風を切り、歪んだ咆哮を上げ、カブは町外れを駆けていく。
 寂れたガソリンスタンドを左に曲がると、見慣れた小道が目に飛び込んでくる。
 俺はカブを少しずつ減速させ、小さな一軒家の前に停めた。薄汚れたブロック塀の向こうに、臙脂色の瓦屋根が、これまた薄汚い顔を覗かせる。
「兄ちゃーーん!」
 騒がしい足音と高揚した声がして、木製の扉が勢いよく開かれる。中から少女が靴も履かずに飛び出し、俺の方へと駆けてくる。
「おかえり、兄ちゃん!」
「ただいま、珊瑚。ちゃんと留守番してたみたいだな」
「うん!」
 珊瑚が大きく頷くと、その動きで長い髪が揺れる。
「何買ってきたの!?アイス買ってきてくれた?」
「あー…アイスはないなぁ。今日の食糧だよ」
「しょくりょー!?」
 珊瑚が目を輝かせる。男の子にも負けず劣らずの冒険好きである珊瑚は、この手の用語に弱い。
「ああ、今日は今から旅に出る!準備をしろ!」
「やったーー!おやつ買ってもいい?」
「おう、いっぱい買ってこう」
「やったーー!!」
 両手を挙げて喜ぶ珊瑚の頭をぐしゃぐしゃに撫で、二人手をとって家に入っていく。
「足、ちゃんと拭けよ」
「はーい」
 玄関のマットに飛び乗り、1、2、3と数えながら足を拭くと、珊瑚は階段を軋ませて駆け登り、自分の部屋に向かった。
「さて、おれも準備をしないとな」

 部屋に入るなり、押し入れからリュックサックを引き摺り出す。埃を軽く払うと、旅に必要な道具を詰めていく。
 地図にコンパス、携帯電話。ライター。雨合羽2枚。俺用の懐中電灯に、珊瑚用のヘッドライト。できれば使いたくないが、非常用の防寒具とビバーク用のツェルト。こんなものか。あとは——
 おっと、こいつを忘れちゃいけない。
 机の引き出しを開け、懐中時計を取り出す。手に取って少し眺めたのち、リュックに放り込み口を締める。準備万端だ。
 俺がリュックを背負って部屋を出ると、扉の前に帽子をかぶった珊瑚が行儀よく立って待っていた。
「お待たせ。準備できたか?」
「うん!早く行こ!」
 珊瑚が歯を見せて笑う。その頭を撫でると、くすぐったそうに首を振ってまた笑った。

 家の外に出て、鍵を閉める。
 その場に屈んで靴紐を締め直すと、珊瑚も思い出したように靴紐を締める。
 再び立ち上がった珊瑚にヘルメットを渡し、自らも被ると愛車のホンダ・スーパーカブ110に乗り込む。珊瑚は後部座席にちょこんと腰掛けては、両手を広げて俺にしがみつく。二人の間で厳しく取り決めたルールだ。
「よーし、行くぜ」
「おーっ!」
 エンジンをかける。断続的な音と揺れが、気分を高揚させる。
 俺はゆっくりとアクセルを踏み、カブを発進させた。
「出発しんこーっ!」

