ夢をみる。でも男には誇張して伝えている。何故かって? 人にわざわざ本当のことを言うお人好しなんていないさ……。

 「高校の入学式の夢を見ました。今まで会ったことのない人が沢山いて、少し緊張しました」
 「ほう」
 「でもこれからこの人達と友達になるんだと思うと少しわくわくしました」
 「そうかいそうかい」
 男の手がさらさらとカルテの上で踊っている。いや、踊らされているんだ。俺の言葉に。
 「とてもいい夢でしたね」
 「はい」
 嘘。
 本当はもっと辛い夢。
 いつまで経っても終りが見えず、それでいて足は疲れていく夢。
 なんでこんな夢ばかり見るのだろうか。俺には分からない。嘘をつき続けていけばいつかは本当になるのだろうか……。いや待て待て、俺は男に自分の夢を教えたくないから嘘を言っているんだ。そうに決っている。

 「恋人が出来た夢を見ました。同じ大学の出身で、告白を母校の学園祭でやりました。6月の暖かい日です」
 「それはそれは」
 「OKを貰って、付き合うことになりました。今までで一番いい夢だったかもしれません」
 「良かったですねえ」
 男は肩を揺らしている。何がそんなに面白いのか。
 「とてもいい夢でしたね」
 「はい」
 嘘。
 本当はもっときつい夢。
 ずっと歩き続けていて、もしこの足が止まったらどうなるんだろうと、恐怖に怯えながら歩く夢。
 ……なんて、嘘だよな? 全部ウソだよな? 何だってこんな夢を見なくちゃならないんだ。いや、もしかしたら自分は嘘なんてついてないんじゃないか? そうだったらいい。

 「結婚した夢を見ました。夏まっさかりで、その日は夏祭りでした。結婚相手は先の恋人とは違ったけれども、一緒に夏祭りを楽しみました。幸せでした」
 「そっか」
 「花火がとても綺麗だったのを覚えています」
 「花火……と」
 男は忘れる前にカルテに書き足していく。すでに髪の量は凄まじいものになっている。
 「とてもいい夢でしたね」
 「はい」
 嘘。
 本当はもっと悲しい夢。
 どこへ進んでいるのかも分からない、自分が何物かも分からない。そんな夢……。
 な、はずはない。
 そう信じたい……。

 「子供と十五夜を楽しんだ夢を見ました。一緒にお菓子を取りに行ったり、お菓子をあげたりしました」
 「いいですねえ」
 「あと、晴れていて月がとても綺麗でした」
 「うんうん」
 男はさらさらと書き上げると、こっちを向いた。
 「とてもいい夢でしたね」
 「はい」
 嘘。
 本当は、本当はもっと寂しい……。
 何も見えない、闇の中を歩く夢なんかじゃない。
 そうじゃない。
 そうじゃないんだ……。

 「妻と二人きりで誕生会を開いた夢を見ました。妻が入れてくれたお茶がとても美味しかったです」
 「あなたの誕生日は?」
 「10月です。とても寒かったのを覚えています」
 「分かりました」
 男はトントンとカルテを叩いて揃える。夢診断とやらはいつ終わるのだ。
 「とてもいい夢でしたね」
 「はい」
 嘘。
 本当はもっと……。
 見ていない。とうとう倒れてしまって、上から覆いかぶさる闇に怯える夢なんて、見ていない。
 見ていない。そんな苦しい夢なんて。

 「クリスマスの夢を見ました。クリスマスのはずなのに、皆泣いていました」
 「それはまた何故?」
 「自分がそろそろ死ぬからです。家族の皆に見守られて死ぬ。それが自分への最高の贈り物だったような気がします」
 「……」
 男は何も言わず、カルテを書き終えた。凄まじい量の紙が辺りに散らばっている。
 「とてもいい夢でしたね」
 「はい」
 嘘。
 本当は……もっと……怯え……
 闇に包まれ……自分が……消えていく……夢なんて…………
 見ていない。
 見ていない。
 見ていない?


 「これであなたの一生の話は終わりですね」
 男は散らばったカルテを片付け始めた。
 「典型的な症例ですね。誰からも愛されず、ただ生きてきて終わった人生が、楽しかっただの嬉しかっただの幸せだっただの、そう思い込みたがっている」
 男は俺をじろっと見ると、せっかく整理したカルテを俺に向かってぶちまけた。
 「あなたは私に嘘をついているように考えていますが、そうじゃないんです。あなたは自分に嘘をついているんですよ。本当は気づいているんでしょう? あなたの人生はもっと、暗くて、静かで、何もない、虚ろなものだったって」
 カルテがひらひらと舞って、男が書いた内容が目に映る。イベント。俺が体験してきたと言い張ってきたイベント。嘘ばかりだ。
 孤児だった俺は、物心ついたときから一人で過ごしてきた。
 年をとっても一人。
 大人になっても一人。
 年老いても一人。
 楽しい思い出もないままこの人生は終わってしまうのか、と毎日震え続け。
 そして————そのまま終わってしまった。
 認めたくなかった。
 だから楽しかったふりをした。
 本当は何もなかったのに、誇張したんだ。
 だって怖いじゃないか。
 虚しいじゃないか。
 辛いじゃないか。
 きついじゃないか。
 悲しいじゃないか。
 寂しいじゃないか。
 …………

 「とてもいい夢でしたね」
 突然男が尋ねてきた。とっさに答えようとするが、口が動かない。
 「は……は……」
 「かわいそうに。そこまでして肯定したいんですね。自らの人生を」 
 「う……あ……」
 「何も無いのです。ハリボテなんです。虚空を歩き続けて、倒れた先は無なんです」
 男は机の上から何かを持ってくるような仕草をした。
 「あなたに処方箋を差し上げましょう」
 そう言って男は手を開いた。しかしそこには何も無かった。何も無い。何も無い————
 「おやすみなさい」
 声が聴こえた。
 「いや、人生という名の夢が終わるんですから、『おはよう』ですね」
 ああ、俺が消える……。
 せめて嘘でもいいから、夢を見させてくれ————
 「おはよう。ようこそ、無へ」

 ・・・

 目が覚めた。
 起き上がってみると、汗をびっしょりかいている。嫌な夢を見た。
 周りを見渡す。
 汚れた部屋があり、窓の外には町が広がる。
 ふと疑問が浮かぶ。
 この世界は夢?
 それとも現実?
 これは無?
 それとも違うのか?
 分からない。
 誰にも、分からない。

 そうか、この世界は。
 夢なのか現なのか。
 分からないまま生きている。

 ——そんな、胡蝶の夢。


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