「ドアが締まります。駆け込み乗車はご遠慮ください」
今日最後のアナウンスを告げる。もうすっかり言い慣れてしまって、自分の声じゃないみたいだ。
指差し確認を済ませて、締めの一言。
「発車致します」
ゆっくりと動き出した列車がビルの向こうに消えるのを確かめてからマイクを離す。
今日の運行はこれにて終了。私の仕事もいよいよ大詰めというところ。ホームを離れて、控室に向かう。
「お疲れ様」
階段を降りていると不意に声をかけられる。振り向くと私と同じ制服に身を包んだ、長身の若い男。同期の山崎だ。
「阿部さん、これから日誌?」
「そうです」
いつでもやたらと馴れ馴れしく接してくるのは勘弁してほしいが、仕事熱心な男だ。
「お互い夜勤は大変だね。何より仕事が終わってしまえば終電がない」
「まあ、いつものことです」
そう、いつものことだ。しんどいのはわかっている。今日とて例外であるはずがない。それをいちいち確認するのはむなしい。
山崎に黙って礼をすると、私はまた控室に向かって歩き出した。
日誌を提出し、着替えを済ませて駅を出た頃には、すでに日付が変わってから30分近くが経過していた。
今日もつまらない日だった。書くことのない日誌を書くことほど馬鹿らしいこともない。
静まり返った駅前には人が一人もおらず、電灯だけが小さく軋むように鳴っている。
いつものことだ。私は自転車置場に向かってお決まりの歩みを進める。
ところが駅の裏手に回ると、いつもと違う光景があった。
小さなランプが辺りを照らしている。その中心に人影。その近くを鳥が歩いている。
見れば、坊主頭の男が笑いながら鶏にビスケットを与えている。
不審者のたぐいにも見えるが、その寂しげな背中が少し気になって、気づけば近寄っていた。
男は私の影に気づいたのか、こちらを振り返り、ニカッと不敵な笑みを浮かべる。思ったよりも顔つきは若い。
「何をしてるんですか」
「にわとりを飼ってるんだよ」
それは薄々わかっている。
「こんなところで?ここに住んでいるわけじゃないでしょう」
「ここには今日泊まるんだ」
「浮浪者の方ですか」
「有り体にいやあ、そうだよ」
駅員という立場からすれば追い出すのが正しい対応だろうが、それは面倒だ。
「ずっと一人で旅してるんですか」
「一人じゃないよ。こいつがおるからな」
男は鶏の背中を撫で回したり、顔をのぞき込んだりして、また笑う。
「こいつは言葉は通じんけど、おれの気持ちがわかるんだよ」
言うと男はこちらに顔を向けた。鶏もそれにつられて私を見る。
「でもあなたはすごくさみしそう」
「おれがかい?」
「あなたは孤独。にわとりだけがあなたの理解者だなんて、むなしくならない?」
男は私の目を覗きこむように、まっすぐな視線を向けると、瞬きをした。
「いいや。ひとりぼっちはさみしくないよ」
そう言い切った男の顔は、煤にまみれて汚かったけれど、どこか澄んで見えた。
「ひとは嫌われたくないから、取り繕うけど、だあれも他人を理解なんてできやしないんだ。わりと誰も、孤独なんだよ」
「それはそうかもしれないけど、人と関わること自体を放棄するのは、愚かじゃないかな」
「うん、愚かかもしれない。でもおれには、必要ないんだよ。それだけのことさ」
鶏はすでに私から興味を失って、あさっての方向へと歩き出した。男がそれを引き止め、優しく抱き上げる。
「ね、他人の感覚って、理解できないだろ。でも、理解できなくても認めあえれば、お互いうまくやっていけるよ。こいつはおれを認めてくれるんだ」
「人よりもにわとりの方がいいなんてね」
「おれは今まで生きてきて、何をするにもずっと少数派だった。それでも認めてもらおうと自分を主張してきた。でも、迫害された」
「だから世を捨てた」
男は鶏をまるで赤子のようにあやしながら、黙って頷く。
「おれの心はもう冷えきってしまった。誰かの心のあたたかみに触れたら、やけどしてしまうくらいにね。だから、距離を置かないと苦しいんだ」
そう言い放った男の笑顔は、やっぱり寂しそうだった。
「誰の心にも押しつぶされないんだったら、ひとりぼっちはさみしくないよ」
「あなたは孤独。でも、それでもいいのね」
「うん。あなたもおれを認めてくれるんだね。ありがとう」
古びたボロアパートの、最上階の一番奥に私の部屋はある。
鍵を開けて部屋に入っても誰もいない。電気をつけて、ベッドに鞄を放り投げる。
風呂にでも入ろうかと服を脱いでいくと、携帯電話が発光しているのに気づく。メールが来ているのだ。
母親からだ。
元気ですか。
今日はにとろの誕生日だね。おめでとう。
あんなに小さかったにとろがもう26歳だから、お母さんも年をとるはずよねえ。
たまには実家にも顔を見せてください。お父さんも舞人もみんな待ってるよ。
今日はなんでもない日。
なんでもない日だと思っていたはずが、何故だか苦しくて、涙が出た。
ベッドに倒れ込み、枕に顔を押しつけて、恥も擲って大声で泣いた。
私も心をやけどするようになってしまっていたのかもしれない。
孤独を恐れ、孤独を噛み殺していた。
さみしそうなのは、私の方だ。
でも、誰も手を差し伸べてはくれない。
所詮、誰とも分かり合えない世の中。
ならばせめて、自分の感覚を確かに持って生き抜こう。
わりと誰も孤独。
孤独の中に、きっと認め合える人がいる。そう信じなくて、どうして生きていける。
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