 カブは町並を横目に駆け抜けていく。周りの風景から次第にビルが消え、駐車場が消え、田圃や畑だらけの田舎道になる。
「だんだん空気が澄んできたなあ」
 エンジン音に負けないように声を荒げて言う。
「ねぇ、どこに行くの!?」
 珊瑚も負けじと大声を出す。
「さあなー!!」
「もーっ、教えてよー!」
 目には見えないが、頬を膨らませる珊瑚の姿が脳裏に浮かんで、笑みがこぼれる。珊瑚はというと、俺の背中にヘルメット越しの頭をぐりぐりと押し付けてきている。
「おいおい、危ないって!」
「教えないからだもん」
「それは後の楽しみにとっとけって。ほら、最初の目的地が見えてきたぞ」
「え、どれ!?」
 片田舎には似つかわしくない大きな建物がちらっと目に入る。カーブを曲がると、その全容が視界全体に開けた。
「ハンズボーイだーー!」
 道を逸れて駐車場に入り、カブを停める。俺たちがまずたどりついた巨大なこの施設は、この地方で最大の規模を誇るホームセンター、ハンズボーイだ。スーパーが併立しているので、買いたいものがあればたいがいは揃う。この悪立地にあっても、休日は主に中年以降の人々で賑わい、なかなかの活気を呼んでいる。
「何買うの!?」
「必要なもの」
「教えてってばー!」
「見てりゃわかるよ」
 珊瑚と手を繋いで店に入り、工具コーナーに直行する。ここにはなにか必要になれば頻繁に買い物に来るから、足取りは慣れたものだ。平日の昼間だから、店内に人はほとんどいない。
「日曜大工コーナー?何か作るの?」
「ああ」
 俺はノミとハンマー、タガネを大小2本ずつカゴに入れてレジへ向かう。会計を済ませるとホームセンターを出て、今度はスーパーへ。
「それ、あたしが持つ!」
 珊瑚が工具の入った袋を指さして言う。
「重いぜ?」
「いいの!」
 言われたとおりに持たせてやると、やはり重かったのか、苦悶の表情を浮かべる珊瑚。
 少し邪心が芽生える。
 俺は珊瑚を置いて軽々と足を進めてみた。珊瑚は重そうな足取りであとからよろよろと着いてくる。
 俺が涼しい顔で振り返ると、珊瑚は目に涙を浮かべてこちらをじっと見てきた。
「兄ちゃあん…」
 慌てて駆け寄り、袋を持つ珊瑚の手を取る。
「ごめん、兄ちゃん…」
「おれこそゴメンな。ちょっとイジワルしたくなっちまったんだ」
 俺は袋の取っ手の片方を掴み、力を入れて持ち上げた。
「重かっただろ。半分持ってやるから」
「うん…」
 半分と言いつつもほとんどの重量を俺が支えながら、二人でスーパーに入った。こちらの店内もやはり空いていて、レジの店員は暇そうに欠伸をしている。
「じゃあ、好きなだけお菓子買っていいぞ」
「わーい!」
 さっきまでの涙が嘘のようにはしゃぎ、珊瑚は駆け出す。現金なもんだ。
「今日のしょくりょーもここで買えばよかったね!」
「あー…そうだな」
 それでも良かったのだが、ここは立地上の理由か、酒を置いていない。以前、それで悔しい思いをしたから、今日は別で買ってあるというわけだ。
「もう十分か?」
「えーっと、うん!もういいよ」
 買い物を続けること数十分、無事珊瑚の許可が降りたので安心してレジに向かう。単価の安い菓子類とはいえ、これだけ買えば二千円くらいにはなりそうだ。

「トイレ大丈夫か?ここから結構長いぞ」
 すでに後部座席に陣取っている珊瑚に尋ねると、元気よく首を縦に振る。よしとばかりに俺も頷き、カブのキーを挿し込む。
「次はどこに行くの?」
「ある人たちの家だよ」
「ある人たち…?」
「おまえも会ったことはあるはずだけど、憶えてないだろうな」
 そこまで言ってエンジンを入れ、カブを発進させる。珊瑚はまた咄嗟に俺にしがみついた。

