部屋のドアを開けると、妹の足先が目の前にあった。
 5つ下の妹ももかは俺のベッドでうつ伏せに寝転がり、我が物顔で漫画を読んでいた。ももかが足を動かすと、履いているピンクの靴下があっちこっち動く。俺の部屋には鍵がついてないから、度々ももかがこうして入ってくる。だが別に邪魔というわけではないからいつも放って置いている。因みにももかの部屋も鍵がついていないが、入ったことはない。
 部屋の中に足を踏み入れても、ももかは視線一つ寄越さない。「おかえり」の一言でもあればなといつも思うが、この妹にそんな期待は無駄だ。
 机に向かってバッグを投げ、椅子に座る。机には付箋がベタベタと貼ってあって、嫌でも書いてあることが目に飛び込んでくる。
 【 課題 112-120 -12/17 】
 【 ゼミ準備 19p -12/12 】
 【 バイト申込み行け 】
 その中でも一際大きい付箋が眼の前にあった。
 【 珪素原稿 テーマ:兄妹 -1/6 】
 「珪素」は俺が所属している文芸サークル「山頂」が毎月出している雑誌だ。毎月部長がテーマを決め、それに則ってメンバーが作品を書く。部長がテーマを決めると言っても、その場の気分であることが多い。
 『おい武井。お前妹いるよな?』
 『ああ。いるけど、それが?』
 『よしテーマ決定』
 こんな具合だ。部長である工藤とは中学以来の付き合いだが、未だに奴の行動は読めない。
 そんなこんなで決まったテーマだが、なまじ妹がいるから書きづらい。前回のテーマ「季節のイベント」はこれはこれで難しかったが、今回のは格別だ。
 棚にある前回の珪素11月号を引っ張りだしてみる。80ページぐらいの紙の雑誌で、そこそこ重い。表紙を捲ると目次があり、7作品載ってる事が分かる。ペンネームも7つあるが、このうち3つは工藤だ。「山頂」は5人で構成されている。
 パラパラとページを捲っていくと、それぞれの作品が目に入ってくる。
 まず部長の作品があった。部長の工藤順は俺の友人であり、尊敬している人物でもある。文学全体に造詣が深く、古典文学からラノベまで読みふけっていて、作品の種類もファンタジーや推理小説、恋愛ものにエログロナンセンスなど何でも書く。父親が登山家らしく、その影響か山に触れている作品が多い。ペンネームは「煙」「Si」「切れないハサミ」など色々。
 次に俺の作品が載っていた。1万字ぐらいの、そこそこの出来だと思っている作品。珪素には読者投票があるが、いつも工藤が上位を占めている。俺もいつか1位を取りたいものだ。ペンネームは「ポリモフ」(武井=多形=polymorphism)。
 次は横山だった。1つ下、2年の横山健太はエンターテインメントに特化している。またパソコン系の作業が得意で、表紙や挿絵等は全て横山が描き、原稿を本の形にするのもやってくれている。中学からの付き合いの彼女がいるらしいが、その人も情報教室で出会ったとか。何かしらパソコンと円が深い奴だ。ペンネームは「リア王」。
 その後に1年の作品が並ぶ。1年は2人いて、どちらとも女子だ。
 片方は長瀬真由美。時々短編を書くが、いつもは詩を投稿している。よく洗練されていて、特に絶望や孤独といった負の感情を扱った作品はこちらまで感情が侵されそうなほど質が高い。そういった詩がいつも絶賛されるが、俺としては偶に書かれる親子の愛情を描いた作品の方が心温まって好きだ。ペンネームは「cicada」。
 もう一方は河野めぐみ。クールで物静かな長瀬とは対照に、彼女は明るくてよく喋る。性格は真逆だが、長瀬ととても仲がいい。河野の作品は、正直言うと意味が分からない。いつも脳天気そうなテンションで始まるが、やがて超自然的な描写が続いたり謎の人物が現れたりとカオスになっていく。しかしいつの間にか全てが整然となって完結している。工藤曰く「カオスからコスモスへの転換の権化」らしいがやっぱり意味がわからない。一回本人に何を描いているのか聞いてみたことがあるが、「からあげモンスターなのです!」と回答され、そこで理解を諦めた。ペンネームは「からあげ」。
 作品を一通り目を通してから雑誌を閉じる。裏表紙には「人生の70万分の一をください」と書いてあった。人生を80年として、大体その70万分の一が1時間なんだそうだ。たが、この量を1時間で読めるのは工藤ぐらいしかいないと思う。
 珪素を片付け、引き出しからノートパソコンを取り出して電源をつける。そしてログインし、USBメモリの中のテキストファイルを開く。中身は見事に真っ白だった。一文字たりとも書かれていない。さて、何を書いたらいいだろうか。
 そのままぼんやり画面を眺めていると、突然ポケットの携帯が鳴った。取り出して開くと、工藤からのメールだった。
 『山頂メンバーの諸君。原稿の捗り具合は如何だろうか。忘れはしないと思うが、テーマは兄妹だ。最近のラノベを見ると、どこを見ても妹だらけだ。彼らはただ妹を出せばいいと思っているに違いない。君たちも知っての通り供給過剰は商品の価値を下げる。そう、今「妹」は安易な大量生産によりブランドの危機に貧しているのだ。そこで今回はあえてテーマを「兄妹」にした。今こそ世の人々が失ってしまった「妹」を取り戻すため、「妹」の真の良さを思い出させる、そんな作品を書いて欲しい。締切は来月10日だ。以上』
 こんなに文章が長々としているのは、工藤の機嫌が良い証拠だ。何か楽しみなことでもあるのだろう。それにしても、こんな壮大な考えがあったから俺に妹の事を聞いたのか、それとも俺の妹の存在を知ってこんな理由を後付けしたのか……。まあどちらでもいい。テーマは変わらないんだから。
 妹。俺にとって、ももかは不思議な存在だ。ももかはとにかく俺に対して愛想が悪い。しかし俺を嫌っている訳じゃない。嫌っていたらあんな所で漫画を読んでいるはずがない。昔は良く一緒に外に出かけ、二人でアイスでも食べたものだ。あの時は結構懐かれていた気がするが、今はどうだろう。俺に興味があるのかどうかも分からない。
 ふと目線を感じて後ろを振り向く。ももかは相変わらず漫画を読み続けている。ディスプレイに顔を戻し、ペイントを立ち上げる。起動し終わったら最大化し、黒で塗りつぶす。ディスプレイは暗くなると鏡にもなるのだ。そこを通して後ろの方を確認すると、案の定ももかはこっちを横目で見ていた。とりあえず関心くらいはあるようだ。けれど今度は何を考えているか分からない。
 ペイントを閉じ、再び白いテキストエディタと睨めっこをしてみる。兄妹。兄妹。兄と妹……。
 その時少しアイデアが浮かんできた。「兄妹」はただのテーマなんだから、「兄妹」に触れさえすれば何を書いてもいいじゃないか。そう考えて後ろを振り向く。ももかはやはり漫画を見ていた。そんな妹に呼びかける。
 「おい、ももか」
 ももかは漫画を読みながら、むすっとした声で返事した。
 「なに、陽にい」
 陽一だから陽にい。この呼び方だけは昔から変わらない。
 「お前、小説とか書く気ない?」
 「……何で」
 「珪素の次のテーマが『兄妹』なんだ。お前も書けば兄妹で小説書いたってことでテーマを満たせるだろ? そうすりゃ自由に書ける」
 ももかに小説を書かせたら、ももかが常々何を考えているか少しは分かるかもしれない。そういう目論見もあった。
 ただ、ももかは愛想が悪かった。
 「あっ、そう」
 そう返事きり、ももかは何も言わなかった。しかし、片手で髪をいじくっていた。いじくられた髪の毛先がぴくぴく揺れ動く。本人は気付いていないが、興味を示した時、良いことがあった時、嬉しかった時といった肯定的な感情を持つとき、ももかはよくこうやって髪をいじくる。感情の激しさは髪の揺れ動き具合で大体分かる。今回はそこまで毛先が動いていないから「そこそこ興味アリ」という程度だろうが、それで十分だ。
 「何文字でもいい。一応テーマは『兄妹』だけど、何書いてもいいぞ。あ、テキストかワードで頼む」
 ももかは返事しなかったが、用件は伝わったはずだ。携帯を取り出してさっきのメールに返信する。
 『妹にも書かせていいか?』
 送信ボタンを押すと、程なく返事が帰ってきた。
 『大歓迎。珪素がどんなものかちゃんと説明しておけよ』
 「珪素」や「山頂」のことは食事中に話題になったことがあるから知ってるだろうし、前に珪素を読んでたら茶色い髪の毛が挟まっていたことがある。こっそり読んでいるに違いないから、大方分かっているだろう。
 もう何も問題はない。後は書き上げるだけだ。

