どこまでも続く砂だらけの廃墟。その中央で、一本の高い鉄塔が虚空に向かって伸びていた。
 落下防止のフェンスもなく、落ちたら確実に即死するであろうその塔の一番上で、長い髪を夜風に揺らしながら、少女エレナは夜空を見上げていた。その目には天空に浮かぶ巨大な天体が映っている。その星は白い光を放ち、夜空を覆いそうなくらい大きく、夜だというのにその廃墟は妙に明るかった。
 『おいエレナ、どこにいる』
 突然彼女のポケットの中の無線から、雑音入りの男の声が聞こえてきた。
 「バベルの鉄塔だ」
 エレナが答えると、男は『まったく』と呆れたように言った。
 『またそこにいるのかよ』
 エレナは口元に微笑を浮かべた。
 「ここは素晴らしい所だぞ。ネッドも来ないか。一緒にデートしよう」
 『やだね』ネッドと呼ばれた男は即座に断った。『俺が高い場所苦手なのは知ってるだろ』
 「それは残念だな」
 エレナは天空の約4分の1を占めるその星アーサを眺める。星の表面には様々な文様が見える。それらは全て人間が作った遺跡だった。
 「かつて人間は、神を呼ぶ方法を発見した」
 彼女は星の光に目を細めながら呟いた。
 「それを行うために人類は星1つ犠牲にした。星を更地にし、降臨文様を形作る建物群を星中に建設した。恐ろしいものだな、人間というものは。未知への好奇心のために全てを犠牲にできるんだ」
 『結局何も起こらなかったがな』
 ネッドの言葉に、エレナは肩をすくめた。
 「それはまだ分からない。やり方は合ってるはずなんだ。だから現在呼び出している最中なのかもしれない。もしくは——」
 そこまで言って、エレナは地平線に顔を向けた。そこではアーサにあるのと同じような建物が建設中であった。
 「——何かが、足りなかったか」
 ある学者は、神は双子だから、もう1つのこの星ムーナにも文様を作る必要があると唱えた。その主張はすぐに受け入れられたし、受け入れない訳にはいかなかった。自分達が1000年以上掛けてやってきたことが無駄だったとは誰も思いたくなかった。ムーナに文様を建設している間は、皆夢を見ることができるのだ。
 無線から、休憩時間が終了することを知らせるアラームが鳴った。エレナは大きく伸びをすると、下界を眺めながら梯子に足をかけ、降り始めた。鉄塔の下に広がる廃墟は、怖いくらいに静かだった。
 
 廃墟の中をバイクで15分程飛ばすと、エレナの働く作業場に着く。IDカードで建物の中に入ると、そこは作業員でごった返していた。部屋に満ちた熱気に、エレナは不快感を示した。
 「これだからこの建物は嫌いなんだ」
 エレナが人混みにうんざりしていると、後ろから誰かに手を引っ張られた。振り返ると、ヘッドセットをつけた女の子が微笑みながらエレナを見ていた。それから彼女はマイクに向かって話しかけた。
 「プラトー131班の集合を確認しました」
 すると、女の子のヘッドセットがスピーカーモードに切り替わり、そこから機械音声が流れた。
 『それでは131班はルーム768で待機してください』
 「了解しました」
 手続きを終えると、女の子はエレナにいきなり抱きついた。エレナはされるがままにしていた。
 「ちょっとエレナ! 時間ギリギリで来るのやめてよね。班長の私はいっつもハラハラしてるんだから!」
 女の子はマーテルといい、エレナやネッドが属する班の班長である。エレナは抱きつかれながら淡々と話した。
 「それは仕方ない。いつもギリギリにここに着けるように帰るんだから」
 「そういう問題じゃないんだけど……エレナに言っても無駄よね」
 マーテルは諦めた顔をすると、エレナから離れて手を引っ張った。
 「ほら、早く行きましょ。班のみんなが先に待ってる」
 「みんなと言っても二人だけだ」
 「それでも大事な班のメンバーでしょ」
 そのまま二人は人混みに紛れ込みながらエレベーターの方へと歩いて行った。

—またその程度か?君たちもこの星も。
 
 エレナははっとして振り返った。人ごみの中から別の人ごみが見えるだけだった。人、人、人、人人人……。知らない人たち。見たことはあっても一生関わりあいにならないであろう人たちだ。黙々と働く人たち、楽しそうに働く人たち、忙しそうな人たち、無気力な人たち。建物の中で働く作業員の様子は人それぞれだ。
 「マーテル?」
 エレナの隣を髪を揺らしながら歩く小柄なその女の子に声をかけた。
 「うん?どうかしたの?」
 ヘッドセットのヘッドフォン部分を少し浮かせながらマーテルは首を傾げる。自分よりも背が低く幼い顔であどけなさたっぷりの班長のそのかわいらしい仕草にエレナは苦笑した。
 「なんなんだろうな……」
 「?」
 エレナの不可解な言動にマーテルはさらに疑問を深めたような顔をしたがわざわざ言及しようともしなかった。
 この人ごみの中でくっきりと聞こえた声。誰であると断定できる声ではないけどなぜだか知っているような気もする声。幻聴かあるいは……何なのかはエレナは分からなかった。自分の心の声、そんな気さえもした。神を呼ぶ、そんな馬鹿げたことのために延々と建物を築いていく人類。その一員である自分からの人類への問いかけだったのかもしれない。今度はエレナは自分自身に苦笑した。
 「また……その程度、か」
 つぶやいたエレナの声は喧騒に消えた。人ごみに流されるまま二人は歩いていく。

 「到着ー!」
 マーテルの元気な声が人ごみが薄くなっているエレベーターホールに響いた。地深くへと続く大きなエレベーターの前に二人はたどり着いていた。地上の文様建造物のために作業員の生活スペースは地下に作られている。地下も地上と変わらないぐらい人で溢れかえっているのが現状だ。
 エレナは、だからこそ高くそびえるあの鉄塔の上が好きなのかもしれない、と不意に思った。密集して暮らす人々から離れた場所をエレナは好んでいた。それが生まれつきの性格だったのか、作業員としてここで働くようになってからのものかは分からない。気が付けばそうなっていただけだ。
 押された下降ボタンがオレンジ色に光っている。エレベーターが階を示す赤い数字を転々と点滅させながら自然光の届かない地下から昇ってくる間、エレナはただぼうっとしていた。

 エレベーターから出てすぐの右の所にルーム768があった。長机の上にパソコンが2台置いてあるだけの小さな部屋だ。エレナ達以外に使う人がいないため、今では彼女らの私室のような扱いになっている。
 ドアを開けると、中には椅子に腰掛けて本を読むネッドがいた。しかし、いるはずのもう一人がいなかった。
 「あれ、サミーは?」
 マーテルは黙々とページをめくるネッドの隣に座って尋ねた。文字を目で追いながらネッドは答えた。
 「調べ物があるから遅れてくるってよ」
 「調べ物ねえ」
 マーテルはコンピューターをちらりと見た。それからネッドの持つ本に視線を移す。
 「ここにコンピューターがあるのに……どうしてこの班の男衆は本の虫なんだろ」
 机に突っ伏したマーテルを見て、エレナは口を開いた。
 「昔、とある国では本に書かれた文字を『活きた字』と呼んだそうだ」
 エレナは本棚から一冊の文庫本を取り出すと、パラパラとめくった。
 「きっと画面上に映しだされた文字にはない何かを彼らは感じ取っていたのだろう。ネッドやサミーはそういうものに惹かれているんじゃないか」
 「私から見れば、活字だって死んでるように見えるけど」マーテルは虚空を見つめながら言った。「本来無くなるはずなのに無駄に存在し続けているものは、どこか死んでいる。私はそう思う」
 「まるで全ての物に消費期限があるような言い方だな」
 エレナは本を棚に戻し、空いた席に座った。そして愉快そうに目を細めた。
 「ならば人類の消費期限はいつ切れたのだろう。500年前か1000年前か。それとももっと古いのか……」
 エレナがそこまで言った時、外から足音が聞こえた。それが止まったかと思うと、大きな音を立ててドアが開き、分厚い本を何冊も抱えた青年が入ってきた。その様子を見たマーテルは呆れ気味に言った。
 「サミー、遅かったじゃない。それに荷物も多いし」
 「ごめんごめん。ちょっと図書館に、ね」
 サミーは抱えた本を机の上にどさっと置いた。長机は大きく揺れ、少し埃が舞った。エレナの目が好奇心に輝いた。
 「かなり古い本だな。確かにこの位古いとデータ化されていないかもしれない」
 エレナは傷みきった装丁を観察し始めた。そしてタイトルを声に出して読む。
 「『古代人の追憶 —オーバーテクノロジーの使い手はなぜ石版を残したのか—』、と。ふむ。暇つぶしに読むには絶好の本ではあるな」
 古代人は2000年以上前に存在したとされる人々で、アーサが文様で埋め尽くさる前は世界各地にその遺跡があった。その『神を呼ぶ文様』も元々は遺跡から発掘された石版に記してあったものだった。古代人について多くはまだ分かっていないが、当時としてはありえない高度な技術を使っていた痕跡が遺跡に残っている。
 エレナが表紙を捲ると、そこに見慣れた建物の写真があった。彼女が思わず声を出すと、マーテルが後ろから覗き込んできた。
 「どうしたの?」
 エレナはページの中央にある写真を指さした。
 「これはバベルの鉄塔じゃないか」
 写真の中央に彼女がいつも通っている鉄塔が映っていた。戸惑うエレナを見たサミーは少し笑った。
 「知らなかった? あの鉄塔周辺は古代人の遺跡なんだよ」
 人類が初めてロケットでムーナに到達した時、その地に古代人の遺跡がいくつか発見されて当時はかなり騒がれたらしい、とサミーは語った。エレナは興味深そうに聞いていた。
 「それは初耳だな」
 「最近は誰も昔のことに興味を持たないからね。皆過去のことを知らなさすぎるよ。もうちょっとさ、みんな未来ばっかり見ずに昔を振り返るべきだね」
 サミーは本についた埃を手で落としながら言った。エレナは苦笑した。
 「言われてみれば、私は空ばかり見て地上を見ようとはしなかったな」
 そんな言葉をぼそっと口に出すと、エレナは写真が載るページを眺めた。鉄塔の写真の下に、小さな文字で解説が載っていた。
 『この塔が建てられた理由について二つの説がある。一つは神に会う為に高い塔を建設したという説。もう一つは穢れた地上から逃れる為に塔を建てたという説。一つの行動が「追う」と「逃げる」という正反対の意味に捉えられているのは実に興味深いことである』
 私は何のために塔を登るのか。エレナが心のなかで自問自答した。

