ここに独りぼっちによる、独りよがりな、自己解釈に基づく孤独に対する価値観と孤独な生き方を書く。
そしてそれは恐らく届くことのない謝罪文でもある。
読んでも共感出来る可能性は低く、陰鬱な文に苦痛を伴うのはほぼ確実と思われる。
だから私の経験に鑑みる孤独の考え方など聞きたくもないという方は本当に読み飛ばすことをお勧めする。
ならばなぜ書くのか?
私はいつかこの気持ちに整理をつけ、伝えなければならないと考えていた。
しかし、恐怖と臆病がそれを邪魔するが故に、そのことを思い出すのが嫌が故に、このままでいいと思うが故に、逃げてきた。
今、ここに孤独というテーマが与えられた。私は孤独を考えようとするとまたしてもそのことを一緒に思い出した。
ならばそれは孤独に関係しているということではなかろうか。
そう思い、私はここに記すのである。
本人に伝えずして、こんな場に晒すこと…それは私の自己満足に過ぎない。
人に読んでもらい、あわよくば賛同してもらいたいという下心があるのかもしれない。
逆にお前は最低だ、と罵られてもいい。見咎められることもなかったこの過去に他者からの批判を得てでも何らかの決着をつけたいのかもしれない。
だが、今の私の意識にあるのはひたすらに後悔、罪悪感、そして謝罪と感謝の気持ちである。
始める。
読むのなら心して欲しい。
これはたった一人の感情の片鱗であり、一つの視点に過ぎないと言うことを。全てが真実とは限らないということを。
人は生きる上で仮面をかぶる。年を経れば経るほど、仮面は増え、そのかぶり方は上手くなるのが普通の人だろう。
もしも全てにおいて自分の思うがままに生きるのならそれは人間であるとは言えない。そんな人間は狂人とみなされる。
仮面が顔と同化している社会人などこの世にいくらでもいる。
だが、社会に出る前の人間、すなわち学生はどうだろうか。
彼らは学校という社会的でありながらも教育の場の中で、ある程度は自由無責任に振舞うことが許される。
例えば小学生は学年差や年齢差を敬意の対象として認識できず、先輩への敬語といった上下関係が存在しないことも多い。
中学生や高校生になると学年差や教師と生徒間の上下関係は絶対的なものになってくる。これを社会勉強という枠に当てはめるのも一理あるだろう。
ならば、中学生や高校生において認識されにくい社会的ルールやマナーとはなんだろうか。
それは色々ある。
発達段階にある性差への理解や、軽犯罪に対する意識の低さなどがある。だから社会人であればセクハラや刑罰に値するようなことでも説教と反省文で済まされるのだ。
こうして時には間違え、あるいは間違える周囲の人たちを見て学生達は少しづつ学んでいくのだ。
とはいえ上から教えられることのない生きる上で大事なことも学生達は学ばなければならない。と私は考える。
その最たるものが人付き合いだ。
小学生までは自由奔放に好き勝手していても不思議と同調したりつき従うかりそめの仲間がいたかもしれない。
だが、中学、高校とあがるにつれ、「周囲の目」や「常識」というものが芽生えはじめる。一定の集団が個々に生まれたりもする。
あいつはおかしい、変だ、そんなレッテルを貼られ、生き辛くなる人間が出ることもある。いじめや言葉の暴力が激化するのもこの頃からだ。
だから、なるべく波風立てず、穏便に済ませるための処世術を学生達はお互いの間で学んでいくのだ。
そしてその一方で疎外され、閉じこもるしかなくなる者も生まれてしまうことがある。
人間とは得てして自分の理解できないものは遠ざけようとするものである。
そうして「常識」に虐げられる者には大きく二種類ある。
一つは残念ながらも確かに行動が社会における常識すらからも大きく逸脱してしまっていることを無意識ないしは意識的にしてしまっているものである。
つまり虐げられる原因の多くが本人にある場合だ。これには本人による改善もかなり必要となる。
