α
少女。端正な顔立ちの少女。泣いている。泣いている。泣いている…。

朝目覚める。冬の、空気が張り詰めた朝。凛とした朝。心地よい緊張感。窓を開けると冷たい空気が部屋の中に充満し、浩平の肌を刺す。
今日は引越しの日。浩平は受験を間近に控えた高校生だったが、父親の仕事の関係で他県に引っ越すことになっていた。高校の友達ともしばらく別れなくてはならない。
「そうか…今日引っ越すんだな…」
独り言を言って、浩平は顔を洗い、歯を磨いて食事を摂ってから部屋のチェックを行う。あまり感慨に浸っている暇はない。昼頃には家を出なくてはならない。他の家族はもう先に新居に移動していた。早速準備を始めることにした。
押し入れを、タンスを、すべての部屋を、忘れ物がないかどうかチェックして回る。

・・
・・・
もともと浩平はそんなに友達の多い類の人間ではなかった。
人は皆自分の「世界」を持っている。固有の価値観、壁。生涯かけても交じり合うことができない孤独。浩平はそんな心の壁が特に高い、なかなか人と打ち解け合うことのできない人間だった。
小学校、中学校となかなか友と呼べる人間ができなかった。浩平は頭の良い子供だったので、ある程度知的レベルが統一される高校に上がるまでは浩平の周りに波長の合う人間が現れなかったのだった。

・・
・・・
しばらくして、押し入れを開けた時にはらりと一枚の写真が足元に舞い落ちてきた。どこかに挟まっていたのだろう。
「…!」
浩平はその写真を手に取り眺める。それは、浩平が修学旅行の時に同じクラスの孝、希美と三人で撮った写真だった。浩平は孝や希美とは特に仲が良かった。
「ふふっ」
楽しかった頃を思い出し思わず微笑む。当時は勉強のことなんて何も考えなくて良かった…いや、そういうわけではないのだが。受験のことなんて頭の片隅にも無かった。どうしても高三になった今となっては、受験のことで頭がいっぱいいっぱいになってしまう。浩平のクラスもピリピリした雰囲気に包まれるようになった。

二人に言えなかった言葉がある。
一時の別れの言葉。仲良くしていた人達と離れ離れになってしまうのは事実として解ってはいる。でも言葉にすると、自分の中の別れの匂いが濃くなってしまいそうで、三人で作り上げてきた世界が崩れ去ってしまいそうで。とうとう言えないまま引越しの日を迎えてしまった。
「さよなら…」
なんとなく口にしてみる。…やはり二人を前にしたら言えないな…。

・・
・・・
そんなこんなでチェックが終わった。程良い疲労感の中時計を見ると、針は十一時半を差していた。予定通り。そろそろ出発しようかな。
ゆっくりと時間をかけて荷物をまとめる。いよいよこの家ともお別れか…。
いわゆる普通の人は引越しといえば新しい生活、新しい環境に想いを馳せ、またすぐに順応できるようになるのだろうが、浩平には慣れられる予感が湧かなかった。受験直前の精神的に不安定な時期と、浩平の排他的な心中世界も相まって、引越し、環境の変化は浩平の不安を煽るだけだった。十五年間かけてやっとできた友人を失うのだから当然だった。
荷物をまとめ終わって家を出る。ばいばい、と心の中でつぶやいて駅に向かう。
新しい街へは鈍行電車を乗り継いで行く。終点から終点へと乗り継ぐ小旅行だから少し昼寝をする時間もあるだろう。
ホームで電車を待つ。浩平は、考え事をして時間を潰すのが習慣だった。今朝見た少女の夢…あれは何なのだろうか。ここ最近連続して少女の夢を見ている気がする。何か意味はあるのだろうか。フロイトは無意識、例えば夢などからその人間の精神分析をしたという。自分の夢にも何か意味はあるのだろうか…。
夢の中で少女は…泣いていた…気がする。頭の中に靄がかかったような感じで、もう正確にどのような状況で泣いていたかは思い出せないのだが…。

電車がホームに入ってくる。この電車も通学に幾度となく使ったものだったが、これでしばらく見納めかと思うと感慨深い。
電車に乗り席に座る。幸い車内は空いていた。長旅になるからできるだけ座っておきたい。
体が横に倒される感覚。電車が動き出す。窓から見える風景はまだ見慣れたそれだったが、いずれ自分の中には存在しないものへと変化してゆくのだろう。