 30分が経った。時計の長針が180度動いたのを確認したところで頭が力尽きてしまった。あまりに自由というのは逆に疲れる。テーマが無いと何も思いつかないものだ。
 仕方がないので、テーマを「兄妹」に戻して再び思考を進める。
 この場合一番楽なのは、ももかについて書くことだ。いわゆるノンフィクション。ただそれを書くにあたって、俺はそこまでももかの事を知っているわけじゃない。観察が必要となる。
 椅子を回転させてももかの方を向き、じっと見つめる。ももかは黙って漫画を読み続ける。「じろじろ見るなキモい」とか言わないのがももかのいい所だ。「じろじろ見るな」と言わないのは、自分が兄をじろじろ見ているからである。ももかは理不尽なことをしない。恐らく俺が勝手にももかの部屋に入ってそこにある本を読んでも、ももかはジトッとした目で俺を見るだけで何も言わないだろう。
 しばらく寝っ転がっているももかを眺めていたが、それだけで妹が何を考えているか分かるはずがない。諦めて再びパソコンに向かう。
 それから紙にアイデアを書きだしてみたり、自分の過去作品を読んだりしてみたが、結局この日は一行も書けなかった。

 ・・・

 何日か経った。大学ももうすぐ冬休みに入る。冬休みは何して遊ぼうか考えながら台所に向かうと、妹がすでに朝食をとっていた。
 ももかの向かい側に座り、皿のラップを剥がす。両親はすでに仕事へ向かったようだ。テレビをつけてニュースを見ながら食べ物を口に運ぶ。
 しばらくテレビを眺めていると、突然ももかが口を開いた。
 「陽にい、やっぱ私も書く」
 「知ってる」という言葉が喉元まで出かかったが、ギリギリの所で抑えた。ここで無駄に反発されてはかなわない。横目で見ると、ももかはテレビの方を見ていた。つくづく人と目を合わさない妹である。
 「おう、助かる。締切は来月の6日な」
 ももかは特に頷きもしなかった。だが髪の毛の代わりに箸がぴくぴく動いているので機嫌は悪くないようだ。
 それでも何故書きたいのかは分からない。もしかすると珪素を読んで自分も書きたくなったのかもしれないが、推測の域を出ない。
 それでもあの妹が、間接的にかも知れないが俺を手伝うために何か書いてくれるのだ。その後の食事はずっと無言が続いたが、気分は悪くなかった。