もう一つは学生に多く見られる。社会常識には少しだけずれている、もしくはなんらおかしくはないのに、多数派による「常識」に一致しないがために虐げられる場合である。
例えば、ただウザイから、真面目すぎるから、見た目がなんか嫌いだから、そんな理由で遠ざけられる。これはどちらが悪いのか。それを議論していくと別問題になるので割愛するとして、一つ言うなら多くは不当な理由だということだ。
自分と合わない考え方、生き方を理解しようとしない未熟さによりそれは生まれるのだ。
現実としてこの後者により失敗する者、失敗させられる者は多い。それもまた社会勉強という言葉で学校や国は済ませようとする。確かにそれは事実かもしれない。
その失敗で後の人生において同じ過ちを繰り返さないように人間は変わっていくからである。
また、よく言われる例を取るなら、こういう話がよくある。
高校の同窓会に行ったらいじめられていた人はいじめられていたことをよく覚えている。しかしいじめた側はほとんど覚えていない。
そんなものなのである。結局は敗北者が痛い目を見続けるのが常なのだ。
このままいじめ問題などの話で孤独に持っていってもよいのだが、ここで少し話をずらして私のしたい話に持っていく前置きに入りたいと思う。
ここまで加害者被害者の話をしてきたが、こういう説明のしかたをするとどうも一つの誤解が生まれるように思うのは私だけだろうか。
それが何なのかというと、被害者は果たしてよく言われるようにそう簡単に虐げられて絶望の淵に立たされるのだろうか、ということである。
要するにいじめや集団排除の話になると我々は一対一もしくは一団対一人を想定しがちだということだ。
だが、実際のところ現実はそんな単純な構造ではない。
色んなグループが接し、少し重なり合ったりして存在する中で生まれる対立はそうも簡単に一人を孤立させられないことが多い。
平たく言うなら、別に教室ではいじめられていても別のクラスや校外には友達がそれなりにいるとか、単に一つのグループから嫌われているだけでそれを除けばいたって普通の一生徒に過ぎないとかいう場合だ。
もしもほぼ全ての他者にどこででも疎外されるというのなら流石に本人にも問題がある場合が多い。それでもその本人が自分の生き方を変えずとも、本気で同調する人を探せば一人ぐらいは息の合う者が見つかるはずだ。そこまでする勇気も自信もないから人はそれなりの人付き合いを習得してそれなりの友好関係を気付くにすぎない。
現にいじめられた子が転校していじめる側になるなんてこともままある話である。
結局私が言いたいのは流れに変に逆らわないことで平穏には生きられるということだ。
そうしていれば多くの場合ある程度平和にやっていけるのだから。
そうやって私は後悔した。というよりも穏便に済ませることへの要領が悪くて私は一つの失敗を犯した。
ここからは私の過去である。
私は人付き合いが苦手だ。
どうも上手く仮面をかぶれない。
流され、身を任せることで確かに平穏に生きることは出来る。
しかし、時としてある場面に立たされる時がある。
自分の所属する流れ=グループが誰かを疎外しようとする場面だ。
その時、人はいとも簡単に岐路に立たされる。
すなわち、そうだねと言って疎外側に立つのか、それを否定する側に立つのか。
一応言うと、これまたよく言われることだが、何もしないのは逃げであり疎外側に過ぎない。
ではどうするか。
考えるまでもない。
自分の保身を考え、面倒ごとには首を突っ込まない。疎外側に回ればいい話だ。
よっぽどの悪集団にも属していない限り、疎外されそうになっている者には何らかの「常識」へのズレがあるはずで、わざわざそのズレを擁護する必要がある場合は少ないはずだからだ。
こうも偉そうに私は言っているが、私も疎外側に回った。
