私は兄が嫌いだ。


 仲が悪いとかではなく、嫌いだ。


 私と兄の間に出来た溝は二度と埋まらないぐらいには深い。


 繰り返そう。


「私は、お兄ちゃんのことが嫌い」


 窓の外の月を眺めながらそう呟いた少女の目は乾いていた。


 月明かりにうっすら照らされる静かな夜の町の外れに、夜とは思えないほどカラフルな明かりが明滅しているのが見えた。
 また埠頭で不良の集まりが騒いでいるのだろう。時折ロケット花火の音もする。
 静かな夜をバイクや花火の音が荒らしていた。
 ここ最近の彼らの非行は過激になっている。近隣で問題にはなっているものの、荒れた高校生集団を押さえつけられるだけの力はこの小さな町には無い。彼らは交番の老いぼれ警官などいないも同然にのさばっているのだ。
 断続的に就寝を阻害されながらもようやく私は眠りについた。


 あの頃は楽しかった。


「おにいちゃん!あそぼー!」
 私は自我を持ち始めた時にはもうすでに兄にべったりな妹だった。
 普通の兄弟や姉妹は喧嘩を繰り返して段々と距離の取り方ややっていいこととやっちゃいけないことの分別の練習をしていくものだが私たちはこれという喧嘩をしたことすらなかった。
 兄が自己主張の少ない優しい男の子だったというのもあるだろう。
 対照的に一才しか離れていない私は元気そのもの、明るさ満点の妹だった。
 よく私が弟で兄は姉みたいだねと親戚に言われていたぐらいだ。
「うんいいよ。ゆきは何して遊びたい?」
 兄は私のわがままにいつだって付き合ってくれた。
 遊びに誘うのはいつも私。遊ぶ内容を決めるのもいつも私。それでも兄は病気とかではない限り一緒に遊んでくれたように思う。
 両親は私たちが幼稚園に上がって子育ての一段階目を終わると元の共働きに戻っていたから、幼稚園のない昼間はいつも家で二人だけで遊んで留守番をしていた。
「うーん。きょーはおにごっこ」
「おにごっこ?家の中で?」
 両親がいないときに外で遊ぶのは危ないから禁止されていた。
「うん。じゃー20かぞえてー」
「はいはい。いーち、にー、」
 こんな風に私たちは飽きもせず二人で遊んでいた。
 兄は私のヒーローであり理解者であり兄であった。

 私が小学生に上がってからも仲のよさは変わらず、この頃には周囲からすでに兄は落ち着いた子、私は活発な子、そして仲のいい兄妹というレッテルを貼られていた。
 兄は内気ながらもしっかりとした少年になり、両親は安心して遅くまで仕事に行くようになった。夕飯は私たち二人で作るようになった。その分私と兄が二人きりでいる時間も増えた。
 ある時は兄に宿題を手伝ってもらったり、一緒にご飯を作ったりという機会を通して私は両親に甘えられない分も含めて甘えられるだけ兄に甘えていた。兄もそれに答えてくれた。

 そのまま中学生になった。
 私にも兄にも学校の友達は勿論いたが、それでもやはり一番一緒にいて楽しいというかほっとするのは兄といる時だった。
 部活や委員会で登下校の時間がずれるようになったりもしたが夕飯は必ず一緒に食べて、リビングで同じ夕方を談笑して過ごした。平和で幸せな日々。
 その年にもなるとたまに友達にブラコンなどとからかわれることもあったが、別に兄妹以上の感情を抱いているわけでもないし気にも留めなかった。ただ兄として慕っていただけなのだ。
 兄ももしかしたらシスコンとか言われていたかもしれないが、変わらずに接してくれていた。
 両親は相変わらず夜中まで帰ってこないし、朝も早かったが、おもに兄のおかげで温かい家庭だった。
 幸せなまま時は過ぎていくと思っていた。

 だけど、私が中学二年生、兄が中学三年生の時に全てが崩れ去った。
 平穏でかけがえのない日常はあっけなく終わってしまった。むしろ真逆になったと言っても過言ではない。