 大学の講義が全て終わり、建物の外へ出る。サークル棟の近くを通ると、見知った顔がベンチで音楽を聞いていた。
歩いて近寄ると、俺に気付いた後輩の横山は耳からイヤホンを外した。
 「あ、先輩お久しぶりです」
 「作品どう? 進んでる?」
 横に座ってそう尋ねると、横山は不敵な笑みを浮かべた。
 「もうアイデアは固まってるんで、後は書くだけですね。今回はかなり出来がいいので、いつか本にしたいくらいです」
 「期待してもいいみたいだな」
 「はい、もう楽しみにしといてください! タイトルは『機械騎士ネメシス』!」
 横山は入部してからずっと同じ世界観、同じ設定で作品を書き続けている。それが中々凝っていて、ラノベとして出したら結構売れるんじゃないかと思うレベルだが、新規読者がついてこれないためにランキングが低いのが残念だ。
 「ネメシスって確か、スターシューターに所属してた……」
 「覚えてくれてたんですね! そうですメテオライト戦の立役者です。世紀末シリーズが一年かけて完結したんで、今度はネメシス主人公のコスモエンド編に入ります」
 「じゃあ今までの主人公エリニュスは降板か」
 「これからは脇役に徹することになりますね」
 読んだ者にしか分からない会話を繰り広げている途中で、今回のテーマについて思い出す。
 「今回は兄妹だろ。そこらへんはちゃんと考えてるか?」
 前回は確か、世界規模の冬の祭典『フリア祭』で祀られる古代の英雄フリアは実は時を遡って戦ったエリニュスだった、という流れでテーマ『季節のイベント』を消化していた。
 「もちろん考えてますよ。で、先輩の方はどうなんですか?」
 「俺? さっぱりだ」
 「でも先輩妹がいるんじゃ……」
 「妹がいるから逆に書きにくいんだ」
 「なるほど。でも、だからこそ自分の妹を書くってのもありですよ」
 「いや、ないから」
 でも何かしら書き始めないとな、と呟くと、どこからか土を蹴る音が聞こえてきた。振り返ると、一人の女の子が小走りでこっちに向かってくる。少し茶の入ったショートヘアに黄色い髪留めをした可愛い子だった。それを見た横山がベンチから立ち上がった。女の子は横山の前で止まると、肩で息をし始めた。
 「遅れて…………ごめん……」
 いきなり現れた人物に驚いていると、それを察した横山がすぐに紹介してくれた。
 「ああ、えっと、井上明日香っていう名前の」
 「彼女か」
 「まあ、はい」
 横山は井上という彼女の肩を叩き、今度は俺を紹介した。
 「この人が武井先輩。サークルの副部長」
 軽く会釈をすると、横山の彼女は少し吃りながら挨拶してくれた。
 「こ、こんにちは……」
 そしてすぐに横山の後ろに隠れるかのように移動した。横山が苦笑いをする。
 「すみません……ヒロちゃんは滅茶苦茶人見知りなんです。誰も居ない時とか、チャットの時はかなりお喋りなんですけど」
 「いいよ。別に気にしてねえ」
 その時、じっとしていた横山の彼女が、横山の服の裾を何度か引っ張った。横山は「ああ、ごめん」と言って彼女の手を握った。
 「じゃあ先輩。今日はこの辺で帰りますね」
 「ああ……お幸せに」
 そのまま横山とその彼女は仲良く校門の方向へと歩いて行った。
 それにしても行動が分かりやすい女の子だった。ももかもあれぐらい分かりやすいと有難いんだが。
 そんななことを考えながら、自分もベンチを立った。

 キャンパスを出てしばらく行くと、少し大きめの電気屋がある。いつもはただ通り過ぎるのだが店の中にこれまた見知った顔を見つけて立ち止まった。
 店の中に入り、電子辞書コーナーへ行く。するとそこには、商品をじーっと見つめている妹がいた。後ろに立って肩を叩くと、ももかはびくんと震えて振り向いた。叩いたのが俺だとわかると、ももかは何事もなかったかのように商品の方に顔を向け直した。よく見ると、ももかが眺めていたのはポメラだった。
 「何でポメラ?」
 ももかは口をつぐんでいたが、やがてぼそっと呟いた。
 「私、パソコン持ってないから」
 確かに俺以外でパソコンを持っているのは親父だけだ。そして親父の仕事の関係上そのパソコンに触れてはいけない。つまりももかに物を書く手段がないのだ。すっかり失念していた。
 ポメラの値札を見ると、19800円と書いてある。確か今5千円台で買えるものもあったはずだが、ここには置いてないようだ。
 「ももか、お前今いくら持ってる」
 「4千円」
 「無理だな」
 「…………」
 ももかはしょんぼり肩を落とした。ちゃんと兄妹をテーマにすることにしたからもう妹が書く必要は無い。だから諦めろと言っても良かったのだが、流石にそれは悪い。
 そう考えてももかの背中に声をかけた。
 「俺の貸してやるよ」
 ももかの頭がぴくんと震えた。
 「どうせ俺の部屋に入り浸るんだったらその時かけよ。どうせそんなに使わんから。後でアカウント作ってやるよ」
 「…………!」
 落ちていた肩が元に戻った。ももかはポメラから目を離すといきなり歩き出し、そのまま店を出て行った。ももかは何も言わなかったが、ただ楽しそうに髪の房をくるくると回し続けていた。

 ・・・

 一段と寒くなってきた。それに伴ってか妹が俺の部屋に来る回数が増えてきた。ももかの部屋は北側だからここより寒いのもあるだろうが、やはり目的は原稿執筆だろう。漫画を読むことはめっきり無くなり、その代わりに俺の机でキーボードを叩いていることが多くなった。
 しかし打つのが遅いこと遅いこと。俺もあまり早いほうじゃないが、ももかは俺の半分くらいのスピードしかない。ただ打ち込んでる量はももかの方が多いだろう。何故なら俺はまだ1ページも書いていないからだ。
 ベッドから起き上がり、掛けてあったダウンジャケットを着る。そして無言で部屋を出、玄関に向かった。最近買ったばかりの靴を履いて外へと歩き出す。
 風が実に寒い。冬の乾いた冷たい風が容赦なく顔を襲う。もうじき雪が降るかもしれない。
 前に部室で河野がこう言っていたのを思い出す。
 『アイデアが浮かばなかったら、外を歩くといいですよ。お外にはまだ見ぬ発見がいっぱいあるのですから』
 今藁をも掴む気持ちでその助言に従っている。だが河野のような感受性の強い子ならこれでいいんだろうが、俺は大学生活ですっかり擦れてしまった男だ。あまり期待は出来ない。