二人に言えなかった言葉。さよなら、また会おうの一言。しかし言わなければならない。これまでの生活に一区切りつけるために。心の整理をするために。新しい生活に備えるために…。
次第に浩平の周りを取り囲む世界が平坦になってゆく。冬なので車内は気温が高くなるよう暖房の温度が設定されているから。世界が…ぼやけて…ゆく…。

浩平は、生暖かい空気に包まれて眠りについた。












β
少女が目覚める。一面白銀の世界。白い朝。空いっぱいに言葉が散りばめられている。

喜びの言葉。   怒りの言葉。   哀しみの言葉。  楽しい言葉。

透き通った言葉。 濁った言葉。

  温かい言葉。            冷たい言葉。

            柔らかい言葉。               硬い言葉。

                       明るい言葉。             暗い言葉。

 平面的な言葉。                      立体的な言葉。

言葉で埋め尽くされた空と、白い大地が触れ合う彼方。そこには何も見えない。水平線を見渡す限り、何もない。
時間による変化の訪れない大地と対照的に、刻一刻と様相を変える空。
少女は言葉の空と、どこまでも続く大地を眺める。こんな世界では、変化していく空を眺めることくらいしかすることがない。
この世界に生を受けてからずっと、少女は空を眺め続けてきた。しかしそれも限界が近づいて来ている。ここ最近は、毎日空の言葉の「変化」に変化がないのだ。毎日規則的に変化し続ける空の言葉。それを観測するのもそろそろ飽きてきた。
いつしか少女は、この自分が立っている世界がどこまで広がっているのか、見渡す限り何も存在しない地平線のその先に何があるのかに興味を持つようになっていた。それは自分という存在が何のためにここにあるのかを確認することを意味してもいた。

やがて少女は歩き出す。世界の果てを目指す旅に出る。言葉で埋め尽くされた、空を見上げながら。時折休憩を挟みながら。歩く。歩く。歩く…
旅の途中、時折、本当に稀にだが自分以外の誰かの「影」を感じる。しかし、実際にその「誰か」の正体を少女は掴めない。それはこの世界の「濃度」の高低で形成されているかのようだった。少女が歩くにつれて「影」は濃くなったり薄くなったりした。それも少女にとっては気にならない程度のものだから。少女は歩き続ける。










α
少女。端正な顔立ちの少女が、ただ歩く。ひたすら歩き続ける。周りには人影もない…。

「…ここでDの値が正の時は異なる実数解を2個、0の時は重解を持ち、負の時は実数解を持たないから…」
「この式の判別式はどうなる?じゃあ伊藤」
「は、はい。えっと…え〜っとえっと…あ〜…p^2-4qです」
「そうだな。授業中寝るもんじゃないぞ」
「あ、はい、すみません」
急に当てられてびっくりした。今は7限、数学の授業中。いつの間にか寝てた…
自分はなんとなく生きている。自分でも実感している。特に目標もなく生きる人生は刺激のない、つまらないものだ。
中学までは学年トップを争っていた成績。高校に入ると学年平均よりは上かな、くらいの成績になった。
何事も上には上がいる。この事実は所詮井の中の蛙だった中学時代の自分には解らなかったし、高校に入って解りたくもなかった。
成績の良さがアイデンティティの大半を占めていた自分にはとてつもなく重くのしかかる事実だった。
浩平。そんな自分にとっては浩平は良きライバルであり、親友と呼べる数少ない人物だった。
しかしその浩平はもういない。正確にはついこの間転校してしまった。寂しいけれど、受験を控えているからあまり長いこと浸ってはいられない。

そう、勉強しなくてはならないのだ。

「…今日のポイントは『2次関数の条件付きの不等式は判別式、関数の値、軸の3つに注目して解く』ってとこだ。テストに出すから覚えとけ。じゃあこれで終わり」
「起立!気をつけ!礼!」
色々考えているうちに授業が終わった。
家じゃ勉強できないから、学校で勉強していこう。幸い学校は夜遅くまで教室を開放してくれている。
HRをぼうっと過ごし、それが終わり次第空き教室へと向かう。
僕、伊藤孝は理系受験生…のはずなのだが理系科目は軒並み平凡、得意科目は英語というアンバランスさ。今日は流石に理科の勉強をする。
黄色く照らし出された教室の中、僕は物理の重要問題集を開く。
力学。バネの問題。解けない。飛ばす。
電磁気学。コンデンサーの問題。解けない。飛ばす。
熱力学。気圧を求めるやつ。とばす。
原子物理。なんか放射線。とばす。
りきがく。おとのもんだい。とばす。