 原因は私でも兄でも両親でもなかった。一種の事故といっても事件といってもいい。他人のせいで壊れたのだ。

 曇り空で月だけが薄暗く淡く雲越しに何とか見えるぐらいの暗い夜だった。
 私は走っていた。走って走って逃げようとした。運動はかなり出来る方だったから何とか逃げられると思った。
 部活が遅くなって、たまたま一緒に帰る友達もいなくて、近道をしようと暗い道を選んだのが失敗だった。
 下卑た男どもに目を付けられてしまったのだ。
 路頭でつるんで酒と賭け事に溺れる絵に描いたようなチンピラたちだった。
 走って逃げて、なんとか商店街の端まで来て、もう安全だろうと乱れた息を整えながら歩いていた。
 汗ばむ身体に秋風と恐怖が寒さを感じさせた。
 無事に振り切れた。
 八時は回っていたから大方の店はシャッターを下ろしていたがオレンジの街灯が商店街をそこそこに照らしていたので安心していた。
 いつも夕飯の食材を買いに来ていた商店街の中の見慣れた小さなスーパーの前を通り過ぎた時だった。
 安心していて油断していた。走り疲れていたせいもあった。
 横から不意に現れた男に腕を身体ごと引っ張られた。
 路地裏へと引きずり込まれた。さっきの男達とはまた別のホームレスかゴロツキかなんかだった。三人はいたと思う。
 そんな、と思った。少ないとはいえ人影もあるのに。治安が悪くなったとは聞いていたが商店街までなんて。少し時間帯が遅いだけで商店街は全く別の危険な場所になっていたのだ。
 薄暗い路地裏のすぐ先はいつもの商店街なのにどこか遠くのように見えた。
 汚い男達の手が暴れる私を無理やり押さえつけた。叫ぼうとしても色んな臭さの混じった手で口を塞がれる。
 中学生の私なんかにこんなことをして何が楽しいんだろうと思った。
 路地裏の先を通り過ぎていく人影はまるでこちらは見えないかのように通り過ぎていった。
 男達のうちの一人の手がまだ膨らみ始めたばかりの私の胸に触れた。
「ー!!」
 必死に暴れようとしても全く歯が立たなかった。大人の男と少女の力の差は歴然としていた。
 もうだめだ。私はここで…。
 男の手が太ももに触れそうになった時だった。視界の先に思わぬ人が見えた。
 路地裏の前を通ろうとした彼はこちらに気付いた。
 私と目が合った。私は目で助けて、と訴えた。
 それなのに一旦は立ち止まった彼は一瞬迷った顔を浮かべたかと思うと、逃げるように顔の向きを戻してそのまま行ってしまった。
 どうして!?
 私は心の中で叫んだ。
 咄嗟に裏切られたと思った。

 私はお兄ちゃんに裏切られたんだ、って。

 それからすぐに警官が飛んできた。確かにすぐに来たのだけれど、私にはものすごく遅かったように感じられた。
 蜘蛛の子を散らすように男達は逃げていった。
 ぎりぎり私は大切なものを失う前に助けられた。心には傷を負ったけど。
 両親も慌てて飛んできて、私は家に連れて帰られた。
 泣きじゃくる私に両親は危なかったね、と言った。そしてお兄ちゃんが警察を呼んでくれて良かったね、と。
 私は分かっていた。
 兄が私を助けるために警官を呼びに行ったことも、それが最善の対処であったことも、そのおかげで私の大事なものは守られたことも。
 周りの人たちも賢明なお兄さんだと言って誉めそやした。

 でも私は前ほどには兄を慕う気にはなれなかった。
 事件は心的外傷や恐怖よりも兄への不信という予想外の禍根をもたらした。

 どうして、あの時お兄ちゃんが直接助けてくれなかったの?目の前で犯されそうになってる妹を見て何でそんな落ち着いていられたの?

 頭では兄は何も間違ったことはしていないと分かっていても、心の面で許せなかった。ずっと仲良くしていただけにその冷静すぎた判断が受け入れがたいものに感じられたのだ。
 私にとってはあの時の兄は賢すぎて、落ち着きすぎていて、出来た兄過ぎた。
 兄もある程度後ろめたく思っていたようで、事件の後からあまり話さなくなった。
 急に兄が遠い人に思われ始めたのだった。