 あてもなく街中を彷徨っていると、懐かしい店が目に入った。小道に入ったところにある小さな駄菓子屋だ。昔はよくここへ来ていたものだ。
 少しばかり童心に帰って中に入ってみることにした。古びた引き戸をを引くと、ちりんちりんと小さなベルが鳴る。中に入ると見ただけで胸の中が懐かしさで満たされる駄菓子があちこちに置いてあった。
 店の奥から「よっこらしょ」というお年寄りの女性の声がして、駄菓子屋のおばちゃんが出てきた。そして俺をしげしげと見つめ、目をまんまるにした。
 「あら陽ちゃん! 大きくなったねえ」
 おばちゃんは顔をほころばせて俺の背中をぱんぱんと叩いた。
 「ほら、寒いから上がんなさい。お茶いれてあげる」
 「ありがとうございます」
 一礼して、店の奥の畳の間に上がる。おばちゃんは急須と湯呑みを持ってきてお茶を入れてくれた。一口飲むと、凍えたからだが暖かくなった。
 「陽ちゃんは今どうしてるのかい?」
 「近くの大学に通ってます。今三年です」
 「そうかいそうかい。あんなに小ちゃかったのにねえ、こんなに大きくなっちゃって……。この店もこんなに寂れちゃったけど、まだまだやっていけるから、いつでもおいで」
 「ありがとうございます」
 おばちゃんはニコニコしながら俺の急須にお茶を足した。
 「そういえば、ももかちゃんは元気?」
 妹の話が出てきて、少しだけむせた。
 「はい。特に病気もなく」
 「なら良かった。そうそう陽ちゃんはいっつも、ももかちゃんと一緒にここに来ていたわよねえ。いっつもアイスを買ってたわ」
 そうなのだ。小さい頃よくこの駄菓子屋にももかと共に来ていた。そしていつもアイスを買って二人で食べながら帰ったものだ。きっとその記憶があるからこそこの辺に来たのだろう。
 「みんな無事に年が越せそうで良かったわ」
 それからしばらく昔の話で盛り上がった。そして俺がお茶を飲み干すのを見ると、おばちゃんは立ち上がった。
 「忙しい大学生をあんまり引き止めちゃいけないわね」
 「特に忙しいわけでも……」
 「でも若いんだから、やること一杯あるでしょ。こんな陰気臭いとこに居ないで、好きなことやってらっしゃい。あ、そうだ」
 おばちゃんは商品棚の所に行き、お菓子を袋に入れて持ってきた。
 「ほらこれ、お土産。持って帰って皆で食べてちょうだい」
 「いいんですか……こんなに」
 「いいのいいの。今度はももかちゃんと一緒においで」
 「あ、どうもありがとうございます」
 そしておばちゃんに見送られながら駄菓子屋を出た。手にお菓子のつまったビニール袋を持って、寒い道をまた歩き出す。
 歩きながら、妹とあんまり話さなくなったのはいつからだろう、と考えてみる。
 恐らくそれは、俺が全寮制の高校に行ってからだろう。ももかと話す時間も何千分の一に減り、どう接していいか少し忘れてしまったのかもしれない妹は今、ずっと離れ離れだった俺をどう思っているのだろうか。分からないから、特に接しづらい。だから今放任形式でやっている。特に迷惑じゃなかったらももかの行動に対して特に何も言わない。そうすればギクシャクしたももかと衝突することもないだろう。
 そんな腫れ物に触るような扱い方でいいのかどうか、今日の俺には分からない。
 明日の俺には分かるんだろうか。
 それも、分からない。

