α
少女。端正な顔立ちの少女。泣いている。泣いている。泣いている…。
朝目覚める。冬の、空気が張り詰めた朝。凛とした朝。心地よい緊張感。窓を開けると冷たい空気が部屋の中に充満し、浩平の肌を刺す。
今日は引越しの日。浩平は受験を間近に控えた高校生だったが、父親の仕事の関係で他県に引っ越すことになっていた。高校の友達ともしばらく別れなくてはならない。
「そうか…今日引っ越すんだな…」
独り言を言って、浩平は顔を洗い、歯を磨いて食事を摂ってから部屋のチェックを行う。あまり感慨に浸っている暇はない。昼頃には家を出なくてはならない。他の家族はもう先に新居に移動していた。早速準備を始めることにした。
押し入れを、タンスを、すべての部屋を、忘れ物がないかどうかチェックして回る。
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もともと浩平はそんなに友達の多い類の人間ではなかった。
人は皆自分の「世界」を持っている。固有の価値観、壁。生涯かけても交じり合うことができない孤独。浩平はそんな心の壁が特に高い、なかなか人と打ち解け合うことのできない人間だった。
小学校、中学校となかなか友と呼べる人間ができなかった。浩平は頭の良い子供だったので、ある程度知的レベルが統一される高校に上がるまでは浩平の周りに波長の合う人間が現れなかったのだった。
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しばらくして、押し入れを開けた時にはらりと一枚の写真が足元に舞い落ちてきた。どこかに挟まっていたのだろう。
「…!」
浩平はその写真を手に取り眺める。それは、浩平が修学旅行の時に同じクラスの孝、希美と三人で撮った写真だった。浩平は孝や希美とは特に仲が良かった。
「ふふっ」
浩平は楽しかった頃を思い出し思わず微笑む。当時は勉強のことなんて何も考えなくて良かった…いや、そういうわけではないのだが。受験のことなんて頭の片隅にも無かった。どうしても高三になった今となっては、受験のことで頭がいっぱいいっぱいになってしまう。浩平のクラスもピリピリした雰囲気に包まれるようになった。
二人に言えなかった言葉がある。
一時の別れの言葉。仲良くしていた人達と離れ離れになってしまうのは事実として解ってはいる。でも言葉にすると、自分の中の別れの匂いが濃くなってしまいそうで、三人で作り上げてきた世界が崩れ去ってしまいそうで。とうとう言えないまま引越しの日を迎えてしまった。
「さよなら…」
なんとなく口にしてみる。…やはり二人を前にしたら言えないな…。
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そんなこんなでチェックが終わった。程良い疲労感の中時計を見ると、針は十一時半を差していた。予定通り。そろそろ出発しようかな。
ゆっくりと時間をかけて荷物をまとめる。いよいよこの家ともお別れか…。
いわゆる普通の人は引越しといえば新しい生活、新しい環境に想いを馳せ、またすぐに順応できるようになるのだろうが、浩平には慣れられる予感が湧かなかった。受験直前の精神的に不安定な時期と、浩平の排他的な心中世界も相まって、引越し、環境の変化は浩平の不安を煽るだけだった。十五年間かけてやっとできた友人を失うのだから当然だった。
荷物をまとめ終わって家を出る。ばいばい、と心の中でつぶやいて駅に向かう。
新しい街へは鈍行電車を乗り継いで行く。終点から終点へと乗り継ぐ小旅行だから少し昼寝をする時間もあるだろう。
ホームで電車を待つ。浩平は、考え事をして時間を潰すのが習慣だった。今朝見た少女の夢…あれは何なのだろうか。ここ最近連続して少女の夢を見ている気がする。何か意味はあるのだろうか。フロイトは無意識、例えば夢などからその人間の精神分析をしたという。自分の夢にも何か意味はあるのだろうか…。
夢の中で少女は…泣いていた…気がする。頭の中に靄がかかったような感じで、もう正確にどのような状況で泣いていたかは思い出せないのだが…。
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電車がホームに入ってくる。この電車も通学に幾度となく使ったものだったが、これでしばらく見納めかと思うと感慨深い。
電車に乗り席に座る。幸い車内は空いていた。長旅になるからできるだけ座っておきたい。
体が横に倒される感覚。電車が動き出す。窓から見える風景はまだ見慣れたそれだったが、いずれ自分の中には存在しないものへと変化してゆくのだろう。
二人に言えなかった言葉。さよなら、また会おうの一言。しかし言わなければならない。これまでの生活に一区切りつけるために。心の整理をするために。新しい生活に備えるために…。
次第に浩平の周りを取り囲む世界が平坦になってゆく。冬なので車内は気温が高くなるよう暖房の温度が設定されているから。世界が…ぼやけて…ゆく…。
浩平は、生暖かい空気に包まれて眠りについた。
β
少女が目覚める。一面白銀の世界。白い朝。空いっぱいに言葉が散りばめられている。
喜びの言葉、怒りの言葉、哀しみの言葉、楽しい言葉。
透き通った言葉、濁った言葉。
温かい言葉、冷たい言葉。
柔らかい言葉、硬い言葉。
明るい言葉、暗い言葉。
平面的な言葉。立体的な言葉。
言葉で埋め尽くされた空と、白い大地が触れ合う彼方。
そこには何も見えない。水平線を見渡す限り、何もない。
時間による変化の訪れない大地と対照的に、刻一刻と様相を変える空。
少女は言葉の空と、どこまでも続く大地を眺める。
こんな世界では、変化していく空を眺めることくらいしかすることがない。
この世界に生を受けてから、そして物心ついてから、少女は空を眺め続けてきた。しかしそれも限界が近づいて来ている。
ここ最近は、毎日空の言葉の変化に変化がないのだ。毎日規則的に変化し続ける空の言葉。それを観測するのもそろそろ飽きてきた。
いつしか少女は、この自分が立っている世界がどこまで広がっているのか、見渡す限り何も存在しない地平線のその先に何があるのかに興味を持つようになっていた。それは自分という存在が何のためにここにあるのかを確認することを意味してもいた。
やがて少女は歩き出す。世界の果てを目指す旅に出る。言葉で埋め尽くされた、空を見上げながら。時折休憩を挟みながら。歩く。歩く。歩く…
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