とばす。

とばす












意識が戻ると教室はすっかり暗くなっていた。ちょっと首が痛い。どうやら寝落ちしてたみたいだ…
結局今日の収穫はナシか…もう帰らないとな…












と、思った












瞬間。











世界が揺れだした。





それが地震だと気付くまでに数秒を要した。余りに美しい揺れ。かなり大きい。それまでの心配事を心の外の何処かへ流し去ってくれるような力強い揺れに、僕はただただひれ伏す。
不思議と恐怖感は無い。今は全てが心地良い。僕は一人、大きな揺れと共に在った。








β
少女は薄暗い闇の中を歩き続ける。歩き続けるうち、いつの間にか少女は濃い闇に足を踏み入れていた。
濃い闇。
それは夜。
それは無。
空に散りばめられた言葉も質を変えてきていた。不安、絶望、哀しみ、憎しみ。昼のそれとは違う、あらゆるマイナス要素を含んだ言葉。
やがて雨が降る。
大粒の雨。
汚い言葉の雨。

負の雨を浴びて少女は、
泣いた。









α
少女が泣いている。それはまるで生まれたての子どものような無防備さで。

・・
・・・
仮眠から目覚める。
「その時」、希美は空き教室で一人勉強していた。そして地震が起こり、校内放送の誘導に従って体育館へと避難したのだった。
目が覚めて周りを見渡すと、暗い中ぽつぽつと人がいることに気付く。幸いというべきか、地震発生時まで学校に残っていた人は少数であるようだった。
古びたランプのみが光源として機能しているあたり、まだ停電から復旧していないらしい。腕時計を見ると、針は深夜0時ほどを指していた。
しばらく寝たせいですっかり眠気もなくなってしまい、また独りでぼんやりと佇んでいるのも落ち着かないから、他の人に声をかけてみることにした。
「ねえ君、どこのクラスの人?大丈夫だった?ケガとかはない?」
「ああ、§〆々は▼の◎。←♂だよ。※∃∩こそ⊥♭◆?」
「!?」
言葉が聞こえない。というより重要な部分がきれいさっぱり抜け落ちて聞こえると言ったほうが良いか。
語調と彼の表情から大丈夫だったこと、また私の安全を気遣ってくれていることはなんとなく察せられたが、クラスと名前は全く把握できない。
「☆?♪?↑℡∀だけど」
「え?ああ、うん。ちょっと疲れてるかも。ごめん」
全く会話になりそうもないから、なんとなく切り上げてしまった。
そそくさとその場を去る。他にいた人とも会話しようと試みたが、さっきの彼同様上手く行かない。いったいどうしたっていうんだ…
結局一人になった。
孤独。こんな非常時に誰とも会話できないとは。
他人と意思疎通を図ることができないこと、それはすなわち最初から他人がいなかったも同然、ということだ。完全なる孤独。私は一人、大いなる暗闇の中に閉じ込められてしまった。
息苦しい。元々独りでいるのは好きなはずなのに、今回はいつもとは違う。体育館内の空気が塊となって私を押しつぶす。空気に嫌われている。
「…」
とりあえず外の空気を吸いたい。体育館の外に出てみることにした。何か咎められてもトイレに行くことにすれば良いだろう。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
体育館の外に出た。幸い誰かに咎められるようなことはなかった。
いつも見る風景のはずなのに既視感がない。深夜まで学校にいた事がないからであろうか。こんな状態だから、という要因も考えられるが。
外の空気はどうやら私の味方のようだ。空気がとても美味しい。ピンと張り詰めた冬の空気を吸うと、一時的にでも現状を忘れられた。
私は歩き始める。せっかく深夜の学校に侵入できているんだから、ちょっと探検してみることにした。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
私と浩平と孝は、いわゆる「仲良しトリオ」だった。私たちはとにかく気が合った。何をするときも一緒。不思議とこの3人が別々のクラスになったことは一度もなかった。
しかし、浩平は転校してしまった。しかも受験前という一番大事な時期にだ。
浩平が転校してからというもの、私は全ての物事に対する姿勢が変わった。大切なものを失ってしまったことでやる気というやる気が削がれてしまった。実のところ、受験勉強もあまり手につかない。
もちろん孝も良いやつだし信頼してはいるんだけど、やはり浩平がいないというのは大きい。
あれだけ連帯していた私たちの関係が、いともたやすく崩れ去ってしまう。グループ内での浩平の存在意義って何だったんだろう。孝の存在意義は、そして私の存在意義とは。
例えば浩平ではなく私が転校していたとして、孝と浩平はそれまで通りに接していただろうか。私の存在意義とは何なんだろう。
私の存在意義は私の性格にあるんだろうか?私は自慢ではないが人に合わせるのは得意だ。良く言えば柔軟性のある、悪く言えば主体性のない性格をしていると言っていいだろう。
でもそれがこの3人のグループ内で機能していたとは思えない。本当に気が合ったから、私から合わせる必要は無かった。
あと私の中の特徴といえば…成績とかか?確かに私は浩平や孝よりは成績が良かったけれども、それは一緒に勉強していた時ぐらいしか役に立たなかったしなあ。
そもそもあの2人はどうして私なんかと仲良くしてくれるようになったんだろう。ほとんど特徴の無い私のどこを気に入ってくれたのか。
考えれば考えるほど深みに嵌る。これまでにも何度か私の存在意義については考えたことがあったが、答えが出ることはなかった。
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