 ・・・

 大晦日まであと一週間となった。年賀状もあらかた出し終わり、あと残っている重要タスクは小説執筆くらいだろう。
 こんな時期でも、妹は相変わらずベッドの上に居座って漫画を読んでいる。俺は白いエディタを眺めながら適当にカタカタ手を動かしている。書いては消し、書いては消し。アイデアが思いついたと思ったらすぐに詰まったり納得行かなかったり。
 そんな状況で軽く自己嫌悪に陥っていると、軽快なメロディがポケットから聞こえてきた。取り出すと部長からの電話だった。すぐに電話にでると、部長の久々に聞く声が耳に入ってくた。
 『お、出た出た。どうだい調子は? 元気してる?』
 「あんまり進まん」
 『やっぱりか。妹いるもんな。だがそこを乗り越えてこそいい景色が見える。まるで韓国岳の五合目みたいに』
 「すまん意味が分からん」
 『ああ説明不足だった。えびの高原から上った方の五合目だ』
 「……登ったことねえよ」
 『あっそう』
 いきなり山の話をするのは工藤の特徴でもある。
 「で、何の用だ?」
 そう聞くと、工藤はやっと目的を思い出したようだった。
 『そうそう、部室に入れるの今日までだろ。珪素用の印刷用紙仕入れてきたから、代わりに部室に持って行ってくれない? 俺今から静岡なんだ』
 確かに工藤の家は、大学と比べればこの家の方がずっと近い。しかし問題が無いわけでもない。
 「おいA3用紙2千枚で何キロあると思ってんだ」
 『んー。200キロぐらい?』
 「どうやって持ってくんだよ」
 そう聞いてみたが、電話の向こうからゴロゴロ転がる音がしてくる。嫌な予感しかしない。
 『台車は俺が帰ってきてから返してくれればいいから』
 「……まあ持って行ってやるけどよ。せめて承諾を得てからこっちに来ようぜ」
 『おお頼まれてくれるか。ありがとう! あとで旨いもん奢ってやるよ』
 「……そうかい」
 『じゃあそろそろそっち着きそうだから切るわ』
 ガチャ、と音がして携帯が通話時間を表示した。はあ、と溜息をついて画面を眺める。何かいつも俺は損な役回りな気がする。
 ネットサーフィンをしながら時間を潰していると、程なく工藤からメールが来た。
 『今着いた。ちょっと表出ろ』
 おもむろに席を立って、そのまま部屋を出る。玄関まで行ってドアを開けると、お洒落な格好をした工藤が台車にもたれながら立っていた。
 「お前静岡に何しに行くんだ」
 「由有子と年越し」
 「彼女持ちは羨ましいな」
 「もうすぐ彼女じゃなくなるぞ。そこでプロポーズするからな」
 やはり工藤の考え方は俺には理解できない。
 「まあ頑張れよ」
 「お前も頑張れよ」
 そう行って工藤は台車の取っ手を俺の方に向けた。そして手に持っていた袋を俺に渡した。
 「途中で安売りしてたから買ってきた。ほら、旨いもん奢るって言ったろ」
 袋を開けてみると、大量の唐揚げが湯気を上げていた。
 「これで喜ぶのは河野ぐらいだぞ」
 「部室に持って行って皆で食えばいいさ」
 工藤は腕時計をちらっと見て、肩をぐっと回した。
 「それじゃ、そろそろ空港行ってくる。良いお年を」
 「ああ。良いお年を」
 そう俺が言うや否や、工藤の後ろの曲がり角からタクシーが出てきた。工藤はさも愉快だという顔をしながらタクシーに乗り、そのまま走り去っていった。あとには唐揚げの袋と台車だけが残った。
 台車はひとまず玄関先に放置して、袋を持って自分の部屋に戻る。それからパソコンをログアウトして、妹に席が空いたことを知らせる。
 「俺これから部室行ってくるから、その間使っといていいぞ」
 そしてそのまま部屋を出ようとすると、ももかはむくっと起き上ってぼそっと言った。
 「行く」
 「え?」
 予想外の言葉に思わず聞き返す。ももかは窓の外を見ながらもう一回言った。
 「私も行く」
 ももかはベッドから降りると、俺の前を通って自分の部屋に戻った。そして1分くらい経ったあとに白いジャケットを来て出てきた。
 何故俺についていきたいのか分からない。それでも別に邪魔じゃないから断る理由もない。
 「……来たいんなら来れば」
 そう言って玄関に向かう。ももかも後ろからついてくる。靴を履き、唐揚げの袋を台車に乗せると、ももかは物珍しそうな目で2千枚分の紙包みを眺めた。ももかが靴を履き終わったのを見ると、ゆっくりと台車を押し始める。ももかは小走りで俺の後ろに来た。
 無言。
 無言。
 ただただ無言。
 台車の車輪が転がる音と街の喧騒のみが俺の耳に入る。別に気まずいとう訳じゃないが、話しかけにくい。俺の後ろの妹は今俺の背中を見ながら何を考えているのだろう。そんな推測モードになると、ただでさえ少ない口数が皆無になってしまう。
 お互い何も話さないまま延々と歩き続け、やがて大学の西校門に辿り着いた。
 ごろごろと台車を押しながら校門を抜け、そのままサークル棟に向かう。サークル棟1階の一番東の部屋が目指す部室だ。
 部屋の前に来ると、扉の上にでかでかと「山頂」の文字が見える。これを見てここを文学サークルと思う奴は一人もいないだろう。事実ももかは不思議そうな目でそのプレートを眺めていた。
 「山頂」は工藤が作ったサークルで、俺は誕生の瞬間に立ち会っていた。
 2年前、勧誘ポスターが所狭しと貼られているベニヤ板の前で、工藤は俺とそのポスターを眺めていた。
 『この大学には文芸サークルはないのな』
 工藤が残念そうに呟いたので、俺は何枚かのポスターを指す。
 『何言ってんだ。3つぐらいあるだろ』
 『その3つな、訪ねてみたら全部お遊びサークルだったよ。ただ集まってどっか遊び行くだけで、部誌の一冊も出してやいない。そんなのが文学サークルな訳ない』
 工藤は暫く黙り、それから一人頷いて俺の肩をポンと叩いた。
 『そういう訳で、俺サークル作るから。正真正銘の文学サークル』
 そして工藤はニヤッと笑った。
 『登山家と馬鹿は高いところが好きなんだ。俺は愉快な馬鹿が集まる、そんなサークルを立ち上げる。武井は入るか?』
 その当時文芸雑誌を読み始めていた俺は、興味があったのでこくんと頷いた。
 サークルの最低人数は5人だから、工藤は残り3人をすぐに集めてきた。そいつらは諸事情でその内辞めていったが、代わりに新入部員が来た。「山頂」は今でも5人構成だ。だが「山頂」の名に恥じないなかなか愉快な場所なんじゃないかと思う。
 昔のことを思い出しながらドアを開けると、パチンパチンと将棋を指す音が聞こえてきた。見ると、河野と長瀬が紅茶片手に盤を眺めていた。俺が入ってきたことに気づくと、河野振り向いて手を振った。
 「あっ、武井先輩ではないですか! お久しぶりです!」
 「ああ。てか何で将棋盤があるんだ?」
 「隣の将棋部『呪縛』が余り物を貸してくれたのです。原稿が書き終わって暇だったので、こうして年末の一時を過ごしているのですよ」
 河野がはきはき喋る反対側で、長瀬がぺこりとお辞儀した。
 「お疲れ様です」
 俺の横の台車を見たのだろう。今日初めて労いの言葉をかけてくれた。
 「ああ。ちいと疲れた」
 空いている席に座ると、河野がうんうん唸り始めた。どうやら河野の番らしい。
 「河野って将棋強いのか?」
 長瀬に尋ねると、河野が角を手に持った。
 「先輩、今こそ見せてあげます。幻の王手飛車角取り!」
 「メグ、そこに置いたら角に取られるわ」
 「あ……!」
 河野は再び唸り始めた。長瀬がふう、と一息つく。
 「こんな感じですね」
 「なるほど」
 納得した所で、何か別の違和感を感じた。そういえば何故この二人はももかに反応しないのだろう。不思議に思って振り向くと、ももかはいなかった。
 「あれ、ももかは?」
 つい口に出すと、長瀬が首を傾げた。
 「ももかって?」
 「妹がさっきまでいたんだが」
 「え、妹さんが来てるんですか?」
 腕組みしていた河野が目を輝かせた。席をたち、部室を出て廊下を見ると、ももかが入りにくそうな顔をしていた。
 「入れよ。別に問題ないぞ」
 そう言っても、ももかは尻込みする。どうやら知らぬ人に会うのが苦手らしい。だったら何故俺について来たんだ。
 「わあ! 可愛い妹さんですね!」
 部室から河野が出てきた。その後ろに長瀬もいる。
 「えっと、名前は……」
 「……武井、ももか」
 ももかが蚊の鳴くような声で答えた。河野がももかの手を握る。
 「ももかちゃんですか。ほら、遠慮は入らないですよ!」
 河野はそのまま妹を部室に引っ張っていった。まあ、女子の扱い方は女子に任せるのが一番いい。
 再び部室に入ると、将棋盤はどけられ、椅子と紅茶カップが3つに増えていた。長瀬やももかと対照的に、河野が人一倍テンションが高かった。
 「武井先輩、ももかちゃんは何年ですか?」
 「今高1だ」
 「てことは私より3つ下ですね」
 河野が嬉しそうに言った。
 「何で河野はこんなにテンション高いんだ?」
 長瀬に尋ねると、長瀬は紅茶を啜りながら答えた。
 「メグは年下の姉妹がいないので。私もですけど」
 「そういうことか」
 「そういうことです」
 自分が一番年下と扱われてきたから、急に新たな妹が出来たようで嬉しいのだろう。
 「私のことは『めぐみお姉ちゃん』って呼んでもOKですよ!」
 「……めぐみ、お姉ちゃん」
 そこでボルテージが最大になったようだ。
 「マユちゃん聞きました? 私お姉ちゃんって言われましたよ?」
 「聞いてたわ」
 「ももかちゃん、このクールな子は真由美ちゃんっていうのですよ」
 「……真由美、お姉ちゃん?」
 その言葉を聞いて、紅茶を飲んでいた長瀬の頬に朱が混じった。そして紅茶を飲み干すと、コトンとカップを机に置き、河野の方を向いた。
 「……メグ、あなたの気持ちがちょっとだけ分かったわ」
 「マユちゃんなら分かってくれると思ったです!」
 女子勢が盛り上がっているの見ながら、持ってきたA3用紙を長机の上に移していく。全部移し終わると、残った唐揚げの袋を椅子の上に置いた。
 「ほら、部長からの差し入れ。唐揚げだってよ」
 「え、唐揚げですか?」
 唐揚げ、の単語を聞きつけて河野がこっちを向いた。
 「大量にあるから皆で食えってさ。もう冷えたけど」
 「今から給湯室行って温めてきます!」
 河野は勢い良く席を立つと、唐揚げの袋を掴んで部屋の外に飛び出した。急に部室が静かになった。ようやく開放された妹がほっとした顔をしていた。
 「河野と長瀬は原稿上げたんだっけ」
 「はい。一昨日くらいに」
 「早く仕上げないとな。俺まったく進んでない」
 「あと2週間以上あるから大丈夫と思いますよ」
 そう言って長瀬は新しいコップに紅茶を注いで渡してくれた。ありがたくいただく。
 「困った時は身近なことでも書けばいいですよ。私もずっとそうしてきましたから」
 一人っ子だから今回は手こずりましたけどね、と言って長瀬は少し笑った。