 程なくしてプラトー131班に放送による指示が下された。131班は各々が立ち上がる。
 小柄な女の子でともすれば班内で最年少にも見えるが実はその逆で最年長の班長、マーテルがヘッドセットのマイクを口許に下ろし仁王立ちする。その両脇に立ち上がったのが副班長であり夜であろうと構わずサングラスを欠かさない色黒で長身のネッドと、つい先ほどまで本にかじりついていた色白のサミー。この二人が131班の男性陣だ。そして長い髪を仕事モードに切り替えるため後ろで束ねていたエレナが少し遅れて立ち上がる。ネッドが一番背が高く、サミーとエレナが同じくらいで、マーテルが一番低い。文様建造物を建設する班は普通の力作業に加えて独特の作業を数多く含むために女性と男性が131班のように五分五分であったりすることも多い。
 『マーテルよりテスト、おーけー?』
 目の前にいるマーテルが真面目な顔になってヘッドセットのテストで至近距離にいる三人にマイクから声をかけた。直に伝わる声とのわずかなラグがこそばゆく感じられる。
 『ネッド、OK』『サミー、大丈夫だよ』『エレナ、良好だ』
 マーテルは振り返ってにこりと頷いた。直後、それぞれに今夜の命令が上から通達される。
 『各プラトー班に通達。第34班から第97班は建設継続中のエリアCの作業を再開、第98班より第130班は点検段階に入ったエリアBの点検作業に移行、第131班から第210班は新たに建設を開始するエリアDの下準備に入る、また現在作業中の他班はシフトチェンジで休息に入れ、各班への細い指示は現場で下す……繰り返す——』
 機械音声が淡々と連なる。
 「だってさ、みんな」
 マーテルが伝達中は閉じていていた目を開いた。
 「エリアDか、どこだそれ?」
 ネッドがやれやれといった感じで腕を組んだ。頻繁に現場が変わるのにも慣れてきてはいるがこうも急だとなんとも煮え切らないのは皆同じだ。エレナ達は壁にかかるモニター地図に目をやった。エリアDを探す。
 「あったよって……」
 サミーは言葉の途中で驚いて口をつぐんだ。指差した先をエレナも見るとつい声が漏れた。
 「あっ!鉄塔のすぐ近くか」
 鉄塔を含む廃墟、つまり古代人の遺跡に隣接する形でエリアDはあった。というよりも砂と化しつつある廃墟にもエリアDの範囲は踏み込んでいる。
 「なら道は大丈夫だね。いくよ、みんな」
 マーテルが元気よく右腕と声を上げた。一方、召集前に鉄塔にいたばかりのエレナは肩を落とした。
 「はあ……私、わざわざ帰って来なくてよかったじゃないか」
 ドンマイとでも言うようにネッドが肩を叩こうとしたのを無造作に払いのけてエレナは部屋を出ていくマーテルについて行く。
 いつものように、なんでもないように、素っ気なく振舞ったがエレナは予想外の建設エリアDの位置に動揺していた。
 エリアDの建設に伴って鉄塔も壊すのだろうか。当然浮かんだ疑問にさらなる動揺を隠せないが、とりあえず今は従うしかない。エレナは自分を落ち着かせるように心の中で言い聞かせた。
 ついさっきまで鉄塔があることを当たり前と信じていた自分が恨めしい。頭の中では得体の知れない鈍い灰色に輝く金属で出来ていてずっしりとした質感の見慣れたあの鉄塔の姿がありありと浮かんでは、崩れていっていた。

 エレナ達は再びエレベーターに乗ると地下に向かった。地上は文様で埋め尽くされているので、主な運搬・移動手段は地下に存在する。エレベーターが地下5階で停止してその扉が開くと、目の前に巨大な空間が広がり、さっきの作業場とは比べ物にならないほどの喧騒が飛び込んできた。建築素材を運ぶトラックが何台も走りまわり、奥のホームに地下鉄の車両が耳をつんざくような音を立てて到着する。ヘッドセットの防音機能がなければ正気を保つことができないであろう場所を、4人は格納庫に向かって歩いた。
 「念のためもっかいテスト。あー、あー、聞こえる?」
 ヘッドホンからマーテルのクリアな声が聞こえてきた。あれほどの騒音をシャットアウトする最新のノイズキャンセルマイクにエレナは感嘆の声をあげた。
 「綺麗に聞こえるな。前の機種は雑音がいくらかあったが、今度のは全くない」
 「凄いでしょ。ホントはまだ出回ってないんだけど、基地長に無理言って早めに配給してもらったの」
 「さすがマーテル。君の顔の広さには感服するよ」
 サミーは黒く輝くヘッドセットを撫でながら言った。
 「長く生きてると、いろいろ人脈も広がるのよ」
 「長くって言っても、歳は僕らとそう変わらないよね」
 マーテルは何か言おうと口を開いたが、後ろから来たトラックを見るやいなや大きく手を振った。トラックが4人の前に止まると、運転席から50代位のおっさんが顔を出し、マーテルと話し始めた。マーテル以外のメンバーはその男の声を登録していないのでマーテルの声しか聞こえなかった。
 「イーサン! 久しぶり! これから何処へ?」
 「————」
 「あ、だったら私達と同じね!」
 「————」
 「ところで、一つお願いがあるんだけど」
 「————」
 「そうそう。そこまで乗せて行って欲しいの」
 「————」
 「本当? ありがとう!」
 そしてマーテルは3人の方を振り返った。
 「この人がエリアDまで乗せて行ってくれるって」
 マーテルが真っ先に助手席に乗り込むと、エレナ達はお辞儀をしてドアを開け、後ろの席に乗り込んだ。トラックの中は土臭い匂いがした。
 「5人乗りのトラックか。こんな変なもん見たのは初めてだな」
 ネッドは不思議そうに車の中を見回した。
 「気になるか?」
 急に男の声がしたので、ネッドは驚いたようにマーテルを見た。マーテルはウィンクをした。
 「今のはイーサンよ。今、回線をリンクさせたの」
 そしてイーサンが手をひらひら振った。
 「そういうことだ。これから数十分、よろしく頼むな」
 それを聞いていたエレナは首を傾げた。
 「数十分? あの塔までは15分で行けるが……」
 「イーサンの方の用事があるから、まず資材置場に行くのよ。ウェルナー基地に寄り道するって」
 「ウェルナー基地……あそこは相当遠いぞ。逆に数十分で行けるのか?」
 エレナの疑問に、イーサンが答えた。
 「もちろん飛ばすさ。おいマーテル、あれ持ってるかい?」
 マーテルは何も言わずにポシェットから黒いカードを取り出した。
 「それは……?」
 見慣れないカードを見てサミーが尋ねた。マーテルの代わりにイーサンが答えた。
 「緊急通路通行証。有事の時にこの基地から逃げる為の道路があって普段は使っちゃならねえんだが、これがあると通れるんだ。一般道は混んでるんでスピード出せねえが、緊急通路なら人っ子一人いねえから飛ばしまくれるってことよ」
 イーサンがアクセルを踏むと、トラックは急加速して進入禁止の看板の方へ走った。イーサンが受け取ったカードが一瞬光り、同時に看板がスライドしてトンネルが現れた。
 「忠告はするぜ。車内で吐くなよ」
 そしてトラックは猛スピードでトンネルに入っていった。

 振動はなかった。ひたすらに平坦な一本道とはいえ微妙な横揺れすらも無かった。加速減速の仕方やゆるいカーブでの曲がり方、どれをとっても申し分ない運転の上手さだったと言えるだろう。五人乗せて下にずれたはずの重心をものともしない滑らかな走行だった。それを可能にする諸々のチューニングもおそらくは自前だろう。
 ただ、そう、ただひたすらに速度が異常だった。
 緊急通路でタイムアタックに挑戦しているかのような約5分だった。普通に走ったら30分以上はかかるであろうウェルナー基地へこんなにも早く着くとは思わなかった。ずっと加速し続けていたような気がする。会話などできやしなかった。エレナ達は耐えるのみだった。普段車酔いなどしないというのにエレナ達はウェルナー基地に着いた頃には強烈なGにやられていた。
 当の運転手イーサンとマーテルだけは何事も無かったかのように平気なようだ。
 「ちょっと待っとけ。トイレはあっちだ」
 イーサンの指差す先にエレナたちはゾンビのように歩いていく。後ろからマーテルがのんきに笑っている。
 「まだまだだねえー」
 この時ばかりは本当にマーテルに感心したエレナ達であった。
 エレナ達がトイレから帰還するのとイーサンが戻ってきたのは大体同じ時間だった。トラックの後ろの荷台は荷物で埋まっていた。建設材かなんかだろう。
 「よしっ、じゃあ後はお前達をエリアDまで送っていくだけだな」
 イーサンがそう言うと必然的にエレナ達の顔は強張った。
 「……」
 「心配すんな。どうせエリアDまでは一般道だ」
 その言葉にホッとしたエレナ達は再度トラックに乗り込んだ。マーテルとイーサンが前の座席でニヤリと笑ったのに三人は気づかなかった。
 イーサンの運転の真の腕は一般道で発揮された。車両が混んでいる上に増設に重ねる増設で複雑になった道の中をこれほど巧みにすいすい進む人をエレナはいまだかつて見たことが無かった。道も知り尽くしているのは間違いない。速度は緊急道にこそ及ばないが、近道裏道なんでもアリで度重なる迂回路にエレナ達はまたしても酔わされたのだった。
 結局出発時から30分弱でエリアDに着いたのはありがたかったが、エレナ達は二度と彼の運転する車に乗りたくはないと思った。気分的には長い旅の後だ。
 「ありがとうねー!」
 マーテルは微塵も酔っていないどころか、むしろ楽しかったようだ。どれだけ乗ればあの運転に慣れるのか予想もつかない。
 「おうよ、またな」
 気楽に別れの挨拶を交わして去っていくトラックに複雑な気持ちでエレナは手を振った。