疎外といってもよくあるように、大げさないじめでもなく、ただちょっと遠ざけようぜ、みたいな空気に乗っただけ。
だが、それが私の後悔の始まりだった。
もし、疎外される側が私に無縁な人だったら別にここまで罪悪感を抱くこともなかっただろう。
不運にもターゲットに選ばれたのは私のよく知る者だった。いや、もっと分かりやすく正直に言おう。かなり親しい友人だった。
手短に要点を取り出すとこうだ。
私はある二つのグループ(A、Bとする)に所属していた。グループといってもあいまいなものではあるが。
その共通部分に入る友人は私も含めて少なからずいた。
その友人aも共通部分に少し入っていた。
ある時、Aの主要人物格の人が何かが気に食わなかったのかaを小馬鹿にし始めた。それにAの一部の人が賛同し、やがてはA全体の風潮となった。
その時私はAよりかは小規模ながらもBのグループでaやその他友人とかなり親しい関係だった。もっと言うならBは少ない構成人数で全員が主要人物だった。素直に仲の良いグループだったわけだ。
だが、不運にも私を含めるBのグループの約半数がAにも末端として属し、残りのBのメンバーは全くAとは接点のない状況だった。
その状況下で少しAと接点があったはあったが、BメインであったaがAの攻撃対象となった。理由はしょうもないことだった。今思うとそれの何が悪かったの?というぐらいだ。
その時私はBの方よりだったし、Bの方が好きだったからaを擁護する側に立つべきだったのだ。でもしなかった。
言い訳がましいことを言うなら、Aのグループは学年内でも有力(と私は思っていた)なグループで、私以外のBのAにも属するメンバーが早くもAに同調していたから半ば引きずられる形になったとも言える。
違う。私は怖かったのだ。自分もaと同じように疎外される側になったら、ということが。私は最低だった。
苦痛は約三ヶ月以上続いた。その後はもはや私は進んでとまではいかなくとも抵抗なく疎外した。
なし崩し的にBは崩壊し、Aに吸収された。Aも変わっていたからそう単純な話ではないが、結果的にそうなっていったのは事実だ。
純粋な悪意が渦巻いていた。
もし彼が疎外に気付いていたのなら?
疎外中も当然のようにaが私に会話してくることがあった。その時Aのメンバーが近くにいたら逃げるようにあしらった。いなければ普通に話した。卑怯な人間だったのだ、私は。
でももしかしたらあの時すでに彼は自分が疎外されていることに気付いていたのかもしれない。
Bの中では孤独にさせられた彼がもしかしたらお前は違うよなという意味で私に話しかけていたのかもしれない。勘も頭も良い人だったから。
話しているときに最も恐怖と罪悪感に苛まれた。私はこの人を孤独にさせようとしているのか?と。
だが人間とは悲しい生き物で他人の意見に左右されやすく、一度嫌だと思うと、いやな所がたくさん見つけてしまう。さっき言ったように三ヶ月もすれば私は疎外に抵抗を感じていなかった。
一年ぐらい経ってAの標的が変わった。
aは?
aの疎外を先導していたAの主要格の人は何もなかったかのようにaと話すようになった。
え?と私は思った。じゃあこの一年は何だったの?、と。
所詮彼らにとっては疎外はそんな程度のものだったのだ。私はそう簡単には受け入れられなかった。
気がつけば私はAについていけなくなり、また別な居心地のいいCやDに逃げていった。逃げて逃げて保身に走った。
もう忘れようと思った。いやそんなことも思わず、考えようともしなかった。
これで終われば私はaの件を忘れたかもしれない。aと元の関係に戻れたかもしれない。Bの再建は他のメンバーが散り散りになって不可能だったけど。
私にとって衝撃の展開がさらに半年後に起きた。
Cの主要格の人とaが仲良くなって段々とCに加わるようになってきたのだ。
ヤバいと私は思った。もしaがあの時のことを恨んでいたら?悲しんでいたら?