 そのまま和やかな時間を過ごしていると、慌ただしいのが戻ってきた。
 「申し訳ないです。唐揚げを食べるのに夢中になりすぎて帰るのを忘れてました」
 「ちょっと、唐揚げの量が半分くらい無くなってないかしら?」
 「これを『半分も』とせずに『半分しか』と思うのをポジティブシンキングと言うのです!」
 言いながら河野は唐揚げを一つ爪楊枝で突き刺して口の中に入れた。そして何度も咀嚼して飲み込む。その光景と見ながら、工藤のことを思い出した。
 「部長と言えば……」
 「そうですプロポーズしに行ったんですよね!」
 さすが女子。この手の話は耳が早い。
 「彼女さんと一緒に富士山に行くんだそうですよ。さすがお父さんが登山家なだけありますね。一年前で成功する正夢を見たとも言ってましたし、部長なら絶対成功するのです!」
 「そのまま樹海に行かなきゃいいが」
 「それはとても困るのです」
 河野は唐揚げをまた口に入れた。それ横目で見ながら長瀬が呟いた。
 「部長は何があっても変わらない気がしますけど」
 「確かにその通りですね。私の高校の友達に彩花ちゃんって子がいるんですけど、最近彼氏が出来てからその人の事ばっかりメールで話すんです。昔はあんなに真面目なクールガールだったのですけど。でもその点部長は万年通常運行ですね。流石なのです」
 「彼女出来てからNTR本と憂国が読み辛くなったらしいけどな」
 「そうなんですか……微妙に繊細なんですね」
 工藤の話で盛り上がっていると、部屋の隅にいる妹が目に入った。いつの間にか珪素のバックナンバーを読んでいる。時折髪の房をいじくってるので、何やら満足しているようだ。席をたって近づき、声をかける。
 「読みたいなら持って帰れば? 台車あるし」
 ももかはパタンと冊子を閉じ、立ち上がって台車のところに行った。そしてそれを押してくると、バックナンバーが入ったダンボールを重そうに持ち上げて台車に乗せた。
 「そろそろ帰るか」
 ももかは河野と長瀬にペコリとお辞儀すると、台車を押して部屋を出て行った。
 その間に河野は驚異的なスピードで唐揚げの残り半分を胃におさめていた。
 「結局全部食ったのか」
 「世界史上稀に見る殲滅戦だったのです!」
 お腹をぽんぽん叩く河野の横で、長瀬が出口に向かう俺を見ていた。
 「先輩、もう帰るんですか?」
 「ああ。早く原稿書かないと」
 長瀬は「そうですか」と頷いた。
 「それでは、良いお年を。先輩」
 「良いお年をなのです」
 「そちらこそ良いお年を」
 俺が部屋を出る直前、河野が大きな声で言った。
 「先輩、変なこと思わずにちゃちゃっと書くといいのです。そうすれば作品なんてあっという間に出来るのです!」
 筆が進まないことを察したのだろう。その心遣いが嬉しかった。
 「ありがとな。それじゃ」
 後輩二人のアドバイスを胸に、ももかの背中を追いかけた。