 事件から数日後。仕事を一時休んでいた両親は私がもう大丈夫だと判断して仕事に復帰した。気をつけるのよ、とだけ残して。
 まだその時の両親の方が兄よりも家族らしく思えたぐらいに当時の私は恨んでいた。
 そして事件後初めての両親抜きの夕飯。
 私と兄は別々の時間に食べた。
 学校は休んでいた。
 一人、部屋で布団の上に仰向けになって私はぼうっとしていた。
 眠くも無く、することもなく、何となく寂しくて、悲しくて。
 表面上は落ち着いた夜、こんこん、と部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」
 抑揚のない声で私は言った。
 兄は静かに入ってきて、私の机の椅子に腰掛けた。
 私は壁の方を向いて目も顔も合わせないようにした。
 おもぐるしい空気の中で静寂が続いた。
 何を言いに来たのだろう?
 やっと兄が口を開く。
「…もうだいじょうぶ?」
 本気で気遣っているのは明らかだった。当然だ。彼にとっても大切な妹が苦しんでいたのだから。
 でもどうして苦しんでいるのか分かっているのだろうかと、私は皮肉も込めてこう言った。
「おかげさまで」
 また沈黙が流れた。兄は長年の慣れで、私の言葉の裏を感じ取った。
「…ごめん」
 兄はためらいがちにそう言った。
 なんで謝るのよ。お兄ちゃんは何も間違ったことなんてしてないじゃない。
 そう思っても私の口は違うことを言った。
「どうして…どうしてあの時出てきてくれなかったの?」
 兄はどんな表情をしているのだろう。心が痛んだがもう引き戻せない。
 ゆっくりと兄は言葉を返した。
「僕じゃ、助けられないと思って」
 か細く今にも消えてしまいそうな声だった。
「そっ。…最低。見損なったよお兄ちゃん」
 気がつけば私はそう言ってしまっていた。どうやっても取り返しのつかないことを言ってしまっている。
 それなのに不思議と私の中に溜まっていた不快感が少しずつ吐き出されて楽になるような気さえした。
 最低だ。最低なのは私だ。最低なことを言ってる。
「?…」
「弱虫。もうお兄ちゃんの顔なんて見たくない」
 やめて私。もう何も言わないで!
 私は私の口が別な生き物なんじゃないかとさえ思った。
「ごめん…本当にごめん」
「うるさいっ!!聞きたくない!」
 私はその後どれだけ兄を罵ったか分からない。
 とめどない罵倒は私の涙が涸れるまで続いた。
 その全てを兄は黙って、時折謝りながら聞いていた。
 私は叫び疲れた。やけくそで手元のぬいぐるみを取って兄に投げつけようと振り返った。
 兄の顔は私よりも涙でぐちゃぐちゃになっていた。そんな顔は私は今まで見たこともなかった。
 急に私の頭が芯まで冷めた。
 なんてことを言ってしまったんだろう。謝らなくちゃ。
「出て行って」
 なのに口をついて出たのはその台詞だった。
 無気力に投げたくまのぬいぐるみはうなだれる兄の膝にあたってポトンと落ちた。
 くしくも兄が誕生日にくれたぬいぐるみだった。
 兄は俯いたまま立ち上がると部屋から出て行った。ドアを閉める間際にもう一度、ごめん、と言って。
 また一人になった私は枕に顔を押し付け、夜を泣き明かした。
 ごめん…お兄ちゃん…。
 私がその言葉を言える日は来るのだろうか。反語的なその疑問はいつまでも私の胸に罪悪感を刻み続けた。
 窓の外の月は欠けていて、星は見えなかった。


 兄は確実と言われていたのにもかかわらず第一志望だった進学校はおろか、滑り止めにも落ちて、近くでも悪名高い不良高校に入った。そしてグレた。反抗期を飛び越して一気に悪の仲間入り。
 家にいるのは基本的に私一人だけになった。冷え切った家庭で寒い夕食を食べる毎日になった。
 両親も中卒だけはやめさせようと取りあえずで入れた高校で結局グレた兄を見ると諦めてしまったのかもっと仕事に専念するようになった。
 私の孤独は増していった。

 そして今兄は高校三年生。私も高校三年生。兄は一年ダブったらしい。
 大人しくなったと言えば聞こえはいいが、実質根暗になっただけの私は友達も減って部活も止めて勉強ぐらいしかしていなかった。おかげでそれなりの大学を受験をすることにはなったが。
 たまに帰ってくる兄とは顔もろくに合わせず、会話もほとんどしなかった。
 見る度に髪の色や装飾品が変わっていて、昔の大人しい少年の面影は微塵も残っていなかった。
 何も変わらず日々は過ぎ、この家で過ごす恐らく最後の秋が来た。大学は県外を受けるつもりだからだ。今となってはこの家には未練も何もない。
 一方で忌まわしい記憶に悩まされることも続いていた。ふと兄を思い出すと罪悪感がこみ上げる。兄の人生を狂わせたのは間違いなく私だ。罪悪感は二重三重に孤独と共に増していた。

 私は、私たちは本当にこのままでいいのだろうか?