 トラックが見えなくなった後に施設への扉をくぐると、そこにも大勢の人がいた。地上は物音一つしていなかっただけにエレナは驚いた。
 「ここが、エリアDか……」
 エリアDはプラトー基地に勝るとも劣らないほどの人口密度で、やけに蒸し暑かった。げんなりしながら立っていると、ヘッドホンから機械音声が流れた。
 『プラトー131班は工具室で待機。繰り返します。プラトー131班は工具室で待機』
 「工具室ってのはどこだ?」
 ネッドが額の汗を拭いながら尋ねた。
 『地下5階の北側に向かってください。追って指示を出します』
 「エレベーターは?」
 『あなた方の後ろの方にあります』
 4人が振り返ると、自分たちが入ってきた扉の隣に通路があり、その奥にエレベーターがあった。4人は無言で歩き出した。

 エレベーターは意外と広く、4人が乗ってもスカスカに空いていた。しばらく揺れた後に扉が開き、同時にヘッドホンから機械音声が流れた。
 『右方向に進み、突き当りを左です』
 「なんだかな、行動を全部見られてんのは落ち着かねえな」
 ネッドがぼそっと呟いた。サミーが苦笑いをする。
 「便利さの代償だよ。仕方ないさ。それに見てるのはコンピューターだから」
 「そのコンピューターも俺はあんまり好きじゃねえんだよ」
 「好きじゃない、というのは?」
 エレナは早歩きでネッドの隣に来ると、その顔をのぞき込んだ。
 「人間味がねえんだ」
 「人間味、ね」後ろの方にいたマーテルが呟いた。「ネッドのいう人間味っていうのはどんなの?」
 「……口では説明しづれえな」
 「あら、そう」
 そう言ってマーテルは黙った。4人が工具室に入って席について初めて彼女は口を開いた。
 「そうね、確かにコンピューターは冷たいわね……」
 その言葉と同時に機械音が鳴り、ヘッドホンから音声が流れた。
 『プラトー131班の集合を確認。これより任務を与えます』
 少し間を置いたあと、音声はこう続いた。
 『任務内容はエーテノイド製遺跡3号、通称『バベルの鉄塔』の破壊です』
 その途端、エレナの顔が強張った。彼女は震える声で聞き返した。
 「な、何故なんだ、何故あれを破壊するんだ……」
 『繰り返します。任務内容はエーテノイド製遺跡3号、通称『バベルの鉄塔』の破壊』
 「あれは私が小さい頃からずっと通っていた、特別な場所なんだ」
 『繰り返します』
 「それを何故私に壊させるんだ……」
 『任務内容はエーテノイド製遺跡3号』
 「答えてくれ」
 『通称『バベルの鉄塔』の破壊』
 「……」
 『もう一度繰り返しますか?』
 エレナの顔は真っ青だった。頭の中では、あの鉄塔がいつか壊されると分かっていた。しかし現実を受け入れるのは彼女には無理だった。
 「そんなに狼狽えるなんてあなたらしくないわ、エレナ、なんでそんなに執着するの?」
 「……」
 エレナ自身も自分の感情がよく分かってなかった。しかしあの場所に来て夜空を眺めるだけで、彼女は満たされるのだった。
 「鉄塔、なんて名前がついてるけど、鉄の塔が何千年も変わらぬ姿を保ち続けるわけないわ。あれは古代人が創りだしたエーテノイドっていう物質でできてるの。それを壊すにはエレナ、あなたの持つ膨大な科学知識が必要なのよ」
 「……」
 「ムーナの文様はほぼ全て完成しているわ。残すはここエリアDだけ。あなたも見たでしょ、あの大量の作業員。今このプロジェクトは仕上げにかかってるの。何とかしてあげたいのは山々だけど、人類の希望とあなたの執着を比べたら、どっちが優先されるかぐらい分かるでしょ。小さい頃の思い出の場所かもしれないけど、あなたは過去ばっかり見ずに未来を見つめるべきよ」
 その時、また機械音声が流れた。
 『もう一度繰り返しますか?』
 エレナは静かに俯いた。
 「いや、もういい……」
 『了解しました。それでは四本の支柱を破壊し、塔を倒壊させてください。その際遺跡が壊れても構いません』
 そのあとしばらくエレナは喋らなかった。心配したネッドとサミーが顔を見合わせた時、エレナは顔を上げた。その顔は悲しさと悔しさで満たされていた。
 「……熱線工具を用意してくれ」

 工具の地上への配備に時間がかかるということだったので、その間131班は空っぽになった工具室で待機になった。自分の指示した工具が鉄塔を壊すのを今か今かと上で待っていると考えるとエレナは苦しくなった。少し一人にしてくれと言うまでもなくほかの三人は飲み物を買いに行ってくれた。
 一人で殺風景な部屋の真ん中に佇み目を閉じる。遠巻きな喧騒はするものの、概ね静寂だった。

—やっぱり。やっぱりその程度なんだね君たちは。

 エレナの耳にまた同じ声が響いた。崩れるバベルの塔のビジョン。色あせたセピア色のイメージの中で崩れていくバベルの塔をエレナはどうする事も出来ず空から見下ろすだけだった。腹立たしいまでに青い青空が鬱陶しかった。
 (なんなのだ。なんで私はここまであの鉄塔に執着している?)
 エレナはついさっき聞く耳を持たない機械のオペレーターにまで特別な場所だとムキになって反論した自分が不思議だった。ついにやってきた現実を理解したくなくて、あの場所を失うのが怖くて、苦しくて、何も出来ない自分が悔しかった。
 短い時間の中で心の中に疑問が湧いては怒りで答え、悲しみに打ちひしがれるのを何度繰り返したか分からない。やり場のないこの気持ちをどうすればいいのかエレナには皆目検討がつかなかった。
 「大丈夫か?エレナ」
 額から大粒の汗を流して苦悶していたエレナの首筋に不意にひんやりとした何かが当てられた。いつの間にか戻ってきたらしいネッドがジュースを買って来てくれたらしい。
 「……ああ。なんとか落ち着いた」
 右手で冷えた缶を受け取った。
 「本当にいいのか?」
 サングラスの向こうのネッドの目はいつになく真剣で、エレナのことを心配している目だった。エレナはなんとか笑って見せた。
 「よくは、ない。でも仕方がないことだ。私がやらなければ人類の希望を裏切る、マーテルの言ったとおりだ」
 ネッドはそのエレナの言葉に何かを言い返そうとしたが少し迷って、そうか、とだけ言って横を向いた。
 不快ではない微妙な沈黙が幾ばくか続いた。
 少ししてマーテルとサミーも戻ってきた。
 マーテルが気まずそうにしていた。さっき少しエレナに言い過ぎたことを気にしているのだろう。マーテルが口を開こうとしたその時だった。またしてもヘッドホンから空気の読めない音声が流れ始めた。
 『プラトー131班へ通達。まもなく破壊用の工具が配備完了します。地上へ移動して至急作業の準備に入ってください』
 マーテルの少女の顔が班長のそれに戻った。
 「だそうよ。さあ行きましょう」
 今度はヘッドセットのテストはしなかった。四人はゆっくりと歩き始めた。重い足取りのつもりでもエレナは着実に地上へと、鉄塔へと近づいていく。右手に握ったままの缶の冷たさだけが心地よかった。

 地上へ出ると数時間前よりもさらに夜は深まり、星空が不気味な明るさを放っていた。中でもアーサはこんなにも明るかっただろうかというぐらいに輝いていた。
 あちこちに工具用の電源配線が引かれ、作業員がごった返している。資材搬送のトラックも結構見えるからイーサンもこの中にいるのかもしれない。131班の登場に一帯は少しだけ静まった。今回と言わずエーテノイド製遺跡を普通よりも良く知る人材が揃った131班は地上の現場では上位班的なところもあるので当然といえば当然かもしれない。そしてその131班の中でもエーテノイド製の物質を破壊する知識に長けているのがエレナだった。
 注目の中、エレナ達は遺跡に近づいていった。
 他班が見つめる中、マーテルが作業再開の合図を出そうとした時、エレナは半ば無意識的に動いた。マーテルの前に左腕を伸ばして黙らせる。マーテルが驚いた顔になった。エレナは間髪いれず、この場にいる全員にヘッドセットの現場用公開回線を通じて話しかけた。
 「みんな。わがままだってのは分かってる。でも、お願い、少しだけ待って。後一度でいい。この鉄塔を上る時間を頂戴」
 何を言っているのか自分でも分からなくて、エレナは足が震えた。さらさらとした砂のなかに今にも自分が沈んでいく錯覚すらした。ぽんと肩に手が置かれた。ネッドだった。
 「すまねえな。俺からも頼むぜ、二十分くらいでいいからさ」
 ネッドを見上げると、ネッドは白い歯を見せた。
 「僕からも頼むよ。まだエリアDについてよく知らなくてね、解体前にもう少し調べておきたいんだ」
 サミーが地図と文献を左右それぞれの手に持って交互に見ながら言った。
 「……」
 思わず言葉を失っていると、伸ばした左腕がやんわりと降ろされた。マーテルが一歩前に出る。はあっとわざとらしくため息をついて首を振ってはいるが、その顔はどこか楽しげだった。
 「ってことなんだけど、いいかなみんな?」
 もちろん、どこからも苦情は上がらなかった。
 呆然としていると、マーテルに背中をとんと押された。
 「ほら行ってきなよ、最後だよ」
 「あ、ああ。ありがとう」
 エレナは急いで鉄塔に向かって走り出した。右手の缶ジュースは程よく温くなっていた。