 ・・・

 大晦日になった。年明けまであと数時間。家族四人でテレビを見ながら蕎麦を食べていた。ガキ使を見ながら親父が時折笑うのとは反対に、母・兄・妹はあまり喋らなかった。
 「まったく喋らんなお前たち。陽一とももかは母さんに似たんだなあ」
 酔っ払った親父はCMになると絡んでくる。
 「だから多分お前たち酒強いだろうな。父さんこの前酔っ払って3回同じ店を梯子したんだよ。同じレシートが3枚あった時には驚いたよほんと。酒弱いと損だぞ損。だけど酒に弱いやつ用の飲み方のコツってあってな」
 そのまま親父の薀蓄話が続く。テレビを見ながら聞き流していると、ももかが立ち上がった。
 「ごちそうさま」
 「あら、早いわね」
 おふくろが意外そうに部屋を出るももかの背中を見た。
 「ガキ使は面白いと思うんだがな」
 「お父さんの話が面白くないのよ」
 「悪い悪い」
 その時、ポケットの携帯が鳴り出す。開けてみると工藤からだった。
 『結論だけ、書く。成功した成功した成功した成功した成功した。俺は成功したぞ!』
 どうやらプロポーズとやらは上手くいったらしい。『良かったね』とだけ書いて返信した。
 そのまま3人抜きでテレビを見続け、やがて時計が12時を指した。新年の挨拶をお互いに交わしたあと、俺は席をたって自分の部屋に戻った。
 ドアを開けると寝息が聞こえた。電気はつけっぱなしで、大量の部誌に囲まれた妹がすやすやとベッドで眠っていた。散らかっているものを部誌を片づけ、ノートパソコンの電源を入れる。ログインしてテキストファイルを開くと、真っ白なウィンドウになる。
 ベッドの方を向いて、ももかの寝顔を見る。ももかは、何を思っているのだろう。何を思って珪素を手伝い、俺と一緒にあの時部室に行ったんだろう。分からない。さっぱり分からない。何となくテキストを打ち込む。
 『妹とは実に不思議なものである』
 まるで私小説でも始まりそうな雰囲気だ。まさか書く気なのか俺は。そんな恥ずかしい事出来るわけがない。
 その時横山の言葉を思い出した。

 『だからこそ自分の妹を書くってのもありですよ』
 
 でもなあ、と思っていると、長瀬の言葉も頭に浮かぶ。

 『困った時は身近なことでも書けばいいですよ。私もずっとそうしてきましたから』

 そう言われてもな。無理なもんは無理だ。どんな顔して出せばいいんだよ。
 そう考えると、河野の励ましが思い出される。
 
 『先輩、変なこと思わずにちゃちゃっと書くといいのです。そうすれば作品なんてあっという間に出来るのです!』

 指をキーボードにつけた。それでも尻込みしていると、工藤の声が聞こえた気がした。

 『そこを乗り越えてこそいい景色が見える。まるで韓国岳の五合目みたいに』

 もう一度、ももかの寝顔を見る。何を思っているのか分からない。でも分からないなら、尋ねればいい。本人に、直接。小説という形で。
 そこから先は、今までの状態が嘘であるかのように手が進んだ。
 『妹とは実に不思議なものだ。常々何を考えているか分からない。でも時折興味を示す素振りを見せる』
 主人公は妹のことについて悩んでいる。そういう設定。
 『何故か俺の部屋をよく訪ね、ベッドを占領する。どう接すればいいか分からないから、いつも放っておく』
 それからつらつらと過去のことを書き並べていった。

 人と話すときまるで目を合わせないこと。
 急に部誌制作に協力してくれたこと。
 駄菓子屋のお菓子をあげても無反応だったこと。

 流石にそのまま書いては俺達の私生活をそのまま暴露してしまうことになるので、あれこれ設定を変え、当の本人以外には分かりづらいようにする。それくらい事は造作も無い。

 パソコン貸した時にやけに嬉しそうだったこと。
 何故か一緒に部室に来たこと。
 それから部誌を持ち帰ったこと。

 思い出せる限り思い出し、無駄に丁寧に描写する。それだけで字数がかなり増える。窓の外は徐々に明るくなり、最後の一文を書き始めた時、朝日が窓から俺の顔に降り掛かってきた。初日の出に目を細めながら、その一文を書ききった。

 『こんな妹だが、これからも仲良くやっていこう。これは妹がいる日常なのだから』

 何度か読み返し、誤字脱字をチェックしてから工藤にメールで送りつける。あとは野となれ山となれ。俺は書けるものを書いただけだ。
 送信し終わった途端、急に疲れがどっと噴き出してきた。そこで妹に原稿の送り先を伝えてなかったことを思い出す。工藤のメールアドレスを付箋に書き込み、原稿が完成したらここに送る旨を追記してパソコンに貼る。
 そしてそのまま眠りに落ちた。