 山道に入り、走ること約1時間。珊瑚ははじめのうちこそ景色を面白がっていたが、すぐに飽きたらしく口数がすっかり少なくなっていた。
「まだ着かないのー?」
「まだかかるな。ちょっと気分転換するか」
「どうやって?」
「少し行ったところに展望台があるんだよ。そこで休もう」
「わかったー」
 再び沈黙が訪れ、エンジン音だけが響く。
 日はすっかり高くなってしまった。日暮れまでに目的地につけるか、微妙なところだな。
 カブは道を外れて高台へと登っていく。遮るものが何もなくなり、日射しが直に刺さる。
 しばらく登ると、小さな駐車場のある展望台にたどりついた。
「うわぁーっ!」
 カブを停めると、珊瑚はすぐに柵のある方へ向かって走って行く。
「すごい!海だ!海が見えるよ兄ちゃん!」
「ああ、綺麗だろ」
「うん、キレイ!」
 山の一番高いところにある展望台からは、下界の景色が一望できる。眼下に広がる平原、ミニチュアのような町々、光が点々と反射する海。
 展望台には幸いにも、俺たち以外に誰もいない。
 山の上は空気が美味い。できればこの陽気の下で昼寝でもしたいところだが、先はまだ長いからな。
「この景色を見てると、疲れも吹っ飛ぶな」
「うん!ねえねえ、写真とろうよ!」
「えっ写真?カメラなんて持ってきてないぞ」
「えーっ!ひどい!」
 不満を垂れながらも顔は笑っている。十分リフレッシュできたようだ。ここに連れてきて正解だった。
「そろそろ行くか」
「うん!」

 展望台を発ち、山道を下りていく。珊瑚はまた口数を減らしていったが、今度は退屈からではなく、眠くなってきたらしい。それでも背中にしっかりしがみついているのだから律儀だ。
 山を下りきり、ちょっとした町外れに出る。緑の多い田舎の町だ。
 橋を渡り、小さな川に沿ってカブを走らせる。
 この辺りには古い住宅が立ち並んでいる。その中では大きめの、木造の家の前に俺は停車した。
「んー、着いたの?」
「たぶんな」
 表札を確かめる。『佐々木』。間違いない。
 少し緊張する。俺は慎重にインターホンを鳴らした。
「はい、佐々木でございます」
「あ、こんにちは、高瀬藻太朗です」
「あら、やっぱり藻太朗くん!よくきたねー、今開けるから」
 インターホンが切れ、門が開けられる。中から痩せ気味の中年の女性が出てくる。
「ほんとに久しぶりね、藻太朗くん!あら、もしかしてそっちは妹の!」
「珊瑚です。ほら、挨拶しろ」
「こ、こんにちは…」
「珊瑚ちゃん、おばちゃんのこと憶えて…」
 珊瑚の帽子の下を覗きこんだ瞬間、女性の目が見開かれ動きが停止する。
 やっぱりか。
「あっと、ご、ごめんなさいね!もう憶えてないわよね!何年も前だもの」
「今日はお世話になります、美映子おばさん」
「ええ、ほんとにゆっくりしてってね!じゃ、入って入って」
 言うと女性は一人そそくさと家に入っていく。
 わかってはいた。こうなるだろうと思ってはいたが、つらいものだ。
「珊瑚、気にするな。入るぞ」
「…うん」
 珊瑚は、帽子を目深にかぶり直した。

「ほんとうに、残念だったわねえ」
「はい」
「ふたりとも、辛かったわね」
「大丈夫ではなかったですね。でももう平気ですから」
 俺たちは茶室に招かれ、この家の持ち主である夫婦と向き合っていた。奥さんのほうが、俺たちの母親の姉にあたる。
 その母親も、その夫である父親も、二週間前に死んだ。

 車の事故だ。
 両親が珊瑚を連れてドライブに行ったその日、家族を乗せた車は、脇見運転のトラックに横から衝突され、炎上した。三人とも病院に運ばれ、俺が駆けつけた時には、父も母も冷たくなっていた。
 珊瑚だけが奇跡的に一命を取り留めた。
 全身に、大きな火傷痕を残して。