 何百度目かわからない一人ぼっちの夜、私は受験勉強もそこそこに外の騒音を聞きながら蒼い月を眺めていた。
 一人で何が悲しいのかも分からずただ窓の外を見る。

 私は兄が嫌いだ。

 仲が悪いとかではなく、嫌いだ。

 私と兄の間に出来た溝は二度と埋まらないぐらいには深い。

「私は、お兄ちゃんのことが嫌い」

 呟く私の涙は乾ききっていた。

 裏切られたと感じた兄への憤りはもうとっくに消えているし、むしろ私が責められてもいいと思っているぐらいだ。

 …本当は嫌いなわけがない。
 だけど無理にでもそう言わないと私は罪悪感に押しつぶされてしまいそうだった。
 嫌いじゃない兄は記憶の中だけ。今の兄のことは何も分からないし、まるで知らない人のよう。疎遠すぎて嫌いとかいうレベルにすらならない。
 私の知る兄はもういなくなったのかもしれない。

 遠くでまたバイクの音がやかましく鳴り響いていた。
 あの中に私の兄もいるかもしれない。私のせいで。
 私は重荷のあまり死にたくなった。
 もう全部めちゃくちゃになってしまえばいいのに。
 消えてなくなればいいのに。
 死ねばいいのに。
 みんな死ねばいいのに!
「ねえ私どうしたらいい?お兄ちゃん…」
 記憶の中の変わる前の兄に私は問いかけた。
 どうしようもない。

 私は気分転換に外に出ることにした。
 時計を見ると深夜十一時。
 どうにでもなれ、と思った。
 全てがどうでもよくなったのだ。
 最近はあの頃よりも治安がひどくなった。兄のいる高校の不良達や暴走族のせいだ。不良同士の争いも日常茶飯事で殺伐とした町になっていた。
 商店街も町外れの大型ショッピングモールのせいで永久にシャッターを降ろす羽目になってこの町そのものの活気が無くなっている。
 それでも私は深夜徘徊も何も気にすることなく家を出た。
 十月も半ばで夜風が寒いが、コートとマフラーと手袋を着込んでいるので何とか大丈夫だ。
 当てもなく歩く。怖さはなかった。やけになっているせいだろうけど。
 コンビニでホットコーヒーを買って歩きながら飲む。コンビニや公園でたむろする不良がちらほらいたが私には目もくれなかった。それで良かったのに、あの日も。
 飲み終わったコーヒーの缶を通りかかった公園のアルミ製のゴミ箱に投げ入れる。甲高い乾いた音が空しく響いた。