 ・・・

 1月6日になった。珪素の締切日だ。ももかは俺が送った次の日に原稿を書き上げたらしく、あの時はやけに清々しい顔をしていた。
 朝起きると、工藤からメールが届いていた。
 『今日製本作業をする。妹君もつれてくるように  追記:最近めっきり恋愛物しか読まなくなった。とりあえず二都物語を読め』
 最近は恋愛物の中の悲劇しか読んでいないらしい。悲劇を読んで今の自分がいかに幸せかを実感しながら楽しむらしいが、俺には到底理解できない世界だ。
 その後廊下でももかとばったり会ったので、一緒に来るよう伝えた。ももかは特に何も言わず自分の部屋に入っていった。
 自転車は一台しか無いので、片方しか乗れない。仕方ないのでまた歩くことにした。
 また無言の遠行が始まる。今度は薄い黄色のジャケットを着て、俺の横をももかが歩く。息は白く、耳は少し霜焼け気味だった。思い出したように髪の毛をくるくるいじったかと思えば、寒さに手を引っ込める。今日のももかは見てて面白かった。
 一時間ほど歩いて大学に到着する。授業が始まるのは10日からだから、人が全然いない。一部の気の早いサークルが活動しているだけである。
 「山頂」の部室に入ると、全員揃っていた。新年の挨拶をここでもしたあと、また中に入ってこようとしない妹を無理やり部屋に引き入れた。
 製本用の長机が並んであり、横山が表紙の色付き用紙を並べていた。いつもは青しか無いのだが、今日は黄色も混じっていた。
 「何で今回は2色なんだ?」
 「ドラえもんとドラミちゃんです」
 横山が自信たっぷりに答えた。言われてみれば確かに兄妹だ。
 並べる作業が一段落した所で、工藤が完成冊子を6冊持ってきた。
 「出来上がったものがこちらになります」
 「部員用をまず作ったのか。お疲れ」
 「メンバーが全員揃った所で読書会とでもいこうかね」
 ここからは嬉し恥ずかし品評タイムとなる。要するに皆でお互いの作品を読み合うのだ。
 冊子を受け取ると、近くの椅子に座って読み始める。
 まずは工藤の作品だった。今回は4つあり、どれも恋愛物だった。ハッピーエンドのものや悲劇もの、コメディと工藤の創作力の凄さに感心させられた。だが、4つめの最後で4作品に出てくるカップル8人が実は4人の浮気の結果だと分かり軽く驚愕した。
 河野の作品は、今回は読みやすかった。少女2人が仲良く年をこす話。おそらく河野は長瀬の家で年を過ごしたんだろうな、というような内容だった。
 そこで終わりかと思ったらもう1作品あって、今度は安心の意味不明仕様だった。おそらく年内に仕上げたのがこっちで、年末を友人と過ごして前者を書きたくなったのだろう。
 長瀬の作品は、兄と妹の思いやりを描いた暖かいものだった。長瀬自信の優しさが伝わる読んでいて心地良いものだった。
 横山はコスモエンド編を予告通り書き上げていた。地球意志ガイアと月意志ルナの壮絶な兄妹喧嘩をネメシスが収める話だった。確かに地球と月は兄弟である。この場合は兄妹だが。最後のシーンのネメシスのセリフ『吾輩の剣は地球も月も一刀両断できる。だが兄妹の絆だけは切れぬのだ』が無駄に格好良かった。
 そして妹の作品が来た。ふと顔をあげると、ももかは目の前の席にこっち向きに座っている。ももかはページをバラバラと飛ばしたので、おそらくこれから俺の作品を読むのだろう。俺は少し緊張しながら最初のページを読んだ。そして驚いた。
 『兄は本当に不思議な存在だ』
 思わず顔を上げた。最初は俺の作品を勝手に読まれたのかと思った。だが、ももかの顔も驚愕の色をしている。遠くで工藤がニヤニヤ笑っていた。

 兄としばらく会っていないからどう接すればいいか戸惑ったこと。
 兄があんまり喋らなくなったから、部屋に侵入を繰り返しり、観察をしたりしていたこと。
 それでも放っとかれているので、自分はどうでもいい存在になったかと心配したこと。

 どんどん読み進めていく。作中には何度も『兄の考えていることが分からない』と綴られていた。

 部誌を書くよう言われたので、自分は必要とされていると分かって少し嬉しかったこと。
 いきなり駄菓子を部屋に置いていかれて、何の意図か分からなくて動揺したこと。
 兄の書いた作品を読みたくて部室にお邪魔したこと。兄の作品に自分がモデルのようなキャラが居て嬉しかったこと。

 まるで俺の作品のもう片方を読んでいるかというようだった。描写は緻密で、ももかの心の揺れ動きが全部伝わってきた。
 そして最後の分はこう閉められていた。

 『こんな兄だけど、これからも仲良くやっていくつもりだ。これは兄がいる日常なんだから』

 読み終わったあと、ゆっくりと顔を上げた。同時に妹も顔を上げ、目があった。久しぶりに目を合わせたような気がした。
 工藤がパンパンと手を叩き、これから製本作業を始めると伝えた。
 俺はももかの隣で、黙々と手を動かした。
 ももかのあの態度は、俺に起因するものだった。おかしい話だ。お互いがお互いの事を知りたがり、それゆえ双方とも挙動不審になったのだ。おかしさに自然と笑いがこみ上げてきた。ちらっと横目でももかを見ると、妹も少し笑っていた。
 よく考えたら、接し方を忘れたとか、そういう話じゃなかったのかもしれない。また昔みたいに仲良く過ごしたいと思っても、お互い恥ずかしくて、そして相手が前と変わっていたらどうしようという心配で、中々行動に移せずにいた。それだけのことだったのだ。
 製本が終わると、その場で解散となった。俺はももかと共に建物を出る。妹は俺の横を黙って歩く。でもその沈黙が面白くてたまらなかった。
 校門を出た所で、ももかに話しかける。
 「なあ、ももか」
 「なに、陽にい」
 妹はぶっきらぼうに返事した。
 「……これからアイス食べに行かね?」
 妹は少し黙って、それからこう言った。
 「本気? こんなに寒いのに?」
 そんなに寒い中、ももかは手袋もせずに髪をいじくっていた。
 揺れる髪の房が、まるで子犬の尻尾のように見えた。


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