 駆け足で上る。一段飛ばしで階段を上っていく。壊せはしても正体は不明の不思議な物質で出来たバベルの鉄塔はいつになく心地よかった。下の人たちが小さくなり始めるくらい上ると、てっぺんにたどり着いた。
 エレナは人が二人座れるかどうかくらいのスペースしかない頂上に、見慣れたその場所に座って最後の一杯をあおろうと思っていた。温いジュースに温い夜風に馬鹿でかいアーサ。慣れ親しんだ全てが純粋に好きだったのだ。
 だけど、エレナは少し汗ばんでたどり着いた頂上でこの期に及んで初めてのものを目にするとは思いもよらなかった。
 危ないくらいに足を宙に揺らして腰掛け、金色の髪を夜風になびかせて、華奢なその体は星空に似合っていた。十歳かそこらにしか見えない少年がそこに座っていた。異様過ぎるその少年は確固たる存在感を放ちながらも、外見はあまりにも希薄な印象を与えた。透けてその向こうが見えるのではないかと思うぐらいだ。意識としては見えているが、かたちとしては見えにくい少年だった。上ってきたエレナを見て彼は優しく微笑んだ。
 「やあおかえり、エレナ。やっと会えたね」
 「……?!」

 少年はエレナに向かって手を伸ばす。エレナが無意識にその手を取ると、少年は彼女は一気に引き上げて隣に座らせた。
 「……君は何者なんだ?」
 エレナが顔を強ばらせると、少年はにこっと微笑んだ。
 「僕? 僕は、ヴェスティ。アドミナが残したものさ」
 「アドミナ?」
 「今は『古代人』と呼ばれる存在さ」
 「……!」
 ヴェスティと名乗った少年は、星空を見上げた。そして星を一つづつ懐かしそうに眺めていった。
 「それはそれは昔の話。アドミナと呼ばれる人達はアーサを支配した。彼らは科学を超える力を扱い、未知の物質を操ったんだ。アドミナはついに不老を手にし、老衰で死ぬことなく何百年も生きれるようになったのさ」
 それからヴェスティは鉄塔の下に広がるエリアDを見回した。
 「代わりにアドミナは進化するのをやめた。進化を止めるということは子孫を残さないということ。大勢いたアドミナは徐々に少なくなって、やがて5人になった」
 そして彼はエレナの手を握った。
 「その時、アーサとムーナにはそれぞれ神様がいるってことが分かったんだ。その二人を呼び出せば願いを叶えてくれるんだって。アドミナは再び自分たちが繁栄することを願って、呼び出し方を探った。そして判明したよ。惑星を文様で埋め尽くせばいいのさ。でもね、いくら強大な力が扱えるといっても、5人じゃどうしようもない。そこで目をつけたのがアドミナが奴隷として使っていた原始人——現代人の先祖達だったのさ!」
 ヴェスティは楽しそうに笑った。
 「原始人ならば、いつか進化して二つの惑星に文様を描くことができるだろう。そう考えたアドミナは、文様を描く方法やその他の技術を石版として残したんだ」
 そこまで聞くとエレナは叫んだ。
 「アーサは文様で埋め尽くされたが、神なんて現れなかったぞ!」
 ヴェスティは苦笑した。
 「そりゃそうさ。なぜならアドミナは神とコンタクトする方法を石版に残さなかったからね。神様は二人呼びださなきゃ困るんだよ。アドミナの復活と繁栄。この二つを叶えてもらわなきゃならないからね」
 エレナは震えながら話を聞いていた。その様子をヴェスティは愉快そうに見ていた。
 「それからアドミナは自分たちの遺伝子を原始人に埋め込んだ。そしてムーナに渡り、僕を作り出してこの塔に封印した後、その地で滅んだ。いつか原始人が進化して文様を惑星に刻み、そして——」
 ヴェスティは言葉を切って、エレナの目を覗きこんだ。
 「そしていつか、自分たちの遺伝子が花開き、アドミナを復活させるためにこの塔を訪れることを望んで、ね」
 全てを理解したエレナは顔を強ばらせた。そして彼女はヴェスティから視線をそらし、震える声で言った。
 「な、何を言うんだ君は。それでは、まるで……」
 ヴェスティはこくんと頷いた。
 「そう、君はアドミナの末裔なんだよ。エーテノイドを扱うことができるのがその証拠さ。きっと君がこの塔に通うようになったのは、遺伝子がこの場所を覚えていたからじゃないのかな」
 恐る恐るエレナは自分の両手を見た。彼女はエーテノイドを触るだけで、どこをどうすれば変形し、壊れるのか把握できる。エレナは再びヴェスティを見ると、静かに問いかけた。
 「それで、君がいうことが本当だとしてだ。君は一体、何を企んでるんだ?」
 ヴェスティは塔から下を見下ろした。
 「さっきエリアD以外のすべての地区の文様工事が終わったよ。エリアDの分の文様はこの地の遺跡で代用できる。つまり文様は完成した。あとはね——」
 突然エレナの頭の中に電撃のようなものが走った。痛みで仰け反りかけたが、彼女の体は動かなかった。手を動かそうと思ってもいうことを聞かない。自由なのは目だけだった。その目を動かして自らの右手を見ると、ヴェスティの左手から出る光の帯に巻き付かれていた。
 「——リンク完了。僕がこうして手を握っている間は、君は僕の支配下だ。君の力を限界まで引き出すことができる」
 そして彼が何かつぶやくと、エレナの手は勝手に動き出し、塔を支える支柱に触れた。その途端バベルの鉄塔は凄まじいの量の光を発し、そして広がり、文様となってエリアDを覆い尽くした。夜空に浮かぶアーサの文様が赤く輝き、それに呼応するようにムーナの文様も赤い光を発し始める。エレナとヴェスティの体はゆっくりと宙に浮かび始める。バベルの鉄塔は一瞬でバラバラになったかと思うと、次の瞬間には二人を取り囲むように球状へと変化した。エーテノイドの球体の中で、ヴェスティは赤く光るアーサを眺めるとエレナに笑いかけた。

 「ここは素晴らしい場所だね。エレナも来ようよ。一緒にデートをしよう!」

 「————っ!!」
 必死に抵抗しようと試みるがまるで体が動かない。浮かぶバベルの鉄塔—いや球の中からヴェスティとエレナは夜空に浮かぶ巨大な星を見ることが出来た。
 すぐ下にあるムーナと遠くにあるアーサ。アーサの文様はもうすでにほぼ全体が赤くなっていた。まるで生きている星の血管のように見える。夜空の四分の一を占めていた天体が急に赤くなってムーナにも動揺が走リ始めているだろう。
 「ああ、ごめんごめん喋れないねそれだと」
 ヴェスティが腕を振ると、エレナは喉と口が自由になった。すぐにエレナは声を荒げて叫ぶ。
 「ふざけるなっ、私達はお前らのそんな目的のために利用されただけだって言うのか!」
 「君達も神を召喚したかったんだろう? ちょうどいいじゃないか」
 「それはお前達が石版を残してそうなるように仕向けたからだろう」
 「そうだよ。でもそれを安易に信じて神にすがった君達にとやかく言われる筋合いはないよ。先に進化したものが、先に上位に存在した種族が有利なのは当然だろう。疑わなかった君達が馬鹿なんだよ」
 「お前っ!」
 叫ぶだけで身体を拘束されていて何も出来ないエレナは歯を食いしばる。ヴェスティはせせら笑うと球を回転させて浮く身体を下に向けた。
 「さああとはこの星だ。文様を起動させようじゃないか」
 エレナの目にバベルの鉄塔の残骸が見えた。球体化したのは元々の鉄塔の上半分ぐらいだったようで、残り下半分の土台だけが残っていた。そしてそこに上ってきていた人影も見えた。
 マーテル、ネッド、サミーだった。ネッドが叫んだ。
 「エレナ!」
 返事をしようとした瞬間、拘束が元に戻って喋ることができなかった。ヴェスティがエレナの耳元で小声で囁いた。
 「そうそう。文様は神を呼ぶためのエネルギー配線のようなものだからね、起動するとものすごい熱を発するんだ」
 「?!」
 エレナの目が驚愕に見開かれる。
 「もちろん、この星にいる人間達は一瞬で燃えて消えるだろうね。ああ大丈夫、君はこの中にいる限り安全だから」
 ヴェスティがおかしくてたまらないようと言うようにくすくすと笑った。
 このままでは、全てが消える。エレナは逃げろとマーテル達に伝えようとするがどうしようもできない。そもそも伝えたところでどうしようもない。悔しさがエレナの心に湧きおこった。
 無力さを思い知りながらエレナは絶望の中にいた。仲間達が死ぬを見届けるしかないのか。
 ヴェスティがエレナの手を動かし、文様を起動させようとする。
 思わずエレナは目を瞑った。
 (やめろ、やめろ!やめてくれ!)
 その時だった。