私は巡る。普段通う学校が、時間帯を変えるだけでこれほど違って見えるとは思わなかった。体育館。グラウンド。正門。廊下。自分たちの教室。全てが新鮮。
そして空を見上げると、無数の星が空に散りばめられているのが見えた。停電がまだ続いている影響もあってか、今日はいつもより一段と綺麗に見える。

そして探検を終え、校舎から体育館へと帰る途中に一人の少年が立っていた。

「やあ。地震、大丈夫だった?」
「!」
言葉が通じる。警戒する気持ちもあったが、意思疎通できる喜びの方が勝った。
「なんとかね…君こそ大丈夫だったの?さっき体育館に避難してた?」
「ふふっ…どうだろうね。」
『どうだろうね』って…
そしてちょっと間を置いてから、少年が話しかけてくる。
「ねえ」
「何?」
「君は世界を持っている?」
「…わかんない。どういうこと?」
「自分の世界を持っているか、ということさ」
「ああそういうこと…それは誰でも持っているんじゃないかな」
「そうだね」
「世界の中には価値が存在しない」
「えっ?」
「大切なものは、自分の外にあるということさ」
この少年は自分が掴めていない「何か」を掴んでいる。そんな彼に聞きたいことがあった。
「ねえ、人の存在意義って何だと思う?」
「『人の存在意義』ねえ…ふふっ、君って面白いね」
「こっちは真面目に聞いてるんだよ。君なら知ってるんじゃないかと思ってさ」
「人はなぜ存在するのか、ということでしょう?」
「うん」
「一人の人が存在する、生きる意味なんて、世界全体から見たら無いに等しい」
「生きる意味を探してはならない。強いて言うならそれはその人自身だよ」
「頑張ってね、さよなら」
「えっ、ちょっと待って」
一瞬の間の後、少年はロウソクの火が消えるようにその場から消えていた。

少年を探そうかとも思ったが、もう戻ってこない気がしたから探さないことにした。
そしてそのまま体育館へ帰る。流石に冬に深夜徘徊すると疲れる…

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・
昼とも夜ともつかない曖昧な時間。そもそも時が流れているのかすら怪しい。悠久の時を経て安定に至った空間。いつしか少女は世界の限界に辿り着こうとしていた。
世界の限界は言葉の限界。世界の限界は論理の限界。世界は論理で満たされている。
この近辺にもなると、かつては空を埋め尽くしていた言葉もまばらになる。そして空に浮かぶ言葉が無くなる時、その境界こそが「世界の限界」である。
少女は歩き続ける。歩くうちに次第に少女の影が薄くなっていき、やがて消えてなくなってしまった…
・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

意識が戻ると、体育館の中は明るくなっていた。いつの間にか寝てたみたいだ。
体育館を見渡すと孝がいた。
「おはよう孝、大丈夫だった?孝がここにいたなんて知らなかったよ」
「おうおはよう!ケガとかはないから大丈夫だよ え、僕ずっといたけどね」
いつもの若干高い声で孝が返事をしてくれる。
そこで意思疎通ができるようになっていることに気付き、私は心底ほっとした。一時は一生このままなんじゃないかとまで思った程だったから。
例の少年は少なくとも体育館内にはやっぱりいなかった。本当になんだったんだろう。今となってはつい先刻までの会話が夢のようだ。
でも、少年の言葉は頭に残って離れようとはしなかった。
「生きる意味を探してはならない。強いて言うならそれはその人自身だよ」
「今、ここにいる私」自身が自分の存在意義。それは浩平がそうだったように、失うまで気付かないもの。
外に出て、少年の言葉を噛み締める。よく晴れた空。光降り注ぐ朝。冬ながら、心なしかポカポカ暖かい朝だった。


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