 父はいざという時のために遺書を残していた。もう五十だったから、色々と不安はあったのだろう。
 遺産はすべて息子である俺に譲ること。葬式はしないこと。面倒が嫌いな父らしい遺言だ。
 それでも事後処理は必要になる。その相談にと伯母に呼ばれていたのを、珊瑚の回復を待って今日まで伸ばしてもらっていたのだ。
「二人とも、まだ完全に自立したわけじゃないんだ。特に珊瑚ちゃんはまだ小さい。うちで世話を見てもいいんだぞ」
 目を瞑って黙っていた伯父が、穏やかに口を開く。
「お気遣い、感謝します。ですが心配はいりません。父が遺してくれた財産もあります」
「おれたちでは助けにならないか?」
「すみませんが、今は二人だけでやっていくつもりです」
「…わかった。何かあったら、すぐに言ってくるんだぞ。信用出来ないかもしれないが、おれたちだってきみたちの親族なんだ」
「はい。ありがとうございます」
 伯父は黙って頷くと、ゆっくり立ち上がって部屋を出ていく。
「あ、あなた!じゃあ二人とも、ゆっくり休んでいってね」
 伯父を追って伯母も部屋を出る。襖が閉められ、俺たち二人だけが残される。
「…あの人たち、こわい」
 珊瑚がポツリと呟く。
「でも、おれたちの心配をしてくれる人たちだよ」
「…そんなの、関係ないもん」
 伯父も伯母も、珊瑚の顔の火傷痕を一度も直視しようとはしなかった。まあ、それが普通だろう。だがそれは、これまでは帽子なんて被ることのなかった珊瑚の心に、確実に傷をつけてもいる。
 珊瑚は連れて来ない方がよかったかもしれない、なんて思いが頭を過る。でもそれは、時間稼ぎにすぎない。
「じゃあそろそろ、旅の続きと行こうか」
「えっ、まだ続きがあるの!?」
「当たり前だろ。本番はここからさ」
 珊瑚の目に輝きが戻る。
「でもその前に、ちょっと用意しなきゃいけないもんがあるな」
 俺は立ち上がり、部屋の隅に蚊取り線香の缶を見つけ、ひとつ取り出してリュックに入れると、襖を開いた。
「わっ!」
 途端、驚いたような声がする。目の前には割烹着を来た女中の姿。聞き耳をたてていたのか。
「どうかしたんですか?」
「ど、どうしたもこうしたもない!あんたがいるっていうから、ちょっと見に来ただけだ!そしたらなんか重いムードになってっから…!」
「!その声…美緒か?」
「そうだよ!!」

 俺にはいとこが一人だけいる。佐々木美緒。母の姉である美映子伯母さんの一人娘だ。美緒とは同い年で気も合い、会う度に一緒に遊んだものだが、佐々木家に来ることがなくなってからは、6年間一度も会うことがなかった。
「久しぶりだな美緒。女中さんかと思ったぞ」
「そんなの雇ってないよ。うちの家事はだいたいあたしがやってんの。元気そうね、藻太朗」
「いや、元気ではないって」
「でこっちが珊瑚ちゃん!?久しぶりー大きくなったね!」
 美緒は俺の返辞など気にもかけず、珊瑚に飛びつく。
「こ、こんにちは、みおさん…」
「ちゃんでいいよ。美緒ちゃん!言ってみ?」
 珊瑚の目を覗きこんで美緒が言う。
「み、みおちゃん」
「よしよーし!」
 美緒は珊瑚の頭を撫でる。珊瑚は戸惑いつつも、満更では無さそうだ。
「で、だ。美緒ちゃん」
「あんたは駄目よ」
「ちょっと訊きたいんだけど、きな粉のおはぎって作れる?」
「おはぎ?作れっけど」
「頼む。今からいくつかこしらえてくれないか」
 片目を瞑って手を合わせる。訝しげに眉をひそめる美緒だが、やがて合点したように頷いた。
「わかった。10分くらいかかる。待ってな」
「恩に着るよ」
 美緒が厨房に引っ込む。俺は珊瑚に座っているように手で促すと、美緒の後を追って厨房に入った。美緒はすでに作業を始めている。
「美緒」
「なんだね」
「サンキューな。珊瑚を元気づけてくれて」
「感謝されるいわれはないね」
 声が少し震える。照れているのか、こちらを見る素振りすらない。
「あと、わざわざ俺に会いに出てきてくれて」
「とっとと帰れ!」