 薄雲が月の前を流れていく。
 そろそろ帰ろうかなと思った頃だった。
 前から五人ぐらいのみすぼらしい男達が歩いてくるのが目に入った。見える周囲には他の人影はない。
 気にせず、すれ違おうとしたが、ふと一人と目が合ってしまった。
「イヒッ、ヒヒ」
 酔っ払っているのは間違いなかった。じろりと下から上までを見られる。
 マズい。
 私は急に怖くなって走り出した。
 案の定、男達は走って追っかけてきた。酔っ払いのくせに結構速い。違う。私が遅くなったのか。運動神経があっても三、四年も燻らせれば並みの女の子と変わらなくなる。
 すぐに追いつかれて手を掴まれた。
「いやっ離して!」
 酒臭い息が鼻にかかった。
「こんな時間にいるってことはちょっとは期待してんじゃねえの?イヒヒ」
「ヒャハハハ、さっさやっちまおうぜ」
 男達が下衆らしく騒ぐ。逃げ出せずに両腕を別々の男に掴まれる。
 嫌な記憶が生々しく蘇った。
 人気もないこんな場所だ。今度こそ私は終わる。
 そんなもんなんだね、私の人生って。
 悲観的なことを考え始めた。もうどうでもよくなった気がしたんじゃなかったの?
 思うだけは簡単だったわけで、いざ現実になると怖くてたまらない。
 幾分かあの時よりも膨らんだ胸を鷲づかみにされた。
「やめてぇっ!!」
 なんでだろう。どうでもいいはずなのに怖くて涙が出そうだ。涸れた涙は出ないけど。
「ヒヒヒ」
 男達が暗がりの路上で事に及ぼうとした時だった。
 ヴォヴォヴォヴォーッヴォーッと明らかに普通ではないけたたましさでマフラー音が鳴り響いて来た。
 続けて明るさが強すぎるライトが私と男どもを一斉に照らす。
 改造されて派手な大型バイクはこっちに走ってくる。
 真っ赤なボディにエナメルブラックのラインが入ったその車体は月明かりによく映えていた。
「ウヘヘッ!?なんだなんだ?」
 スライドターンを決めてバイクは横っ腹を男達に向けて止まった。
 真紅のフルフェイスヘルメットをつけたままドライバーがぴょんと軽快に跳び下りる。手にはお決まりの長いバールじゃなくて…あれは黒い木刀?を持って肩にかけていた。
 夜風にたなびくファーつきのロングコートを着込んだそいつはライトを背にしてシルエットを大きく見せながら男達に言い放った。
「失せろ、ウジ虫ども」
 私はその声でやっと気付いた。
 あ…ああ…。
 切なさが心を満たしていく。
「あ?なんやあんちゃんなめとんのか?エエ?」
 男どもがわらわらと固まり始めた。五対一。不利な状況なのに物怖じしないドライバーの姿は猛々しい獅子のようであった。
「怪我したいなら相手してやるが?」
 酔っ払いの赤らんだ顔がさらに逆上して赤くなる。
「てめぇっガキが調子のんじゃねえぞぉっ!」
 男達は五人一斉に殴りかかった。
 獅子は一瞬腰を落とし、木刀を片手で構えた。
 男達が統率性もなく理性すらあるのか疑わしいおぼつかなさでざっくばらんに跳びかかる。
 一方、流れるような動作で獅子は男達の首の付け根の後ろやれ鳩尾やれを的確に突いて叩き落としていった。
 一分もかからなかった。
 気絶した男達の山が出来た。
 獅子は私に手を差し伸べた。
 私は迷わずその手を取った。
 獅子は反対の手でヘルメットを上げる。
「これでいいか?」
 独り戦い続けてきたであろう獅子は、今、目の前の小さな子猫の反応を伺って不安げだった。
 私は微笑んだ。
 どうして不良になったのかなんて考えたこともなかった。
 ううん。考えようともしなかった。嫌い…だったから。
 もしかしたら兄がグレたのは…。深く考えてはいけない気がした。
 昔からどこか肝心なところでズレて不器用なところがあったのだ、兄には。
「うん。お兄ちゃん」
 私は手を引っ張り寄せるとぎゅっとお兄ちゃんの背に両腕を回して抱きしめた。
 顔を兄の胸に押し付ける。
 兄の胸の中で久しく流していなかった涙が流れた。
「ごめんね、お兄ちゃん。ごめんね…」
 嗚咽が溢れて止まらなくなる。
「いいよ。俺も悪かったし」
 兄は優しく妹の髪を撫でた。
「そんなことない。何もお兄ちゃんは間違ってなかった。今日も助けてくれた」
 私が今日も、の も を強調して言ったことに兄は息を詰まらせた。
「—…ゆき…」
 涙を浮かべたまま私は胸から顔を離して兄を見上げてはにかみながら笑った。
「だからね。ありがとう、お兄ちゃん」


 見上げた夜空に星空が広がっていた。これまでは月だけしか見ていなかった。


 初めてこんなに星があったんだと気付いた。


 私は兄が好きだ。たった一人の兄として。

「私は、お兄ちゃんのことが好きだよ」

 呟きは星に届いた。

 兄は、はははと照れるように笑い声をこぼした。
「俺もずっと昔から好きだけど?」
 あの頃から僕から俺に一人称が変わって、見た目も変わって、別人のようになった兄だが、その眼の奥にある優しい星空だけは変わっていなかった。
「ばか…シスコン」
 こつんと額を兄の胸に優しくぶつけてささやいた。
「じゃあ、ゆきはブラコンだな」
 兄はくしゃりと私の髪を撫でながら言い返す。
「もうーっ!」
 私は真っ赤な顔を上げて、頬を膨らませて兄をにらみ上げた。
 意外にも真剣な兄の目と涙ぐむ私の目がまた合って気恥ずかしくなる。
 ひょいっと兄は私を持ち上げてバイクの後ろに乗せた。
「ほら」
 しっかりと腰を掴んでいるようにと兄は言った。
「うん」
 兄は着ていたコートを私に羽織らせる。私は両腕を兄の腰に回してぴたりと身体を寄せた。
 騒がしくも温かい音を響かせ、バイクはタイヤを回し始める。


 流れ星が夜空に二つ。


 星の輝きに満ちた夜空の中、兄妹は新しい未来へと走り出した。


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