——……あはは。変わらないな、君達は。
 
 ヴェスティに体を支配されたエレナの耳にまた声が聞こえた。こんな時にまで聞こえるなんてどうかしてる。
 首を振ってその声を振り払おうとしたら、振り払うことが出来た。
 (身体が動く?!)
 目を開けると予想外の光景が目に飛び込んできた。つい先ほどまで目の前にあったバベルの球が消えている。
 「は……?」
 ヴェスティの素っ頓狂な声が横から聞こえた。
 今や浮くためのエーテノイドを失ったエレナとヴェスティは自由落下していく。
 『アンチエーテノイド、成功です』
 耳元で聞き慣れた機械音声が聞こえた。いつもは無機質なその声も今だけは親しみを持てた気がする。
 仰向けに落下したエレナを両腕で掬うようにネッドが受け止めた。エレナが鉄塔の土台に降りるとネッドがぽんと頭の上に手を置いた。
 「ぶっつけ本番だったけどうまくいったみたいね」
 そう言ったのはマーテルだった。マーテルが伸ばした右腕には見たこともない機械が装着されていた。甲高く鋭い音を放っている。
 少しはなれたところに着地したヴェスティが言葉を失っていた。ネッドが歩み出て耳元を軽くこんこんと叩きながら話しかける。
 「全部エレナのヘッドセットから筒抜けだったぜ、古代人さんよ」
 エレナはそこで初めて気がついた。あれからずっと現場用公開回線にしたままだったのだ。公開回線にすると同時に集音距離も拡がるからヴェスティの声も拾っていたというわけだ。
 しかし今ヴェスティが驚愕しているのはおそらくそこではない。
 「なんで、なんでエーテノイドを君達が扱える!いやそれだけじゃない、エレナとのリンクも断ち切ったな?」
 その問いにはサミーが答えた。
 「あまり人間をなめないでもらいたいな、得体の知れないものがそこにあるなら解明したくなるのが人間だ。君の言葉を使わせてもらうなら、後に進化するものは、先に存在した上位の存在を追いかけて追い抜こうとする。当然だろう?かつての奴隷を侮った君こそが馬鹿なんだよ」
 サミーが言い終えるとヴェスティの顔が怒りに歪む。
 「人間ごときがっ!」
 幾条もの光の帯をこちらに放たれたが届く前にかき消された。驚愕と恐怖と憤怒の入り混じった表情でヴェスティは立ち尽くす。マーテルが機械をつけたままゆっくりと歩き始める。
 「文様の完成に近づくにつれてね、私達ももしもの可能性を考えたのよ。まさか古代人があなたみたいなものを残してるとは思わなかったけどね。まあなんにせよアンチエーテノイドが上手くいってよかった。金属に見えて金属でない物質、自由に変形できてかつ頑丈、石版から解読されたその物質名はエーテノイド。語源はてっきり化学か物理のエーテルだと思わされていたわ。ただの物質と見ている限り私達にはそれを扱うことも壊すことも出来なかった。出来たのはエレナだけ。ずっと不思議だったわ。でもね、サミーがこの前遺跡の本を見ながら石版を解読してるときにふと見つけたのよ。エーテルには魂の行き着く場所の構成物質っていう神話チックな意味もあるんだって。そこから一つの仮説を思いついたわ。そして今このアンチエーテノイドの成功をもってその仮説は事実と証明された。エーテノイド、それはあなたを作った古代人そのものを集約して作られた生きる物質、いわば意思の石ね。だから古代人の血を引くエレナはエーテノイドと“対話”することができたんでしょ」
 それを聞きながらヴェスティが後ずさった。それが正解だということをその動揺が裏付けていた。エレナも呆然とするほか無かった。いつのまにそこまで研究が進んでいたのか。ヴェスティがマーテルの右腕の機械を怯えた目で睨んだ。
 「じゃ、じゃあその機械は」
 サミーが聞き慣れない言葉を口ずさんだ。
 「※▼%。その通り、負の感情を圧縮した言葉の発声装置だ。エーテノイドの意思は全て打ち消すよ。それと下でイーサン達がこの機械の完成版を手配してる。負だけじゃない全てを代弁できる装置だ。これで壊すだけじゃなくてエーテノイドを扱うことも出来るよ。さあどうする古代人、いやヴェスティくん?」
 ヴェスティが唇を噛んだ。だが、すぐにその顔は何かを閃いたのか微笑に変わった。
 今度はマーテル達が驚く番だった。まだ何かある。鉄塔の土台で緊迫した空気が流れた。
 「しかたない、願いを一つ先にかなえてもらおう」
 ヴェスティは空を見上げた。アーサの文様の起動は終わっている。アーサの神を呼び出すつもりに違いなかった。
 ネッドが阻止すべく走り寄る。
 「その慌て方だと、神の呼び出し方までは分かってないみたいだね!形勢逆転だ」
 ネッドが掴みかかろうとしたその瞬間、空に伸ばしたヴェスティの手が目映い光を放った。
 思わずマーテル達は目を覆う。
 しばしの静寂。
 静寂を破ったのはあの声だった。

 『——……あはは。変わらないな、君達は。』

 白い光が晴れたあと、あの声がまた聞こえた。今度は心の中でぼんやりとではなく、くっきりと聞こえた。
 エレナは声の主を探そうとあたりを見回す。マーテルもネッドもサミーも、そしてヴェスティもエレナのほうを見ていた。
 (え?なんでみんなこっちを見てるんだ?)
 エレナの頭の中で何かが鮮明になっていく気がした。忘れていたものが蘇ってくるような。
 夜空に映えていたバベルの鉄塔のイメージとセピア色の記憶の中の塔のイメージが重なっていく。
 (この塔は鉄塔じゃ、ない?)
 青空の中で組み立てられる石と木の塔だった。それが崩れ落ちていく。
 違った。

 『そうだったな。私はそうだった。アドミナの末裔なんかじゃない、あえて言うならアドミナの始まりだ。ずっと見てきただけだったな、この世界を』

 エレナが崩していくのだ。高い空から見下ろしながら。これは間違いなく自分の見た記憶だ。
 それでも彼らは、アドミナ達は諦めなかった。馬鹿みたいに技術を磨いて今度は科学の領域を超えてエレナに直接干渉しかねなかった。
 だからエレナは彼らに神を呼び出す方法と称して馬鹿げた文様遺跡の建設に夢中になるように仕組んだ。案の定行き過ぎた科学に疲れていたアドミナはオカルトにはまった。そしてそのまま滅ぶはずだった。だが予想外に彼らは進んでいた。意思を未来に残したのだ。
 アーサの文様起動に共鳴してエレナは長い眠りから覚醒し始めていた。

 『—君達、アドミナは変わらないな。そこまでして君達はどこに行きたいんだ?バベルの塔を壊してからずっと、君達はどこに上ろうとしているんだ?もう終わりにしないか、古代の人なんだから』

 そう。その言葉はエレナの口から出ていたのだった。

 (どういうことだ、これは?)
 自らの声に一番驚いていたのはエレナだった。ヴェスティにリンクされていたような外からの強制力ではない。自分の内側から何か得体のしれない意思が目覚めていくのを彼女は感じていた。
 (いったい私は、何者なんだ?)
 エレナの戸惑いとは裏腹に、彼女の口は勝手に動いていった。
 『アドミナもそうだが、新人類も新人類で愚かだな。エーテノイドを操作するまでになったのは流石だが、この星を見ろ。豊かな自然を完全に破壊し、廃墟にしてまで何がやりたい? やはり全て失敗作だったのか……』
 ネッドは黙って聞いていたが、イライラしたように口を開いた。
 「さっきから意味不明なことを口走りやがって、お前は誰だ?」
 エレナの姿をした何者かは無表情でネッドを見やった。
 『エレナさ。見てわからないか? 私の体を構成する細胞はエレナと呼ばれる個体と同一のものだ。しかし、だ』
 そう言ってエレナは微笑んだ。
 『この人格はエレナと呼ばれるものではない。これまで君たちが『神』と呼んできたものだ』
 ネッド、サミー、マーテルのみならず、ヴェスティの顔にも驚愕の色が浮かんだ。ヴェスティはエレナの腕を掴もうとしたが、見えない壁に阻まれた。彼はそれに向かって問いかける。
 「神は惑星の内に眠っているものではなかったのか?」
 エレナは見下すようにヴェスティを見た。
 『神とは意思だ。意思の塊だ。その意味では、ヴェスティとかいったか、君と同じようなものだ。君の体は意思の石エーテノイドでできているのだろう? 言うならば私はその上位版だ。形を持たない意志で構成され、意思を持つあらゆるものに取り憑くことができる』
 エレナが手を開くと、そこに光が集まった。そしてその光が消えると、手の上には一匹のネズミが乗っていた。
 『かつて私は意思だけの存在だった。しかし依代が無ければ私の力はほとんど発揮できない。微生物しか創造できない程度にな』
 そして彼女はまたヴェスティを見た。
 『だから私は、アドミナと同じ考えに至ったのだ。すなわち生物を進化させて自らの望むものを得るという方法だ。私は微生物を創造してそれに取り憑いた。そこから何十億年待っただろうか、やがて原人が生まれた。しかしだ、その時私は思った。ここまで来たら自分で作ったほうが早いんじゃないか、とね』
 ヴェスティは呆然としながらも少しずつ声を絞り出した。
 「それで作ったのが……アドミナか」
 エレナは小さく頷いた。
 『その通り。原人に取り憑いていた私は新しい種を創造し、私の能力のごく一部を植えつけてアドミナとした。彼らは優秀だったよ。優秀すぎたくらいだ。進化を止めてしまうくらい……』
 エレナは顔を上げると、今度はネッド、サミー、マーテルを見た。
 『やはり事を急いではいけない。私は焦りすぎたんだ。だから私は放っておくことに決め、眠りにつくことにした。原人が、私を起こすことができる生物に進化するまで』
 そこまで言ってエレナはため息をついた。
 『私を起こすぐらいまでに進化したら、願いの一つくらい叶えてやってもよかったさ。だがこの星の現状はなんだ。確かに、惑星のエネルギー全てを費やせば私を起こせる。しかしだな、そんな力にものを言わせた強行手段を私は望んでいないぞ。ごく自然に、例えば言葉を紡ぐだけで私を起こせるような、そんな力を持つ人類を期待していたのだが……』
 そこまで言ってエレナは手を叩いた。その瞬間、エリアD一体の建物が爆発した。
 『だから全て創り直そう。最初から。出来損ないに価値などない』
 同時にマーテル達の足元に閃光が走った。避けるまもなく大爆発が起こり、地面に巨大な穴が開いた。
 「……あれ?」
 彼女たちはいつの間にか空に浮かんでいた。マーテルが何度か瞬きをした。ネッドやサミーも同様にぽかんとしていた。振り返ると、手から緑の光を放つヴェスティが無言で浮かんでいた。サミーが不思議そうに言った。
 「なんで、助けるんだい……?」
 ヴェスティは苛立たしそうに言った。
 「僕にとっても不本意だが、利害の一致だ。あいつを何とかしなければアドミナも君たちも未来はない」
 「だが……」ネッドが諦めたように呟いた。「あんな凄まじいパワーを持つ奴をどうしろと言うんだ。もしあれが本当に神だというのなら、この星程度一瞬で壊せるはずだ」
 ヴェスティは首を横に振った。
 「時間はまだある。エレナを見てくれ」
 ヴェスティの言葉に、一同はエレナの方に振り向いた。先の爆発の後、エレナは無表情のままピクリとも動かなかった。
 「強制的なリンクとは違って内側からの覚醒なんだ。エレナの人格と神の人格がせめぎ合っている。その間はエレナでもなんとか対抗できると思うけど、持って一時間だろうね。エレナの人格が破壊されたら、それこそ神は五分で星を破壊できる。それまでに何とかしないと」
 「でも、どうやって……」
 マーテルが戸惑ったように言った。その時、サミーがはっとして叫んだ。
 「ムーナだ。ムーナの神様だよ!」
 「え?」
 「ヴェスティ、だっけ。君は神様が二人いると言ってた。多分だけど、今エレナの中にいるのはアーサの神様。だからそれに対抗できるのはムーナの神様だけだと思う」
 ヴェスティが納得したように頷いた。
 「それ以外に方法はないだろうね。ただ、さっきから何度もムーナの神を呼びだそうとしてるんだけれどまったく反応がない。その原因をまず探らなければならない」
 それ聞いてマーテルがニヤッと笑った。
 「なら私たちの出番ね。神に関する調べ物なら任せなさい」
 ヴェスティはぽかんとしたが、やがて成る程とばかりに手をぽんと叩いた。
 「そうか、君は確か本部長の娘だったね」
 「え? 本部長?」
 サミーが驚いて振り向く。ネッドも同様だった。本部長は文様建設本部のトップであり、すなわちこの星のトップでもある。マーテルは小さく苦笑した。
 「あーあ、バレちゃった。でもいいわ。本部の文献調べるときにどうぜバレるしね」
 「やけに色んな知り合いがいるなと思ってたが……」
 ネッドもつられて苦笑した。ヴェスティは三人に話しかけた。。
 「急ぐんだ。僕の力が及ぶのは遺跡が残るエリアDだけ。ここからは動けない。連絡はここのネットワークに侵入してヘッドセットを通して取る」
 三人は頷くと、地下への入り口に向かって走りだした。マーテルがヘッドセットのマイクに向かって叫んだ。
 「イーサン! 返事して!」
 すぐに聞き慣れた男の声がした。
 「マーテル! 無事だったか。俺も無事だが、文様施設の突然の発熱とエリアDの爆発によって負傷者が出てる。大半は地下深くにいたから大丈夫だったけどな」
 マーテルは胸をなでおろした。そしてイーサンに尋ねた。
 「イーサン。本部までトラック頼める? 多分トラックで三十分かかると思うけど、二十分で着いて欲しいの」
 マーテルがそう言うとイーサンの豪快が笑い声がヘッドホンから聞こえてきた。
 「二十分? そりゃあ遅すぎるぜ! 二分、二分だマーテル」
 その言葉が終わらない内に三人の周りを光が囲った。そしてそれは球状になり、見慣れた物体になっていく。イーサンが叫んだ。
 「エーテノイドだ。こりゃスゲエ物質だぜ! もう興奮が止まらねえよ!」
 それは先程ヴェスティとエレナが乗っていたものだった。球体は空に浮かぶと急加速し、惑星を北の方に進んでいく。地表の文様が流れるように過ぎていった。
 三人が驚いている間に球体は巨大なビルの上で停止し、着陸した。二人のガードマンが驚きつつもかけよってくる。
 「誰だ! ヘリポート使用の報告は受けてないぞ」
 マーテルは無言のままIDカードを取り出す。二人はそれを見るや否や二人は電撃が走ったように飛び上がり、敬礼した。
 「し、失礼しました。どうぞお通りください!」
 三人はガードマンが開けてくれた扉を駆け抜けると、エレベーターに飛び乗った。機械音声が響いた。
 『どの階をご利用でしょうか?』
 「最下層!」
 マーテルがヘッドセットのマイクに告げた。
 「最下層って……」
 サミーの呟きに彼女は頷いた。
 「そうよ、星立図書館。あそこなら全ての文献があるわ」
 二分ほど乗っていると、エレベーターはゆっくり停止して音と共にドアが開いた。そこには広大なホールと数えきれない程の本棚があり、図書館だというのに地下鉄のホームもあった。
 「書庫に行きましょ。スキャンされていない本が多数だけど、古代のものは数が少ないからなんとかなるはずよ」
 三人はホームを駆け下りると列車に飛び乗った。すぐに列車が出発し、書庫の奥へと向かった。
 「エレナ……」
 エレナの身を案じたネッドが小さく呟いた。