「ほら、できたよ。持ってきな」
 門の前で美緒からおはぎの入ったタッパーを受け取る。
 すでに日は傾きかけている。俺と珊瑚はすでにカブに乗り込み、ヘルメットも被って準備万端だ。
「ありがとう」
「ありがと、美緒ちゃん!」
「おう、ガンバレよ珊瑚ちゃん」
 珊瑚が手を振ると、美緒はガッツポーズで応える。
「じゃ行ってくるわ」
「あんま遅くなんなよ」
 エンジンを入れてみて、ガソリンが残り少ないことに気づく。
「なあ、このあたりのガソリンスタンドってどこかな?」
「あー、一番近いのはそこの信号左に曲がってしばらくまっすぐのとこだな」
「OK。何から何までありがとう」
「いーってことよ」
 俺は地図を開いてルートを確認すると、まずはガソリンスタンドに向けてカブを走らせた。

「レギュラー満タン、お願いします」
「はいよー」
 スタンドのおやじは調子のいい笑顔で返辞をし、タンクのカバーを外すと給油ポンプのプラグを差し込む。
「ねー兄ちゃん、あれ何?」
 珊瑚があさっての方向を指さす。つられて見ると、大きな工場らしき建物。その外壁には、『柿本製菓』の文字。
「柿本製菓って、確か…」
 昔、父が好んで食べていた『ホワイトクェイク』というチョコレート菓子を造っているのが、柿本製菓という会社だった。父がその四角いホワイトチョコレートを頬張る姿を憶えている。
「いいこと思いついたぞ」
 笑みがこぼれる。
「珊瑚のおかげだ。でかしたぞ!」
「え?えへへー」
 珊瑚は釈然としない様子だったが、頭を撫でられて顔を綻ばせる。
 そうこうしている間に給油が終わった。
「行くぞ、次の目的地はあの工場だ!」
「おーーっ」

 工場へはすぐに到着した。隣に本社ビルであろう建物がある。せっかくだから、『ホワイトクェイク』を幾らか頂戴してから行こうという算段だ。
 珊瑚の手を取り、ビルへと近づいていく。
 ふと、様子がおかしいことに気づく。人の気配がない。
 まさか——
「お前ら何してんの、そんなとこで」
 不意に後ろから声がかかる。驚いて振り返ると、ワイシャツを着た男がこちらを見ている。
「そんなとこ、コソドロに入ったってなんもねーぞ」
「すいません。その、もしかして、柿本製菓は…」
「ツブれたよ。もう何年も前にな」
「…そうですか…」
 少し落胆する。父の大好きな『ホワイトクェイク』はとっくに会社ごとなくなっていたのだ。
「で?何の用なの」
「『ホワイトクェイク』が買えればと思って来たんですけど…」
「ホワイトクェイク?」
 男は素っ頓狂な声をあげたかと思えば、次第に顔を歪ませ不気味に笑い出した。
「ヒヒヒヒ。ホワイトクェイクか!」
 珊瑚は怯えるように俺の後ろに隠れている。
「そうか、まだ憶えてん奴がいたのか!んでツブれたのも知らねーで買いに来たってのか!ヒャハハハ!」
 男は虚ろな目でポケットを探り出し、こちらを見てまた笑うと、その手から何かを投げつけた。
「!?何だ?」
 思わず眼前に左手を出し、その何物かを手に掴んだ。
「ヘヘ、ビビんなよ」
 掴んだそれは、見慣れたパッケージの袋だった。
「『ホワイトクェイク』…」
「やるよ。2年前のだがな」
 男は眉を吊り上げ、不敵に笑う。
「ヒヒヒ。何を隠そー、おれがその柿本製菓の元社長、柿本よ」
「えっ…」
「そいつは会社がブッツブレた時の余りもんでよ。そんなもんをいつまでも未練たらしくもってんだから、おれも情けねーよな」
 言うと男はこちらに背を向けて立ち去ってゆく。
「おれにゃあもう何もねえ…全部なくなっちまった。カラッポなんだよ」
 不意に珊瑚が走り出し、男のもとに駆け寄る。男のすぐ背後で立ち止まると、ニカッと笑った。
「ありがと、おじさん!」
 男は目を丸くして振り向く。
「あ…ありがと!」
 たじろぎつつ、また笑顔を見せる珊瑚。
 男は穏やかな笑みを浮かべ、珊瑚の頭を掌で優しく叩いた。そうしてまた背中を向けて、ふらついた足取りで遠ざかってゆく。
「…なんか救われたよ」
 男が夕闇に消えた時、蚊の鳴くような声が聞こえた気がした。
 俺はホワイトクェイクを3つに割り、1つを珊瑚に渡し、1つを口に放り込んだ。
 チョコレートは固く、味が悪かった。自然と顔がすぼまる。
 俺と珊瑚は、互いのしょぼくれた顔を見て笑った。