私は怖かった。罪悪感で胸が一杯だった。もしかしたら今度は自分が…という最低な考えもあった。
でも、それら全てをaは飛び越えてきたのだ。
あの頃と何も変わらず、旧友に再会したかのようにCの中で彼は私に当たり前のように親しくしてくれた。
私はその好意に甘えた。逃げた。
あの時は泣きそうになった。嬉しかったのか、申し訳なかったからなのか。多分どっちとも。
結局今となってはむしろ、aとはもっと仲良くなった。親友だと私は思っている。
だからこそ時々思い返す。なんでこんな素晴らしい友人に対してあの時私はあんな態度を取ったのだろうか、と。
彼はあの暗黒時代について触れるような話をしてきたこともはない。本当に気付いていなかったのかもしれない。
だけど私は、あえて彼がお互いのために触れないでくれていているのかもしれないと思うときがある。考えすぎだろうか。
もしかしたら私達からの排斥など気にもしておらず、ダメージにもなっていなかったのではという希望的観測をしてしまうこともある。
しかし真実はaの中だけにある。私がどうやってもそれを知りえないし、知る権利もない。出来るのは自分のしたことを絶対に忘れないことだけだ。忘れてはならないのだ。自分を責め続けなくてはならない。
彼が私をよく理解していなければ分からないことを言ったり、私のために何かをしてくれたり、信頼してくれているという意味合いの言葉を発した時、私は胸がちくりとする。
私はそんなに君が思ってるほどいい人間ではないよ、と。
私は彼が疎外を認識していたかなんてどうでもいいから、とにかく謝ろうと、ずっと、ずっと思ってきた。
でも、タイミングを失って今更になった。もう言えない。勇気が出ない。
だからここに書く。
私は後悔して心に誓ったことがある。
第一にこれからの人生で何があってもaの味方であり続けるということだ。それが私に陰ながら出来る罪滅ぼしだ。誰がaの悪口や噂を陰で言おうとも、私の立場がどうなるかにも関わらず全てにおいて私はaを擁護する側に立っている。
第二に二度とこんな後悔をしないために友好関係を作るうえで、私はその人本人に拒まれない限りは自分から人を否定する側に回らないということだ。奇行をする人であろうが私はその人が私に否定的でない限りは絶対に拒まない。そう決めた。人として当たり前かもしれないけど。
第三に私は仮面を使い分けないということだ。ゼロというと語弊があるかもしれないが、極力素で人に接するということだ。元々キャラを作ったりするのは上手くないのだから、いっそ一枚で行こうと。基本的に全て本心で話す。それでないと怖くて信用される関係をもはや築けない。
常識外れと認知されないよう不必要な情報は与えないにしろ、私は私という人間を人に伝える時、なるべくそのままを伝えようと心がけている。だからこんなものも書いている。
長くなったが詰まるところ人が本当に孤独な状況に追い込まれることは少ないと思う。それこそ漂流でもしないと。
ただ人間はある意味絶対的に孤独な存在だとも思う。他人に正しく自分を理解してもらうことも、自分が他人を正しく理解することはきっと出来ないのだから。
私は一人で居るのは好きだし、他方では皆とわいわいやるのも好きだ。たくさんの人と仲良くするのは苦手だが。
もちろん、ずっと一人は嫌だなと思う。
それなのにこともあろうか私はaをBという範囲内ではあったものの確かに孤独にさせてしまった。
孤独を怖がるくせに、孤独を人に押し付けたのだ。
そのことをとても言葉では言い表せないくらい後悔し、反省した。
本当に怖いのは孤独になることよりも孤独を与えてしまうことだと私は思う。
自分にも相手にもマイナスの内面的結果と外面的結果が残リ続ける。
ただ、私はまさかのa本人に救われた。
彼には感謝してもし足りないほどだ。
そして私は本当ならば謝らなければならないのだと思う。
だが、恥ずかしさと怖さがそれを邪魔する。
ゆえに私はここに書いた。だからどうした?そんなことをして何の意味がある?と思われるかもしれない。
もちろん、こう思ってるから私って偉いでしょ、と馬鹿なことを言いたいわけでもない。
これは自分への再確認である。
冒頭にも言ったとおり自己満足ではあるかもしれないが。
もう一つある。
正直に言うと、実はここに書くとaがこれを読む可能性があるのだ。
もしかしたらそれで自分のことを言われていると気付いてくれるかもしれない。
だから書いたのだ。これが私の—俺の本当の思惑だ。
届くかは分からないけれど。最後のチャンスだと思って書く。
ごめんなさい。
今さら許してなんて言わなくても許してくれてるだろうけど。
ずっと謝りたかった。
少しの間とはいえ孤独を押しつけてしまったかもしれない。
本当にごめん。
そして、ありがとう。
こんな形で、身勝手で、すいません。
友として本当に大好きです。
出来ればこれからもよろしくお願いします。
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