 エレナは闇の中にいた。彼女は見えない力で圧迫されていて、少しでも気を抜いたら潰されてしまいそうだった。
 そんなエレナの前に光の球体が現れ、彼女に話しかける。
 『諦めが悪い。さっさと無に帰れ失敗作』
 エレナは途切れながら言い返した。
 「私は、私達は、失敗作ではない。それより早く、私から出て行ってくれないか」
 『君達は自らの為に私を呼んで利用しようとしたのだろう? なら私が君達を自らのために利用して何が悪い?』
 圧迫する力が次第に強くなっていく。エレナは声も出なくなった。これ以上耐え切れないと彼女が思った時、緑色の光が現れてその体を覆った。エレナは少し楽になったのを感じた。
 『その光は、リンクか』
 その光はヴェスティになり、エレナの手を握った。
 「エレナはアドミナの希望だ。ここで乗っ取られるわけにはいかない」
 『そういうアドミナも、エレナを利用しようとしているだろう?』
 ヴェスティは頷いた。
 「もちろんだ。新人類だって僕らを利用しようとしている。誰もが他の何かを利用する。当たり前の話さ」
 『ふん……何を考えているのか知らないが』
 光が強くなり、ヴェスティは苦しそうな表情になった。
 『神に勝てると思うな。アドミナ』
 それでもヴェスティは、口元に笑みを浮かべていた。

 大きな扉の前に来ると、扉の前の機械に文字が表示されていた。
 【この部屋の使用は本部長かそれに準ずる人の許可が必要です】
 マーテルはポケットからIDカードを取り出すと機械に通した。すぐに鍵が外れる音がした。
 「さあ、入りましょ」
 扉を開けると、中から冷たい空気が流れ出してきた。マーテルが電気をつけると、中の様子が明らかになった。そこは小さい部屋で、変色した本や埃の積もった石版が陳列してあった。彼女は難しい表情でネッドの顔を見た。
 「あと四十五分。古代文字が読めるのはサミーだけだから……」
 そこまで言うと、ヘッドホンから機械音声が流れた。
 『基本的なものなら、こちらでも解読可能です』
 その言葉にマーテルは表情を緩めた。
 「……助かるわ。なら、私とネッドのバックアップをお願い」
 『部屋の入り口にあるディスプレイグラスを着用してください』
 ネッドとマーテルはすぐさま眼鏡を着けた。石版を見ると、古代文字の上にその翻訳が表示されていた。マーテルはほっとして言った。
 「三人がかりなら三十分で読めそうね。それっぽい文章があったら知らせてね」
 ネッドは再度確認した。
 「ムーナの神について、だったか」
 「そう。それがエレナを、私達を救うただ一つの手よ」
 その時ヘッドホンにノイズが走り、ヴェスティの疲れの滲む声が聞こえてきた。
 『そっちはどう?』
 「概ね順調よ。いい文献が残ってるといいけど」
 『それを願うしかないね』

 エレナ、ヴェスティと神の人格との間の攻防は続いていた。時折エレナが右手や左足の制御を取り戻すが、すぐに奪い返される。エレナの精神もつかれていたが、援護するヴェスティも次第に体力がなくなっていった。
 「あと三十分ほど耐えるんだ。その間に君の仲間が今の状況を打破する術を探し出す」
 ヴェスティの励ましに、エレナは力なく頷いた。
 「ついさっきまでは敵だったのに、味方につくと頼もしいな君は」
 「何を言うのさ。今でも敵同士た。ただ僕は自分の、いやアドミナの利益に基づいて動いているだけのことさ」
 エレナはしばらく無言だったが、やがてヴェスティに問いかけた。
 「今更な質問だが、君は何者なんだ? アドミナの残したものとはどういう意味だ?」
 エレナは自分を締め付ける力を押し返し、肩で息をした。そんなエレナを見ながら、ヴェスティは語り出した。
 「最後に残ったアドミナはムーナを訪れた。そしてエーテノイドを操って人型を作り、自分たちの意思をそれにインストールしたんだ。エーテノイドは意思の石。そこの神が今やっているように、元の意思を消滅させれば新たな意思がその主になる。つまり僕は最後のアドミナの集合体であり、彼らの願いを達成するために動いている」
 「…………」
 エレナは沈黙した。そして早くマーテル達が何らかの方法を見つけることを願った。

 同じ頃、書庫の小部屋でマーテルの絶望した声が反射した。
 「どこにも、ない……」
 最後の石版を読み終えた彼女は力なく床に崩れ落ちた。ネッドもサミーも同様だった。
 「神を呼ぶ方法は、まず文様を作り、エーテノイドを使ってそれを起動させ、神に呼びかける。それはどの本にも書かれているのに、呼びかけに失敗するパターンが一つも書かれてない……」
 「まるで失敗なんてないかのようだな。よほど自信があったのか、アドミナってやつは」
 ネッドが大きくため息をついた。サミーが深くうなだれる。
 「やっぱり、ダメなのかな……」
 「そもそも、古代人に謎が多すぎる。まずどうやってムーナに来たんだあいつらは」
 ネッドの質問にマーテルが弱々しい声で答えた。
 「それはネッド、エーテノイドを扱えるんだから惑星間くらいちょちょいのちょいでしょう」
 「ちょっとそれは無理じゃないかな」サミーが口を挟んだ。「エーテノイドは惑星のエネルギーを使って動かすから、一定の高度より上じゃ存在できないんだ」
 「でもヴェスティはアーサの文様も起動させてたわよ。あんなに遠く離れてるのに」
 「うーん」
 そして三人は無言になった。突然マーテルが立ち上がった。
 「見つからなかったって報告も兼ねてヴェスティに聞いてみましょう。それが一番早いわ」
 「それがいいな」
 「僕もそう思う」
 二人の賛成の声を聞いて、マーテルはマイクに向かって話しかけた。