 夕陽の下をカブは唸りを上げて進んでいく。小さな丘を越える道の途中だ。
「もうすっかり空が紫だな」
「うん、キレイ」
 流石に疲れてきたか、古くなったホワイトクェイクの後味がまだ残っているのか、珊瑚は元気が無い。
 もう目的地まで後少しだが、このままでは珊瑚が持たない。
 と、心配を覚えてきた矢先。

「ここは…」
「すごーーい!!」
 丘を登りきると、黄色い菜の花畑が広がっていた。
「止めて、兄ちゃん!止めて!」
「わかった」
 道路の脇に停車し、俺達は花畑に降り立つ。
 辺り一面に広がる菜の花。その向こうには遠くにそびえる山々が見え、太陽がその少し上で橙色の光を放っている。
「ねえねえ、ここでしょくりょー食べていこうよ!」
「そうだな」
 カブに下げた買い物袋を引っ張り出し、地べたに広げて珊瑚と一緒に囲む。
 よほど腹が減っていたのか、珊瑚は菓子を次々に開けては平らげていく。
「兄ちゃん、ぶっちょいる?」
「おれはいいよ」
 俺はというと、買い込んでいたマカダミアナッツを一粒また一粒と噛み下していく。まだビールが飲めないのがつらいところだ。
 珊瑚はあらかたの菓子を食べつくすと、立ち上がってふらふらと歩き出す。
「どうしたんだ?」
「チョウチョがいた!」
 言うと珊瑚は蝶を追いかけてか、花畑の中を走りだした。
「おいあんまり慌てるなよ!危ないぞー!」
「だいじょぶー!」

 すっかり日が落ち、かすかな虫の声と、時々通る自動車の音だけが響いている。
「蝶、見つかったか?」
「ううん、逃げられちった」
「もういいのか?」
「うん、行こ」
 珊瑚はヘルメットを被り、後部座席に座る。俺も乗り込み、エンジンをかけ、ライトを点けた。
「ラストスパートだ。行くぞ」
「おーーっ」

 しばらく走ると、周りに木々が多くなってきた。暗闇の中、慎重にカブを走らせていく。
 珊瑚が俺の服を握る力が強くなったのに気づく。
「どうしたんだ?」
「暗くて、ちょっとこわい」
「大丈夫だ。おれがついてる」
 それだけ言って笑うと、俺はまた口元を引き締め、ゆっくりとハンドルを切った。

 深い森の中、道端にカブは停まった。車道のそばに、森の奥へと進む細い道が続いている。
「よし、ここでいいはずだ」
 俺はリュックからヘッドライトを取り出し、珊瑚に手渡す。珊瑚が神妙な顔で装着し、スイッチを押すと、小さな光が辺りを照らした。
 リュックを背負い、片方の手を珊瑚と握り、もう一方の手に懐中電灯を持って、俺は森へと足を踏み入れた。