 マーテルの報告を聞いて、ヴェスティの顔色が変わった。
 「見つからなかった?」
 「どうしたんだ、ヴェスティ?」
 エレナが不安そうに尋ねた。ヴェスティは苦虫を噛み潰したような顔になった。
 「何故呼び出せないのか調べても分からなかったみたいだ」
 「……そうか」
 エレナは悔しそうに俯いた。そんなエレナに予想外の声が届いた。
 『エレナ!』
 ネッドの声だった。エレナは顔を上げた。
 「ネッド……」
 『聞こえてる? マーテルよ』
 『僕もいるよ』
 マーテルとサミーの声もした。エレナの表情が少し明るくなった。
 「……せっかくだから今繋いだよ。その方がいいだろう?」
 ヴェスティが弱々しく言った。その様子を見たのか、一気に締め付けの力が大きくなった。
 『うるさくなったな。出来損ないが集まって何になる』
 光の玉から感情を感じさせない声がした。
 『それに、呼び出しとか言っていたな。私以外に一体何を呼びだそうというのだ?』
 ヴェスティは諦め半分に口を開いた。
 「……どうせ動けないから教えてあげるよ。ムーナの神だ。君に対抗出来るのはもうそれしかない」
 「は?」
 光の玉は意味不明だと言わんばかりの声を出した。そして笑い声が漏れた。
 「はは……はははは……聞いていて愉快だな」
 「……何故笑う?」
 しばらく笑ったあと、光の玉はヴェスティに問いかけた。
 「なあ出来損ない。君はどうやってムーナに来たんだ?」
 『それを私達も聞こうと思ってたのよ』
 マーテルも彼に尋ねた。ヴェスティは訳のわからないまま説明を始めた。
 「この場所、つまりエリアDと同じような遺跡がアーサにもあるのさ」
 『聞いたことあるわ。アーサに唯一破壊できなかった遺跡があるって。文様施設の隙間に位置していたから問題はなかったそうだけど』
 ヴェスティはさらに続けた。
 「アドミナはその地でムーナにつながる穴を見つけたんだよ。そこを通って彼らはムーナに来たんだ。ここエリアDの地下にはその穴がある。今はエーテノイドでふさがってるけど——」
 そこまで聞くと、ネッドは頓狂な声を上げた。
 『お、おい!』
 「どうした?」
 ヴェスティが尋ねると、ネッドは慌てたように口走った。
 『それって、アーサとムーナが陸続きってことじゃねえか!」
 そう言われて初めて、ヴェスティも事の真相に気がついた。
 「え……ということは……」
 光の玉がにやりと笑った気がした。
 『そうだ。アーサとムーナは同一の惑星なんだよ』

 小部屋では三人が向かい合って座っていた。
 「ようやく合点がいったわね……」
 石版を見ながらマーテルが呟いた。サミーとネッドも頷く。
 「なるほどね。だからヴェスティはアーサの文様も発動できたんだ」
 「ムーナの神が呼び出せねえはずだ。元からそんなもんいなかったんだからな。あいつはアーサの神じゃなくて、アーサとムーナの神だったんだ」
 マーテルが今日何度目か分からないため息をついた。
 「アーサの文様だけで神が現れなかったのは納得ね。アーサを文様で埋め尽くした時にはまだ惑星の半分しか埋まってなかったんだから」
 「どっちにしろ呼び出し方を知らなかったけどな」
 「あ……そうだったわね」
 それから三人は静かになった。ネッドがぼそっと言った。
 「これでもう、手はないのか……」
 再び小部屋に沈黙が訪れた。それを破ったのはサミーだった。
 「いや、もう一つ、ある」
 マーテルはがばっと顔を上げた。
 「本当に?」
 「うん。でも……」サミーは言いづらそうに話した。「それだと、ヴェスティが犠牲になるんだ」

 大事な話があると聞き、ヴェスティは三人とエレナの間の通信を切った。そしてその話を聞いた。一通り聞いた後に彼は呟いた。
 「僕が犠牲に、ね」
 『……ごめん』
 「いや、いいよ。今回犠牲になるのがたまたま僕だったという話さ。それに神が一人だと分かったから、アドミナの復活は無意味だしね」
 ヴェスティは息をついた。そしてこう言った。
 「それでもね、これが成功するかしないかはエレナにかかってるよ」
 そして彼は目を瞑るエレナを心配そうに見た。

 話が終わると、三人は急いで部屋を出た。
 「今の話、あの神には聞こえてないわよね?」
 「さっき繋いだのを解除したって言ってたから大丈夫と思う」
 「それじゃ、急ぐわよ」
 マーテルはヘッドセットに向かって叫んだ。
 「イーサン、いる?」
 間髪おかずにイーサンの声がした。
 『どうしたマーテル』
 マーテルは計画の内容は何も言わず、ただ質問をした。
 「アーサとムーナにある全てのエーテノイドを回収できる?」
 『ムーナならともかく、アーサは無理だ。別の惑星だぞ』
 「地下で繋がっていても?」
 それを聞いてイーサンが息を呑んだ。
 『それ、ホントか?』
 「本当よ。だから頼んだわ。間違えてヴェスティを回収しないようにね」
 『……そうか。分かった』
 マーテルは回線を切った。そして今度は統制コンピューターに繋げた。
 「こちらマーテル。聞こえる?」
 『はい。なんの御用でしょうか』
 聞き慣れた機械音声がヘッドホンから聞こえてきた。
 「本部長代理として命令するわ。エリアDの全作業員の避難を呼びかけて。最低エリアDから十キロは離れてって」
 『了解しました』
 そして彼女は回線を切った。やるべきことが終わると彼女は一息つき、そして小さく呟いた。
 「あとは頑張って。エレナ」

 サミーとの話が終わると、ヴェスティはエレナの意識の中に侵入し、彼女に話しかけた。
 「エレナ。ちょっといい?」
 「どうした?」
 「これから二十分、僕はアーサの文様の起動をする。アーサには人がいないから熱で誰かが死ぬことはない。だけどその間君一人で神に立ち向かうことになるけど、いいかい?」
 「私が、一人で、か……?」
 ヴェスティは頷いた。
 「そう。君が負ければその時点でゲームオーバー。皆滅びるってわけだけど」
 「しかし」エレナは目を閉じた。「私が引き受けなければ、やはりその時点で終わりなんだろう?」
 「……うん」
 「なら、やるしかないじゃないか」
 エレナは両目を開き、光の玉を真正面に見据えた。同時に彼女を覆っていた緑色のオーラが消えた。直後、今まで以上の力で体を締めあげられた。
 「ぐ……が……」
 光の玉から声が聞こえた。
 『やれるものなら、やってみな』

 ヴェスティが回線に帰ってくると、マーテルは彼に尋ねた。
 「エレナには全部話した?」
 『いや、話してしまったらエレナは躊躇する。それだと作戦の障害になってしまうよ』 
 「……そうね。あの子優しいからね」
 『それで、そっちの調子は?』
 マーテルは親指を力強く上に立てた。
 「順調。半分くらいのエーテノイドが集まってるわ。イーサンは悲しそうな顔してるけど」
 「そりゃあせっかく見つけた夢の素材を壊すんだからな」
 ネッドが同情するように言った。
 「それで、惑星エネルギーというのはどのくらい集まってるの?」
 今度はマーテルが聞き返した。ヴェスティは淡々と答えた。
 『さっき集め出したばかり。エリアDは誰もいないよね』
 「ええ。避難は完了したわ」
 『なら心置きなく収集出来る』
 そうして回線が切れた。マーテルはネッドとサミーを振り返った。
 「イーサンの所に行くわよ。することはまだ沢山あるからね」
 それを聞いてネッドがにやっと笑った。
 「まあな。エレナが頑張ってるのに、俺達だけサボるわけにはいかねえ」
 そこに丁度列車が滑り込んできた。三人は急いでそれに乗り込んだ。
 「八つ先の駅で降りるわよ」
 二人が頷くと、列車下鉄は静かに発進し始めた。

 エレナは黙って光の玉を見ていた。締め付ける力はさらに大きくなり、もう腕や足が千切れそうだった。一分が何千年にも思えるほどだった。
 『エレナ。君は何故耐えるんだ』
 光の玉が話しかけてきた。エレナは途切れ途切れに答えた。
 「ネッドのため。マーテルのため。サミーのため。そして、他の皆のためだ」
 『私は自分がよく分からない』
 「…………!」
 驚くエレナの前で、光の玉は言葉を続けた。
 『出来損ないを滅ぼすのは、他の生き物のためと思っていた。君達さえいなくなれば、他の生き物はより幸福に生きられると、そう思っていた。発達した知能を持つものさえいなければ皆幸せだとね』
 「幸せ……か」
 『それは建前だ。私は怖かったのだ。この星で最高の存在という地位を他のものに乗っ取られるのが。だから私は強くなるために、強い生物を生み出すという矛盾した行為をしたのだろう。もしただ単に強い生物が欲しかったのなら、バベルの塔など崩さずにアドミナを歓迎したはずだ』
 エレナの体は限界だったが、それでも声を張り上げた。
 「ならば、最初からなにもしなければ良かったじゃないか。微生物など生み出さなければ良かったじゃないか!」
 エレナが叫んだあと、光の玉はある単語を愛おしそうに言った。
 『進化だ、エレナ』
 「進化……」
 『私を含め、全ての生き物は進化するために生まれたのだ。そして他の種を踏みつぶして生きていくのだ。生物学的には私は生物でもないし、進化もしないがね』
 「…………」
 『私は、一つの種として全力で君達を潰そう。自らのために』
 更に力が加わる。
 すでにエレナの限界を超えていた。
 無言のまま彼女は潰されていく。
 耐えて、堪えて。
 全てが無になると思ったその時。
 彼女の中に力が溢れた。

 「……おまたせ」
 ヴェスティの声が聞こえた。自らの中にあふれる力に、エレナは戸惑った。
 「何をしているんだ? このエネルギーは一体……」
 「アーサの惑星エネルギー。ある意味ムーナのものでもあるんだけど」
 「これが、惑星のエネルギーなのか」
 ヴェスティはこくりと首を振った。
 「このエネルギーを君に与えたあと、君に僕と同じような能力をインストールする。意思だけが独立するためのプログラムだ」
 エレナは首をかしげた。
 「そんなことをしてどうするんだ?」
 「……その後、惑星中のエーテノイドをエリアDで爆破する。エーテノイドの爆発は次元を超えて空間を破壊する。つまりアーサとムーナは別々の星になるんだ。もう分かるよね」
 惑星エネルギーのエレナへの充填が終わり、ヴェスティはエレナの頭に触れた。エレナは自分の中の何処かが書き換えれる感触を覚えた。
 「君を、ムーナの神に仕立て上げる」
 「…………!」
 ヴェスティは吹っ切れたように微笑した。
 「もちろん全てのエーテノイドの中に僕も含まれる。ここでさよならだ、エレナ」
 「ヴェスティ!」
 ヴェスティはエレナから離れると、両手を広げた。すると地面に巨大な穴が現れ、ヴェスティはその中に吸い込まれていった。彼が見えなくなったかと思うと、暗闇の奥からおびただしい量の光が発せられ、衝撃波があたりを襲った。光の玉は急いでエネルギーを具現化して展開し、体を守った。その隙にエレナは光の玉から全権限を取り戻した。
 衝撃がやんだ後、エレナは目を開いた。それから両手を開いたり閉じたりした。全てが彼女の思うままだった。
 それからエレナは胸に手を当て、自分の中から光の玉を引きずり出した。エレナの脳内に声が響いた。
 『私の、負けか……』
 エレナは首を横に振った。
 「勝ち負けは存在しない」
 それからエレナは天に向かって手を伸ばした。彼女の手の先から光の糸が伸び、アーサに届いた。彼女は光の糸の先端を光の玉に結びつけた。
 「ここは私の、いや、私たちの星だ。君は君の星へ帰れ。君はアーサでもう一度生命を作りなおせばいい。私たちはここで進化を続ける」
 光の玉はしばらく黙っていた。やがて思い出したように言った。
 『そうだ。願い事』
 「え?」
 『一応私を呼び出せたら、願いを叶えてやってもいいと思ってたんだ。この星を代表して、君が何か願い事を言いたまえ』
 「願い事……」
 そして赤い光は、もう一つ付け加えた。

 『その代わり、エレナ。君は私の願いを叶えてくれ』

 「君は本気でそれを言っているのか?」
 エレナの声には怒気が滲み出ていた。
 『?当然だ』
 光の玉は落ち着いた声で言った。
 「私は、君の星を二つにぶったぎって一つを奪い、君を何もない星に追いやろうとしているんだ。なぜそんなに落ちついている。なぜそうも簡単に受け入れる?何を考えているんだ君は!」
 エレナは名状しがたい怒りを光の玉にぶちまけた。
 『だから言っているだろう。負けたからだ』
 「まだ言うのか。勝ち負けではないと言っているだろう」
 『……』
 エレナは光の糸を引っ張った。光の玉が引き寄せられる。エレナはそれを鷲づかみにした。
 「答えないか。じゃあ聞こう。あくまで君は負けたと言い張るが、それは本気でそう思っているのか?」
 光の玉がわずかに震えた。
 『……』
 「確かに君はムーナを失ったかもしれない。アーサの神に し か 過ぎなくなったかもしれない。だがな、私はムーナの力を得た今だからこそ分かる。君は負けてなんかいやしない。惑星エネルギーの本体は星そのものがある限り消えてなんかいない。アーサとムーナの力はほぼ同等だな。ならば力の使い方にずっと詳しい君が今ここで本気を出せば私に勝てるはずだ!違うか?!」
 『違う。言っただろう?私は依代がなければ力を具現化出来ない』
 光の玉は少し上ずった声で言った。
 「それも嘘だろう。今の私の力は私を依代にしていない。星を、ムーナそのものから力を得ている。君は、はじめからアーサそのものを依代にしているんじゃないか。ずっと君は本気で私達を潰しにかかってきてはいなかったんだ」
 光の玉が沈黙した。
 『……』
 それを見てエレナは大声で、ありったけの大声で叫んだ。
 「どうしても言わないのか!君はそのままアーサだけの神になることを受け入れてムーナから追い出されてもいいというのか!」
 光の玉はゆっくりと口を開く。言葉は細々としていた。
 『—君は私に何を求めているんだ?まるでその言い方だと私が反撃した方がいいとでも言うような言いかただ』
 「そうじゃない」エレナはすぐに遮って言った。「君は絶対に反撃なんかしない」
 『どうして言い切れる。君をさっきまで縛り付けていたのは私だ。君達を滅ぼそうとした』
 「まだ、まだ言うか。ならもういい、そう言い続けるならそういうことにしとく。だけど、これだけは言わせてもらうぞ」
 エレナは鷲づかみにした光の玉を両手で優しく包み込んだ。エレナの目に涙が浮かんでいた。
 『まさか、君は—』
 光の玉が言い終わらない内にエレナは光の玉を精一杯抱きしめた。
 
 「—ありがとう」
 
 エレナの涙が光の玉に落ちた。
 エレナの胸の中で光の玉はやっと合点がいったというように穏やかな口調で話し始めた。
 『そうか。君はアドミナであり新人類であり、今は神でもあるのだな。だから全部バレてしまったか』
 エレナは首を振った。
 「それもあるかもしれない。でも一番はそこじゃない。君はずっと私の中にいたんだ。君が見せてくれた君の悲しみも苦しみも見た。自分が作ったアドミナをバベルの塔から突き落とさなければいいけないときの苦しみも。なのに君はたったの一度も滅ぼそうとはしなかったな。君の言った進化は私達を煽るための嘘だ。本当に願っているのは強いものだけが生き残る進化じゃない、強いものも弱いものも、共に歩む進化だ。だから最上位の君を超えようとするものが弱さを切り捨てそうな時だけ手を加える。アドミナが神に近づいたときなんかにね。そして今回も。—君はアドミナが新人類を滅ぼそうとするのを見てその矛先を自分を向けるために現れた。そう……新人類を救い、またしても行き過ぎたアドミナの間違った進化を止めるために」
 そこまで聞くと、光の玉はエレナの腕から離れた。光の玉はエレナの目線に浮かび上がった。
 『大体は正解だ。だが、私も君に礼を言おう。君の中にいながら見ていた人間の世界の優しさに触れることが出来た。だからこそなおさら滅んでいい種族などないことを再確認できたのだ。本当に君も君の仲間達も素晴らしかった。まあ……さすがにそのチームワークでアーサとムーナを分断された時は焦ったがな』
 光の玉は一旦そこで苦笑した。少しためて続ける。『……—だから君で良かったよ』
 「?」
 『そこまで分かってくれているならムーナを任せられる』
 エレナははっとして顔を上げた。
 『そうだ。私が君に言おうとしていた願い事は私の意志を継ぐことだった。それも必要なかったとはな』
 「君は—本当に神の鑑だな」
 『ふっ、過ぎた言葉だ。私は不器用なだけさ……』
 光の玉が少しだけ浮上した。
 『さあエレナ、約束だ。君の願い事を一つだけ叶えよう。私の願い事は叶ったからな』
 エレナは微笑した。この期に及んで光の玉、いや私達の神様は願いを聞き届けてくれるのだ。
 「君ってやつは……」
 『鉄塔でも建て直そうか?』
 エレナは首を振った。エレナは腕を振ると鉄塔を一瞬で再建した。
 「そのくらいはもう私でも出来る」
 『そうか、それもそうだな。ははは』
 エレナは一気に空に飛び上がった。光の玉を引っ張って。
 眼下にはムーナが広がっていた。ところどころ壊れた文様遺跡が見える。そしてそこで生きる人々も。
 「素晴らしい所だと思わないか?」
 『ああ。素晴らしいな。神ですら一つの生き物に過ぎないと思うぐらいこの世界は広く、素晴らしい』
 「だからさ、ちょっと見て回ろうか」
 『この星を?』
 エレナはうなずいた。
 「デートしよう。君の見てきた世界の話を聞きながらね」
 エレナは満面の笑顔で光の玉を胸に抱いた。光の玉は照れるように苦笑した。

 『本当に素晴らしいよ、君達は』
 ぐるりとムーナを一周してエレナ達は鉄塔に戻った。
 マーテルたちが再建された鉄塔の下で待っていた。光の玉を見てぎょっとしたのでエレナが説明しようとすると、光の玉は遮った。
 『真実は言わなくていい。これは私達の秘密だ。君が知っていてくれればそれで十分だ』
 「そんな……」
 『さあ行きたまえ。君のいるべき所はそっちで、私の行くべきところはあっちだ』
 「……」
 エレナはやりきれないながらも口を固く結んでしぶしぶというように承諾した。
 『最後に言っておく。君は神になった、だけどそんなに気負わなくていい。今までどおりでいいんだ。それと君はアドミナの末裔だ。君がいる限り彼らは滅んでなんかいない。いつか進むべき道をアドミナに示してくれ。……そして君は君だ。忘れないでくれ』
 一語一語を噛みしめながらエレナは頷いた。
 「ああ。わかった。私からも一つ。君も無茶はしないでくれ」
 光の玉はほどけた。光の帯はエレナの背中を押した。
 『もちろん。たまには遊びに来よう』
 「いつでも歓迎だ」
 『ありがとう。ではまたいつか』
 光の玉はアーサへと飛び立っていった。

 「エレナ!」
 鉄塔から降りてくるなりマーテルが飛びついてきた。その頭を撫でてやる。
 「おかえりエレナ」
 サミーが手を振りながら言った。
 「神になった気分はどうだ?」
 ネッドがからかってくる。
 エレナは照れを隠すようにはにかみながら答える。
 「ただいま。念願の神なんだ。歓迎パーティでもしてくれよ」
 笑い声が131班に響き渡った。
 夜明けが近づいて、アーサが優しいオレンジ色になっている。
 崩れた遺跡に再建された鉄塔がアーサの光を受けて神々しく輝いていた。


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