「前に一度、オヤジにここに連れてきてもらったことがあるんだ。珊瑚が生まれるより前だよ」
 風で木の葉が揺れる音が鳴り響く。珊瑚は少し怯えた様子で、俺の話に黙って耳を傾ける。
「その時ここはもう廃村でね。さすがのオヤジも寂しそうな顔してた。あのオヤジさん、表情変えるなんて滅多にないことだったから、俺まで寂しくなったよ。珊瑚の前じゃあ、よく笑ってたがね」
 父の笑い顔を思い出し、感傷的になる。珊瑚も同じなようで、鼻を啜る音が小さく聞こえた。
「オヤジがそんなだったから、おふくろはよく困ってたよ。おとうさんがどうして欲しいのかわからないってな。時々余計な気を回しちゃあ、ケンカになったりもした」
 足元には岩がゴロゴロ落ちていて歩きづらい。俺たちは転ばないように気をつけながら、道を進んでいく。
「でも珊瑚が生まれてからは、そんなこともめっきりなくなったな。たぶん、お前がいつも笑ってるせいだよ」
 俺は珊瑚に顔を向け、目一杯笑った。珊瑚は、照れくさそうに俯く。

 生い茂る草に囲まれた廃墟の前で俺たちは立ち止まった。
「さあ、着いたぞ」
 俺はリュックを下ろし、工具を取り出す。
「ここは何?」
「オヤジの生まれた家。オヤジの両親、つまり珊瑚のおじいちゃんとおばあちゃんは、ここにあった小さな村で野菜を作って暮らしてたんだって。二人とも若くして亡くなったから、おれも会ったことはないんだけどな」
 草の中に、苔がびっしり生えた大きな岩を見つける。
「これがよさそうだな。始めるか」
 俺は小さい方のハンマーとタガネを珊瑚に渡すと、岩を転がして家の前に設置した。
「何をはじめるの?」
「オヤジとおふくろが安心して眠れる場所を作るんだよ」

 二人で次々にタガネを打ち込んで、苔の付いた部分を剥がしていく。初めのうちは珊瑚はもたついていたが、慣れてくると夢中になってハンマーを振っていった。
 ひととおり表面が綺麗になったのを確認して、俺は岩の正面にノミを入れて、父の名前、次いで母の名前を彫り込んでいく。
「よーし、できた。あとは供え物だな」
 焼け焦げて動かなくなった父の懐中時計。固く不味くなったホワイトクェイク。美緒が作ってくれた、佐々木家伝統のおはぎ。前もって買っておいたユウヒ・ハイパードライの缶。それらを次々と岩の前に置いていく。
 最後に、佐々木家から盗ってきた蚊取り線香を取り出し、火を点けた。
「ちょっと恰好はつかねえけどな」
 蚊取り線香を置いて、手を合わせようとしたその時、珊瑚が一歩前に進み出た。
 珊瑚は、ポケットから菜の花を取り出し、岩の前にやさしく供えた。
「珊瑚、おまえ」
「にひひ」
 珊瑚が屈託なく笑う。つられて俺の頬も弛む。
 俺にはもったいないくらいの、いい妹を持ったな。
 二人手を合わせ、目を閉じた。風音の中で、両親の記憶を、頭いっぱいに呼び覚ましながら。

「これでいいの?」
 目を開けて、珊瑚が尋ねる。
「いいんだ」
 俺はそう答えると、岩のある方へ向き直った。

 オヤジ。おふくろ。
 あんたらを失ったのは、あまりにも重いことだったけど、おれたちはおれたちなりに、これからも二人でなんとかやっていくよ。
 珊瑚のことなら心配はいらない。珊瑚は強い子だ。
 あんたらに代わって、おれが責任をもって育て上げる。
 そのためになら、おれも生きていける。

 珊瑚に手を引かれ、意識を戻される。
 俺は黙って頷くと、その手を握り返した。
「またおなかすいちゃったー」
「帰ろう。美緒がうまい飯作って待ってる」
 俺たちは、二人で歩いてきた道の方へと、また歩き始めた。

 ——じゃあなオヤジ、おふくろ。おれたちは生きていく。


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